第6話 恋人宣言
「靖子さん。本多先生のところへ行くんだったら、これ持って行って一緒に食べて頂戴」
玄関の網戸を開けて靖子が出かけようとすると、平井久子が奥のキッチンから靖子の背中に声をかけた。夏の間は一階の襖と障子がすべて外されてあるので間仕切りが無く、まるでワンフロアの、広々と庭まで吹き貫けの開放的な空間が生み出されていた。
「さっき、主人の教え子の方がくださったの。美味しそうだから」
久子はメロンを包んだ紙バックを靖子に手渡す。
「奥―――じゃない、おばさま。すみません」
照れ笑いを浮かべながら、靖子は押し戴くようにメロンを有り難く受け取る。「奥さんなんて呼んじゃ、嫌よ!」と言われているので、「おばさま」と言うようにしているのだが、つい他人行儀が口をつく。何といっても、久子は刑法学界の重鎮たる平井安政の妻なのだ。学者としてはまだヒヨッコの身には、大先輩の妻を「おばさま」などと馴れ馴れしく呼ぶのは何とも恐れ多い。
「そうそう。そう呼んでくれなきゃ、嫌よ」
元深川芸者の久子は気風(きっぷ)が良い。安政とは大恋愛の末、親族一同の反対を押し切って結婚した二人だったが、八年前、大きな不幸に見舞われてしまった。一人息子の安夫が病死したのである。
父親に少しでも近付かねば、という焦りがあったのか、安夫は大学に残り、結婚もせずに院(大学院)で研究を続け、その成果が現われる矢先の突然死だった。息子の死に安政は責任を感じているらしく、酔って帰っては愚痴っていた。
「‥‥‥あなた、嫌ですよ。男のくせに泣いたりして―――、私まで泣けてくるじゃないですか。さ、二人して、安夫の分まで生きてやらないと、あの子が不憫で―――」
久子の励ます涙声が、よく二階の部屋まで聞こえて来て、靖子も涙ぐんでしまうのだった。
「本多先生に宜しくね、―――ついでに、これも言っといてもらおうか。『こんな美人をほったらかして、この唐変木!』って」
久子の言葉に、
「まあ!」
靖子はぽっと頬を染めて俯いてしまった。
―――本当に唐変木だよ! 本多の馬鹿!
色白の顔が上気して美しかった。女の久子が見ても抱きしめたくなるほど可憐な色香がある。似合いの二人だと思っているだけに、久子には本多の煮え切らない態度がじれったくて仕方がない。
「それじゃ、おばさま。行ってきます」
靖子はチャリを漕いで、下鴨神社の境内を囲む小道を走る。鬱蒼(うっそう)と茂る境内の木々が、たおやかな枝葉で小道を覆い、ひんやりと心地よい冷気が立ち込めていた。
―――今週はとうとう、一度も東京へ帰らなかった‥‥‥。
チャリを漕ぎながら、靖子はきゅっと唇を結んだ。夏休みなので何時でも帰れるからと、父に電話で断ったが、本心でないのは自分が一番よく知っている。筒井浩子と父の関係に薄々気付き出していることもあると思うが、それ以上に京都から離れたくないのだ。
最初の二カ月ほどは、余りの環境の変化に戸惑いながらも、心は東京を向いていたように思う。辛く苦しい二十六年間だったが、もちろん楽しいこともあった。ノスタルジックな思いもあっただろう、京都に馴染むことに、強いブレーキがかかっていた。
しかし六月も半ばを過ぎると、様子が変わってしまった。初夏の訪れとともに、靖子の心にも鮮やかな変化の兆しが現われた。
―――私のこれまでの人生は、一体、何だったのだろう‥‥‥。
机の前に座るだけだったのではないか。志望大学に入り、四回生で司法試験にも合格した。検事職に魅力を感じたこともあったが、一年半の修習生活が終わると、助手として母校へ戻った。
四六時中机の前に座る毎日だったが、このまま母校で学者としての生活を送ることに迷いはなかったように思っていたのに、―――久子と一緒に自宅を訪れた平井安政に、
「講師の口があるので、京都へ来ないか」と、誘われた時、靖子は激しい胸の高鳴りを覚えた。
これまでの灰色のような生活の中で、いつも自分を照らす一条の光があった。恐らく、本多直則の存在がなければ、これほど辛い受験競争に勝ち残れはしなかっただろう。
京都には、その直則がいる。しかも平井教授の下で、助教授として教鞭を取っているのだ。父の反対を予期していたが、
「そうだね。一、二年京都で暮らすのも良いかも知れないね。それから二人で東京へ戻ってくればいいだろう」
英則は、むしろ靖子の京都行きに賛意を表明した。靖子が京都へ行けば二人が結ばれるし、一緒に戻って来れば、二人とも現職で母校に採用されるという読みがあったのだろう。
―――でも‥‥‥。
父の期待に反し、靖子の心境は京都へ来て大きな変化を遂げてしまった。日が経つに従い、東京へ向かう足が重くなって行くのだ。心が京都から離れようとしてくれないのである。
