第29話 墨田区江東橋

 渋い秋衣を羽織った、すぐ目の前に迫る手の届きそうな山々。京都で暮らすと、日々、目に鮮やかな季節の趣をふんだんに味わうことが出来る。特に五階のバルコニーから見渡す景色は格別で、朝目を覚ますとまずバルコニーへ出て、赤、黄、茶とカラフルな衣が煙る山々を見渡すのが、本多の日課になっていた。

 祭日の今日は紅葉狩りには最適といってよい日であったが、残念なことに昨夜の予報が外れてしまい、一向に雨が上がる気配はなくて、早朝から小雨混じりの、移動には鬱陶しい天気になってしまった。ただ自宅や室内から眺める段には、小雨に煙る京都の町は枯れた風情がいっそう醸し出され、本多を渋い山水画の世界にいざなってくれるのだった。

 パジャマの肩にカーディガンをかけ、傘をさしながら千年の歴史をつちかう町並みを見下ろしていると、タータンチェックの傘が高野川を渡ってくる。橋の中央付近で靖子は傘を上げ顔を覗かせたが、本多の姿が目に入ると、風呂敷包みを小脇に抱えて嬉しそうに左手を振った。本多が東京へ帰るので、届け物を頼むつもりなのだろう。祭日の今日を利用し、本多は昨夜から車で東京へ向かう予定だった。平井教授の指摘を待つまでもなく、父の車は目立ちすぎて移動の妨げになる。東京へ行ったついでに、五年乗った国産のセダンと交換して京都へ帰ってくるつもりだった。しかし昨日からのあいにくの雨で、車利用の帰京には靖子が強い危惧の念を抱いた。

「雨に濡れた高速道路は危険だわ。おまけに古い車だから、ABS(アンチロックブレーキシステム)は当然ついてないでしょう。スリップ事故は命取りになるわ。私の友達がね―――」

 スリップ事故で死亡した親友の話まで持ち出されては、本多は新幹線での帰京に同意せざるを得なかった。

「おはよう。―――さあ、上がれよ。出るまで、少し間があるから」

 列車の時刻まで小一時間、余裕があった。

「ええ」

 靴を脱いだ靖子とリビングへ入り、窓際の小さなテーブルに腰を下ろして、一緒に紅茶を飲む。

「本はいつ頃、店頭に並ぶ予定なんだ?」

「まだ確かじゃないらしいんだけど、一応二十六日の木曜日に全国の書店に配本する手筈ですって」

「ほう!」

 本多はティカップを持ち上げる手を止めてしまった。彼も何冊か専門書を出しているので、本が出来上がってから書店に並ぶまでの期日はおおよその見当がつく。もし靖子の話を額面通りに受け取るなら、通常の二倍の早さで店頭に並ぶことになるのだ。

「夜を日に継いで作業をしてくれているらしいわ」

「それだけ売れると見越しているんだろう」

 出版社の思惑通り、評判になって売れれば売れるほど、不正があればそれを明るみに出しやすくなる。

「ところで、桜田という編集長がいると思うんだが、彼はどんな感じだった?」

「とても感じの良い人よ。直則さんや北原さんのようなタイプと違って、ソフトで甘い感じの優しい人よ。物腰も柔らかだけど、結構ユーモアがあって女性には好かれそうね」

 実際、靖子も気に入っている。

「北原と友人付き合いをしていたらしいんだ」

 二年前、近書院の不正を本多に相談したものの、最後に北原が渋ったのは、桜田に災難が及ぶのを恐れたからだった。

「やはりね。北原さんと合いそうだもの。直則さんも桜田さんに会うときっと気に入ると思うわ。‥‥‥でも、桜田さんも不正に関わっているのかしら?」

「薄々は感づいているかも知れないが、タッチはしていないはずだ。雇われ編集長だから。もし不正が事実とすれば、社長の井埜上と経理担当の深谷真身が関係しているのだろう。あの二人は―――」

 本多は靖子に、北原から仕入れた社内の人間関係を話して聞かせた。

「ふぅーん。二人は愛人関係にあるの。だったら、社内の人に知られずに経理操作をすることも簡単ね」

 靖子は新しい情報に耳を傾けていたが、

「ね、直則さん。桜田さんに事情を話して、協力してもらえないかしら?」

 本多の説明が終わると、声を落として彼の顔をのぞき込んだ。出来れば桜田を自分たちの味方に引き入れ、敵対関係に立つのを避けたかった。

「危険だな」

 本多は真剣な顔のまま首を振った。桜田の行動が正確に予測しえない以上、現時点で彼に手の内を明かすのは危険が大き過ぎる。

「俺に考えがあるから、桜田氏に事情を話すのは止めたほうがいい。―――ところで、そろそろ出る時間だな」

 靖子の気持ちは分からぬでもないが、仕事を仕上げるには万全を期するのが最善で、本多は彼女に釘を刺すと、おもむろに腕時計に目を落とした。

 自宅を出たのが九時十二分。京都駅までタクシーを飛ばし、墨田区の藤野英則宅へ着いたときは一時を少し回っていた。七月に帰省して藤野に会ったのは彼の研究室だった。だから江東区の自宅を訪れるのは七年ぶりだろうか。家の近辺はコンビニや建売住宅が立ち並び随分様変わりしたが、靖子の実家は以前と寸分変わらぬ威風堂々とした風格で、大谷石の長い石塀に囲まれ鎮座していた。

