第23話 友よ安らかに眠れ


 古賀都に北原の病状を打ち明けられてから、本多は気の重い陰鬱な日々を送っていた。親友の死を受容せねばならないだけでも辛いのに、彼を説得する役目まで引き受けてしまった。靖子に代わってもらえば彼女は懸命に説得するだろうが、北原が考えを変えないのも分かっている。

「俺の命や。幕の引き方ぐらい、俺の自由にさせてや」

 と言うだろう。手術をしても僅か一年程度の延命なら、北原の思い通りにさせてやるべきではないのか。そう考えて、本多は靖子に北原の死期が近いことをまだ告げていなかった。彼女は都の訪問理由を誤解していて、息子の再婚反対の、北原の母の説得依頼だったと勝手に思い込んでいた。親友の死を静かに受容するためにも、また彼にその時間を与えてやることが出来たという意味でも、願ってもない靖子の誤解だったが、いずれにしても出来るだけ早い機会に、北原とは一度ゆっくりと話し合う必要があった。

 ―――明日にでも会いに行くか‥‥‥。

 モンブランを動かす手を止め、ペン先をキャップに収めると、本多はため息を吐いた。予定では木曜日の今日、北原に会いに行くつもりだった。すでに古賀都が訪れて一週間以上経過しているのだ。しかし朝からあいにくの雨で、ただでさえ重い足がこれ幸いとサボリを決め込んでしまった。

 ここしばらく、学界誌への掲載論文締め切りが迫り、編集部から催促の入らぬ日はないのだが全くといってよいほど捗(はかど)っていない。知的作業の大敵がストレス。父や祖父に言われるまでもなく自明の理で、少し高くつくが週一度、祇園でストレスを発散させてきた。が、昨夜は祇園へ出かけなかった。そんな気になれなかったのだ。

「どうなさったの? 直則さんのストレス解消法がN・Bなのに‥‥‥」

 靖子はよほど不可解だったのか、瞳を見開き怪訝顔を向けた。しつこく誘っても本多が応じないと知ると、

「それじゃあ、今夜は直則さん抜きで出かけますわ。直則さんを肴に、ママとマティニを飲むのも楽しみだわ」

 意味有り気に笑いながら、彼女は小林とスハルノを連れて祇園へ出かけて行った。最良のストレス解消法を身に着けてしまったからには、刑法学者として自分を追い越すのは近いのではないか、そんなことを考えながら本多は靖子の後ろ姿を見送ったのだった。


「講義が終わりましたから、お昼にしましょうか」

 十二時二十分に、靖子が本多の部屋のドアを開けた。十五分に講義が終わるので、教室からここまでの所要時間を入れると、ちょうど勘定が合う。今日はおかしな質問を受けず、定刻に解放してもらえたのだろう。

 靖子が本多の部屋を訪れる時間を知ってのことか、それとも全くの偶然だろうか。彼女が部屋へ入るとすぐ、デスクの電話がベルを鳴らせた。受話器を取ると、北原からだった。

「都が先日、そっちへ行ったらしいな」

「‥‥‥うん」

「気ィつかわして済まなんだな。お聞きの通りで、もう長ないんや。それで、お前に最後の別れを言おと思て電話したんや、―――手紙書くやな、俺の柄やないしな」

「ちょっと待て! お前、一体どうするつもりなんだ!」

 靖子に知られないよう慎重に言葉を選ぶつもりだったが、受話器から伝わる異様な、何とも言えない陰鬱で切迫したムードに、本多は思わず声を荒げてしまった。

「!?‥‥‥」

 尋常でない応対に、靖子は徒(ただ)ならぬ自体の発生を察知するが、まだ具体的事情は呑み込めていない。彼女は全神経を集中させ、電話の声と話の内容に聴き耳を立てる。

「いや、前から決めてたことや。ただ、こんな早うにやるとは思わへんかったけどな‥‥‥」

 北原の自嘲気味な声が受話器から響く。

「北原! ヘミングウェイはやるだけのことをやって、あれだけの作品を残して死んだんじゃないか。お前は、まだやり残した仕事があるだろっ!」

 北原のやろうとしていることに気付き、本多は必死に止めようとする。〈北原〉、〈ヘミングウェイ〉、〈死〉という言葉を聞いて、靖子の顔からサー! と血の気が引いた。

 ―――猟銃自殺!

 この四文字が、ガーン! と彼女の頭を叩く。

「ノンフィクション書くには時間が足らな過ぎるわ。俺には荷が重すぎたんやな‥‥‥」

「お前、浪速帝大病院に一泡吹かせてやるって言ってたじゃないか。―――いいのか、こんな終わり方で」

「おおきに。お前の気持ちは有り難いが、もう決めたことや。それに言うてたやろ、予備校の教師してる奴らが医療ミスは相当調べ上げてるて。―――そいつらがやってくれるやろ」

 実際、楠岡が本多に伝えたところでは、予備校講師は、患者の体内にガーゼを忘れた―――信じ難い初歩的ミスが行なわれたセクションが小児外科で、しかもミスをした執刀医はおろか手術年まで突き止めていた。本多からその話を聞いて、北原は例の天王寺公園の一件もあり、自分の太刀打ちできる相手ではないと思った。

「それに、―――もし、そいつらがアカンかったら‥‥‥」

 北原は含みを残した。もちろん本多に、その内容が分からないはずがなかった。

 ―――必ず、俺がやってやる!

 亡くなれば弔い合戦ということになるが、今は口に出すわけには行かず、次の言葉を選んでいると、北原が先に口を開いた。

「人のこと言えた義理やないけど、最後に言わせてくれ。靖子ちゃんは大事にしたれよ。お前だけなんや‥‥‥、彼女の心にはお前しか棲まれへんのや。分かったれよ」

 北原の言葉を聞くと、靖子は本多の手から受話器を奪って、

「北原さん! 止めて! ねぇ‥‥‥、お願いだから、止めてーっ!」

 必死に呼びかけていたが、最後の言葉を投げると、本多の胸に顔を埋めて泣き崩れてしまった。

「靖子ちゃん、やっぱり居てたんやな。―――本多を離したらアカンで、あいつは分かってないだけなんや。ほならな‥‥‥」

 北原が電話を切ると、

「いやー! なんでー! ねぇ、なんでよう‥‥‥」

 靖子は大声を上げ、本多の胸を何度も何度も叩いて泣きじゃくった。


 葬儀は二日後の土曜日に、北原家から歩いて四、五分の自治会館でしめやかに執り行なわれた。猟銃の暴発による過失事故。死体解剖もなく、病死と異ならない葬儀日程だった。本多と靖子は、会場の片隅に隠れるように佇む古賀都を見つけると、

「北原の許嫁です」

 北原の両親に、彼女を紹介したのだった。


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