近頃は下宿の二階で机に向かっていると、切なくて胸が苦しくなるし、神社の森をぼんやりと眺めながら、いつのまにか頬をつたう涙に驚いてしまう。
今年中に、分かり易い刑法総論の基本書を書き上げようと気負い込んだのに、筆が進んだのは最初の二カ月だけで、その後は全くといってよいほど、はかどっていない。東京にいれば、恐らく必死の形相で書き続けているであろうが、ここ京都では、何故かそんな生活が意義のあるように思えなくなってしまう。
―――ミイラ取りが‥‥‥。
どうやらミイラになってしまいそうな気配である。高野川に架かる狭い橋を渡りながら、靖子は苦笑いを浮かべた。
橋を渡って北へ少し上がると、道路沿いに本多のマンションがある。高野川を見下ろす、瀟洒なマンション五階が彼の住み処であった。あれほど京都行きに反対していた邦子だったが、それがもはや動かし難いものだと知ると、
「直則さん。人間が気品を保つ上で一番大切なのは、衣・食・住の中で住と思うの。衣も食も私の手から離れちゃうけど、住だけはお母さんに選ばせて。それくらいのお金は私の自由になるから。それに、これは私の意地だから」
邦子は京都に住む友人に頼んで、本多の給料では考えられない家賃のマンションを、息子の意見も聞かずに勝手に借りてしまった。
エレベーターを降りて、靖子が五一二号室のドアホンを押すと、
「はい」
本多の声が返ってくる。出かけるところだったらしく、麻のスラックスの上に涼しそうな透かし編みのポロシャツを着ていた。鍛え上げられた頑丈な体が、大きくたくましい。
「お出かけするところですの?」
「‥‥‥うん。―――いや、いいよ」
本多は歯切れの悪い返事を返した。実は、白井千津と一時に大原で会う約束をしている。
「さ、入れよ」
「はい。お邪魔します」
靖子は本多の背中を見ながら、黙って彼の後を歩いて行く。廊下の奥のリビングルームへ入ると、ベランダから京都の町が一望できる。
「いつ見ても、ここからの景色は爽快ね。平井先生のお宅が、あんなに小さく見えるわ」
下鴨神社の森にくっつくように、自分の下宿の屋根が目に入る。
「―――さ」
本多は、靖子に窓際の椅子に腰を下ろすように言うが、
「お食事、まだなんでしょう?」
彼女はテーブルにランチボックスを広げると、メロンを切りにキッチンへ入って行く。
「これ、奥様がどうぞって」
靖子は本多にメロンを勧めながら、久子が出がけに言った言葉を思い出して、クスッと笑ってしまった。見晴らしの良いリビングで、二人は黙って箸を口に運んでいたが、
「北原さんの事件、その後、進展はありましたの?」
靖子は思いだしたように箸を置いて、本多の顔をのぞき込んだ。
「‥‥‥うん。下海が付き合っていた医者が確定出来なくて、困っているんだ」
楠岡も懸命に探してくれているが、ようとして医者の名前が分からない。
「ね。私に資料を貸してくださらない。ひょっとして、おじ、いや、直‥‥‥の、り―――さん‥‥‥が―――、見忘れていることがあるかも知れないから」
靖子は、顔から火が出ているのではないかと思うほど赤くなりながら、言葉を続けた。清水の舞台から飛び降りるというのは、まさにこんな気分なのだろう。久子に、「靖子さん。本多先生に、おじさまなんて言ってちゃ駄目よ。直則さんて呼ばなきゃ」と、けしかけられて一大決心をしたのだが、まだ心臓がドキドキして、靖子は俯いたまま顔を上げることが出来なかった。
「‥‥‥そうだね。北原に下海を脅させる前に、靖子に資料を見てもらったほうがいいね」
表面上は辛うじて平静を装ったが、本多も内心は冷や汗をかいていた。いつもは「靖っちゃん」と呼ぶのに、「靖子」と呼び捨てにしたのが心の動揺を如実に語っていた。
―――弱ったな‥‥‥。
靖子と父の英則には、本多はほとほと参ってしまう。
先日、五年振りに東京へ帰って、藤野を教授室へ訪ねたが、本多は十四年前の約束の反古を持ち出せなかった。嬉しそうに娘の話をする藤野を見ていると、とてもそんな気になれなかったのだ。
「‥‥‥ねぇ、資料」
食事が済んでも、本多がなかなか資料を渡してくれないので、靖子は俯いたまま再度促した。
「―――そうだったね」
ようやく腰を上げると、
「この中に、メモとテープが入っているから、納得の行くまで調べてくれればいい」
本多は靖子に、資料の入ったブリーフケースを手渡した。まさかこの資料から、靖子が医者を突き止めようとは思いも寄らなかったのだが―――。
「俺は一時に人と会う約束があるので‥‥‥」
靖子に言い残して、本多はそそくさと自宅を後にしたのだった。
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