第5話 深刻な事態
「ねぇ、おじさま。今夜、祇園のN・Bへ行くんだったら、私も一緒に連れて行ってくださらない?」
靖子はテーブルにランチを広げながら、さりげなく頼み込む。N・Bのママは、ひょっとして本多のスポンサーではないかと疑っているのだ。それに、男と女の関係にあるのではないかという不安も、完全には払拭されていない。小林にこれまで幾度となく探りを入れて、多分それはないだろうとの結論には達しているが、矢張り実物に会ってこの目で確かめたかった。
「‥‥‥うん」
背中を向けたまま、本多は気のない返事を口から漏らした。母から昨日届いた手紙が気になって、午後の講義案に目も通さないで、先程からぼんやりと御苑の緑を眺めていた。
手紙の内容は、藤野英則の余命があと幾許(いくばく)もないというものだった。娘の靖子にも英則は明かしていないので、母は直則に伝えるべきか随分迷ったらしいが、ようやく知らせてきたのである。昨年の手術で藤野の胃は全部摘出されたが、癌は膵臓と肺も侵していて、特に肺は深刻な状況であった。知っているのは医療関係者を除いて、藤野から打ち明けられた母の邦子と筒井浩子だけだった。
―――早急に結論を伝えねばなるまい‥‥‥。
藤野が望んでいる靖子との結婚のことである。一つを除いて、本多にはためらう理由が無かった。しかし、そのたった一つが、これまで彼の心に重くのしかかっていた。
―――靖子は本多家の家訓に従うような女ではない。
それどころか、父を苦しめ命さえ縮めた家訓を、決して許しはしない。当然、解体の挙に出る―――。しかし本多一族を縛り続けて来た家訓は、そう簡単に破壊できるものではない。これまで本多家へ嫁いで来た多くの女性が、幾度となく解体を試みてきたが、ことごとく失敗に終わっているのだ。しかも質の悪いことに、これまで家訓に反旗を翻してきた女たちは、今ではすべて家訓を擁護する側に回っている。もちろん母の邦子も例外ではなかった。寄るべき明確な行動の指針があるというのは、人間にとって精神的安らぎをもたらしてくれるのである。それが、現在及び未来における自己の血族の繁栄を約束してくれるものなら、尚更のことだった。
確かに、かつてその不条理に泣いたこともあるが、時間というのは不思議なもので、現状に満足する人間にとっては過去の苦しみを和らげ、今では懐かしい思いでさえもたらしていた。そんな女たちの中へ不条理を憎む純真な靖子が入り込めば、結果は目に見えている。だから一番良いのは、直則が本多家と縁を切って靖子と二人で暮らすことだろう。およそ意味のない闘いほど、非生産的で、心身共に消耗させるものはないのだ。そんな気持ちも手伝っていた―――皆の反対を押し切って京都へ出てきたのは。
―――だが‥‥‥。
靖子がそんな生活を望んでいないのも事実で、彼女は幼い頃から自分を可愛がってくれた一郎や邦子、それに八十を過ぎてもいまだに健在な直則の祖父母や、彼の二人の妹たちと仲良く暮らすことを夢見ているのだ。―――しかし靖子が本多家へ入れば、彼らは確実に敵に回る。それだけでなく、一族の者すべてを敵に回すことになるだろう。その結果、勝算のない争いに引き摺り込まれて、靖子は身も心もズタズタにされる―――これまで家訓の不条理に泣きながら本多家を去って行った女たちのように。
―――やはり駄目だな‥‥‥。
靖子の幸福を考えれば、彼女との結婚は思い止まるべきだろう。五百人も入る大教室で、百人余りの学生を前に刑法総論の責任能力について説明しながら、本多はいつもの結論を確認していた。終了時間まで五分足らずで、丁度切りが良いので授業の終わりを告げようとすると、
「先生。平井教授は行為(犯罪実行行為)と責任(責任能力)の同時存在の原則を厳格に要求すべきだとの立場ですが、先生はそれを支持しないと言われるんですね」
