第28話 編集長の疑問
近畿文学書院編集長・桜田徹は、料理研究家の野上美佐子の従弟で、二年前に来阪してからというもの、守口(市)にある彼女宅の居候を決め込んでいた。
大阪へ来る前の、東京での彼の肩書きは新聞社の副部長だった。同期入社の出世頭で、数年後には文芸部長のポストが確実視されていたのに、新聞小説採用を巡るトラブルで著名作家の呆れんばかりの卑しさを目の当りにし、また収拾の着かぬゴタゴタにも嫌気が差して辞めてしまった。
その後の数ヶ月はしかし―――嫌気が差して逃れた世界とは比較にならぬ、阿鼻叫喚さながらの地獄が待ち受けていたのだ。事の始まりは妻からの離婚請求だった。一流新聞の副部長職を、配偶者に断わりもなく辞めたのが承服できぬとのことだったが、もちろんそんな単純な理由だけではなかった。妻の口を吐いた言葉を並べれば、一冊の本がその紙面を埋め尽くされるに十分なボリュームであったのだ。
全財産を妻子にくれてやり協議離婚届けに印を押すと、今度は愛人を交えた諍いが待っていた。十年以上も前から、桜田は童話作家の愛人と妻公認の、半同棲と言ってよい生活を送ってきたが、彼女が離婚条件を知り到底承認できぬと、桜田に牙を剥いた。自分はよいが、認知を受けた娘に相応の財産を与えるべきだと言い張ったのだ。
互いの子供を交え、桜田を挟んで妻と愛人が口汚く罵り合うのは醜悪の極みで、インテリを自認する桜田の耐えうる構図ではなかった。従弟の窮状を知り、野上美佐子が間に入って収めてくれたが、それがなければどうなっていたことかと、いまだに桜田は夢でうなされることがある。
「何や! ―――あんたら。なあ、子供の前で、みっともないこと止めときや! 一度は心底惚れた男のことも、よう考えたりぃや!」
美佐子の大阪弁の啖呵は迫力満点で、彼女に睨まれ妻も愛人もたじたじだった。
「徹ちゃん。あんな性悪・欲ボケ女の居てる東京は、もうこりごりやろ。そんなら、大阪へおいで。大きないけど、出版社の編集長の口あんねん。ちょっと大阪で、東京で貯まった毒ガス抜いたらええねん」
美佐子の紹介で大阪の近畿文学書院に勤めることになり、給料の大半を愛人―――元愛人と言ったほうが良いが―――と娘に送ることでようやくケリが着いた。結婚でも内縁でもそうだが、特定の女性との繋がりを断つことは心身ともに消耗する結果をもたらし、北原ではないが、桜田も「もうコリゴリや」の心境であった。
「そやけど徹ちゃん。気前良すぎるで。あんたのとこに、お金なくなるやん。‥‥‥ほんなら、こうしようか―――」
桜田の手元にほとんど金が残らないと分かると、美佐子は自宅に住みそこから近書院へ通えと言ってくれた。旧家の一人娘で、両親が亡くなってからは、広い屋敷の住人は助手の青山裕子と二人だけだったのだ。
野上家での桜田の暮らしぶりは本人が呆れるほど優雅で、二階の二室はおろか、一階の八室のうち三室までが彼の専用ルームだった。しかも食事は裕子任せで、食費は不要。おまけに、美佐子のドイツ車の使用も自由だった。これらに対する桜田の反対給付はと言えば、美佐子の出す料理研究書の原稿直し程度であった。まるで中世の王侯貴族さながらの厚遇で、桜田は時々これでいいのだろうかと悩むことがある。
「かまへん、かまへん。ウチにとっては、徹ちゃんはたった一人の身内やないの。それにな、ウチは徹ちゃんのパトロンになったろ思てんねん。そやから、いいかげんに人の原稿ばっかり読むのをやめて、自分の原稿書いて、作家として早よ世に出てや」
