第26話 近畿文学書院

 

 空前の出版不況と言われて久しいが、その原因については諸説ふんぷんで帰一するところがなく、出版業界は悩ましい限りであろう。ただ、若者の活字離れが小さからぬ要因であることは紛れもない事実で、この点は疑いを入れる余地がなかった。ところで、このような出版不況の中で、本を出したがる人種が増加傾向にあるのは奇妙というか、可笑しな社会現象であった。原因を正確に分析すれば社会学の論文テーマにもなろうが、法学者である靖子には、マスメディアの出現とともに情報の送り手としての地位を奪われ情報の受け手に成り下がった市民の、ささやかなフラストレーション過程とこじつけて憲法二十一条(表現の自由を保障)の解釈論に繋げる方が興味深かった。

「靖子ちゃん。あんまり難しいこと考えたらアカンで。単純なことや。単に目立ちたがりが多なっただけで、そんな奴らのもんを出版する、けったいな会社がようけ出来たんが、可笑しな社会現象の原因や。需要と供給―――単純な市場原理で、欲と金で説明つくやろ」

 北原なら、笑ってこう答えただろう。実際、彼の分析は縦軸と横軸の平面座標を使う、非常にシンプルで分かり易いものだった。縦軸には男女の性欲ないし性愛、横軸には財産的欲望、要するに金を持ってくるのだ。確かに、この座標軸で大半の社会現象は説明がつくが、友情などはどのように位置づけるのであろうか。もう一つ座標軸を組み込んで、空間座標の中で分析すべきではないか。一度、彼に聞いてみたかったのに、靖子は結局その機会を失い、弔い合戦に参加する羽目に陥ってしまったのだ。

 その弔い合戦であるが、本多の依頼を受けた翌日の月曜日、靖子は早速、大阪梅田にある近書院に電話をかけて、仕掛けに取りかかった。

「本を出したいんですが」

 いきなり用件を伝えると、

「自費ですか。―――はい、担当の編集次長に代わりますから」

 出版需要が高いのか、それとも自費出版の申し出しかないのであろうか、社員の口調はマニュアルを読み上げるように立て板に水だった。

「はい、今の説明でよく分かりました。明後日、原稿を持参しますから、詳しいことはその時に」

 靖子は自分でも驚くほど事務的な返答を次長に返してしまった。信頼を築く必要のない相手には自然とこうなってしまうのかと思うと、丁寧すぎる次長の態度が妙に引っかかって、刑訴法(刑事訴訟法)上の〈予断排除の原則〉には反するのだが、靖子は勘繰りたくなる気分だった。

「直則さん。今日さっそく、近書院にファーストコンタクトを取ったから。ちゃんと言われた通りにしたから、安心して」

 昼食時、ランチを自室に置き忘れて慌てて取りに戻り、靖子は再度、本多の部屋のドアを開け胸を張ったが、子供の使いさながらの仕草に自分で噴き出してしまった。駆け出しの〈仕事人・お靖〉が一人前になるには年季を入れ、先輩から多くのものを今後学び取る必要があったのだ。

 二日後の、約束の水曜日。靖子は一人で大阪へ向かった。単に出版契約を結ぶだけなのに本多や小林が付き添っては怪しまれることから、自分一人で足り、付き添う必要はないと二人に断ったのだ。原稿も、既にワープロで打ち込んであり、手直しするカ所は皆無と言ってよいほど読み込んであった。

 ―――あれから、まだ一カ月しか経っていないのに‥‥‥。

 阪急梅田駅のエスカレーターを降りながら、靖子は急に感慨無量に陥ってしまい、まばたきをして天を仰いだ。北原とこの付近を歩いたのが、つい最近だったのに、もはや彼はこの世の人では無くなってしまったのだ。地下へ潜ると、