最前列の学生が手を挙げて質問した。行為と責任の同時存在の原則というのは、犯罪行為を行なう時に、これはしてはいけないことだと判断してそんなことは止めようとする精神の力が無ければ、どんな悪いことをしても原則として罪にならないとする考えのことである。悪いと分かっていながら、しかもそれを思い止まるだけの能力がある場合にのみ、犯罪行為に刑罰が科されなければならないとする理論であり、自由な意思活動を前提とするリベラルな考えを背景にしている。靖子も支持していて、そのためでもあるまいが、彼女は平井教授に非常に可愛がられていた。自宅に下宿させ、下鴨神社に臨む二階の五部屋全てが彼女に提供されているという厚遇なのだ。藤野英則との古くからの親交があるからだが、平井はまるで我が子のように靖子に接する。英則の意を酌んでのことであろう、夫婦そろって本多に靖子をけしかける。そういえば靖子の講師採用からして、消息不明の親族・南埜佐和子の足取りを求め、本多がネパールへ赴き日本不在時という、多分に意図的な決定だった。
「―――そうだね。平井教授は行為と責任の同時存在の原則を厳格に貫かれているが‥‥‥」
本多は苦笑いを浮かべた。酒に酔ったときの平井の行動を持ち出して、彼の見解を批判すれば説得力があると思ったのだ。
平井は八年前、一人息子に先立たれてから酒量が多くなった。そして酒を飲んでは人にからむ。助手や講師、果ては先輩格の教授にまでからんで、彼の首を絞めたりする。しかも翌日にはケロッとして、
「酔っ払って、昨夜は失礼な事をしでかしたようで済みませんでした。酔うと意識が無くなってしまって―――、心神喪失状態の出来事だから勘弁してください」
などと、憎めない笑顔で頭を下げる。学生時代からの、平井のお家芸だった。ところで彼の言に反し、おぼろげながらでも意識があることは明らかで、その証拠に、団交で助けられた本多にからんだり首を絞めることは一度もなかった。
平井の例を持ち出すまでもなく、人間の意識などというものは定かなものではないのである。そんなアメーバーのようなものを無理に固定して、犯罪(実行)行為時に完全な責任能力を要求する厳格な理論を採用したのでは、責任無能力を理由とする無罪判決が多くなり、刑法による市民社会の防衛という目的が達せられないであろう。だから本多としては、犯罪行為を決意する時から犯罪行為を行なうまでの何れかの時点に責任能力があれば足り、これが肯定できれば刑事責任を問いうるし、問うべきだという立場である。もっとも、これには靖子が大反対で、
「本多先生のお考えは、自由主義の立場からは到底是認しえません。社会防衛という政策的配慮が色濃く出たものであって、新派刑法理論に与するものではないですか」
などと、人権保障にあつくない反対派の立場に無理に組み込もうとする。
新派刑法理論というのは、十九世紀末に興った学派のことで、犯罪は行為者の悪しき性格の現れであり、そのような悪しき性格ゆえに罰されるのだとする考えである。しかし性格などという、外観上明らかでないものに処罰の根拠を求めるのは、人権保障を軽視する非常に危険な思想であろう。この批判を避けるため、頭骸骨の特徴から生来的犯罪者を確定しようとしたイタリアの学者もいたが、悪用されると中世の魔女狩りにつながりかねない危険をはらんでいる。本多ももちろんこのような理論に与するものではなく、人権保障を重視する旧来の立場であり、この点では靖子や平井と変わるところがなかった。
「私は行為者の心理を社会学的に判断した場合、行為と責任の同時存在の原則を厳格に貫く必要はないと思うのだが―――。もちろん法益保護という政策的観点からも、そのように考えるべきだと思うし」
まさか酒に酔った平井教授の例を持ち出して自己の理論を補強するわけにも行かず、本多は使い古した理由を述べて講義を締め括った。少し遅れて部屋へ戻ると、
「お帰りなさい」
靖子がソファーに座って、彼を待っていた。是が非でも、今日は本多に付いて行って仁美の顔を見るつもりなのだ。
「‥‥‥うん」
