第22話 突然の訪問客
季節の狭間の九月は時の流れが野山を渡る風のように素早く、夏の思い出に浸る頃にはすでに新しい月を迎えている。例年ならこの時期、熱帯性低気圧に悩まされるのだが、今年は夏の勢いが弱かったことも影響しているのか、靖子は京都へ来てからまだ一度も大きな台風情報に接していなかった。
もっとも天候は相変わらず不順で、火曜日の今日も朝から断続的な雨が降っては、道路やキャンパスの汚れを強い雨足で洗い流すとともに、御苑の森をすっぽりと雨霞が包み込んでいた。頬杖をつきながら、靖子が三階の窓から雨に煙る町並を眺めていると、
「ごめんください」
明らかに東京弁と分かる女性が、コンコンとドアをたたいた。不意を突かれて、
「はィッ!」
靖子は、自分でも可笑しいくらいスットンキョウな返事をしてしまった。苦笑しながらおもむろにドアを開けると、小柄な美しい女性が立っていた。
「あのう、お隣の本多先生にお会いしたいんですが、今日はいらっしゃらないんでしょうか」
彼女の口から本多の名前が出ると、靖子は顔がこわばってしまった。
「いえ、います。―――今、講義中ですが、本多直則にどんなご用でしょうか」
突っけんどんに答えてから、まるで尋問するような口調で問い質した。ともかく美人なのだ。年の頃は三十二、三だろうか。少しそばかすが見えるが、彼女の美しさを損なうものでなく、むしろ引き立てていた。
―――千津さんの他に、まだこんな綺麗な人がいたんだろうか‥‥‥。
千津とのこともまだ決着がついていないのに、こんな美人までライバルというのでは、靖子は堪らない。
「靖子さんですね」
何と! 相手は自分の名前を知っているではないか。確かにドアに氏名が書いてはあるが、それ以前から靖子の名前を知っている口調だった。見ず知らずの者にいきなりファーストネームで呼ばれるのは、ときに非常な不快感をもたらすが、今の靖子がまさにそうだった。荒々しく誰何(すいか)したいところだが、辛うじて抑えると、
「ええ、講師をしている藤野靖子は私ですが、あなたは一体どなたでしょうか」
靖子はツンと澄まして、目の前の女性を睨み付けた。
「ごめんなさい、紹介が遅れて。北原雄治と付き合っている古賀都です」
美人の訪問客は、ようやく靖子に自分の名を告げたのだった。都の自己紹介に、靖子は自分でも呆れるくらい表情が変わってしまった。恐らく稀代の名優でも、これほどの演技は不可能だろう。
「まあ! 北原さんの―――。私ったら‥‥‥、どうぞ、お入りください。どうぞ、どうぞ」
恥ずかしいくらいの愛嬌を振りまいて、靖子は都を自室へ招き入れた。
「どうぞ、お掛け下さい」
靖子にソファーを勧められて、都が腰を下ろすのと同時に、
「終わったから」
本多がドアをたたいて、いつものように昼食の合図を送った。
「!…‥‥‥」
本多の声を聞くと、都の体に電撃が走った。ブルッと肩を震わせ、彼女は驚くほど真剣な表情を浮かべドアを見つめた。都の徒ならぬ用件を察知して、靖子も緊張で体が硬くなってしまい、彼女にかける言葉を呑み込んでしまった。そのまま自室へ行こうとする本多を、
「直則さん、お客様ですけど」
靖子が慌てて呼び止めると、
「―――うん?」
彼は怪訝な顔で靖子の部屋のドアを開けた。
「突然お邪魔して申し訳ありません。古賀都と言いますが、本多先生にお願いがあって伺いました」
本多の顔を見ると都はいきなり立ち上がって、緊張した面持ちで一気に言葉を継いだ。
「―――それじゃ、こちらへどうぞ」
尋常でない様子に、本多は自己紹介を省いてすぐ自室へ招いた。都のことはのろけ交じりに北原から聞かされていたが、今日の彼女の印象はそれらとおよそかけ離れたものだった。
「どうぞ、掛けてください」
少しでも緊張を和らげようと、微笑みながら本多がソファーを勧めると、
「‥‥‥はい。失礼します」
都はニコリともせず、俯いたまま本多の前に腰を下ろしたが、次に彼女の口から漏れたのは全く意外な事実だった。都が恐れていた通り、北原は前立腺肉腫に侵されていた。しかも、すでに相当進行していて、癌組織は大腸はおろか、膀胱や骨盤まで転移していた。
「このままでは、あと僅かしか持たないんです。全摘(患部の全部摘出)オペ(手術)を受ければ一、二年は持つかも知れないから、手術を受けてほしいっていくら頼んでも、あの人は聞いてくれないんです」
泣きそうな顔で本多を見上げた。大腸や膀胱それに肛門を摘出し、骨盤を削れば少しは持つかも知れないのに、北原はペニスや肛門まで摘出され、不自由な車椅子生活を強いられるのを拒んでいるのだ。
「‥‥‥本多先生! 何とか、あの人を説得して手術を受けさせて下さい。私は一日でも長く、あの人に生きていて欲しいんです。どんな姿でもいいから、生きていて欲しいんです‥‥‥」
よほど気丈な女性なのだろう。通常なら激しい感情が込み上げて来て取り乱すところだが、都はうっすらと目に涙を浮かべただけで、激情に身を委ねることはなかった。
本多は都を見ながら、「こんな状態になって、やっと私のところへ戻って来たんです」という千津の言葉を思い出していた。彼女も都のように、義雄を心から愛しているのだろう。母性的色彩が時の経過とともに濃くなっているが、彼女の内に男としての存在を刻みつけている以上、やはり男と女の愛の形は消えることはないのではないか。親友の死が近づきつつあるというのに、本多は不思議なほど冷静に千津と都を較べていた。
「分かりました。北原を説得してみますから、安心してください」
別れ際、都に約束したものの、本多の本心ではなかった。不遜と言われるかも知れないが、死を支配する権利は自己の手に留保したいし、北原も同じ考えを持っていると思う。
「生を支配できずに産み落とされた俺にとって、その生を否定する死の支配が、俺のアイデンティティ(主体性)の一番の証明になるやろ」
学生の頃、哲学書を片手に得意気に同意を求めてきた、余りに人間臭く、それだけに一層親しみの持てた北原の言葉を思い浮かべながら、本多は都の後ろ姿を見送っていた。
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