第15話 姉と弟
ここしばらく、政治家の疑獄事件がマスコミを賑わせていて、今日の朝刊も第一面を大きくそれに割いていた。東京にいれば、靖子は興味深く事の成り行きを見守っていたであろう。
―――研究室では、友人たちが白熱の議論を繰り広げているだろう‥‥‥。
しかしここは京都で、おまけにそんな議論を仕掛ける仲間もいない。
―――どうせ政治家が作った、ザザ漏れのザル法なのだ‥‥‥。
靖子は無関心の理由を、法律の不備に託(かこつ)けてしまった。政治資金規正法その他の特別法に違反すると刑罰が科せられるので、自分の専門分野の刑法の領域に含まれる事件といえなくもないが、全くと言ってよいほど興味が湧いて来なかった。大原で本多と千津を目撃してからというもの、靖子の頭の中は二人のことで埋め尽くされているのだ。取り敢えず千津に会いに行く決心はしたものの、会って彼女に何と言うべきか、何と言えば良いのであろう。そもそも悩みの種だった。
―――どう切り出そうか‥‥‥。
言うべき核心が捻り出されると、次は出だしであった。千津とのやりとりにつき、想定される何十種類ものパタンを既に考え出し、しかもその各々についてキッチリ落ち着き先も決めてしまった。が、最初が肝心なのだ。これが決まりさえすれば、何十種類ものパタンの中から、たった一つのそれが自動的に決定されるのだ。靖子の聡明な頭脳は、自分が考え出した余りに多くの場合の数から、一体どれを選ぶべきか悩んでいた。
机の前に座ってぼんやりと神社の森を眺めたり、書きかけの講義案を恨めしそうに見つめる―――長い、本当に長い一週間だったが、二十九日の土曜に靖子はようやく重い腰を上げた。もし今日、彼女宅を訪れないことには、明日の日曜日、二人は大原のバスターミナル北で会うことになるのだ。そこから何処へ行き、何をするか知ってしまった以上、靖子は黙って見過ごすわけに行かなかった。おぞましくて想像することすら避けてきたのに、今日訪れなければ、明日嫌でも二人が抱き合う姿が頭に浮かぶだろう。
靖子は意を決して、午前十時前にママチャリで下宿を後にしたのだった。千津の家は久子に住所を教えてもらった翌日、一度見に出かけたのでよく分かっていた。花園橋からさほど遠くない、大原へ抜ける国道三六七号線沿いにあるので、先日の日曜日に家の前を通っていたのだが、もちろんその時は知らなかった。
愛用のママチャリを降り腕時計に目をやると、十時二十二分。手がじっとりと汗ばむのは、ようやく照り出した暑い日差しのせいだけではなかった。門の前にチャリを立てかけて、インターホンを押すと、
「はいはい、どなたかな」
右手の納屋から、背の高い腰の曲がった野良着の婦人が顔を出した。年は六十過ぎだから、千津の夫の母親だろう。チャリを止めたときから、二階の一番右手の窓からじっとこちらを見つめる、痩せた眼鏡の学生が気になっていたが、靖子は無視して、
「あのう、千津さんにお会いしたいんですが」
ドキドキしながら、婦人に用件を伝えた。
「千津は買い物に出かけて、居てないわ。―――ちょっと待ってや」
靖子に断ると、
「のぶ子ー! のぶ子ー!」
婦人は母屋の二階へ向かって呼びかけた。二階には庭に面して五つ窓があり、三つはカーテンが引かれていた。夏休み中なので、下宿人の一部は帰省しているのだろう。
「なに? お祖母ちゃん」
眼鏡の学生の隣の窓から、可愛い丸顔の女の子が顔を出した。
「お母さんに用事やて。すぐ帰ってくるんで、応接間で待ってて貰い」
「うん、分かった」
間もなく女の子は弟の手を引いて、下宿の入り口らしい右手のドアから出て来た。なかなか礼儀正しい子で、
「こんにちは。どうぞ」
と、正面の玄関を開けて、靖子を招き入れた。
―――子供には、会いたくなかったのに‥‥‥。
二人の顔を見ていると、靖子は気が滅入ってしまう。母親を悲しませるのは無垢な二人まで傷付けるような気がして、何とも後ろめたかった。
「貴君。ちょっと待っててね」
のぶ子は、靖子と弟を応接間に残してダイニングへ駆けて行った。盆暮れには大勢の親族が集まるのであろう、応接間はそれに備えた十分な広さで、部屋の隅には座布団が堆(うずたか)く積まれてあった。
「‥‥‥ふぅ」
靖子は緊張を静めるために、ゆっくりと部屋の中を見回していたが、うまく行かず呼吸も整わなかった。向かいのソファーから、じっとこちらを見つめる小さな瞳が気になって仕方がないのだ。ぎこちなく男の子に顔を向けると、
「ボク。何歳?」
靖子は優しく声をかけた。
「七歳」
「七歳か、―――すると、小学校一年ね」
「うん」
男の子は無口なようで、必要なことしか話さない。
「貴クンて、貴志君なの、それとも貴宏君かな?」
「貴志」
「そう、貴志クンなの‥‥‥」
