第21話 束の間の逢瀬
地球規模での気候の変動なのか、世界各地の異常気象が新聞テレビを賑わす昨今であるが、ここ日本でも春夏秋冬の移り目が規則性を失い、特に夏と秋のそれが顕著であった。昨年は夏の勢力が強く、秋の訪れを感じたのが十月中旬といってよかったのに、今年は秋が驚くほど早くやって来て、北原家の中庭では金木犀が半月も早く甘い香りを漂わせ始めた。オレンジ色の小さな花をつけた、曽祖父植樹の、こんもりと茂る大木を見上げては、北原は一人ほくそ笑んでいた。これまで藤野英則と本多には大きな借りがあって、いつも心のどこかに負い目を感じそれを引き摺って来たが、先日の夜、靖子を抱かなかったことで少しは心の負担が軽くなった。貸し借りを相殺しても自分の借りがはるかに重く帳尻が合わないのは明白であるが、僅かでも債務が返済できたと感ずるのは、やはり気分的に楽だった。
―――さあ、書くぞ!
二十坪ほどの中庭に面する一階の作業場で、北原は拳を握って気合いを入れた。普通なら書斎というべき部屋であるが、母は北原が執筆作業をするこの部屋を、作業場と呼ぶ。小学校元教頭で、教育者を自認する昔気質の彼女には息子が小説を書くだけでも耐え難いのに、内容がポルノであってみれば尚更のことだった。そんなものを書く部屋を書斎と呼べるはずがなく、彼女にとって書斎とは、崇高な学問研究に打ち込む部屋でなければならなかった。
この様な訳で、北原に対する母の評価はすこぶる低く、〈放蕩無頼を尽くす親不孝息子〉、これが既に中学時代から北原に張られたレッテルだった。定年を控えた、小学校校長の父の評価も母と五十歩百歩であろうが、完全に諦めているのか、息子に口うるさく迫ることはなく、その点は母と好対照をなしていて、どちらかといえば哀れを誘うものであった。
北原はポルノ小説連載を今月いっぱいで打ち切ることにして、医療ミスを題材とするノンフィクションに今後の作家生命―――というほどの大層なものではなかったが―――を賭けるつもりなのだ。今月分の原稿はすでに書き上げてあるので、十月までの十日近くを小説の構想を練りながら、これまで同様、ブラブラぼんやり過ごす予定であった。
医療ミスの細部については未だ確かめ得ていない事実もあるが、本多の話では確実な資料・根拠に基づき真実と信じて発表した事実は、たとえ真実であると証明できなくとも名誉毀損罪で罰せられることはないらしい。二十年近く前に、最高裁判所が大法廷で出した結論とのことだった。手持ちの資料をもとに、これから書く内容を本多に検討してもらったところ、名誉毀損罪が成立することはまずないと、折り紙をつけてくれた。
―――さて、書き出しは何から始めようか‥‥‥。
やはり下海にうまく誘われた俺が、据え膳を食って、その結果、性病感染の憂き目を見たところから進行するのが良いだろう。そして、本多のヒントで電話を録音していたら、第三内科の井上保夫がまんまと引っかかったというところへつなげる―――。ノンフィクションである以上、時の流れに沿って忠実に事実を追いながら迫って行くのがベストではないかと思う。そうすることが、名誉毀損罪の処罰を免れる最良の策でもあるのだ。構成の大枠を設定して、大学ノートの切れ端に書き込んだメモを、時の経過に従った順に並べていると、
「雄治。古賀さんて人から電話だよ」
母が作業場のドアを開けたが、
「掃除くらいしたらどうなの!」
ゴミ溜めさながらの散らかりに、しかめっ面をして慌ててドアを閉めてしまった。
「もしもし」
母の後から居間へ入って受話器をとると、
「ねぇ、病院へ行った?」
都の不安げな声が漏れてくる。先日北原の精液に血が混じっていたのが気になって、問い合わせの電話なのだ。都は癌の一種である前立腺肉腫ではないかと疑っていて、北原に病院へ行けとうるさく勧める。
「心配することあらへん。血が混じるぐらい、ようあることやないか」
北原は取り合わず端から相手にしない。
「だって左脚の付け根が痛いって、言ってたじゃない。それに腰も痛むって、―――それってね、癌の兆候よ」
「おい。脅かすなよ」
北原は本気にせず、笑いながら都の心配をはぐらかした。
「そんなことより、今度いつ大阪へ来れるんや」
「この前、行ったじゃない。もう少し待ってよ。―――だって疲れるんだから、寝させてくれないんだもの。それじゃ、また電話するから」
昼休みが間もなく終わるのだろう、今後は携帯へかけろと北原が伝える前に、都は時間を気にしながら電話を切ってしまった。
「血が混じるって、どこか悪いのかい?」