 花崗岩の門柱前に立ち、本多がインターホンのボタンを押すと、

「はーい。どちら様ですか」

 聞き覚えのある筒井浩子の声が返ってきた。本多が名前を告げると、彼女は返事も忘れ勝手口から駆け出して来た。

「済みません。本多先生がお見えになると分かっていましたら、門を開けてお待ち申し上げていましたのですが。本当に、申し訳ございません」

「いや、突然伺ったのだから、気にしないでください」

 気の毒なくらいの気の遣い用に、こちらが恐縮してしまう。

「どうぞ、こちらへ」

 浩子に案内されて、傘を差しながら長い石畳を玄関まで歩いて行く。

「やあ、直君。よく来てくれたね」

 藤野が待ち切れずに玄関まで下りて来た。

 ―――痩せてしまったな‥‥‥。

 丹前を着込んで骨太の体を隠しているが、顔を見る限り、七月のときに較べ痛々しいほどに痩せていた。

「あなた、雨はお体に障りますよ」

 浩子が駆け寄って、慌てて自分の傘を藤野に差しかけた。

「さあ、こっちへ」

「うん」

 浩子に傘を渡して、本多は藤野と並んで庭に面した長い廊下を居間へ歩いて行く。手入れの行き届いた、有名寺院の庭園さながらの庭の奥で、山茶花の大木が白とピンクの淡い花を雨に濡らしていた。

 足下の縁側にはプランターと鉢植えが規則正しく並べられ、季節の花が小雨に花弁を濡らして小さく揺れていた。筒井浩子が植えたものだろうが、本多には盛りの過ぎた菊しか花の名前が浮かばなかった。廊下の奥の居間へ入り、ニスの香りも新しい重厚なテーブルを挟んで、藤野の向かいに腰を下ろす。

「‥‥‥靖子が大阪の出版社から本を出すんだって?」

 本多の湯飲みに茶を注ぎながら、藤野は上機嫌だった。

「うん」

 湯飲みを持ち上げ、本多は藤野を見ずに頷く。話題の収束がどこへ向かうか決まっているだけに、どうしても口が重くなってしまう。

「家の方へは?」

「いや、先にこっちへ寄ろうと思って」

 湯飲み茶碗に視線を落としたまま、本多は顔を上げなかった。

「北‥‥‥、いや、いいんだ」

 北原の自殺を話題にしようとしたが、藤野は言葉を呑んだ。

「‥‥‥英さん。英さんの期待に添えなくて悪いんだが、俺は今の大学に骨を埋めようと思うんだ」

 本多はようやく顔を上げて、藤野を見つめた。

「東京へは帰らないと―――」

「‥‥‥うん、そのつもりなんだ」

「そうか‥‥‥」

 藤野は複雑な心境だった。これで家訓の一角は崩れたが、学者としての直則は大きなハンディを負うことになる。

「出来れば僕の後任として、母校へ戻って来てほしかったんだが、‥‥‥もう、考えは変わらないのか?」

「うん。熟慮の末なんだ」

 平井教授が退任すると、学内における本多の地位は微妙なものとなるが、いずれにしても母校へは戻らない決意だった。

「一郎さんや正則先生はそのことを?―――」

「いや、父や祖父にはまだ話してないんだ。とりあえず英さんにだけは伝えておこうと思って」

「‥‥‥そうか、―――いや、ありがとう」

 重大決意を最初に伝えてくれたのはありがたいが、中身は藤野にはショックだった。

「ところで、靖子の、‥‥‥いや、靖子はどうなんだろう」

「さあ?‥‥‥」

 本多は首を傾げた。質問の意味が二つ考えられるが、そのいずれであるか正確に把握できないのだ。

「靖子も京都から帰らないのだろうか」

「さあ、どうだろう」

 自信はあるが、確信の域にまで達していないし、靖子の能力を考えると、母校へ戻ったほうが彼女のためではないかとの迷いもあった。

 結局この日も、本多は十四年前の約束を口に出来なかった。東京へ戻らないと伝えたことで、藤野の心境がどう変わるか見極めたいこともあるが、何より千津に対する気持ちに踏ん切りがついていなかった。

「これから家の方へ?」

 玄関まで見送りに出た藤野は、物足りなそうな仕草を浮かべていたが、遠慮がちに本多の背中に声をかけた。

「そのつもりだったんだけど、―――もめそうだから、今日は遠藤のところへ寄るだけにして、京都へ帰ろうと思うんだ」

 足が重く敷居の高いのは如何ともしがたく、本多は藤野に苦笑いを返し、父の下で研究生活を送る友人宅へ向かったのだった。


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