苦笑しながら彼女の前を通り抜けて、机に講義案をページの若い順に積み上げていると、
「センセイ。今日、N・B行ケマスカ?」
例の如く、スハルノが小林と一緒に顔を覗かせた。ドアの音で、本多が戻って来たのを知ったのだろう。
本多の同意に、スハルノが邪気のない笑顔、小林が頭をかいて恐縮しながら部屋へ入って来ると、靖子が紅茶を入れようとソファーから立ち上がりかけるが、
「あ、藤野さん、藤野さん。僕がしますから」
小林が慌てて彼女を制止したのだった。
「ナイスだな、この味と香り」
小林に礼を言って、クーラーの効いた部屋で本多が熱い紅茶を口に運んでいると、いつものように三人が彼の後ろで議論を闘わせる。三人ともいずれ劣らぬ論客で、学界を揺るがす大論点ともなれば、反駁の応酬が飛び交い、日本のみならず世界の刑法学会の縮図の様相を呈するのだ。
いつもは興味深く彼らの議論に耳を傾ける本多だったが、今日は精神の焦点が定まらず、そんな気になれなかった。
「‥‥‥そろそろ出かけようか」
一時間近くも、見るとはなしにぼんやりと御苑の緑を眺めていたが、ようやく重い腰を上げた。
「さよなら」
初老の守衛に別れを告げ、校門を出ると四人は一列縦隊でチャリを漕いで行く。先頭にスハルノ、そして小林、靖子、本多の隊列だった。六時前ともなると、ようやく暑い日差しが和らいで、走っていて汗が吹き出すことはなく、むしろ頬を撫でる風が涼しかった。鴨川沿いの歩道を走りながら、
「ねぇ、もうすぐ祇園祭ね」
靖子が振り向いて、本多に微笑みかける。
「今年はゆっくりと見物しようと思っているの。―――おじ様もでしょう?」
再び振り向いて、本多の顔をのぞき込んだ。
「いや。久し振りに東京へ帰ろうと思うんだ‥‥‥」
英則の病状を知った以上、祇園祭を楽しむ気分にはなれなかった。東京へ帰って、自分の意思を彼に伝える必要を痛感しているのだ。本多は五年振りに東京へ帰る気持ちになっていた。
「残念だわ。せっかく案内してもらおうと思っていたのに―――」
父の病状を知らない靖子は何の屈託もない。川面を渡る涼しい風に吹かれながら、爽やかな笑顔だった。彼女も京都で暮らすようになってからチャリ愛好家になっていた。下宿から大学までの足も、もちろんチャリで、下鴨神社の境内通過の、少し遠回りコースが大のお気に入りだった。靖子は当初、チャリの呼称に抵抗があったようだが、学生たちの影響であろうか、いつの頃からか、「自転車」をやめ、「チャリ」と呼ぶようになっていた。 四条大橋手前の歩道上にチャリを駐め、賑やかな人込みの中を並んでN・Bへ向かう。
「いらっしゃい直‥‥‥」
開いたドアから顔を覗かせた本多に、仁美は「直さん」と呼びかけようとしたが、急に口をつぐんでしまった。靖子が目に入ってきたからだが、言い淀んだ理由が靖子を女学生だと思ってのことか、それとも彼女の射るような視線に気圧されてのことか、咄嗟のことで判断がつかなかった。
「―――よう、おこしやす」
仁美は靖子を意識して、丁寧な挨拶で四人を迎え直した。靖子の素性が分からない以上、これが本多に対するマナーであり、靖子に対する礼儀でもあるのだ。
「今晩は。初めまして」
靖子は邪気のない朗らかな笑顔で、仁美に挨拶を返した。一目見て、仁美は本多の愛人ではないと分かった。なるほど美人だが、本多とは年が離れ過ぎているし、靖子を見た目に女としての対抗意識は感じられなかった。女の勘に過ぎないが、それだけによけい安堵感に満たされたのだった。
店内には山本という中年の常連客が一人いて、カウンターの隅で水割りを飲んでいた。
「‥‥‥やあ、直さん」
山本が、本多の隣の美人を意識しながら声をかける。
「やあ、山ちゃん、今晩は」
挨拶を返して、
「こちら、講師の藤野靖子さん」
本多が、山本とママに靖子を紹介すると、
「え!?」
二人が同時に驚きの声を上げた。
「学生さんかと思ったのに―――」
