第8話 靖子の推理


「おばさま。行ってきまーす」

 靖子はいつものように、玄関先からもう一度、久子に声をかけて家を出る。相変わらず暑い日が続く日本列島であるが、下鴨神社の境内は異次元空間を醸し出していて、ひんやりと氷室さながらの居心地だった。木立(こだ)ちの中でペダルを踏みながら、靖子の口元が自然とほころぶ。

 東京での生活に別れを告げたのが、僅か四カ月前とは信じられないくらい充実した日々を送ってきた。愛する人の身近にいるというだけで、こんなにも心がときめいて浮き浮きするものであろうか。離れて暮らすことによって高まりを見せる愛もあろうが、少なくとも自分の場合はそうではなかった。

 境内を出て府道へ入ると、まだ八時前だというのに明るい日差しに包まれて、小麦色の肌から汗がにじんでくる。机の前に座り詰の東京での日々と違い、京都へ来てからは太陽を浴びる時間が随分長くなった。こんなにも日に焼けたのは、恐らく幼児期を除いて、二十六年間の人生で初めてだろう。

 沿道の町並みを眺めながら、ゆっくりとチャリを漕いで下鴨本通を下り、西へ折れると大学に着く。夏休み中に加え、九時までまだ一時間近く間があるので、キャンパスに人影は皆無だった。

「失礼します」

 自分の部屋の前を素通りして、靖子は隣の本多の部屋のドアをノックした。彼が部屋にいることは、チャリ置場に愛用のマウンテンバイクがあることで分かっていた。

「どうぞ」

 部屋へ入ると、本多は丁度シャワーを浴びて来たところらしく、タオルで濡れた髪を拭いていた。ランニングシャツを着ているだけなので、頑丈な体が否でも靖子の目に入ってしまう。赤くなって俯いていると、

「掛けろよ」

 本多が知らん顔で、先に腰を下ろして靖子を促した。こんな時間に来ると分かっていれば、早々に組み手パタンを切り上げ着替えを済ませていたのだが、体育館から戻ったばかりなのだ。

 彼は七時過ぎに大学へやって来ると、まずグラウンドを軽くジョギングし、それから本多正直が考案した柔術の型と、自己独自の組手パタンに半時間ばかり費やす。これが京都での、本多の早朝日課だった。

「今日はいつもより、ずいぶん早かったじゃないか。何か理由でも?」

 本多の問いに、

「お肌の曲り角を過ぎましたから、紫外線には特に気を付けないといけませんので―――少し早い目に出てきましたの」

〈二十五歳はお肌の曲り角〉という、昔流行ったコマーシャルを母から聞いたのを思い出し、それに託けた嫌みのつもりだったが、本多には通じなかった。―――分かっていながら、知らん振りをしているのかも知れないが。

「へぇ、いろいろ大変なんだね」

 本多は苦笑いを浮かべながら、靖子がテーブルに広げたサンドイッチに手を伸ばした。

「ねぇ、北原さんの事件。その後、何か新しい情報は入りましたの?」

「いや」

 頼みにしていた古賀都から情報が得られなかったので進展はなく、膠着状態といって良かった。

「ね。‥‥‥なお、則―――さん。下海歌子の交際していたドクターは、スポーツカーに乗っているんじゃないかしら」

 直則と呼ぶことに、まだ少しためらいがあるが、初めて呼んだ時のような恥ずかしさはなくなっている。

「どうしてそう思うんだ」

「ほら、この箇所」

 靖子は超小型のテープレコーダーを持ち上げて、おもむろにスイッチを入れた。北原と下海の会話を録音した、例のテープである。下海は車が好きらしく、彼女の話にはよく車が出てくる。靖子が再生した下海の声も、車の話をしていた。〈Z〉と略称で呼ばれる、国産の最高級スポーツカーを運転したことがあるという、ただそれだけの内容に過ぎないが、靖子はこれが医者の車だとの仮説を立てた。

