第16話 待ち人は来ず
昨日の土曜日、千津から本多とは会わないとの確約を得たものの、朝目が覚めると矢張り靖子はそわそわと落ち着けない。寝室の隣に設置された小さな厨房前で、トーストを焼こうか迷っていると、
「靖子さん。起きてるんだったら、こっちで一緒に朝ご飯たべない?」
久子が階下から誘ってくれる。
「はーい」
靖子は彼女の言葉に甘えることにした。一人でいると、良くない方へ思考が行ってしまい気も晴れないが、平井夫妻の笑顔に接すると気も紛れるだろう。
「お邪魔します」
階下へ下りて行くと、ダイニングではなく庭に面した居間のテーブルに、久子は食卓を整えていた。縁側の紫陽花が朝露を含み、綺羅星のごとく輝いて朝日を映し出していた。
「お早ようございます」
ダイニングへ入る前に、靖子は居間の平井教授に声をかけた。当家の主は涼しげな麻の室内着をまとい、胡座をかいて鼻にかけた老眼鏡で朝刊を読んでいた。
「ああ、お早よう」
「お言葉に甘えて、ご馳走になります」
安政に笑顔を返してから、靖子はダイニングを覗き、久子に断わりを入れる。
「なに言ってんのよ、他人行儀な。ご馳走はないけど、一緒に食べましょう」
久子がダイニングからトマトと麦茶を運んで来て、靖子に座るよう促す。先日、彼女の胸に顔をうずめて泣いてから、どうも久子には頭が上がらず靖子は子供のような扱いを受ける。もちろん不愉快なものでなく、亡くなった母に感じた、あの安らいだ気分なのだ。
「あなた、―――お食事、召し上がってくださいな」
朝刊をのぞき込んだまま顔を上げない安政に、久子がしびれを切らす。
「―――うん」
と言って顔を上げたものの、安政は茶碗と箸を取り上げずに靖子の方を向いて、
「承諾と傷害について、本多君が学会誌に論文を発表していたね。―――確か、臓器移植とからめて」
興味深そうに彼女の返事を待っている。
「えっ?‥‥‥」
急に専門分野の話題を持ち出され、靖子はどぎまぎしてしまう。今、法律の話をするような心理状態ではないのだ。彼女は落ち着くためもあり、ゆっくりと口の中のものを咀嚼して喉へ送り込んだ。
「―――はい。本多先生はご存じのように非常にリベラルなお考えですので、臓器移植との関連では、承諾が公序良俗に反する場合でも被害者の承諾があれば、彼を傷付けても傷害罪が成立しないという立場です」
靖子はふだん安政にも、本多のことを「直則さん」と呼んでいるが、学問領域の話をするときは「本多先生」と言う。何といっても学者としては先輩だし、尊敬もしている。
「だから、本来的にはドナーの承諾があれば脳死段階はおろか、それ以前であっても臓器を摘出する行為はたとえドナーの死をもたらすものでも適法行為になりそうなんですが、現行刑法上、殺人に関しては承諾があっても承諾殺人として罰されることとの関係で、そこまでは認められない。しかし、移植患者救済のために、せめて脳死者よりの移植は早急に立法的解決が必要だったから、特別法である臓器移植法により違法性を阻却するという形での解決に賛意を表明したのである。ところが臓器移植法による脳死判定は要件が厳格にすぎ、その結果、手抜き的な運用も予想され、妥当とは思われないとの批判的見解を述べられていました」
「‥‥‥うむ」
思案顔の安政に不安を覚え、
「ね、あなた。新聞に何か載ってるんですか?」
久子も箸を置いて、夫の顔をのぞき込んだ。
「うん? ―――いや、高知の病院長が暴力団員に頼まれて彼の指を切断したという記事が載っているんで、ちょっと思い出しただけだよ」
「嫌ですよ! 食事中に、そんな血なまぐさい話―――」
久子に顔をしかめられると、安政も苦笑いを浮かべようやく茶碗を取り上げたのだった。
平井家の居間で三人が和やかに食卓を囲んでいる頃、本多は既に朝食を済ませ、自宅近くの高野川の堤を歩いていた。マウンテンバイクで鴨川まで下って河原をジョギングしようかとも思ったが、靖子が来るような気がして遠くへ行けなかった。彼女の自分に対する気持ちが分かっているだけに、邪険に出来ないのだ。
―――ずるいな‥‥‥。
結局、千津も靖子も失いたくないだけではないのか。後ろめたい気持ちでぼんやりと歩を進めていると、高野川を渡る狭い橋に差しかかる。
「チリン! チリン!」
向こう岸から五歳くらいの女の子が自転車で渡って来て、