「おーい。靖子ちゃん、こっち、こっち!」

 北原の声が何処からともなく聞こえてきそうな錯覚に陥ってしまう。JR大阪駅へ通ずる地下道を歩きながら、靖子は何度も立ち止まって辺りを見回すが、雑踏に記憶が掻き消され、ただ北原の声だけが耳の奥に虚しく響くのだった。

 五百三十二枚の原稿で膨らむラムスキンのショルダー(バッグ)を肩にかけ、重い足取りで地下街から地上へ上がると、黄昏の歩道には銀杏の枯れ葉が舞っていた。手を伸ばせば、十一月の扉が開く季節なのだ。ライトコートを羽織っていても足下には風が絡みつき、靖子は心まで冷やされる気分だった。

 丸ビル前を通って駅前第一ビルへ歩くと、五階に近畿文学書院の看板が室内を隠すように窓枠一杯に掛かっていた。ビルの電動ドアをくぐり、靖子は広いロビー左隅のエレベーターへ入ってボタンを押す。少し緊張しているのか、手の動きがぎこちなかった。虚勢も手伝い本多の付き添いを断ったが、やはり付いて来てもらうべきだったかと、敵の居城に足を踏み入れ弱気が出てしまう。

 エレベーターを降りた真正面に、近書院の入り口が控えていた。ドアを開けると、受付と書かれたコーナーが目の前にあって、東口加根子の胸名札の付いた中年女性が何やら筆記していた。

「‥‥‥あのう、六時に約束していた藤野と言いますが」

 受付役が顔を上げず無視の体なので、客の靖子が余計どぎまぎしてしまう。

「あ、はい。私が担当の仲内です」

 受付は用を為さないのか、靖子に気付いた四十過ぎの男が、東口の頭越しに声をかけ奥の椅子から立ち上がった。頭の薄さを気にしているのか、頭頂部に左手で毛を集めながら近付いて来た。部屋の広さは三十畳はあるだろうか、ここに机が五脚づつ向かい合わせに十脚。左の壁際には大きなパソコンが三台とコピー機が同じく三台並んでいた。右奥には社長室と書かれたドアがあり、その隣は応接室になっていた。

「どうぞ」

 編集次長の仲内に案内されて応接室へ入ると、社長と編集長らしき二人の人物がソファーに腰を下ろして煙草をくゆらせていた。社内へ入ってまず驚いたのは、五人の男性社員も四人いる女性もすべて紫煙に包まれていたことだった。六畳余りの社長室に煙りが充満していると、さすがに息苦しくて堪らない。靖子は反射的に顔をしかめ、目の前の紫煙を右手で遮ってしまった。

「これは失礼しました」

 四十代半ばの、ロマンスグレーの紳士が慌てて灰皿で煙草を揉み消した。

「編集長の桜田です」

 立ち上がって靖子に自己紹介すると、

「社長の井埜上です」

 向かいの男性もつられて立ち上がった。年齢は四十に手が届くかという容姿で、桜田より若干若く感じられるが、いかにも好色そうな目で靖子を見てニヤッと卑しい笑みを浮かべた。