笑おうとするが、靖子は顔がこわばって笑顔が作れなかった。どうも、おとなしい子供は苦手だ。ニコリともせず黙って見つめられると、自分の卑しい心が見透かされているような気になってしまう。
「貴志クン。お母さん、好き?」
口に出すべき言葉でないと思ったが、闘争心を高めるためにも、また貴志の射るような視線を和らげるためにも、あえて出してみた。
「うん。大好き」
こぼれるような笑顔というのは、思わず吸い込まれてしまう、こんな笑顔をいうのだろう。貴志のあどけない笑顔を見て靖子は心が少し楽になった。
―――こんな可愛い子がいるんだから、直則のことは諦めてもらおう。
まさに我田引水だが、敵地に乗り込んでいるだけに、こんな気休めでも心の支えになる。しばらく貴志と母親の話をしていると、
「お待たせしました」
のぶ子が、盆に二人分のコーヒーカップを乗せて入って来た。
「お母さんはもうすぐ帰って来ますので、お先に飲んでください。冷たい方がいいかなって思ったんですが、わたし、アイスコーヒー作るの下手だから」
上目遣いに頭をかいてから、丁寧語で靖子にコーヒーを勧める。
「ありがとう、戴くわ」
自分の横に座ったのぶ子に礼を言って、靖子はコーヒーカップを口に運んだ。
「お姉ちゃん、綺麗ね‥‥‥。お母さんもお化粧すると、お姉ちゃんのようにもっと綺麗になるのに‥‥‥」
のぶ子は靖子を見上げて、ため息をついた。子供心に、母親と靖子を較べてしまうのだろう。
「お姉ちゃんも、日焼け止めクリームを塗っているだけよ。口紅もこんなに薄く、ほら。‥‥‥でも、お母さんは全くお化粧を―――」
靖子がのぶ子に母親のことを尋ねようとしたとき、玄関の戸が開いて千津が帰って来た。
「ただいま」
「お帰りなさーい」
母親の声を聞くと、のぶ子と貴志は廊下へ飛び出して行った。
「お母さん、お母さん。綺麗なお客さんよ。わたし、お祖母ちゃんに言われてちゃんとおもてなしをしといたから」
母親に来客を告げると、のぶ子は貴志の手を引いて、再び先程までいた学生の部屋へ上がって行った。トントンと階段を駆け上がる小さな足音を聞きながら、靖子はほっと胸をなで下ろしたのだった。
「お待たせして、済みませ―――」
応接間のドアを開けた千津の顔から、スーと血の気が引いて行った。立ち上がって自分を迎える女性が、藤野靖子であると直感的に分かったのだろう。買い物カゴをまるで落とす如き余裕のなさで床へ置くと、さきほど貴志が座っていたソファーに崩れるように腰を下ろした。
「本多直則の許嫁(いいなずけ)の、藤野靖子です」
と、自己紹介するつもりだったが、千津の余りにも気落ちした様子を見て、靖子も何も言えずに腰を下ろした。およそ想像もしていなかった事態に、靖子の頭脳は最初の的確な行動を命ずることが出来なかった。もっとも、あらかじめ分かっていたとしても、靖子は同じ行動を取る以外になかっただろう。それほど千津のショックは大きく、傍目にも気の毒なくらいだった。
千津はまるで何かにすがるようにテーブルに手を伸ばしたが、テーブルの縁を持つ手が小刻みに震え出すとともに、目から大粒の涙がこぼれ始めた。空いた左手で涙を拭おうとするが、その手も震えて用をなさなかった。何の前触れもなく、しかも自宅を訪れるというアン・フェアなことをした靖子に、非難がましい言葉の一つも言えばいいのに黙って俯いていた。
―――こんなはずではなかったのに‥‥‥。
千津を見つめながら、靖子は戸惑ってしまう。自分の考えていた千津は、もっと嫌な女だった。夫が植物状態であるのをよいことに不倫にふける、そんなふしだらな女を想像していたのに、目の前の女性はおとなしくて控え目で、女の優しさが顔の作りに現れていた。のぶ子が言うように化粧をすればずいぶん引き立つだろうに、素顔のままで、手も荒れていた。うなだれたまま身じろぎもしない千津を見ていると、靖子は悲しくなってくる。
「‥‥‥千津さん、何かおっしゃってください、―――ね」
優しくささやくと、
「‥‥‥ご存じないんですね。本多先生は―――」
千津はようやく涙の顔を上げて、すがるような眼差しで靖子を覗き込んだ。本多の名前を口にしたとき、その目には一点の曇り無く光り輝いたのが、靖子には明確に認識できたのだった。本多に対する愛と信頼に溢れた、おだやかな瞳に見つめられて、靖子は打ちのめされてしまった。駆け引きが通じる、そんな卑しい相手ではなかったのだ。
「くー!」
靖子の口から思わず嗚咽が漏れてしまった。
「御免なさい、こんな卑怯なまねをして。でもお願いします。本多直則を私に返して下さい。千津さん、お願いだから―――」
靖子は堪え切れずに、声を上げて泣き出してしまった。
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