第4話 所詮この世は、男と女なのか


「‥‥‥当たって砕けるしかないか―――」

 JR御茶ノ水駅のホームへ降り立ち、北原は自嘲気味に呟いた。浪速帝大医学部付属病院を辞めてこの四月から御茶ノ水医科歯科大付属病院に勤務する、古賀都というナースとこの駅で会う約束をしていた。

 ―――しかし、夕方になっても一向に暑さは収まりそうにないやないか!

 改札へ歩きながら、北原は顔をしかめた。むしろうだるような暑さが乗降客の人いきれで増幅され、昼間より不快指数が数段高く感じられる。八月も後十日余りで終わるというのに、九月の訪れなどどこ吹く風の異常気象がらみの我が日本列島であった。

 御茶ノ水駅の改札を出て、文字盤に錆の浮く年代物オメガに目を落とすと五時十一分。五時半に待ち合わせているので、遅れなかったことに北原はひとまずほっとした。大学卒業以来、意図的に避けて来た東京だったが、十数年を経ると矢張り懐かしい。

 古賀都には北原の年恰好は電話で伝えて貰ってあるが、初めて会うことでもあり、目立ちやすいよう券売機から少し離れた場所へ移動して彼女を待つ。本多の高校の同級生で奈良県立大和医大を出て、現在、医療雑誌を発行する楠岡が古賀都を紹介してくれたのだった。

 ―――ホンマに暑いな……。

 汗でぬれたワイシャツの背中の不快を意識しだすと、わが身に降りかかった事件が浮かんできて不快度が一層増す。

 浪速帝大病院の下海(しもうみ)歌子というナースに性病をうつされたのが二月十五日だから、半年余り前のことになる。これまでナースといえば、印象はすこぶる良かったのに、下海はとんでもない食わせ物だった。性病の検査費用から中絶費用まで騙し取るという念の入りようだったのだ。

 もっとも彼女も当初はそんな意図が無かったのであろうが、いくつもの不幸が重なったのである。国立病院時代からの習いで、病気感染チェックのために定期的に血液検査が施行されているが、彼女がうつされたのはクラミジアで、血液検査では発見されない場合が少なからずあるという厄介な代物(しろもの)なのだ。近時、十代の高感染率が報告され話題を集めたが、風俗(営業)従事者の感染率が飛びぬけて高く、感染力も半端な強さではなかった。

 この病気は直接検査といって、患部の細胞を直接削り取って感染の有無を調べるのがもっとも有効な手段だが、血液検査を施すだけで事足れりと考え、結局見逃してしまう場合も多い。下海が検査を受けた産婦人科の女性院長がまさにこれで、感染に気づかなかった。検査結果がマイナス(感染していない)と出て、下海は北原のいいがかりと取ってしまった。付き合っていた医者とプロパーが否定したことも彼女の意を強くしたのだろう、北原を激しく罵り、自分が支出した費用の数十倍の検査費用を騙し取った。

「医業に従事する者に、素人が勝てると思ってんの? 医療ミスなんか数えられんほどあるけど、訴訟になるんはごく一部で、それすら原告の勝訴率は五O%をはるかに下回るんやからね」

 封筒の金を確認しながら、下海はせせら笑ったが、医療関係者の奢(おご)りが北原の反骨心を奮い立たせてしまった。

「納得が行かんので、もう一遍よう調べてみるわ」

 取り敢えず調査結果を見てから先のことを考えることにして、北原は一方的な攻撃に反論することもなく甘んじて受けたが、調べてみると矢張り彼は下海から病気をうつされていることが分かった。クラミジアの感染力の強さ、下海と性的交渉があって十日前後に激しい自覚症状が出ていることから、医学的には彼女からうつされたとしか考えられないとの結論であった。

「お宅の言われる通りの事情やったら、感染源は彼女以外には考えられませんな。百歩譲って、彼女が感染源でないとしても、お宅との性交でクラミジアに感染してるはずやから、彼女の言うことは全く信用できまへんな」

