第7話 千津という女

「十二時五十二分か‥‥‥」

 カークロックを睨んで、本多は口を歪めた。靖子に対する後ろめたさのため、マンションを出るのが遅くなってしまった。ここから大原まで、八分の距離でないのは百も承知だが、白井千津が黙って本多を待ち続けるのも分かっていた。

 ―――結局、俺も千津の弱さの上にあぐらをかいているだけじゃないのか‥‥‥。

 自分のズルさに顔をしかめながら、本多は重いアクセルを踏んでマンションの地下駐車場を後にしたのだった。

 白井千津と出会ったのは、彼が京都へ来て一カ月ほどしてのことだから、すでに五年が経つ。週一度、日曜日に会うだけの関係だが、彼女のおかげで本多はこれまで浮いた噂一つ流さずに来れたのだった。平井に連れられて千津の夫・義雄を病院に見舞ったのが二人の馴れ初めだが、すぐ昇華された形での男と女の関係になってしまった。

 千津の夫である白井義雄と平井安政の縁は浅からぬものがあり、義雄は山岳部での平井の後輩というだけでなく、平井夫妻が千津と義雄の仲人まで務めていた。

「優秀なクライマーでね。あの事故が無ければ、日本の山岳史に数々の記録を打ち立てていた人なんだが‥‥‥」

 平井の言葉以上に、登山家としての白井義雄の技量を雄弁に物語る表現はなかった。卒業後も大学職員として大学に残った義雄は、後輩の指導にあたりながら、自らもトップクライマーとしての地歩を着実に固めつつあった。―――が、運命はこの天才クライマーが檜舞台を踏むのを阻んでしまった。

 八年前、山岳部創部百年を記念したヒマラヤ遠征隊メンバーにも選ばれ、一躍勇名をはせる機会に恵まれた義雄だったが、谷川岳での訓練中、滑落事故のため脳に重傷を負ってしまった。

 平井の話によると、間脳は辛うじて機能しているが、大脳と小脳はいわゆる死の状態にあり全く機能していないらしい。以来八年間、彼は生命維持装置を着けられて病院のベッドに横たわっている。友人の医師たちや関係者の配慮により、医療費の負担はゼロに近いが、ただ眠るだけの夫を見守る―――千津の苦しみは計り知れない。離婚することも出来ず、彼女は夫と彼の両親、それに二人の子供の世話に忙殺されていた。

「よく笑う明るい人だったんだけど、あれ以来、千津さんは無口になってしまってね。本当はヒマラヤ遠征を機に離婚することになっていたんだが‥‥‥、離婚届けは私が預かったままなんだよ」

 N・Bで一緒に飲みながら、平井は眉間にしわを寄せて、苦渋の面持ちで本多に打ち明けたのだった。

 本多が初めて千津を誘った日も、今日のように暑い日だった。大学病院の近くを大きな荷物を下げてトボトボと歩いていた。声もかけずに本多が両手から荷物を取り上げると、千津は目を伏せてしばらく下唇を噛んでいたが、彼の後から黙って助手席のシートに腰を下ろした。一向にシートベルトを着ける気配が無いので、本多が身を乗り出して装着してやると、千津は目を閉じて苦しそうに顔を歪めた。

 本多に抱かれているときも、柔らかい豊かな体が激しく悶えるだけで、千津は必死に声を殺し、心を快楽に委ねようとしなかった。

 ―――矢張り待っていたか‥‥‥。

 わざとゆっくり走って、二十分以上遅れて来たのに、大原のバスターミナルに差しかかると、木陰にたたずむ千津の姿が目に入って来る。十五分過ぎて来なければ、その日は会えないと判断して帰る―――これが二人の取り決めだったのに、本多が急用で来れなかったとき、千津は五時まで待ち合わせ場所に立って彼を待っていた。

 日曜日の一時から五時が、日常の柵(しがらみ)から解放される夢の時間なのだ。本多に会っているのが夢の世界の出来事なら、彼がたとえ来なくても、一人で夢の世界に浸れるのである。

