第19話 危ない夜


 ここしばらく、夜の訪れとともに平井家の二階は驚くほどの冷気に包まれ、深秋の様相を呈していた。森の冷気にじかに触れる書斎は、ブラウスの上にカーディガンを羽織っていても体が冷え込み、網戸越しに神社を眺めていたのが僅か一週間前とはとても信じられない。そういえば、明かりに釣られ窓ガラスに留まる虫たちも、めっきりと数が少なくなった。

 東京と違って、京都は自然が身近で、季節の移り変わりも肌から染み込んで来て、新鮮な感動を呼び覚ましてくれる。靖子は初めて迎える京都の秋が、五感に鮮やかで、小鳥や虫たちの声に耳を傾け森の香りを楽しむ毎日だった。

 九月も半ばを過ぎてしまった十六日の水曜日に、靖子は秋の深まりを見せる京都を離れ、梅田で北原と待ち合わせて本多たちと別行動をとった。大阪へは司法修習生時代に一度来たことがあるが、それ以来だから、三年振りであった。帰宅を急ぐ通勤客で賑わう大阪駅に、靖子が待ち合わせ五分前の、六時五十五分に着くと、

「おーい! 靖子ちゃん。こっち、こっち!」

 中央出口の改札前で、北原は丸めた新聞を振って大きな声で呼びかけた。二十六の大学講師に、「靖子ちゃん」はないと思うが、なぜか抵抗がない。小学校の時、北原にそう呼ばれて勉強を教えてもらったからだが、子供の頃に形成された絆は、そのまま固定されて違和感なく受容されるのであろうか。

「まあ! どうなさったの、そのお顔!」

 コンコースの大きな柱のところへ歩いて、靖子が北原の顔を見上げると右あごが青く腫れ上がっていた。

「ああ、これか‥‥‥」

 並んで地下街へ向かいながら、北原は苦笑いを浮かべた。先日本多に名前を聞いた、医療ミスを調べているという、例の予備校講師の友人にやられたのだ。少し脅してやるつもりで、天王寺公園でヤクザ者を装いいちゃもんをつけたのだが、逆に殴られて伸ばされてしまった。

 ノンフィクション作家での出直し。この目的のため、医療ミスは必ず自分の手で明るみに出す。日毎強まる願望に似た決意であるが、そのためには予備校講師に先を越されたくなかった。彼の調査を阻止する必要があるのだ。どんな男なのか気になり少しは調べてみたのだが、医学部受験生向けの予備校講師で、かつて受講生だった女医と婚約していることが分かった。彼女からの情報で動いているのか、北原には判断しかねるが、興味深い事実は、その予備校講師の妹が、幼少時、医療ミスで亡くなっていたことだった。

「―――でも、北原さんが負けるなんて、相手の人は相当強い人ね」

 並んで歩きながら、靖子は北原を見上げクスッと笑った。実際、北原の武勇伝は古武術研究クラブの先輩たちから、靖子はそれこそ耳にタコが出来るくらい聞かされてきたのだ。中学・高校とボクシング部に所属し、かなりのハードパンチャーだったらしい。ミドル級のオリンピック候補と騒がれたこともあったが、喧嘩で相手に怪我を負わせ、出場資格を剥奪されたと本多に聞いたことがある。プロへ進む道もあっただろうが、狂ったように受験勉強に励み、二年の浪人生活の後にようやく大学に合格した。古武術研究クラブに入った理由も、いまだに語り草になっているほど有名だった。新入部員の勧誘をしていた、古武術研究クラブの部員たちに、

「大層な名前のクラブやないか。この名前の、古武術とやらで俺を倒せたら、入ってやろうやないか」

 と、大言を吐いたらしい。古武術研究クラブというのは日本古来の武術を理論的に研究し、科学的に解明することを目的とするクラブなのだ。確かに研究過程である程度は実践的な練習もするが、それが本来の目的でないのは当然であり、体育会系の空手部や柔道部などとは自ずから違うのであった。だから北原の申し出は常軌を逸するもので、部員たちを馬鹿にしたものと言ってよかった。

「僕が相手をしよう」

 声をかけたのは、二週間前に入部した新入生の本多だった。

「ここじゃ何だから、そちらで」

 空手部の道場を借りて相対した二人だったが、勝負はあっけなく着いてしまった。三歳の頃から、踵の無い靴を履いて爪先を鍛え上げてきた本多なのだ。自信に溢れた、スキだらけの北原を倒すことなど、彼には造作もないことだった。一瞬の虚をつき、鋭く踏み込んだと思うと、既に北原のミゾオチに本多の当て身が食い込んでしまっていた。


