第12話 千津の不安
「千津、千津! 子供の相手やなしてんと、早よ、田に水いれに行かなあかんやろうが!」
義母が納屋の前から、大声で食堂にいる千津に呼びかける。長男が回復不能の病人になってから、義母は特に千津に辛く当たるようになった。好まれない嫁に加え、男の働き手の消失が昔気質の義母を追い詰め、イライラを募らせているのは明らかだった。
大津生まれの大津育ち、琵琶湖の水を産湯(うぶゆ)に使った商家の娘が農家へ嫁ぐことにためらいがなかったと言えば嘘になるが、高校時代から付き合っていた人の海外勤務に付いて行くことが出来ず、塞ぎ込んでいたときに義雄に慰められプロポーズされた。農業はいっさい手伝わなくてよいからという条件だったが、結婚して一カ月もしない内に図書司書の仕事を辞めさせられてしまった。義父母に押し切られる形だったが、頼みの夫が全く自分の味方をしてくれなかったことに、千津は強い失望を覚えた。結局、夫には両親から妻を守るだけの力も、またそんな気もなかったのだ。
二棟の学生用ワンルームマンションを持ち、自宅の二階も学生の下宿に改造されているので、かなりの現金収入があるのに義父母は金にこまかくて、いまだに千津に必要なお金しか渡してくれない。嫁を労働力以上の何ものとも思っていない両親の扱いも嫌だったが、夫にはそれ以上の不満を持った。子供が出来たら山をやめるという約束を、いとも簡単に破られてしまったのだ。婚約中には想像も出来なかった結婚後の豹変も、もちろん許せなかった。千津は、離婚して一歳の長女と二人で暮らす決意をしたのだった。これまで他人の考えに従うだけの人生だったが、初めて自分の意思を通そうとしたというのに―――意思を実行に移す前に、夫は大きな不幸に見舞われ、約束を履行できない身になってしまった。しかも追い討ちをかけるように、妊娠の事実まで判明したのだ。
―――子供のために生きよう‥‥‥。
それが運命なら、甘んじて受けようと思った。自分を殺すことに慣れている身には、ふさわしい生き方かも知れない。そんな諦めもあった。
人間というのは死をもたらす程度に至らなければ、かなり強度の精神的及び肉体的苦痛にも耐え得るのではないだろうか。千津は女であることを諦め忘れる毎日を送っていた。恐らく本多に出会わなければ、自分は干涸らびたまま朽ち果てていたであろう。週一度、しかも僅か三時間余りの逢瀬だが、無味乾燥の人生にどれほどの潤いを与えてくれたか知れなかった。この恋を成就しようなどは、本多の能力や地位、それに自分のハンディを考えると恐れ多くて望むべくもないが、せめて週一度の逢瀬が一日でも長く続いてほしい。千津は祈るような毎日だった。
ところが最近、本多に微妙な変化が現れるようになった。わずかな時間であればあるほど、剥き出しの触れ合いがあり、互いの魂の核心に触れることが出来る。会っていないときでさえ、心はいつも彼を向いてときめいているのだ。本多の微かな変化を嗅ぎ取るくらい、千津には造作もないことだった。
―――いったい、何を迷っているのだろう? ‥‥‥。
ここしばらく、本多に抱かれているときも、千津を悩ます疑問だったが、昨日、平井教授に本多の迷いの原因を知らされた。千津と本多が特別な関係にあることなど知る由もない彼は、
「本多君にも困ったもんだよ。藤野教授の娘さんが彼を慕って京都までやって来たというのに、一向に煮え切らないんだ。家内などは私に何とかしろって、うるさくせっつくんだ」
病院のエレベーター内で、苦笑しながら千津に話しかけた。平井の満更でもない仕草を目の当りにして、千津は二人の仲が誰からも祝福されるものであることを確信したのだった。
―――藤野教授のお嬢さんか‥‥‥。
法学部の図書館勤務だったので、藤野英則が学界でどのような評価を受け、どんな本を書いているかも、千津には分かっていた。その人の娘と本多が結婚すれば、母校へ助教授として、いや、ひょっとすると教授として戻れるかも知れない。大学に勤めていたので、それくらいの事情は呑み込める。本多にとって、それが一番よい選択であるのも分かっていた。加えて、靖子は非の打ち所のない女性というではないか。
―――いったい、本多先生は何をためらっているのだろう‥‥‥。
本多の煮え切らない態度の原因を考えると、千津は嬉しくもあり、その分いっそう不安が募ってくる。これが、子供たちから離れて農作業へ向かう足を重くしていた理由だが、そろそろ出かけねばならなかった。義母の声がだんだん大きくなってきたし、義父も農薬の散布を始める用意をして待っていよう。千津は九歳の長女に、弟の世話と食事の後片づけを頼むと、野良着に着替えて重い足取りで家を後にしたのだった。
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