第27話 気まずい別れ
多忙の極み。ここしばらく、靖子はこの形容が大袈裟でない日常を送っていたが、人間の体とは良く出来たもので、驚くほど多忙な日々であっても慣れてしまうと結構順応できるものだった。もちろん心の張りがなければ続かないと思うが、―――大学教師・学者・作家としての初出版、いずれも興味深く充実した気分に浸れるが第三のものに一番わくわくするのは短期作業で、しかも紀行文の出版など最初で最後の仕事になるとの認識が手伝っていた。
さて〈ローレライ〉の出版であるが、自分では手直し不要の自信があったのに、近書院からゲラが送られて来ると最後通告を突き付けられたようで、悩みのなかった記述にさえ変更を加えるべきでないかとの迷いが沸き上がって来るから不思議であった。桜田の懇切丁寧な指摘も作用し、結局、靖子は再々校正まで踏んで、出版社に最終原稿を手渡したのだった。
―――初めて本を出す人の気持ちが分かったような気がする。
自分の書いたものが雑誌や論文集の一部としてでなく、一冊の本として全国の書店に並ぶのだ。想像するだけで、靖子は緊張で身の引き締まる思いであった。また、裏稼業を成功裏に終わらせるためにも〈ローレライ〉のヒットは必要条件であり、靖子は二重の重圧を感じつつ、しかし期待に胸躍らせ、逞しくしなやかにプレッシャーを楽しむ自分に驚いていた。金曜日の今日も、三時限目の講義が終わると、本多を待たず一人で下宿へペダルを漕いだ。近書院から表紙の見本が送られてくるので、一刻も早く見てみたいのだ。
不正があれば暴露の対象となるのだが、その近書院も全社挙げて、と言うと大袈裟だが、靖子の本に担当者は掛かり切りで、突貫ともいえる作業状況だった。表題も帯び文も社内で検討に検討を重ねたが、結局靖子の主張が入れられ、彼女の提示したものが採用された。近書院のイニシャティブを取るべく、井埜上社長は不満顔を崩さなかったが、
「これでいいんじゃないですか。本の内容にピッタリだし。―――僕は藤野さんのに賛成だな」
桜田が靖子サイドに回ると、渋々引き下がったのだった。
表題は〈ライン川のほとりで〉、帯文は〈貴方はまるで、ラインの水のよう。切り立つ岩肌に守られ、私を近づけない。ようやく穏やかな岸にたたずみ川面を掬うと、冷たく掌から逃れ、流れに帰って行く〉である。出版社から提示された案と並べ、どちらにすれば良いか本多の意見を聞くと、
「‥‥‥こちらの方がいいだろう」
困ったような顔をして、靖子のものを取り上げたのだった。
―――もう宅配で着いているだろうか。
写真をどの程度抽象化した絵が送られてくるのか思いを巡らせながら、靖子が晩秋の趣漂う神社の森を走り抜けて東出口に差しかかると、目の前を千津が小走りに通り過ぎた。
「千―――」
千津さん、と呼びかけるつもりが、靖子は呑み込んでしまった。今にも泣き出しそうな千津の顔だった。平井教授宅へ寄っての帰りであるのは容易に分かるが、自分に会いに来たのか、それとも平井夫妻への用件であったのかは分からなかった。
首を傾げながら門をくぐって玄関先にチャリを立て掛けていると、安政が久子を叱りつける声が内から聞こえてくる。玄関にはビニール袋に入った柿とさつま芋が置かれてあった。家で収穫した秋の味覚を、義母に言われ千津が持参したのであろう。
「私は千津さんに家へ上がってほしくないんですよ。嫌なんですよ。あの人が―――」
久子が泣きそうな声で安政に抗議していた。
「何を訳の分からないことを言ってるんだ! 君らしくないじゃないか。以前は千津さんのことをあんなに気に入っていたのに、一体どうしたんだ!」
「だって嫌いになったんだから、しょうがないでしょう。あの人には金輪際、家に来てもらいたくないんだから。嫌なんですよー! どうしようもないんだから」
泣き声を残して、久子はダイニングへ駆け込んでしまった。
「何を可笑しなことを言ってるんだ。せっかく好意で持って来てくれたのに‥‥‥」
ブツブツ言いながらしかめっ面で玄関へ出て来たものの、安政は庭にたたずむ靖子が目に入ると、
「あっ! なんだ、帰ってたのか。‥‥‥いや、お帰り。―――何でもないんだから、突っ立ってないで、内へ入りなさい。さぁ」
気まずいムードを取り繕おうと、気遣いを見せる。
「‥‥‥ただいま」
消え入るような声を漏らすと、靖子は困惑顔の安政を残し自転車で千津の後を追った。自分のせいで千津が久子にまで嫌われたのかと思うと、後ろめたかった。一言謝らないと靖子の気が済まなかった。
千津は境内を回る小道のはずれをトボトボと歩いていた。微かなブレーキの音で振り返ったが、目に涙をためた寂しい顔だった。
「‥‥‥ごめんなさい」
自転車から降りて、靖子は千津を正視できず俯いてしまった。
「いいえ、いいんです」
千津は煙るような目で靖子を見ながら、小さく首を振った。
「少し歩きましょうか」
千津に促されて、彼女と並んで住宅街の細いアスファルト道を歩いて行く。高野川を渡る細い橋へ通ずる道へ折れず、千津は直進する道を進む。本多のマンション前を避け、遠回りしてバス停へ歩く意図が痛いほど伝わってくる。
「朝晩はずいぶん冷え込むでしょう」
広い道路の手前で、千津が立ち止まって靖子に微笑みかけた。街路樹から舞い落ちた枯れ葉が、彼女の足下でカラカラと渦巻いていた。赤みがかった西の空の色を映し、千津の顔ははっとする輝きを見せ、靖子を打ちのめしてしまう。
―――こういう女性には、とても叶わない‥‥‥。
美人ではないのに、あるとき、どんな美人も及びつかない輝きを放つのだ。
「‥‥‥ええ」
靖子も立ち止まって、千津にぎこちない笑顔を返した。初めて迎える京都の秋が、こんなにも苦く後ろめたいものになろうとは、東京を出るときは想像もしていなかったのに‥‥‥。そう思うと、靖子は本多を恨みたくなる。なぜ、千津以外の女性を好きになってくれなかったのかと、彼に抗議したい気持ちなのだ。
「それじゃ、ここで」
別れを告げる千津に、
「‥‥‥千津さん、久子おば―――、いえ、平井先生の奥さんのこと、ご免なさいね」
靖子は目を伏せて唇をかんだ。白いカーディガンが視界から消えても、彼女は長い間歩道にたたずんで、千津の乗るバス停の方角を見つめていた。
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