「すぐ帰ってくれたんだろうね」

 翌週、本多の問いに、

「五時まで待っていました」

 千津は小さく答えて、助手席からけむるような目で彼を見上げたのだった。

 あでやかに着飾れば、背の高い色白の体が随分引き立つだろうに、千津はいつも地味ななりをしている。今日もグレーのニットのシャツと褐色のスカートをはいて、まるで三十二歳の若さを隠すような服装だった。

 東京から戻るとき、父の車に乗って来たので、自分の前に車が止まっても、千津は本多に気付かずに彼の来るはずの方角をぼんやりと眺めていた。窓を開けて声をかけてやれば良いようなものだが、何故か本多は千津の沈んだ表情を見るのが好きだった。しばらく困ったような顔を見つめていたが、クラクションで軽い合図を送ってやると、千津はようやく車内をのぞき込んだ。

「あ!」

 小さな声を上げると、不安気な顔から微笑がこぼれた。不断滅多に笑わないので、よけい笑顔が際立ち、整った目鼻立ちが華やぐのだった。

「こんにちは」

 助手席に腰を下ろした彼女は、いつもと違う車に訝る様子もないし、もちろん尋ねもしない。

「食事は?」

 大津へ抜ける国道を走りながら、本多は意味のない問いかけをした。子供と食事を済ませて家を出て来ているのは、彼女の返事を待つまでもないのだ。

 しばらく走っていると、いつも利用するモーテル前に差しかかるが、本多は車を止めなかった。

「コーヒーでも飲もうか」

 モーテルを通り過ぎた言い訳のように呟くと、彼は比叡山を仰ぐ見晴らしの良いドライブインへ車を入れた。靖子への思いを断ち切るためにも、千津に自分の気持ちを打ち明け、新たな一歩を踏み出す決意であった。モーテルで抱き合い、大原のバスターミナル近くで別れる五年間だったが、彼女がどんな思いを抱いてきたのか聞いてみたい気もあった。

「ご主人は、相変わらずの状態なんだね」

 ウェートレスが立ち去ると、本多は彼女が置いて行った濡れタオルで首の汗を拭い、千津に声をかけた。

「‥‥‥はい」

 こういう場所へあまり入りたくないのか、それとも骨と皮だけの痛々しい夫を思い浮かべたのだろうか、彼女は俯いたまま顔を上げなかった。

 ―――脳死か‥‥‥。

 うなだれた千津を見ていると、医学界や刑法学界だけでなく、社会的関心を呼び起こした深刻なテーマが浮かんでくる。間脳の機能がいまだ消滅していない者を脳死と呼んで良いかは争いがあり、医学界はもとより刑法学界の圧倒的多数も、脳死とは全脳機能の不可逆的喪失と位置付けている。臓器移植法(臓器の移植に関する法律)もこの立場で、脳幹を含む全脳機能が不可逆的に停止するに至ったと判定された者を脳死者と定義づけている。これらによれば義雄はもちろん脳死ではなく、植物状態ということになろう。

 言葉の定義の問題に過ぎないと言ってしまえばそれまでだが、人間存在の把握とも密接に関連するもので、本多は個人の人間としてのアイデンティティ(主体性)は大脳にあると考えている。大脳に人間存在の本質を求める主張といってよいが、声高に叫ぶともちろん誤解を招く。だから公にしたことはないが、自分としては大脳の機能が消滅すれば死と認めてもらって、必要な人に臓器を提供したいし、そのような遺言もしたためてある。ただ現行法上許容されるかはすこぶる疑問で、恐らく法的効果は是認されないであろうが、一学者のポリシーとして死の機会が訪れたときに問題提起できればとの考えからだった。いずれにしても、死は個人の世界観と深く関わることから、その認定時期を巡り鋭い対立が生まれるのも当然であろう。本多は長い間、グラスの氷をぼんやりと眺めていたが、

「出ようか」

 ウェートレスが水を注ぎに来たのを機に、ようやく顔を上げて目の前の千津を見つめた。彼女に自分の気持ちを打ち明けるつもりで入ったドライブインだったが、結局、何も言えなかった。無責任な言動は千津を苦しめるだけだという思いとともに、靖子を断ち切ることに急に強い抵抗が込み上げて来たのも事実だった。

 ドライブインを出た二人は、琵琶湖を見下ろす高台に車を駐めて、長い間、水浴客で賑わう湖を眺めていた。


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