第10話 うまい酒
今夏一の日中最高気温を記録したのが八月の第二水曜日だったが、それから一週間後、本多は午後七時に暑さの残る四条河原町で北原と待ち合わせた。下海が付き合っていたドクターの名前と資料がようやく入手できたので、それを伝え今後の対策を立てるのがメイン、後は―――要は、飲んで祝いたかったのだ。火曜が原稿の締め切り日なので、水曜は北原の安息日だった。本多が京阪四条河原町駅前でタクシーから降りると、
「よう」
北原はすでに来ていて、目の前のビアレストランでアイスコーヒーを飲みながら本多を待っていた。いつものように大学へ顔を出すか、それとも自宅へ招こうとしたのだが、十四年振りの酒を本多と一緒に飲むと言い張って、譲らなかった。
「さあ、今夜はお前と徹底的に飲むぞ!」
四条通りを北へ渡りながら、北原は上機嫌であった。東京で藤野英則に会って言われた言葉が、急に甦ってきたのだ。
「僕に感謝するのは見当違いだ。僕は打算で君の弁護を引き受けただけだよ。感謝するなら直則君にすることだ。彼に懇請されなかったら、君の弁護に回ることは絶対なかった。これは確信を持って言えるよ。もっとも、教授会の多数意見だった退学処分に賛成することもなかっただろう。判決が出るまでは無罪推定を受けるからね。刑法が専門で君の事件に深くかかわっていたから、教授会では一票を与えられていたけど、―――筋を通して、多分、棄権票を投じただろう。‥‥‥ところでね、打算の中身は君も承知だろうけど、靖子のことだよ」
北原は藤野に言われて初めて、彼がなぜ目の前にぶら下がっていた教授の職をフイにするかも知れない、そんな価値のない危険を冒してまで自分を救ってくれたのか、長年の疑問が氷解したのだった。
「酒を断つなんて馬鹿げたことだよ。僕なんか医者に絶対止められているのに、隠れて毎晩飲んでいるんだもの―――ほんの少しだけどね。もっとも、これは隣室の女性には内緒だよ」
藤野は苦笑しながら、小さな声で付け加えることも忘れなかった。
「な、本多。お前の行きつけの店は、この近くや言うてたな」
「‥‥‥うん」
本多は渋い顔で頷いた。出来れば、北原をN・Bへは連れて行きたくないのだ。今月初めに仁美が体調を崩し、アルバイトに喜美代という若い女性を雇っているのだが、彼女は例の銀座のホステス友美に生き写しなのだ。喜美代を見れば、嫌でも友美を思い出す。当然、亡くなった人間も記憶に甦って来る。酒がうまかろうはずがないだろう。
「な、北原。今夜は別の店へ行こうか、―――木屋町にいい店があるんだ」
すでに祇園へ足を踏み入れながら、他所へ誘ってみるが、
「俺はお前の行きつけの店で飲みたいんや。美人ママにも会いたいし」
案の定、北原は応じなかった。仕方なく、酔い客で賑わう通りを北へ上がって、右へ折れる。東京や大阪と違って京都は川の流れが澄んで、風情がある。すぐ足下を川が流れているのも川が身近に感じられ、古くて新鮮な感覚が湧き上がってきて、時折、はっとする郷愁に驚いてしまうのだ。
以前は一銭(いっせん)洋食店の客たちが足下のせせらぎを味わっていたが、今は店舗が移り、老舗・とり新の客たちが取って代わっていた。庶民的な雰囲気と花柳界の趣き残す白川南通りを左へ折れると、二軒目がN・Bだった。
「いらっしゃいませ」
格子の電動ドアをくぐり抜けた二人を、喜美代が愛くるしい笑顔で迎えてくれる。
「え!?」
彼女の顔が店内のライトに浮かぶと、北原は小さな声をあげて息を呑んだ。やはり友美を忘れてはいなかったのだ。
「―――さあ」
本多が、立ち止まった北原を促すと、
「‥‥‥うん」
彼は照れ笑いを浮かべ、本多に付いて来た。
「直先生、今晩は。―――こちらも大学の先生?」
喜美代は二人におしぼりを手渡してから、自分を見つめる北原の顔を覗き込んだ。