豪気な六十女(実年齢は六十八で間もなく七十に手が届くが)は全く意に介する気配がなく、桜田のサポートを道楽と決め込み老後の張り(張り合い)にするつもりなのだ。
今日も、桜田が出版社から戻って広いリビングのソファーで寝そべっていると、テレビ出演を終えた美佐子が八時過ぎに裕子と帰って来た。
「ただいま、徹ちゃん。お腹空いてるやろ、これ、一緒に食べよ。―――ほな、裕子ちゃん、頼むわな」
リビングの引き戸を開けるなり、折詰を高々と右手で持ち上げると、美佐子はおどけ笑顔で恭しく裕子に手渡す。これほど自分で料理せず、他人任せの料理研究家も少ないと思うが、
「頭で一生懸命考えてんやさかい、それでエエんや。ウチの仕事はな、考えることと味わうことやねん。作るんは裕子ちゃんがしてくれるねん」
美佐子は屈託がなかった。
「徹ちゃん。好きな人できたんとちゃうん?」
真っ赤なベレー帽を脱いでダイニングの椅子に腰を下ろすと、美佐子はソファーから起き上がった桜田の不意を突いた。
「え、‥‥‥俺が好きなのは美佐ちゃんだけだよ」
上手くはぐらかしたつもりだったが、軽い動揺があり、桜田は自分でも驚いている。美佐子のことは、「美佐子さん」と呼びたいのだが、「美佐ちゃん」と言わないと彼女が怒るので仕方なくそう呼んでいる。
「どうして、好きな人が出来たと思うんだ?」
動揺を隠すために、笑いながらわざとゆっくり立ち上がった。
「ウチも、若い頃はよう持てたんやで。徹ちゃんも知ってるやろ。そやさかい、男の人が女を好きになったら、どんな風になるかよう分かってんやで」
自分の向かいに座った桜田の顔をのぞき込んで、美佐子は彼をからかう。
「‥‥‥そうかな」
とぼけながら左手で頭を掻くが、手の動きが自分でも何ともぎこちなかった。
「差しずめ、相手の人はその原稿の主、ちゅうとこかな」
「えっ、いや、―――そんなんじゃないんだ」
桜田は自分でも可笑しいくらい赤くなって、右手の原稿をテーブルに置いた。
「何も恥ずかしがることあらへん。二年間も女っ気なしやったら無理ないわ。ウチか裕子ちゃんがもうちょっと若かったら、お相手させてもらうんやけど、ウチらでは不満やろ。―――な、裕子ちゃん」
美佐子がからかい混じりに裕子に笑いかけると、
「いやですわ、先生」
皿を並べる手を止めて、裕子が笑顔を返したが、頬がほんのりと桜色だった。彼女は桜田より十歳上で五十七だが、美佐子と違って桜田を見る目に〈女〉が意識される。彼女も美佐子と同じく離婚歴があり、既に認知された表現を借りると〈バツいち〉と言うことになるが、美佐子と違って娘を婚家に残していた。父娘家庭というのは複雑なようで、この春、結婚に反対されて泣きながら娘が裕子に会いに来ていたのを、桜田は覚えている。
「お願いやから、私を頼って来んといて。私はあんたとこを出るとき、何もかも捨てたんやから。今は野上先生のために生きてんやからね」
洗面で髭を剃っていて聞くとはなしに母娘の会話が耳に忍び込んで来たが、裕子の毅然とした迷いのない態度に驚くとともに、桜田は人間の決意の怖さとそれに殉じようとする裕子の言葉に、葉隠(葉隠聞書)の一説を連想して鳥肌が立ってしまった。
あの日の言葉通り、裕子は美佐子に献身的といってよい尊敬に満ちた奉仕を尽くし、料理研究の助手としてだけでなく、彼女の身の回りの世話すべてを自分の職分と心得ていた。裕子の固い決意は一体、奈辺に根拠を求めるべきかは、桜田にとって然程の興味対象ではないが、救命ないしそれに準ずるものであろうことは想像に難くなかった。二人の出会いが裕子のどん底の時期であったこと、それに、北原の次の言葉も根拠をもたらすものであった。