「おじちゃん、ありがとう」
あどけない笑顔で本多に礼を言う。自分が渡るまで、待ってくれていたと思ったのだろう。
「うん‥‥‥」
微笑みながら頭を撫で、しばらく少女の後ろ姿を見送っていたが、ふらっと足が勝手に向こう岸へ向かって歩き出した。靖子が自転車に乗れるようになったのは、五歳になったばかりの春だった。三月三十一日生まれの―――いわゆる早生まれなので、十才違う本多はちょうど高校入試が終わって束の間の解放感を味わっていた。自宅にいるより靖子の家の方がなぜかゆったりと落ち着けて、よくチャリで江東区の自宅から靖子の家へ出かけた。家訓に従った道を歩ませようとする、父に対する反発もあったのだろう。藤野英則に強い親近感を覚え、彼に傾斜して行く自分を抑えることが出来なかった。
「直君。君が嫌っている法学者に、僕はなりたくて仕方なかったんだ。でも本多の家ではそれが許されず、経済学部へ入ったんだが‥‥‥。しかし、皮肉なもんだね」
靖子を膝に抱いて、英則は辛かったときのことを思い出したのか、目を潤ませて本多に微笑みかけた。あの時、法学部へ入ることに対するわだかまりが、スーと消えてしまった。まるで書庫のような書斎の中で、本多は棚引く雲の彼方に、ようやく未来の収束点を発見したのだった。
―――この人のようになりたい!‥‥‥。
靖子を膝に抱く英則が、十五才の少年には眩しかった。
―――あのときの英さんと同じ年になったというのに‥‥‥。
同年齢の藤野に較べると、今の自分は余りにも恥ずかしい。学者としても人間としても、比較にならないほど自分の方が劣っている。口元に自嘲気味な仕草を浮かべ、小学校前を通り下鴨神社へ通ずる小路をゆっくりと歩んでいると、境内の方から靖子が歩いて来た。水玉模様の涼しげな白のワンピースを着て、ツバ広の淡いピンクの帽子を被っていた。小麦色の肌に白とピンクがよく似合う。
自分の妹以上に靖子を可愛がってきたので、子供のときからよく知っているが、こんなにも健康的な靖子を本多は見たことがなかった。京都へ来てから、靖子はメガネをやめてコンタクトに変えていたが、今日はコンタクトを着けていないのか、それとも何か考え事をしているからだろうか。本多に気付かずに歩いて来る。
「お嬢さん。お散歩ですか」
俯きかげんの靖子に声をかけると、
「―――まあ! 直則さん!」
目の前の本多を見上げて驚いている。
「俺のところへ?」
「ええ‥‥‥」
靖子は急に気まずそうな顔をして俯いてしまった。千津の涙の顔が浮かんで来たのだ。
「どうする?」
自分の顔をのぞき込む本多に、
「直則さんは、平井先生のところへ?」
靖子は問い返した。
「いや、別に‥‥‥」
行く当てもなく歩いていたら、下鴨神社近くまで来ていたというのが、正直なところだった。
「それじゃ、神社の境内を散策しましょうか」
靖子の無邪気な提案に微笑みで答え、森の匂いが染み込む地道をゆっくりと味わいながら、二人並んで歩いていたが、
「今日は、コンタクトは?」
鬱蒼と枝葉を頭上に垂れるブナの巨木の下で、本多は立ち止まって靖子に話しかけた。
「ええ。―――誰かが書いてらしたでしょう。メガネをかけると散文的になるって。だから今日は嫌なものがよく見えないように、コンタクトを外したの」
靖子は本多を見上げて、わざと明るく笑った。本当は嫌なものがよく見えないようにするためでなく、コンタクトを外すと自分の卑しい心が隠れてくれそうな気がしたからだった。誰がエッセイの中で語っているかも知っていたが、受験参考書に掲載されていたので詳しく述べたくなかった。小説やエッセイなど、受験勉強の過程でしか目にすることのなかった人生は、矢張り苦い後悔が伴う。境内を歩きながら、靖子は本多に体を寄せると、彼の右腕をそっと抱いた。すれ違う参拝客や、セミ採りに戯れる子供たちの視線が、今日はまったく気にならなかった。
「そろそろ行かないと―――」
本多は気まずさを隠すために、大仰な仕草で腕時計を目に近づけた。
「‥‥‥」
行かないで! と叫びたかったが、もちろん靖子は口に出来なかった。本多の後ろ姿が消えた後も、彼女は神社の東出口にたたずんで、長い間、途切れた道の奥を見つめていた。
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