「根拠は?」

 コーヒーカップを持つ手を止めて、本多が興味を示すと、

「まず第一は―――」

 靖子はカバンからメモを取り出し、本多の前に差し出した。医者を確定するために、北原が覚え書きを箇条書きに記したものである。

一、医者の性格―――非常に我がまま。

 この記述の後に、モーテルで無理なことを要求された下海が、彼を放ったらかして彼の車でそこを出た、とのカッコ書きが目に入る。本多も二度ほどテープを聞いたし、メモも数回読んでいたので、指摘された記述はもちろん知っていたが意にも介さなかった。自分も車に乗っているので、国産の高級スポーツカーがどれほど出回っているか、よく知っている。だから、何かの折に乗る機会があったのだろうくらいに考えていた。しかし、靖子の推理は深く鋭かった。

「第二の根拠としては―――」

 靖子はテープを巻き戻して、もう一度、さきほどの下海の声を再生する。

「―――ね。車の話をするときに、少しためらいがあると思わない」

 身を乗り出して聞き耳を立てている本多に、靖子は同意を求めた。

「‥‥‥さあ?」

 本多にはよく分からない。

「ほら、例えば―――」

 靖子は他の部分のテープを回して、比較の用に供する。

「‥‥‥うむ」

 言われてみれば、声に微かだがニュアンスの差があるように思う。何度も聞き直して、靖子は微妙な差を読み取ったのだろう。

「彼女が同じようなためらいを見せる表現が、他にもう一つあるの」

 靖子は十巻あまりのマイクロテープの中から、赤鉛筆で印を付けたものを取り上げて本多に聞かせた。

「―――ね。オリーブと蜜柑(みかん)の話をするときに、さきほどの車のときと同じためらいがあるでしょう」

 同意を求められて、

「そうだな‥‥‥」

 本多は渋々うなずいた。

「これらのことから、下海歌子が付き合っていたドクターは―――」

 靖子は自分の描いている医者のイメージを話し始めた。三十代で、国産の高級スポーツカーに乗っていて、オリーブと蜜柑が好きか、それとも実家がオリーブと蜜柑を扱う仕事をする、背の高いハンサムな男、ということだった。

「恐らく下海さんは、そのドクターを本当に愛していたのね。だから、彼の身元が分かりそうなことになると、声に微妙な変化が現れるのね。‥‥‥気の毒に」

 靖子は寂しそうにポツリと呟いた。結婚を夢見ていたのに、自分がうつしてもいない性病をうつしたと誤解され、おまけにそれが原因で医者に捨てられてしまった。そんな女性の悲哀が、聞けば聞くほど、また読めば読むほど、テープやメモの行間からにじみ出てくる。

 ―――結局、傷つくのはいつも弱い者なのだ‥‥‥。

 靖子は溜め息を吐いた。下海がその医師の子を何度も中絶していたことも、北原のメモから分かっているのだ。彼女はしばらくの間、俯いてぼんやりと下海歌子のことを考えていたが、

「ね。私の推理は駄目かしら?」

 気を取り直すように、本多を見上げて微笑んだ。

「うむ‥‥‥」

 ぐうの音も出ないとは、このことだろう。本多は返す言葉がなかった。

 ―――さすがは、藤野英則の娘だな‥‥‥。

 四回生で、しかも司法試験トップ合格を果たすのも、さもありなんの心境なのだ。本多は靖子の底知れない能力を目の当りにして、体が震える思いだった。

 もっとも、これは靖子も同じである。もし本多が医者から北原への電話を予知しなかったら、彼女は何の持ち駒もなく虚しい推理を繰り返すだけだったろう。下海と北原の会話の録音も同じである。靖子は、立ち上がった本多の背中を見ながら、父の言葉を思い出していた。

「直則君の発想の鋭さには驚かされることがあるよ。いわゆる天才タイプだな。靖子も鋭いものを持っているが秀才の域を出ないから、収束的で緻密な思考しか出来ないね。学者としてはいずれも大事だが、やはり最後に物を言うのは、発想の豊かさであり鋭さだと思うんだ。口惜しいが、お父さんと一郎さんの差も、突き詰めればそこへ行き着くんだろうね。元をただせば同じところから出ているのに、混ざった血の影響かな‥‥‥。司法試験に落ちて挫折を味わったが、お父さんは、直則君の学者としての能力を非常に高く買っているんだ。だから一日も早く東京へ戻って来て、本来の研究に従事してもらいたいんだ。

 ―――それに、欲を言えば優秀な孫の出現も望んでいる」

 最後に眼鏡の奥の目を細め、父は靖子の両肩を優しく抱いたのだった。


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