「ところで、いったい、どんな技を使う人でしたの?」

 靖子も古武術研究クラブのO・Gなのだ。やはり北原を負かした相手の技には興味があった。

「それが、よう分からんのや‥‥‥」

 北原の左ジャブを受けた技は、空手の横受けや拳法の上受けという防禦ではなかった。もちろんボクシングのブロックでもない。右手の甲で、まるでムチのように北原の左ジャブを弾いたかと思うと、北原が右ストレートを入れる間もなく、右足でミゾオチを蹴られていた。しかも鋭い痛みを感じた瞬間、左拳で右顎にトドメを刺されるというオマケ付きだった。

「分からないって、これまで見たこともない技でしたの?」

「そうやな‥‥‥。ともかく、あっという間に倒されてしもたさかい」

 地下鉄四ツ橋線の改札横を通りながら、北原は頭をかいた。

「その人が、浪速帝大病院の医療ミスを調べているんですか?」

「いや、その男やのうて、そいつと一緒にいてたヤツがミスを探ってんや」

 医療ミスの調査から手を引かそうと考え、夕暮の天王寺公園を歩く背の高い男に、

「おい。しょうむないこと調べてたら、痛い目を見るぞ!」

 と、脅しをかけると、

「ほう。いったい、何のことかな」

 相手は動じる気配もなかった。あの時点で、既に勝負が着いていたと思う。学生時代、剣道の全国大会で優勝した経歴は調べから分かっていたが、二十年以上も前のことで、しかも素手の予備校講師風情が―――と、嘗めてかかっていたが、背の高い男は完全に北原を呑んでいた。余程の相手でもない限り、喧嘩には絶対的と言ってよい自信を持っていたのに、北原は相手の態度に気圧されてしまった。

「お前、嘗めてんのか!」

 北原がいきなり殴りかかると、黙って二人のやりとりを聞いていた中背の男が、急に割り込んできた。目にも留まらぬ早業とは、あの男の動きをいうのであろう。現在もジムで体を鍛え、プロ級ボクサーを自認する北原の、しかもジャブを受けたのだ。スピードのあるジャブを受けて流すなど、およそ思いも寄らなかったのに、あの日、つくづく世の中は広いと痛感させられてしまった。上には、呆れるほど上があったのだ。

 ―――しかし、まあ‥‥‥。

 あれほど見事にやられると、むしろサバサバした気分になるから不思議であった。最少の攻撃しか加えられなかったことも、敵に恨みが湧かず賞讃したくなる理由であろう。いずれにしても、あっという間の出来事で、相手の技を見極める余裕など無かったことも事実であった。

「―――まあ、そんな訳や」

 靖子にその時の説明をしながら、気分よく伸びた自分を思い出して、北原は照れ笑いを浮かべてしまった。買い物客や帰宅を急ぐサラリーマンで賑わうドーチカ(堂島地下街)を出ると、ネオン華やぐ北新地の入り口である。今夜は、行きつけだったラウンジへ靖子を連れて行って、一緒に飲みながら、北原は彼女の相談とやらに応ずるつもりなのだ。

「その人と直則さんでは、どちらが強いかしら?」

 解体中のビルを隠すテント前で、靖子は立ち止まって、北原に熱い眼差しを向けた。本多のことを相談するため、今夜は祇園行きをやめて、大阪へ出て来たのだ。

「そうやな‥‥‥」

 北原は思案顔だった。本多も強いが、先日の男は全く知らない分、未知な恐さがあって正確な判断をしかねるのだ。二人の差を強いてあげれば、本多は収束的というか、一つの型を持った攻撃をするが、此間の男はどんな攻撃が飛び出してくるか分からない、発散的な攻撃をするように思う。剣で言えば、秀才の剣と天才の剣に対峙できようか。

 ―――柳生宗矩と、宮本武蔵というところかな‥‥‥。

 対照的な剣豪の名が一瞬頭に浮かぶが、北原は口に出さなかった。宗矩を秀才と決めつけることもさることながら、本多の評価に迷いがあって、靖子が当然異論を挟むと思ったのだ。古武術研究クラブで薙刀を研究し、自身も四段の腕を持っているので、剣道の話をさせると結構うるさくて簡単には収まらないのだ。いずれにしても本多と先日の男は、格闘技の最重要要素たるスピードという点では甲乙つけ難いことは事実であった。

「よう分からんわ。―――新地へ入って、もうそんな不粋な話はやめとこう」

 北原は腫れた顎を撫でながら、辺りを見回して顔をしかめた。この時刻になると、新地も賑わいを見せ始め、タクシーや車が人込みを掻き分けるように狭い道路を走って行く。

「まあ! 綺麗!」

 フラワーショップの店先で、靖子が立ち止まって店内をのぞき込んだ。大輪の菊、可憐な白百合、ピンクの薔薇からラベンダー、世界の花々が季節を忘れ、店内に所狭しと飾られてあった。