受話器を置いた北原の顔を、今度は母が心配そうに覗き込んだ。どうしようもない道楽息子だが、やはり一人息子は可愛いのだ。
「いや、尿にちょっと血が混じってただけや。もう何ともないから」
まさか精液に血が混じってたなどと言うわけにはいかない。
「古賀さんて人と付き合ってんの?」
病気を聞いても相手にされなかったので、今度は都の話を持ち出す。
「さあ、どうやろ」
北原が曖昧な言葉で逃げようとすると、
「ねぇ、もう一度、考え直す気はないの? 幾代さんに戻って来てもらったら、あんたも助かるんじゃないの?」
母は別れた妻の名前を出して、息子を呼び止めた。
「無理やろな」
当てにならない夫や気の合わない姑から解放されて、幾代は実家で子供たちと楽しく暮らしているのだ。たとえこちらがその気になっても、彼女が承知するはずがなかった。
「その古賀って人とよく会ってるようだけど、再婚するつもりなの?」
居間を出ようとする北原に、母は執拗に問いかけるが、
「さあ、よう分からんわ。なるようにしかならんやろ」
答えにならない返事ではぐらかし、北原は廊下へ出てしまった。確かにここしばらく、都の時間が空きさえすれば彼女と会ってきた。勤務時間が不規則な上に、東京―大阪と距離があるので、そう何度も会えるわけではないが、都の勤務が一日空く日は、大阪か東京で逢瀬を楽しんだ。東京で会うときは、いわゆるラブホ(ラブホテル)を利用するのが大半で、都はそこから病院へ出る。ホテルで一泊してチェックアウト後、食事かコーヒーを飲んでいると、
「ねぇ、もう少し時間があるから、もう一度、する?」
たいてい都が誘う。体を痙攣させるほどの絶頂感は、ついぞ見せたことがないのに、よくしたがる。会う機会が限られていることから、別れ際になると未練が残るのか、それとも職業上のストレスがなさしめる業なのか、都は北原に抱かれたがる。
「中へ入れなくてもいいのよ。こうしてるだけで安心できるから―――」
裸で抱き合っているだけで満足できるし、これまでもそうしてきたと言う。ドクターとナースは職業上、強い信頼関係で結ばれるが、職務を離れても親しく付き合う場合が多いようで、独身で美人の都は特にその機会に恵まれていた。これまで数人の医師と付き合ってきたが、その中の一人とは相当激しいセックスを味わったと臆面もなく北原に打ち明けた。その反動もあるのだろう、彼女はバックスタイルを嫌う。
「変なとこへ入れへんから」
と断っても、
「でも、間違って入ったら困るじゃない。ね、お願いだから、バックだけは止めて」
哀願して、応じようとしない。所詮この世は男と女、という浅くまた深くもある性認識の一致は互いに揺るぎないが、微妙な嗜好の差違に時おり驚くことがある。いずれにしても興味尽きない不思議な女性で、北原はいまだに都の人格の中核を捕えることが出来ないでいた。抱かれながら、そっと涙を流す可憐な哀感を漂わすことがあるかと思うと、人込みの中で平気で北原の前に手を当て、
「ホント! 硬くなってる」
無邪気にはしゃぐ大胆さを持っていた。
大阪で都と会うときは、最初の夜に泊まったモーテルが二人の常宿だった。自然の中で宿泊する気分に浸れ、北原もこれほど落ち着ける施設を他に知らなかった。午後十時から翌日の午前十時までがサービスタイムで、超割安料金で泊まれる。午前十時前になると、
「ね。出ましょう。サービスタイムが過ぎちゃうから」
都は、渋る北原を無理に急かせる。仕事を持っているからか、それとも女性だからなのか、けっこう経済観念が発達しているのだ。二泊できる日などは、午前十時にモーテルを出て、二人は午後十時に再び訪れる。昼食を柏原市の北部丘陵にあるレストランで済ませると、彼らは二上山の木陰に車を止めてよく仮眠した。モーテルで眠ることは皆無なので、どこかで睡眠をとって体力を回復する必要があるのだ。なかなか眠れないときは、
「ね、クスリ飲む?」
と言って、都がハルシオンかベンザリンをセカンドバッグから取り出し、口に含んで北原の喉に送り込む。寝つきの悪い北原だが、薬を飲むと三十分もしないうちに眠りに入れ、その効用に驚いてしまった。出処を尋ねると、
「本当は違反なんだけど、『飲まないから。古賀さん、あげる』って、患者さんがくれるの」
都は屈託なく答えたのだった。その彼女に無理に連れられ受けた検査結果が、余命いくばくもない事実を告げようとは、二上山の木陰で眠る北原には正に夢にも思わぬことであった。
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