第9話 かわいい女
「ごめん。―――ね、待った?」
北原が新大阪駅の新幹線改札口で待っていると、都が悪びれもせず近づいて来た。十時の待ち合わせなのに、一時間も遅れて来て、「待った?」もないと思うが、なぜか憎めなかった。黙って苦笑いを浮かべていると、
「帰ってしまっていたら、西九条に住んでる友だちんとこに泊めてもらおうと思ってたの」
都は北原の組んだ腕に右手を置いて、彼を見上げた。患者の体に接する職業柄ではあるまいが、都はごくナチュラルに北原の体に触れる。スキンシップということなのだろうが、そのような習慣のなかった北原は当初、違和感があったが、すぐに慣れてしまった。触れ方が呆れるほど抵抗がなかったし、美人に触られて男にとって不快であろうはずがないのだ。
都とは、下海のことを聞きに御茶ノ水医科歯科大病院を訪れた翌日に、親しい―――控え目な表現ではこう呼ばれるが、要するに男と女の関係になってしまった。古風な表現を借りるなら、二人は赤い糸で結ばれているのではないかと思えるほど、体も心も理想的といって良いはまり具合で、すべてに滑らかでスムーズであった。不思議なほど抵抗がないのだ。互いをありのままで受け入れられる存在であることが、一夜にして分かったのだった。
新宿で食事をし、ホテルのラウンジで気持ちよく酔ってしまうと、二人の足が自然と北原の部屋へ向かった。予期していればダブルの部屋を予約していたのだが、シングルベッドで抱き合って眠るのも乙なものだった。彼女は三十六歳の今日まで、北原に勝るとも劣らぬ異性遍歴を持っていたが、あちらの方の感度はすこぶるというほどでなく、ごくごく普通で、恐らくこれまでの相手とは恋を楽しむレベルであったのだろう。
「昔はすごかったんだけど、最近は年かなぁ。あまり感じないの」
照れながらの言い訳も、北原には可愛かった。都が浪速帝大病院から名古屋の国立病院へ移ったのは、恋人の転勤が原因だったが、御茶ノ水医科歯科大病院勤務は恋人と別れ実家近くへ戻りたかったからだった。
「言葉が下町弁やから、こっちの出身やと思てたけど、高校は深川やったんか」
「そうよ」
中学の同窓生の彼の高校は両国で、両国のラブホが彼との初体験の場だと都は臆面もなく打ち明けた。
「あなたの卒業大学に、彼、落っこちちゃって、千葉の国立大学へ通うことになったのよ」
当時、二期校だった千葉の国立大学へ通い、卒業と同時に大手ゼネコン就職。これだけ聞けば、都がなぜ、浪速帝大病院へ就職したかが北原には容易に分かる。恋人の最初の赴任地が大阪だったのだろう。希望に燃えた若い二人。将来をかける地だった大阪での暮らしの果ては、これも北原には手に取るように分かった。共に時間に追われ、規則性など望むべくもない職場環境でのすれ違いの日々。若い二人には、破局の訪れは時間の問題であったろう。
「ね、怒ってんの?」
若かりし二人の来し方を北原が思い浮かべていると、都が甘えるような仕草で彼の注意を引く。
「―――うん。いや、今夜の宿をどこにしようか、思うてな。俺の家へ泊まるか?」
東海道線のホームへ降りる階段を歩きながら、北原が都の顔を覗き込むと、
「ご両親も一緒なんでしょう? ―――恥ずかしいじゃない。私のことを、いったい何て説明するのよ」
彼女は北原に体をくっつけて、真顔で反意を表明する。少し怯えたような都の顔も、可愛くて抱きしめたくなる。彼女は立ち止まると、声を落として、
「ねぇ、嫌よ。―――ホテルにしてよ」
哀願口調で北原を見上げた。
「そうだな」
笑いを噛み殺しながら、北原は相槌を打った。都がどんな反応を示すか興味があったので、からかい混じりに提案しただけだった。離婚後まだ一年も経っていないのに、愛人同伴で帰宅したりすれば、元小学校教頭の母が、
「雄治! あんたは、一体なにを考えてんのよ!」
玄関どころか、門を閉じたまま、二人は敷地内へ入ることすら許されないであろう。
「本当に、懐かしい‥‥‥」
大阪駅で環状線に乗り換えると、都は車内を見回して、しんみりと呟いた。浪速帝大病院へ通っていた日々が甦ってくるのか、それとも別れた恋人を思い出しているのであろうか。鶴橋に着くまで、彼女は黙って車窓に映る大阪の夜景を眺めていた。近鉄線に乗り換え、国分駅で下車すると、
「ここで待っていてくれないか。すぐ車を持ってくるから」
駅前通りにある喫茶店タカイの前に都を残し、北原は自宅へ急いだ。金曜の午後まで都は勤務がなく時間が空いているので、水・木の二日間、北原は彼女と二人だけで過ごす予定を立てていた。サラリーマンと違って、時間拘束などあってないに等しい職種で、フリータイムはまさに意のまま、というか毎日がフリータイムであった。
ポルノまがいの小説を週刊誌に連載して数年になるが、よくまあ飽きもせずに続いたものだと思う。性描写を手変え、品を変えて書き続けて来たが、そろそろネタ切れで限界を感じ始めていた。何か新しい分野に挑戦してみようかと考えていた矢先に妻から離婚を持ち出されてしまった。表向きの理由は小六の長女がポルノ作家の父と別れたいとのことだったが、恐らく妻も北原の女性関係には辟易していたのであろう。
