第11話 靖子の決意
湿度が低いことも影響しているのか、今年の夏は昨年、一昨年に較べると、ずいぶん過ごしやすいように思える。特に平井教授宅は神社の森のおかげで、昼でもクーラーのスイッチをオンにする必要のない涼しさだった。久子は靖子に気を遣って、
「靖子さん。暑いんだったら、どんどんクーラーをつけてね」
と、勧めてくれるが、靖子はまだ一度も二階のクーラーを入れたことがなかった。
―――東京は暑いんだろうな‥‥‥。
江東橋の自宅を思い浮かべながら、靖子は神社に臨む窓際の机に頬杖を突いていた。この日曜こそ帰るつもりだったのに、また帰りそびれてしまった。京都の居心地が好いせいもあるが、筒井浩子が父の世話をしに来ているので帰っても自分の家の気がせず、他人宅を訪れているような被害意識がもたげてくるのだ。
彼女が居ないときに父の声を聞こうと思って金曜日の夜遅く電話をかけたのに、筒井浩子が電話口に出てきた。父の世話をしてくれる礼を言うべきかも知れなかったが、亡くなった母の気持ちを察すると靖子は急に不愉快になってしまい、事務的に用件だけ伝えて一方的に電話を切った。以前は一週間に二度も帰っていたのに、最近は滅多に帰らなくなり、久子などは心配して、
「靖子さん、どうしたの? お父様に顔を見せたげないと」
と、水・土の夕食時などはうるさく帰京を促す。
「これまでのように週に二度も帰っていたら、私のお給料が全部、電車賃で飛んじゃいますもの」
と、笑って答えてきたが、帰らない理由が交通費のせいでないのは靖子が一番よく知っている。―――それに、日曜日に東京へ帰ることに、というより、京都を離れることに、最近、急にわだかまりが込み上げてきて、新たな足枷が生まれ始めていた。
「ふぅ‥‥‥」
捕虫網を櫟(くぬぎ)に立て掛けて採ったセミと戯れる子供たちを見ながら、靖子は溜め息を吐いてしまった。朝食を階下で馳走になってから、彼女は一時間近くもぼんやりと机に頬杖を突いていた。本当は、本多のマンションへ行きたいのだが、一時に人と会うと言って出かけるので、今日は置いてきぼりを食う。
いつもは彼のマンションに一人で居ても、何とも言えない親近感と安堵感に包まれて心が落ち着くのだが、日曜日はどうもいけない。気を紛らすために部屋の掃除を手がけても、胸騒ぎがしてそわそわと焦点が定まらないのだ。
―――矢張り今日会う人が‥‥‥。
もし本多に付き合っている女性がいるとすれば、靖子には今日会う人物しか考えられなかった。四カ月余りの間、彼の身辺をさり気なく調べてきたが、日曜の一時から五時近くまでが結局、空白のまま残っている。
―――大学へ行ってみようか‥‥‥。
靖子は椅子から立ち上がって、出かける用意を始めた。下宿でうじうじ考えていると精神衛生上も最悪だし、研究論文の筆がはかどるはずがなかった。ゆったりとした白い麻のワンピースに、同じくツバ広の白い帽子を被って家を出ようとすると、
「あら、お出かけかい。―――いいねぇ、靖子さんのようにスタイルが良けりゃ、何を着ても似合うんだもの。本当に羨ましいよ。―――それにしても、唐変木だよ! いったい、どこに目が付いてるんだろうね!」
久子が玄関まで見送り、いつもの減らず口をたたいて、靖子の肩をトンと突いたのだった。
暑い日差しの中、チャリを漕いで大学へ着くと、十一時前。廊下の一番奥の、小林の部屋の電気が点いているのを確認してから、靖子は自室へ戻って二人分のコーヒーを入れた。恥を忍んで、小林に本多の付き合っている人のことを聞いてみようと思ったのだ。ドアをノックして、
「小林君。ちょっといいかしら」
声をかけると、
「はい。どうぞ」
好意に溢れる朗らかな返事が返ってくる。
小林は完全に靖子に感化されてしまい、司法試験を受ける決意をすると、人が変わったように夏休み前から、三カ年計画の受験勉強を実行に移した。
「どう? 勉強、はかどってる?」