「花でも買って行くか」

 子供のようなはしゃぎように、北原が微笑みを浮かべると、

「ほしいけど‥‥‥、でも、嵩張るから」

 靖子は迷っていたが、ため息で未練を断って、北原を見上げ小さく首を振った。

 フラワーショップの前を左に折れて、すぐまた右へ曲がると、不夜城さながらの明々とライトが点る通りへ出る。そこかしこに佇む客待ちのホステスは銀幕の内と見紛う容姿だが、夜の帳を掻き消す眩しい光の中で一層あでやかさが増すのだった。バーやスナックのイルミネーションを珍しげに見上げ、靖子が歩いていると、

「ここや」

 北原が甲斐ビル前で立ち止まって、三階を指差した。〈ラウンジ・ブロード〉、見上げるビルの壁に、青白い仄かな光で描かれていた。

「ブロードというのは、広々としたとか、寛大な、という意味の英語のブロードですか?」

 靖子も立ち止まって、三階のムーンライト調のイルミネーションを見上げた。

「さすが大学の先生やな。俺なんか、とっくの昔に英語やな、忘れてしもたわ」

「もう、いやだわ。ブロードの意味くらい、中学生でも知ってますわ。ブロードで問題なのは、アメリカのスラング(俗語)で、〈売春婦〉という意味があることかしら」

 並んで階段を上りながら、靖子が北原に微笑みかけると、

「えっ! ホンマかいな? ―――ここのママは身持ちがエエゆうので評判なんやで」

 本来の意味と卑語との隔たりに、北原も呆れ顔だった。

「まいどぅ」

 おどけ笑顔のまま、北原が会員制と書かれた、重厚な木製ドアを開けると、

「いらっしゃいませ」

 ママがカウンターの奥から、丸々とふくよかな笑顔で二人を迎えた。

「まあ! ‥‥‥ちょっと、ちょっと。誰かと思たら、雄ちゃんやないの!」

 よほど久しいのか、それとも近視なのか、店内に入ってようやく北原に気づいた。

「やあ、ママ。久し振りやな」

「ホンマやね。―――それはそうと、そちらの綺麗な人、私に紹介してくれへんの?」

 ママは愛嬌顔をぷうっとふくらせ、北原に靖子の紹介を催促した。

「スマン、スマン。こちら藤野靖子さん。法学部の講師をしてるんや」

「えー!? こんな若うて綺麗な人が、大学の先生やの!」

 ママの恵美子は目を丸くして、首を突き出した。

「二十六だから、もう若くはありませんわ」

 奥のカウンターに腰を下ろして、靖子がため息を吐くと、

「まあ! 二十六で若うなかったら、五十の私は一体どうなりますの?」

 ママは心底すねた仕草で、靖子にからんで見せる。三十年も新地で客商売に勤しむと、このあたりの呼吸は絶妙なのだ。

「ごめんなさい。そんなつもりじゃ―――」

 靖子は前言を取り消そうと慌てふためくが、プーッとふきだしたママの笑顔につられ、一緒に声を上げて笑ってしまった。

 三人はしばらくの間、グラスを傾けながら四方山話を楽しんでいたが、常連客がやってきたのを機に、ママは二人のそばを離れて行った。靖子が北原に何か相談したそうな顔は先刻承知で、常連客を二人から一番遠い席へ座らせたのもママの気配りであった。

 その夜、靖子はほろ苦い水割りを味わいながら、なかなか腰を上げようとしなかった。明かりを抑えたシックな〈ブロード〉のムードもいいし、何より北原の隣が心地よかった。

「そろそろ出ないと、―――十一時を回ってしまったよ」

 北原がやさしく何度も促すが、その都度、

「いいのよ。もう少しここで飲んでいたいの」

 靖子はまるで駄々っ子のように首を振るのだった。

「雄ちゃん、どないしょ。もうカンバンなんやけど‥‥‥」

 困り果てた顔でママが北原に閉店を告げに来たときは、すでに靖子は酔い潰れてカウンターに顔を乗せていた。

「美人先生は、私のマンションに泊まってもらおか?」

 恵美子が小声で北原に提案する。二人の会話から、男と女の関係にないことは明らかだったし、何より困惑気味の北原の仕草がそれを物語っていたのだ。ママの助け船に、

「そうやな。そうしてもらえると助かるわ」

 北原は喜んで飛びついたのだった。タクシーに乗せて京都まで帰らせようかとも思ったが、ここまで酔ってしまっては安心してタクシーに任せられなかった。明日の講義は二時限目からだと言っていたので、高槻のママのマンションから大学へ出れば十分間に合う。