「桜田さん。俺はある人に救われたと思ってたんや。どんなに遠く離れてても、その人のためやったら命も投げ出す決意でこれまで生きてきたんや。葉隠の一節やないけど、死ぬことと見つけたり、の心境やったんや。そやけど、ちゃうかったんや。その人やのうて、ごく身近な人間が俺を救ってくれたゆうことが、十四年ぶりに分かったんや。‥‥‥泣けたで、久しぶりにホンマに声あげて泣いてしもたわ」
カントの理論の敷衍ではないが、命を捧げる決意は、やはりそれと同価値の受益から生まれるのが通常であろう。北原から彼を救った人物の名を聞く機会は持てなかったが、裕子の相手は美佐子だろう。折詰から蟹と海老を取り出し、手際よく皿に盛る裕子を見ながら、桜田は謎解きを楽しむ気分だった。
「‥‥‥あのう、徹さん。おビールは?」
頬を染めたまま、裕子が桜田の注文を聞く。色は白いとは言えないが、若い頃はさぞかしキュートな美人であったろう。利発な額と口元、それに目元にもその面影が残っている。
「いや、美佐ちゃん。この原稿が気になるのは、そういう意味じゃないんだよ」
裕子にビールを頼んでから、桜田は美佐子に向き直って、再度の弁解を試みる。平静を装うため、寿司をゆっくり咀嚼して喉へ送り込むという念の入りようだった。
「そんなら、どういう意味やの?」
ムキになるところが余計あやしく、美佐子はからかいたくなる気持ちを抑え、とぼけた笑顔で問いかけた。
「うん。実はウチのような出版社へ持ち込まれる原稿じゃないんだ。東京の大きな出版社へ持ち込んでも、飛び付くような代物なんだ。そんなものを、おまけに企画じゃなく自費でやりたいと言うんだよ」
「へぇー、そんなエエもんやの」
「うん」
「そやけど、書きはったんは、京都の大学の講師してはる人やろ。そやったら、大阪の出版社から出しても、おかしないんと違う?」
「でも、東京の人だよ。大学だって東京の有名大学出てるんだから、東京で出そうと思えばいくらでも出せると思うんだ。‥‥‥一体どうしてかな」
考えれば考えるほど疑問が沸いてくるのだ。桜田が腑に落ちない様子で、目の前のゲラに視線を落としていると、
「まあ、あんまり悩まんとき。そんな才能ある人が近書院から出してくれるんやったら、徹ちゃんも仕事に張りが出来るやろ。北原さんが自殺したんで、これからはまともな原稿読まれへんて嘆いてたけど、これで不満が解消できたやないの」
美佐子が、桜田お気に入りの北原の名前を出して励ます。
「そういや、俺、雄ちゃんの葬儀に出席できなくて、悪いことしちゃったよ。子供が病気だったんで、東京へ行ってたから」
北原の死を思い出し、桜田は神妙になる。仕事上の付き合いで、唯一親友と呼べたのが北原だった。
「そういや、藤野さん。雄ちゃんと同じ大学だったな。ひょっとしたら雄ちゃんのこと知ってるかも知れないから、今度会ったとき聞いてみよう」
「ふぅーん。藤野さんていわはんの、本を書いた人は。女の人やゆうてたけど、ベッピンさん?」
美佐子のさり気無い問いに、
「うん、すごい美人だよ。才色兼備って形容は、彼女のためにあるようなもんだよ」
桜田は上手く乗せられ、本音を吐いてしまった。
「やっぱりね」
美佐子は裕子に視線を流し、意味あり気に笑ったのだった。
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