第18話 消えた迷い
温暖化による危機が叫ばれて久しいのに、今年は九月に入ってしばらくすると涼気が日本列島を覆ってしまい、夏の名残りを留めていたのは僅か数日だけで、日を追うに連れ、新しい季節の訪れを敏感に肌が感じ取っていた。そんな秋の気配が一段と深まりを増す、九月半ばの日曜日。無駄と知りつつ、本多は今日も大原へやって来たが、やはり千津は現れなかった。今にも降りそうな曇り空の下で、彼は千津が自分を待っていた場所に、長い間じっとたたずんでいた。
―――千津は今、どんな想いでいるのだろう‥‥‥。
会いに来ない理由が外部的障害でなく、彼女の心に由来するのは分かっていた。秋色の漂う大原の里で、本多は冷たい風に吹かれながら大きな一歩を踏み出す決意をした。明日、千津に会って自分の意思を伝え、彼女のそれを聴いてみようと思ったのだ。暗黙のルールを破ることになるが、もはや躊躇いはなかった。自尊心を保つ以上の力が、すでに本多の内に生まれていたのだ。
翌日の月曜日、本多は九時前から大学病院近くの路上に車を駐めて千津を待った。今日は午前中講義がなく、午後の特別講義まで十分な時間的余裕があった。シートにもたれ東大路通りを眺めていると、間もなく千津の姿が遠くに小さく現れた。本多は千津が間近にやって来るまで、車から降りず彼女の顔を見つめていた。
―――随分やつれたな‥‥‥。
深い悩みが顔に表れていた。俯き加減で歩いて来た千津は、目の前のドアが開くと、
「あっ!」
不意を突かれ、彼女の体が素直に心を写した。喜びが仕草に溢れ、はっと吸い込まれてしまう鮮やかな笑顔だった。―――が、次の瞬間、彼女は心を覆い隠すように目を伏せて唇をかむと、小さく何度も何度も首を振った。
「‥‥‥少し話があるんだ」
本多は彼女の肩を右手で抱いて、優しくささやいた。病院の駐車場近くの歩道上であるが、もはや人目をはばかることもなかった。
「―――お願いだから‥‥‥。私をこれ以上苦しめないでください‥‥‥」
千津はすがるような目で本多を見上げたが、すぐ閉じた瞳から大粒の涙が溢れ出した。本多が抱きしめると、
「‥‥‥お願いだから―――ねぇ、‥‥‥お願いだから‥‥‥」
千津は堪え切れずに、本多の胸に顔を埋めて嗚咽を漏らした。
「結婚しよう。もっと早く言うべきだったんだが―――、済まなかった」
千津との結婚には余りに多くの障害があって、これまで二の足を踏んできたが、もう躊躇うまい。
「‥‥‥無理です―――」
本多の言葉に、千津は激しく涙の顔を振って、きっと彼をにらみつけた。これまで見たこともない毅然とした態度だった。千津はしばらくの間、自分の意思を確認するように本多をにらんだまま何度も首を振っていたが、
「―――ね、お願いだから」
落ち着きを取り戻すと、子を諭す母親の口調で本多の腕から逃れ、病院へ駆けて行った。
千津の姿が見えなくなっても、本多は長い間、歩道に佇んでいたが、顔見知りのナースと挨拶を交わしたのを機に、ようやく車に乗り込んだ。病院のゲートをくぐって、千津の後を追うように、足速に四階の病室を訪れると、
「済みません、さっきは取り乱して」
千津は夫のおむつを替えているところだった。本多が追ってくるのを予期していたらしく、例のこぼれる笑みを目と口元に浮かべた。いつもはこの笑顔がすぐ消えてしまうのだが、今日は表情のどこかに残っていて隠れてしまうことはなかった。
「嬉しかった。あなたの結婚の申し込み―――御免なさいね、あなたなんて言って。でも私の頭の中では、いつも本多先生はあなただったの」
千津ははにかみながら本多を見上げたが、彼が何か言おうとすると遮るように言葉を続けた。
「この人を見て、よく分かったの。この人には私が必要だということが―――。山に取り付かれ、私に見向きもしなかったのに‥‥‥、結局こういう形でしか、私のところへ帰って来れなかったのね」
義雄を見つめながら、千津はしんみりと呟いていたが、
「お分かりでしょう。私には、三人の子供がいることが―――」
最後は、煙るような目で本多を見上げたのだった。ほんの僅かなキッカケで人が急激な変化を遂げることがあるが、千津の場合、夫の存在を積極的に受容したことで心の重荷が取れたのだろう。本多に結婚を申し込まれ、それが不可能と決めつけた彼女の心が、咄嗟に回復不能の夫に救いを求めたのかも知れないが、微妙な女性心理は本多には推し測る術がない。ただ、千津の母性が作用したことだけは確かであった。
「―――それに‥‥‥」
千津は言うか、言うまいか迷っていたが、
「本多先生は、もっとふさわしい方と結婚なさるべきです」
ゆっくりと言葉を選んで、自分の意思を本多に伝えた。靖子こそ、まさに本多にふさわしい女性だと思う。育ちの良さが容姿ににじみ出ていて、性格も素直で嫌味がなかった。しかも、女の自分が見ても、はっとするほどの美人なのだ。これだけそろった女性は、滅多にお目にかかれるものではない。千津は一目見て、とても靖子には叶わないと思った。
「―――ふさわしい人って‥‥‥」
本多は力なく呟いた。直感的に靖子のことを言っているのだと分かるが、まさか彼女が千津に会いに行ったことなど思いも寄らない。
「それは‥‥‥」
靖子の名前を出すと、彼女が自分に会いに来たことが本多に分かってしまう。靖子が打ち明けるならまだしも、本多に抱かれていた自分が話すのは何となくフェアでない気がして、千津は後ろめたい。言いよどんでいると、
「ご苦労さま」
ナースが病室へ入って来て、義雄の体を拭いている千津に声をかけた。彼女は本多に軽く会釈すると、機器や点滴、それに義雄の脈を調べ始めた。看護婦の前でプライベートな話をするわけにも行かず、本多は仕方なく、
「それじゃ」
千津に別れを告げると、義雄の病室を後にしたのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます