第17話 憂鬱な日々

 

 九月に入ると後期が始まり、突然キャンパスが活気づいて、夏休みの間アルバイトに精を出す学生たちもようやく大学に戻って来て新しい恋が生まれる季節であった。軽快なリズムで一世を風靡した、あのポピュラーナンバー〈セプテンバー・カムズ(九月になれば)〉の世界であったのだ。正門を入ったところに立てられた―――殴り書きの政治的スローガン躍る―――名物の看板群も俄に活気づいたのに、昨今は様相が変わってしまい、後期が十月近くまでずれ込む大学が多くなってしまった。

 以前と違い、九月に入ったからといって突然の賑わいを見せることのないキャンパスではあるが、八月中と異なり、一般学生も徐々に大学へ戻り出すのは、二学期が九月から始まる小・中・高の名残りであろうか。このように後期の胎動がキャンパスに沸き上がり、生き生きとした変化を見せ始める大学と裏腹に、本多は憂うつな毎日を送っていた。二度も千津に待ちぼうけを食わされたのだ。

 一度目は約束通り、十五分待って帰ってきた。急用でも出来たのだろう、そんな気持ちだった。しかし二度目は一時間以上、車内で過ごした。一時から五時近くまで道路に立って自分を待ち続けた、千津の気持ちが痛いほど分かった。

 二度も続けてすっぽかされると、これは徒事(ただごと)でないと思い始めるが、千津に電話をかけるわけに行かなかった。二人の暗黙の取り決めなのだ。育ちもあってか、本多は千津とのルールを破ることに強い抵抗を感じ、約束の場所へ赴く以外、最適な手段を取り得なかった。もっとも、平井教授にはそれとなく聞いてみた。

「うん。土曜日に病院で会ったよ。いつも通り、義雄君の世話をしていたけど、千津さんに何か?」

 本多の問いに、平井は屈託なく答えた。

 ―――なぜだろう?

 大学の自室で窓際の机に頬杖をついて、いつものように御所を眺めていると、

「失礼します」

 靖子が補講から帰って来てドアをノックした。

「ご免なさい、遅くなってしまって。―――男子学生に捕まって、嫌な質問をされちゃったから」

 彼女は部屋へ入るなり、本多にふくれっ面を向けた。

「嫌な質問て?」

「ええ、女性にとって最も忌み嫌うべき強姦罪についてなの。各国の刑法で、強姦罪の主体が男になっているのは、自己の性欲を満足させるという、主観的意図が特に重視されているからではないんですかと言うのよ。教養の学生のわりにはなかなか良い質問をすると思って黙って聞いていると、『それじゃ、強姦罪の既遂時期を男性器の女性器への没入と考えるのは、おかしいんじゃないですか』って、ニヤニヤ笑いながら続けるの。からかわれていると分かったので、『それは強姦罪にいう姦淫の解釈問題であり、判例のように、男性器の女性器への没入でいいと思います』って答えて帰って来たんだけど、―――本当に失礼しちゃうわ!」

 靖子は平井と同じで、犯罪の成立要件として犯罪を犯す者が持つ―――目的や意図のような主観的要素をかなり取り込んでいるので、学生が面白半分に質問したのだろう。

「男性器の女性器への没入とは、どの程度入ることですか、とか聞くんだもの!」

 靖子はぷりぷり怒りながら、ソファーに投げるように腰を下ろした。強姦罪が男にしか犯せず、しかもそれが男の性的快感を満たすための犯罪だというのなら、射精により犯罪は既遂に達することになろうし、生物学上射精の不可能な女には、たとえ男を利用しても他の女性を犯すということは出来ないことになる。しかし、そこまで徹底する見解は見当たらず、最高裁(最高裁判所)も女が男と一緒になって女性を犯させた場合、男と女は二人とも強姦罪の正犯(共同正犯)になることを認めてきた。

「平井先生や父と同じく行為者の主観的な要素を重視するといっても、女性の貞操や性的自由という重大な法益(法によって守られる利益のこと)や、暴行・脅迫を用いるという―――女性でも出来る行為態様との関連で、強姦罪は女性も正犯となり得ると随所で言ってきてあるというのに‥‥‥、もう!」

 靖子は憤まんやるかたないという顔で、無関係な本多にまで八つ当たりして睨み付けた。

「だから、曖昧な行為者の主観的な要素など重視せずに、俺のように出来るだけ行為の客観面をとらえればいいんじゃないか」

 と言いたかったが、今日の靖子は聞く耳持たずの、無視を決め込む顔だった。

「ところで、今日はどんなご馳走を作ってくれたのかな?」

 怒りを静めるため、本多はランチの中身に話題を誘導した。

「あっ、そうそう。お食事を忘れていたわ。今日は平―――いや、久子おばさまが作ってくれたの。ほら、カツサンドに、おまけに野菜ジュースまで」

 平井先生の奥様と言おうとして、靖子はあわてて久子おばさまと言い直した。怒りが静まった、というより、すでにすっかり忘れた顔をして、鼻歌交じりでテーブルにカツサンドとジュースを並べ出した。小林も朝から大学へ出ているが、二人に気を利かせているつもりだろう、彼は昼の休み時間に本多の部屋へ顔を出すことはなかった。

 本多と靖子がちょうど食べ始めようと、テーブルに手を伸ばしたとき、

「失礼します」

 聞き慣れない声の主が、ドアをノックした。

「どうぞ」

 本多に促されてドアを開けたのは、見かけない顔の男子学生だった。

「あっ!‥‥‥、どうも済みません」

 二人が一緒に食事するのを見て、場違いな所へ顔を出したと思ったのか、ばつの悪そうな仕草を浮かべ頭をかいている。学内には、本多と靖子が付き合っている―――いや、親類だから親しくしているだけだ、この二つが噂の主流だが、噂の存在にすら気付かない学生もいて、彼は最後の部類に属するのであろう。食事中なので三十分後にもう一度来るよう本多が伝えると、彼はそそくさと部屋を出て行った。

 再度部屋を訪れた彼の相談というのは、司法試験を受験したいので適切なアドバイスがほしいとのことだった。高名な憲法学者と民法学者が祖父と父の本多は、当然、司法試験に合格したと決めてかかっていた。講義中に話したことはあるのだが、サボリの欠席者には知る由がなかった。此の手の学生に限って自己の能力を過大評価し、試験に対する認識も甘い。

「合格するまでに長い時間がかかるかも知れないよ。その間、生活はどうするつもりかね。結婚して奥さんにでも養ってもらうかね」

 と、本多は嫌味の一つも言いたくなる。

「先生。女の一人も養えないで、男といえませんよ。そんな情けない生活、私には出来ませんよ」

 本多の嫌味に、自信満々居士は大見得を切った。

「そうか、―――しかし、そんな大言壮語を吐いていたのに、一回りも違う若い妻君に養ってもらっている、情けない男を知っているんだが‥‥‥」

 苦笑しながら本多が立ち上がって、言う必要もないことを言ってしまうと、

「先生、法螺吹きフロードは司法試験受験生なんですか!?」

 靖子が驚いて口を開いた。彼女の問いには答えず、

「司法試験については藤野先生の方が詳しいから、彼女に説明してもらい給え」

 学生に言い残すと、ムキになった自分に苦笑いを浮かべ、本多は自室を後にした。どうも、あの手の人種は好きになれない。それに、ここしばらく難題を抱えていて、心中すこぶる穏やかでないのだ。本多はゼミ用の演習室へ入って、靖子が呼びに来るまで仏頂面でコーヒーを飲んでいた。

 水曜日の今日はN・Bを訪れる日だが、小雨まじりの鬱陶しい天気で、本多は気が進まなかった。小林と靖子だけなら断るところだが、昨日帰って来たスハルノまで自室に顔を出すと、こちらの都合で彼らの期待を裏切るわけに行かなかった。

 スハルノが持ち帰ったインドネシア産の茶をすすりながら、四人はいつものように小一時間、刑法問題についての議論を闘わす。今日のテーマは被害者なき犯罪とも言われる、公然ワイセツ罪等の、性犯罪処罰の必要性の有無についてであった。

 強姦罪は女性の性的自由を保護するもので、社会の性風俗を保護する公然ワイセツ罪とは異なるものだが、性犯罪という点ではもちろん類似性がある。不快な質問を思いだして、靖子は今日のテーマに嫌な仕草を浮べたが、議論が白熱してくると、すっかり忘れたらしく性犯罪処罰の必要性について、統計的資料をあげて熱心に説明しだした。

 ―――やはり、藤野英則の娘だな‥‥‥。

 本多は靖子の説明を聞きながら、刑法解釈に行為者の主観面や倫理観を取り込む、英則の影響を見ないわけには行かなかった。捕らえ所のないものは、出来るだけ捨象すればいいのに。主観的な要素や倫理観は明確でないゆえに、大きな価値を見い出すと解釈がブレてしまい、恣意的な判断に道を開く。本多の基本認識であるが、その基本認識が一人の女性に二週間余り会えないだけで、少し揺らいでいることも事実だった。

 雨なので、今日はチャリを利用できず、四人は今出川通りへ出てタクシーを拾う。七時前にN・Bへ着くと、

「いらっしゃいませ、直先生」

 喜美代が、例の朗らかな声で迎えてくれる。給料日の狭間と雨のせいで客足が遠のいたのだろう、今夜、四人以外にN・Bを訪れたのは、ほんの僅かだった。

 本多は千津に想いを巡らせ早いピッチで杯を重ねたので、許容量を超してしまい、正体不明に酔ってしまった。小林の肩を借りて自宅へ戻ったのは微かに覚えているが、その後の記憶はまったくなく、目を覚ますとベッドに横たわっていた。

「―――うーん‥‥‥」

 二日酔いの鈍い痛みに顔を歪めながら、寝返りを打とうとして手を動かすと、どうしたことか自分一人ではなかった。

 ―――夢でも見ているのか‥‥‥。

 目を閉じたまま鈍痛の頭を疑ってみる。が、この生々しい左手の感覚は、現実以外の何ものでもなかった。小刻みに震える体の上に、そのまま左手を這わせ下ろして行く。

 ―――やはり‥‥‥。

 全裸だった。

「あー!」

 耳元であえぐ声を聞くと、本多の体から酔いが吹き飛んでしまった。声の主はもちろん分かっていた。

 ―――しかし、何ということを‥‥‥。

 寝返りを打って仰向けになると、本多は両手で頭を抱えてしまった。自分はパジャマを着ているので、恐らく靖子には手をつけていないだろう。正体不明の泥酔が幸いをもたらしてくれたのだ。もし僅かでも意識が残っていれば、昨夜、酔った勢いで靖子を抱いてしまっていただろう。半月以上、千津と会っていないので、ここしばらく男としての疼きを感じない日はなかったのだ。

 ―――俺はやはり千津を‥‥‥。

 靖子に捨て身で迫られて、本多はよく分かった。千津を愛している―――。問題は、この場をどう収めるかだった。

 ―――どうすれば、靖子を傷つけないで済ませられるのだろう‥‥‥。

 気まずい沈黙の中で、本多は完全に醒めてしまった頭を必死に巡らすが、よい考えなどあるはずがなかった。結局、正直に打ち明けることが最良の策であると気付く。

 ゆっくりと起き上がると、本多は靖子に背中を向けてベッドの端に腰を下ろした。彼女の震える息遣いが聞こえるほど、室内は静まりかえり、感覚も冴えていた。

「‥‥‥話さなくて済まなかったが、実は俺には好きな女性がいる」

 薄暗い部屋の中で、ようやく重い口を開いた。

「‥‥‥」

 言われなくとも、靖子は知っているのだ。彼女は不安に震えながらも、じっと本多の声に耳を傾け彼の告白を聴いていた。

「―――出来ればその人と結婚したいと思っている‥‥‥」

 最後に、本多が弱々しい声で呟くように言うと、靖子の目から涙が溢れるが、不思議と激しいわななきはなく、透明に近い感覚だった。

「‥‥‥分かりました」

 諦めたわけでないことは、答えた靖子が一番よく知っている。もう本多先生とは会いませんから、と寂しそうに呟いた千津の言葉も強い支えになっていた。靖子は起き上がると、服を抱いて隣のリビングへ向かったが、部屋を出るとき、

「その女性とは、お会いになっているの?」

 本多を振り向くと、

「いや‥‥‥」

 彼は背中を向けて俯いたまま、小さく首を振った。


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