「―――いや、俺は本多と違うて、ヤクザな商売や」
北原が答えにならない返事を返すと、
「いやぁ、大阪の人やの。嬉しいわ」
これぞ大阪弁という北原の口調がよほど気に入ったのか、喜美代は北原の肩に手を置きもたれかかった。ヤクザな商売がいったい何であるのか、不粋なことはもちろん聞かない。二人を奥のテーブル席へ案内すると、喜美代は本多のボトルを持って来て、テーブルに置いた。
「タバコあるかな」
北原が、水割りを作り終えた喜美代に声をかけると、
「どんな銘柄ですか?」
「ハッカ入りやったら、何でもええわ」
「ほな、これのんでください」
喜美代がセカンドバッグからメンソールを取り出した。
「ハッカ入りタバコはインポの原因になるという噂があったように思うが‥‥‥」
本多が二人の話に割り込むと、
「ほなら、女はイン・マンになるんやろか」
喜美代が色白の可愛い笑顔を向けた。
「君の場合、インはインでも、淫らなの方のイン・マンちゃうか」
北原の冗談に、
「エー! 分かります?」
喜美代は屈託なく笑った。
「しかし、エエ体してるなぁ。あっちの方は相当強いんやろ」
北原が感心するように、彼女は肉感的で性的魅力に溢れている。背は一六Oセンチくらいで高いというほどではないが、引き締まった色白の体は有名フェロモン女優も真っ青な、性エネルギーふんぷんの発散度であった。千津がよく似た体型をしていて、性格は正反対で身長も千津が五センチ近く上回るが、体質はたぶん同じであろう。
本多は水割りを口に運びながら、北原と喜美代のたわいない会話に微笑んでいたが、常連のカップルが入ってきたのを機に、
「喜美代ちゃん。こっちはしばらくいいから、―――北原と野暮用の検討があるので」
ようやく懸案事項の検討に入ることにした。
「ほなら、失礼します」
喜美代が二人に断ってカウンターの常連客のところへ行くと、
「本多。ここへ来るのを渋ってたんは、あの娘がいてるさかいやな。―――お前にはホンマにいろいろ気ィ使わしてスマンな。せやけど、もう心配あらへん。被害者の奥さんも、『うちの人が悪かったんだから、気にしないでください』って言うてくれてな。この前も、息子さんの結婚式に呼んでくれたんや。月々わずかの金しか送ってなかったのに、えらい感謝されてしもたわ。―――ホステスやった友美も、今は幸福に暮らしてるらしいんや。それにな、これからは女は一人だけにしよと思てんねん。俺の女性遍歴も、ジ・エンドや」
あまり飲んでもいないのに照れくさいので酔った振りをしているのか、それとも十四年振りの酒で本当に酔ってしまったのか分からないが、北原は大袈裟な身振りで嬉しそうに本多の肩をたたいて目を細めたのだった。彼の言う一人の女性が古賀都であり、後日、彼女から驚くべき事実がもたらされようとは、この時の本多に分かる道理がなかった。彼は楠岡の調べから、下海が付き合っていた医者は一外から小外(小児外科)に移った秦田信也で、彼には小外に愛人がいることを告げ、
「医療ミス解明のために、俺なりの考え得る手段をいくつかここに書いてあるから、お前も目を通して検討しておいてくれ」
封筒に入れたメモを北原に手渡した。
「分かった。俺ももういっぺん下海に会うて、医療ミスの詳細を聞き出してみるわ。医者の名前が分かったら、だいぶ絞め上げやすいさかいな」
「うむ、―――しかし、くれぐれも注意しておくが、脅迫罪でやられないようにしろよ」
本多の注意に、
「よっしゃ。その点はよう心得てるさかい、安心してくれ」
北原は素直に頷いたのだった。
その夜二人は、九時過ぎに店に顔を出した仁美と、それに喜美代を交えて心ゆくまでうまい酒を酌み交わしたのだった。
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