―――女に振り回される人生だったからな‥‥‥。
自分でも呆れるほど女好きで、その点は大いに自覚していた。離婚を機に自重し、ライフスタイルを変えるつもりだったのに、下海の誘いにすぐ乗ってしまった。以前、家庭教師として教えたことがあるので抵抗がなくもなかったが、据え膳食わぬは何とやらで、毒まで食わされたとは知らずに彼女と情交を重ねていると、三度目に入ったモーテルで下海から医療ミスを打ち明けられた。この時、漠然とながら〈ノンフィクション〉の文字が頭に浮かんだのを覚えている。
―――しかし、俺にノンフィクション作家としての才能があるのだろうか‥‥‥。
医者の名前が分かって医療ミスが解明できても、果たして自分にそれだけの作品を書く能力があるか全く自信がない。黙ってハンドルを握っていると、ここしばらく急に膨らみ出した不安が頭をもたげて来る。焦りも手伝っているのだろう、最近、自分の能力の限界を、北原は痛いほど感じ始めていた。
「腹ごしらえをして行こうか」
弱気の虫を追い払うように、彼は助手席の都に声をかけた。北原が喋らないので、彼女もフロントガラスの向こうをぼんやりと眺めていたが、
「そうね」
消え入るように呟いて、寂しげな横顔を運転席に向けたのだった。外環(外環状線)沿いの、深夜まで開いているレストランかごの屋で食事を済ませ、二人が店を出たときはすでに午前一時を回っていた。
「少し歩こうか」
聖徳太子廟前を通り過ぎ、太子町の外れで道路を左に折れると、北原は葡萄畑へ入る農道に車を止めた。今夜はこの先のモーテルに宿泊するつもりだが、いきなりモーテルへ入るのはセックス・オンリーのようで、いくら何でも芸がないと思ったのだ。車から降りて夜露を含んだ草の上に足を落とすと、喧しかった虫の音がピタリと止んで、シーンと静寂に包まれてしまったが、虫たちはすぐに澄んだ響きを奏で始めた。満天には夏の星座が降るが如くにきらめき、青白い月の光も競うように山肌を覆い尽くす葡萄畑を照らしていた。歌の才があれば万葉(集)で馴染みの、目の前の二上山にちなみ一首捻りたくなる情景だが、散文的世界に身を置く北原には不向きな役回りだった。
「さあ、こっちへ」
彼は、身じろぎもせず夜空を見上げる都を抱き寄せると、唇を合わせた。
「わざわざ大阪まで出て来てもらって、悪かったね」
彼女の耳元で、小さな声でささやく。甘い喘ぎ声が、いま離れた唇から漏れると期待していたが、
「いいわよ、暇だったし。―――それに、久し振りに大阪へ来たかったから」
普段と変わらぬ朗らかな口調に北原の期待は裏切られてしまい、ロマンチックムードは夜空へ飛散してしまった。
「ばか! もう少し雰囲気を出せよ」
ムードを打ち壊されて、彼は自分を見上げるいたずらっぽい笑顔をにらみつけた。たぶん、意図してのことだと思うが、都はあまりものごとを深く考えようとしない。だから恋人と甘いムードを共有するタイプではなく、十代の少女と話しているような感がある。新宿での初めての夜も、北原が挿入する前に避妊具を着けようとすると、
「いいわよ、射精しても。今日、大丈夫な日だから。でも、性病はいやよ」
北原を見上げ、あっけらかんと皮肉ったのだった。
「もう東京弁は止めや。せっかく無理して喋ってたのに」
北原は怒った振りをして、都の顔を自分の胸に押しつけた。大阪弁は愛をささやく甘いムードには不向き、との偏見を持っているので、東京弁で喋っていたつもりだったが、
「さっきまでの言葉、東京弁のつもりだったの? ―――私、大阪弁だと思ってたわよ」
都は北原の胸から顔を離し、くっくっとからかい笑顔で彼を見上げた。幼い頃身に付いたアクセントはなかなか抜け切らないのか、東京生まれの東京育ちの都には、北原の俄弁(にわかべん)は通用しなかったのだ。
「そろそろ、行こうか」
普段の口調に戻り、苦笑いを浮かべながら都を促すと、
「でも私、大阪弁って、好きよ!」
今度は自分から北原の胸に顔を埋め、都は彼の体をギュッと抱いた。体を合わせたはずみで、危うく医療ミスが行われたセクションが小児外科で、執刀医は岡畠教授か高林助教授、と口から出かけたが、都は辛うじて抑えたのだった。医療ミス抜きの、北原との恋のアバンチュールをもう少し楽しみたかったし、北原を見ているとなぜか、東大へ行けなかった最初の彼の敵討ちをしてみたいいたずらっ気が湧いてくるのだ。それに白旗をあげた北原に、
「私の情報収集力と推理力をバカにしてたでしょう。ナースの実力は侮れないのよ。特に私のはね」
都はぎゃふんと思い知らせる日を楽しみにしているのだった。
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