仁美の口から次に漏れた言葉は、靖子には余り嬉しくなかった。二十六にもなって学生と間違われるようでは、大学の教師として失格ではないかと思ってしまうのだ。
「‥‥‥ごめんなさい。あんまり若うて綺麗な人どっさかい。とても先生とは思われしまへんかったし―――」
失言に気付いて、仁美が謝ると、
「いいえ、まだ学生気分が抜け切らないから」
靖子も素直に応じた。間違われる理由が、もっぱら自分の側にあることは良く分かっているので、仁美を責める気などサラサラないのだ。
「直さん。ええなあ、こんな綺麗な人と一緒の職場やなんて」
自分の横に腰を下ろした本多に、山本は嘆息まじりに呟いたが、職場という言葉に、皆、笑ってしまう。確かに職場には違いないが、会社の職場を連想して可笑しかったのだ。
「失礼します」
誉められた靖子も言葉の返しようがなく、笑顔で軽く会釈して、本多の隣に腰を下ろした。
「藤野センセ。何、飲ミマス?」
バーテンダーのスハルノが注文を伺うと、
「スクリュードライバー(別名、女殺し)でなければ、何でもいいわ」
ニコニコしながら、靖子も皆を笑わせる。また一つ、居心地の良い場所が見つかったのだ。
「スハルノ君。藤野先生と私に、ドライマティニを入れて頂戴」
仁美の言葉に、本多は意外な顔をした。彼女は余程気に入った客の横でしか、ドライマティニは飲まない。彼の知る限り、自分とあと一人、亡夫の弟だけだった。
「さ、先生。乾杯しましょう。私の大好きな人と、今日大好きになった人のために」
仁美が靖子と「チン」とグラスを交わして、マティニを口に含もうとすると、
「ママ。大好きな人ゆうのは、いったい誰のことなんや」
さほど飲んでもいないのに、山本は頭を揺らせながら仁美の言葉にからみだした。
「山ちゃん、いやえ。この前みたいに酔って泣いたりしたら」
仁美は真顔で溜め息を吐いた。山本は泣き上戸で、酔うとすぐ泣くので有名なのだ。彼は大手の光学器械メーカーの課長だが、四十四歳になるというのに結婚運に見離され、いまだに独身である。
「泣きとうもなるで、世の中にいっぱい女性がいてるいうのに、何で俺だけ結婚出来へんねん―――。ちょっと髪の毛が薄いぐらいなんやねん!」
いつもの愚痴が出ると、
「山ちゃん、心配することないえ。な、直さん。こないだの話、山ちゃんにしたげて」
仁美は本多に助け船を求めた。
「こないだの話て、何や?」
「直さんのお友達で、楠岡さんゆう人がいてはるんやけど、その人の知り合いが、四十過ぎて若い美人の看護婦さんと結婚しはったんやって―――。能力も経済力も無うて、おまけに病気のお父さんまで抱えてんのにやって」
「何や、そんなことかいな」
山本は、仁美の話に目を輝かすことはなかった。
「そいつは、有能で経済力があるように装い、おまけに病気の親のことを隠して女性に近付いたんやろ。―――な、そやろ、直さん」
山本に同意を求められ、本多は苦笑いを返した。彼の洞察通りなのだ。先程のナースの勤務する病院にも、楠岡の友人の医師たちが大勢いるが、彼らからその男がどんなふれ込みで彼女に近付いたかを知らされて、楠岡は呆れていた。人間というのは自分が欲しいものを目の前にすると、本性が出てしまうのであろう。男と女の間では、ある程度の駆け引きは是認されるし、また、それが恋の妙味でもあろう。が、度を越すと、矢張り見苦しい。
楠岡の友人たちは、その男を法螺(ほら)吹きフロードとか、結婚詐欺師六法全書と呼んでいるようだが、さもありなんと思う。自分を大きく見せるために、いまだに大法螺を吹き、ヒモ同然の生活を送る男の話を聞いて、本多は実に嫌な気分を味わったのだった。
「ほな、僕は先に失礼するわ」
シラけてしまったのか、それとも靖子がいるからだろうか。山本はグラスを空にすると、今夜は泣かずに帰ってしまった。
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