上目遣いにコーヒーを差し出し、靖子は小林の御機嫌をうかがう。
「あ、どうも済みません。―――まあまあ、かな‥‥‥」
小林は照れながら、左手でコーヒーを受け取り、右手で頭をかいた。
「勉強の邪魔をして悪いんだけど、少し小林君に聞きたいことがあって‥‥‥」
靖子は赤くなった顔を隠すように、背中を向けてスハルノの椅子に手を伸ばした。
「聞きたいことって?」
椅子を引いて自分の正面に腰を下ろした靖子に、小林は怪訝顔を向けた。
「―――ご存じないかしら? 直則さんの付き合っている人」
何気なさを装って笑顔を作ろうとするが、顔がこわばってしまう。彼女は小林にも、本多のことを「直則さん」と、名前で呼ぶようにしていた。本多に対する自分の気持ちを明確にするためだが、もし付き合っている人がいるなら、小林を通して彼女に自分の気持ちを伝えたいという意図もあった。
「‥‥‥さあ?」
コーヒーカップを机に置いて、小林は首を傾げた。思い当たる節がないではないが、立場上、迂闊なことは口に出来なかった。靖子が本多を好いていることは薄々感付いていたが、一カ月ほど前、平井に酒の席で、
「小林君。あの二人はどんなもんかね。僕は藤野教授に媒酌を頼まれているんだが、近々お役目が回って来そうかね」
と聞かれて、はっきりと分かった。二歳上の靖子に淡い恋心を抱いたこともあったが、自分の手が届く相手でないのもよく分かっていた。だから平井教授の話を聞いても、小林にショックはなく、むしろ本多が相手なら心から祝福したい気持ちだった。
「ね。付き合っている人、いないのかしら?」
靖子は小林の顔を覗き込んで、慎重に彼の反応を窺う。
「さあ、そんな話は聞いたことがありませんから‥‥‥」
靖子に悟られないよう、小林は頭をかきながら彼女の視線をそらして無難な答えを口にした。実は一度、本多の車に乗っている女性を見かけたことがある。美人ではなかったが、おとなしくて優しそうな人だった。恐らく彼女が本多と付き合っている女性だろうが、まさか靖子に話すわけには行かず、小林はクーラーの効く部屋で冷や汗が出る気分だった。
「でも誰もいないっていうのは変でしょう? だって男の人って、難しいんでしょう‥‥‥、長い間、女性なしで過ごすのって‥‥‥」
靖子は耳たぶまで真っ赤になりながら俯いてしまった。いったい、自分は何を言ってしまったのだろう、何とはしたない。そう思うと恥ずかしくて顔を上げられなかった。
「さあ、どうなんでしょうか―――」
靖子の言わんとすることは分かっているが、小林は曖昧な返事で逃げるしかなかった。本多には心底、心酔しているのだ。その彼の女性関係を漏らすことなど、どうして小林に出来るであろう。毛並みのよい良家のボンボンに過ぎないのだろう、と一時は反発したこともあったが、身近に接してみて全くの偏見であることが分かった。卓抜した頭脳、明晰な論理、それに深い洞察力、いずれをとっても学者として超一流のものだった。頭や家柄の良さを鼻にかけず、むしろそれらを隠して弱い者に接する優しさにも好感が持てる。本多の人となりに触れれば触れるほど、小林は彼に傾斜する自分を抑えることが出来なかった。
「そう‥‥‥。ご免なさいね。つまらないことで勉強の邪魔をしてしまって」
靖子は小林に謝罪して彼の部屋を出た。矢張り最後の手段を取るしかないのだろう。今日会う相手を突き止める最も有効な手段は、もちろん以前から分かっていた。これまで怖くて出来なかったが、それしか残されていないのであれば、その手段を取ることに靖子は何のためらいもなかった。
自室のソファーに腰を下ろして、取るべき最後の手段のことを考え出すと、激しい緊張が襲ってきて体がブルブルと震え出す。彼女は震えが収まるまで体を両手で抱いて、長い間じっと耐えていた。
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