「靖子ちゃん。もう閉店やさかい、さ、帰るで」

 靖子の肩をゆすって、目を覚まさせる。

「今夜は遅いから、ママのマンションへ泊めてもらい。―――な」

 ショルダーバッグと上着を持って来て、靖子に優しく告げるが、

「やーよぅ。まだまーだ、飲みたーいんだからぁ‥‥‥。北原さーん、付き合ってよぅ。話も、まだ済ーんでないわよぅ」

 首を振って、テコでも動こうとしない。

「大トラやね‥‥‥」

 呆れ顔を近づけ、ママが北原の耳元で声を落とした。

「‥‥‥うむ。こんなことは滅多にない女性なんやが、ちょっと悩みがあってな」

 北原も渋い顔で相槌を打った。靖子をここまで苦しめる本多も罪なヤツだと思うが、これまでの我が身を振り返れば大きなことを言える立場ではなかった。

「よっしゃ、分かった、分かった。ホテルへ行って、今夜はとことん飲んで語り明かそ」

 靖子をなだめてから、

「ホテルへ送ったら、すぐ寝るやろ」

 ママに耳打ちして、大阪駅近くのホテルへ電話してもらう。タクシーを拾ってホテルへ着いたものの、

「どうして、シングルルームなのよー。北原さんも泊まるんだったら、ツィーンでなきゃー、だーめじゃないー」

 シングルと知って、フロントで靖子がゴネ出す。仕方がないので、ツィンに代えてもらって、ふらふらの靖子を支えながらエレベーターで八階へ上がる。

「寝ながらでも話は出来るから、取り敢えず横になろ。―――さ」

 手前のベッドを靖子に勧め、窓際のベッドへ行こうとすると、

「私なんか、もう、どうなってもいいのよー!」

 ワッと泣き出して、靖子が北原の背中にしがみつく。二人きりになったので、弱気が勝ったのだろう。

 ―――今度は、泣き上戸か‥‥‥。

 北原はほとほと参ってしまう。甘えもあると思うが、これは挑発ではないか。

「‥‥‥ね。お願いだから―――」

 切ない声で哀願されると、まさに本物である。

 ―――危ないな‥‥‥。

 北原は顔を曇らせてしまった。自分ではなく、靖子が、である。こんな不安定な精神状態であれば、スキに乗じるヤカラも出てこよう。自分は藤野英則に対する義理と本多への友情から、靖子を抱くことはない。それは絶対にない! 北原は改めて念を押してみるのだが、念を押さねばならぬこと自体、問題なのだ。

「ヤケになったらダメだよ」

 靖子を優しくなだめ、北原はブレザーを脱がせブラウスのままベッドに横にならせた。しばらく様子を見ていたが、彼女が落ち着いたのを確かめると、北原は手元のスイッチで部屋の明かりを消した。あれほどごねていたので一時はどうなることかと思ったが、部屋が暗くなると、靖子はすぐ小さな寝息をたてて眠りに落ちてしまった。もっとも、アルコールが入ったときの常で、眠りは浅く、目覚めは早かった。睡魔と酔いの微妙なバランスが崩れたのであろう。靖子は寝苦しさから、寝返りを打とうとして目を覚ましてしまった。薄明りの中で備え付けのクロックに目を凝らすと、五時少し前。昨夜のことはあまり良く覚えていない。北原にからんでホテルへ入ったのは記憶にある。彼に抱きついたのも、辛うじて覚えている。

「‥‥‥!?」

 微かな記憶の糸をたどっていた靖子は、がく然としてしまう。ブラウスのまま横になったはずなのに、ブラウスは脱がされていた。おまけにブラ(ブラジャー)も外されているのだ。

「‥‥‥」

 毛布の端を抱いて、向かいのベッドに眠る北原の後ろ姿を見つめていたが、靖子は寝返りを打って背を向けてしまった。彼を恨む気持ちは毛頭なく、また、その筋合いもないが、涙が出て仕方なかった。自分の軽薄さが、堪らなかった。苦い後悔が込み上げて来て、まんじりともせず、ぼうっと霞んだ壁を見ていると、ようやくカーテンが明るい日差しを漏らし始めた。

「‥‥‥そろそろ出ようか」

 向かいのベッドから沈鬱な声が促す。

「うー!」

 靖子は震えながら、毛布を被って顔を隠してしまった。声の主は北原雄治ではなく、本多直則だった。


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