「初めまして、藤野といいます」

 靖子の自己紹介に、

「えっ! 東京の方ですか」

 桜田は意外な顔をした。言葉のアクセントから読み取ったのであろうが、自分と同じ東京弁に目と口元が親しみで緩んだ。

「よろしくお願いします」

 三人と名刺を交換して、桜田の隣に腰を下ろす。正面には仲内と井埜上が同じく腰を下ろした。

「大学の先生と聞いていたんで、どんなすごい女性かと想像していたんですが、こんなに若くて綺麗な人とは思わなかったな」

 桜田は照れながら頭をかいた。言動に嫌みがないのは、インテリジェンスの為せる業であろう。

「ほんまやね。こんな美人やったら、表紙に写真を載せるだけで本が売れるわ」

 井埜上の余りに短絡的発想が下卑た笑顔の口から漏れると、靖子は返す言葉に窮してしまい、膝の上のバッグに視線を移した。

「それじゃ、原稿を拝見しましょうか」

 桜田も閉口したのか、隣の靖子に笑顔を向けビジネスに移った。

「ええ」

 人間の感情というのは曖昧な状態を嫌うのか、往々にして対人認識を〈好き・嫌い〉の印象で色分けしてしまう。そして好感を持つと、その人物の行動をプラスイメージで捕えてしまうのだ。桜田の動作を見つめる靖子がまさにそうだった。受け取った原稿の最初と最後の三十枚程度を自分の手元に置くと、桜田は他を二分して井埜上と仲内に手渡したが、その仕草がいかにも手慣れていて洗練された職人芸を感じさせるのだった。

「‥‥‥いやぁ、これはすごい。旅情がよく出ていて、紀行文、特に若い女性の紀行文としては一級品ですよ」

 最後のページを読み終えても、桜田は紙面から目を上げず感嘆しきりであった。

「そんなに煽てられると困りますわ」

 靖子は平静を装うが、世辞でないと明らかに分かる賛辞に、もちろん悪い気がしなかった。

「そんなに、エエ作品でっか」

 自分も原稿の一部を持っているのに、まるで別物のように、井埜上は桜田の持つ原稿を見つめた。

「ここへ来て二年になるけど、私が目を通した中で最高じゃないですか」

 桜田は井埜上が嫌いなのか、質問者を無視して隣の靖子に賞讃を送った。

 一冊の本として市販するには、枚数を四百枚程度に削るのがベターではないかと言うので、靖子は自分でも少し不満を感じていたマイン川・モーゼル川沿岸部分の百枚余りの削除案を出し、社内での検討に託した。その他、細々した条件の説明を受けていたが、

「最後に、費用の点なんですが―――」

 仲内から費用の提示がなされると、

「少し高いんじゃないの。これだけの本だったら、よそでは企画(出版)だよ」

 桜田は不快感を隠さず、井埜上と仲内から顔を背けてしまった。靖子の援護意図が明らかだった。

「いえ、その金額でいいです。お支払しますから」

 目的は別のところにあり、靖子は金額に拘泥する気はなく、それに捕われると話が進まないのだ。

「本当にいいんですか」

 桜田は不満顔のまま、靖子に念を押した。

「ほとんど手を入れるところが無いようですが、漢字だけ、若干直させてもらって、すぐゲラ(刷り)をお送りします。―――本にする場合、例えば「坐る」という漢字は「座る」に直しますので。どうでもいいようなんですが、一応そうなっていますから」

 靖子が怪訝な顔をすると、桜田は弁解口調で頭を掻いた。実際どうでもいいと考えているが、出版界の慣用なのだ。

「表紙は、どないしまひょか?」

 井埜上の問いに、

「‥‥‥そうですね。やはり絶景のライン峡谷を描いてもらうのが一番いいと思いますので―――」

 靖子はバッグから写真を取り出し、隣の桜田に手渡した。

「これはいい。絵はこれを基に、若手女流画家の広畑裕美子さんに描いてもらいますから。―――大丈夫ですよ。彼女、綺麗な絵を描く人だから」

 桜田は自信あり気に靖子に請け負ったが、仕草から、若手画家は彼の気に入りであることが分かった。

「ほかに何か、ご要望はありませんか」

「ええ、別にありませんが、出版期日はいつ頃になるんでしょうか」

「そうですね。早くて一カ月。遅くても二カ月以内には出せると思うんですが、校正にどれだけ時間がかかるかですね‥‥‥」

 仲内が桜田の意向を窺うように顔を向けると、

「この原稿の出来具合だったら、記録的な速さで出せると思いますよ」

 彼は仲内にも好感を持っていないようで、聞こえなかった振りをして靖子に微笑みかけたのだった。

「十一月を目処に、三千部発行しますから。ご安心下さい、きっと良い本を作ります」

 仲内の声に送られ、靖子が近書院を出たときは既に八時を回っていた。


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