第20話 つらい朝
木曜日の朝、本多の車で京都まで帰ったときは、靖子は恥ずかしくて口もきけなかった。男の友情というのは、父の交遊関係や大学のクラブ活動でおぼろげながら理解できたつもりでいたのに抽象的で漠然とした域を出るものでなかったことがよく分かった。本多と北原の友情は、恐るべき存在感を持って靖子に迫って来て既存の概念を根底から覆してしまったのだ。友情―――確かに女のそれも素晴らしい。靖子にも無二の友と呼ぶべき親友が一人いて、その友情に幾度涙を流す感動を味わったか知れない。が、あれほどの圧倒的パワーに身を震わせたことはなく、どちらかと言えば穏やかで優しかった。
神聖な領域へ思慮なく踏み込んだものの、想像を絶する力の存在を見せつけられ、靖子は叩きのめされてしまった。
「―――あまり無茶をしないでくれ‥‥‥。済まなかった」
北原に忠告されたのだろう、本多はハンドルを握りながら、靖子を見ないで小さく呟いた。
「ご免なさい‥‥‥」
大阪から京都へ帰るまでの車中、靖子の口から漏れた言葉はこの一言だけだった。助手席のシートに縮こまって、靖子は消え入るような思いを味わっていた。本当に長くてつらい時間だった。
もっとも、時の長さを嘆き無力感に苛まれていたのは、一人靖子だけでなかった。平井安政と久子も同じで、二人はやきもきしながら靖子の帰りを待っていた。自宅前に車が止まったので久子は玄関から飛び出して来たが、運転しているのが本多と分かると目の遣り場に困って、庭の隅に咲く南天の花とつつじをキョロキョロと見回した。
「‥‥‥おばさま、ご免なさい。連絡もしないで外泊したりして」
車から降りて、靖子が泣きそうな顔で謝る。
「なに。心配なんかしてないさ。どうせ本多先生と一緒だって思っていたからさ」
久子は精一杯の負け惜しみを言った。本当は心配で心配で仕方なかったのだ。帰りが遅いので、昨夜、何度本多の携帯に電話を入れたことか。本多も行き先を知らないと言うので胸騒ぎがして寝るどころではなかったが、ようやく午前一時前に、所在が掴めたとのメールが届いた。
「朝ご飯、まだなんだろう? ―――うちの人もまだだから、一緒に食べよう」
久子は玄関戸を閉めて、優しく肩を抱いた。安政も心配で、朝食もとらず待っていてくれたのだ。
「はい」
と頷いて、靖子は逃げるように階段を駆け上がった。自分を心から気遣ってくれる人たちがいる。ある人は娘を気遣う父や母のように―――、そして、ある人は恋人としてなのか、‥‥‥それとも妹を気遣う兄のような気持ちからなのか、―――よく分からないが、いずれにしても、心の底から有り難かった。人生には様々な出会いと別れがあるが、彼らとは別れたくない、決して別れられはしないと思った。心と身だしなみを整えて、ダイニングへ下りて行くと、
「やあ、お早よう」
安政が彼自慢の、ポーカーフェースを装い、何事もなかったように靖子を迎える。
「お早ようございます」
彼の向かいの、久子の隣に靖子が腰を下ろすと、
「二時限目は概論だったね。教養の講義だから、小林君でも間に合うだろう。電話をかけて彼に代わってもらったらどうだい」
気遣いがありありと分かる中身だが、安政は下手なポーカーフェースを通した。
「十分間に合いますから、大丈夫です。‥‥‥済みません」
教養の学生に刑法概論を教える方が、専門課程で講義するより余程難しい。四十年近く教鞭を取っている安政には自明の理だが、靖子の心を思っての提言なのだ。しかし靖子は小林に迷惑をかけたくなかったし、ペシャンコにひしゃげたプライドを膨らますためにも、講義には出たかった。
食事を済ませ二階の書斎で講義案をブリーフケースに入れていると、門の前に本多の車が止まった。窓から見下ろす靖子に気づくと、本多は困ったような仕草を浮かべ視線を逸らしてしまった。
大学へ出かける準備が出来たものの、靖子は書斎の椅子に腰を下ろして、すぐには階下へ下りなかった。車に乗れるので時間の余裕が出来たこともあるが、本多が自分のことで平井夫妻に謝辞を述べているのかと思うと、自己の人格の幼稚さが恥ずかしくて足が重かった。
「‥‥‥今日は車の方がいいかなと思って」
階段を下りる足音を聞いて、本多は居間から廊下へ出て来た。二日酔いの頭でチャリを漕ぐのは辛かろうとの配慮だった。靖子が黙って本多の後から玄関へ下りようとすると、
「ちょっと待ってくださいね。うちの人も一緒に乗せてって貰うって言ってるから」
久子が安政を急かせながら、二人に声をかけた。
「―――何で、わしまで」
不満顔の安政に、
「四時限目の講義だからって、たまには早く大学へ出るのもいいでしょう」
久子はへ理屈をこねて、骨董鞄を無理に手渡してしまった。本多と靖子が相乗りで大学へ出たりすれば、噂雀の格好の餌食になる。特に今日の靖子は、好奇な目で見られるのは辛かろう。そんな久子の配慮が手に取るように靖子には分かった。
「あなた。靖子さんに後ろに乗ってもらって、助手席に乗せてもらいなさいよ」
渋る安政を助手席に座らせるという、念の入りようだった。大学へ着くと、久子の予想通り学生たちが群がって来た。六十年代初期の英国製スポーツカーなど、日本では滅多にお目にかかれる代物でないのだ。おまけに大学へ着くなり平井が幌ボタンに誤って触れてしまい、天井がオープンになってしまったので、三人はまるで見世物のような気分を味わう。
「‥‥‥本多君。どうにかならんのかね、―――この車」
平井教授が呆れ顔を向けると、
「今度東京へ行ったとき、乗り換えてこようと思っているんですが‥‥‥」
本多も苦笑いを返した。クラシックカーで大学へ出れば騒がれるのは分かっていた。だからこれまで大学へこの車で来たことはなく、もっぱら千津との密会の使用だけに留めてきた。が、今日はあえて禁を解いた。靖子のためもあるが、自分の気持ちを知るためにも一歩踏み出してみたのだ。
「どうも有り難うございました」
久子の意を汲み、靖子はわざと丁寧な礼を述べて車から降りた。そして教養(部)の大講義室へ入ると、
「今日は罪刑法定主義の現代的機能という点について、皆さんと一緒に考えてみたいと思います」
二日酔いの鈍い痛みを堪えながら、威厳を持って大勢の学生たちを見回したのだった。
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