 本多の紹介で、初老の泌尿器科医の判断を仰ぐと確信に満ちた答えが返ってきた。

「くそっ!」

 北原は怒りが込み上げて来た。女に性病をうつしておきながら、それを放置する男も許せなかったが、下海の対応も北原の怒りの火に油を注いだ。感染の事実を伝え、彼女の身を案じながら治療を勧めているのに、何という女なのだ。中絶費用を騙し取り、しかも法外な検査費用まで巻き上げられたのだ。

 憤まん遣る方ない北原は一計を案じ、下海に一泡吹かせてやろうと思った。下海が付き合っていた医者から聞いたという―――驚くべき医療ミスを明るみに出して、彼女と浪速帝大病院をやり込めてやろうと考えたのだ。

「これはここだけの話で、口外されたら困るから、絶対に言わんとってや。すごい医療ミスなんやから、‥‥‥ホンマやで」

「うん、分かった。誰にも言わへんから」

 モーテルのベッドで寄り添いながら、下海の深刻な口調に一度は同意を与えたが、事ここに至っては反古(ほご)にしても信義に反することはない、というか、信義もへったくれもないであろう。ただ、北原の手に負える事件でないことも事実で、本多の手助けが無ければ解決が覚束(おぼつか)ないのも明らかであった。

「‥‥‥うむ。医者にうつされていたんだったら一番好都合なのだが、うつしたのがプロパーでも、性病感染をネタに少しでも医療ミスの核心に近付けるだろう。お前に話したんだったら、プロパーに話していたということも考えられるし。―――取り敢えずこういう方法で行ってみようか」

 北原から相談を受けた本多は、今後、下海との会話はすべてマイクロテープに録音するよう指示した。自宅への電話も、相手構わずすべて録音するアドバイスも忘れなかった。直接検査でクラミジア感染を知った下海は、北原の名前を出してうつした人物を脅し金を取るだろう。脅された人物は当然、北原を確認するために何らかの接触を取る、との読みがあってのことだった。―――そして本多の読み通り、しばらくして北原のところへ、

「‥‥‥あのう、木下製作所ですか。―――そうですか、木下製作所と違いましたか‥‥‥」

 間違い電話を装って、男の声で電話がかかってきた。明らかに擬装と分かる話し口調で、待機中の北原の耳に絶好のタイミングで飛び込んで来たのだ。好都合なことに、声の主はプロパーではなかった。プロパーは本多の調べから、下海と同じ高校出身の腎臓疾患を持つ徳森という男だったが、声を照らし合わせた結果、二人は別人であった。これで下海に性病をうつしたのは医者であることが、はっきりと確定できたのだ。

 次の作業は声の主の特定だが、これは造作なかった。先の楠岡が、職業的興味も手伝い調査に協力してくれたのだ。大阪在住で、元医師という楠岡の経歴が役に立ち、声を聞いただけで浪速帝大付属病院第三内科に勤務する、井上保夫と簡単に判明したのだった。

 ところがここで、本多と北原はハタと困ってしまった。下海が話した医療ミスというのは、メスを使っての開胸手術中の出来事であり、第三内科では通常考えられないことなのだ。この矛盾を解決するには、井上と下海の間に少なくとももう一組の男女の存在が必要であり、それですべて辻褄が合う。井上の電話の声が言うように、下海に直接うつしたのは矢張り一外に勤務するドクターなのだ。結局、井上→ナース→一外のドクター→下海という流れが判明したのである。

 浪速帝大病院における、一部若手医師の乱行ぶりを如実に示す好個の事例であるが、本多と北原の目的から離れ、医療ミス解明に直結するものではない。井上を絞り上げ、下海と交際していたドクターの名前を吐かせようとも考えたが、脅迫罪で訴えるとわめいているので、怯えた人間をこれ以上追いつめるのは下策の域に達するものだった。

 本多は振り出しに戻って、下海と交際していた医師を彼女の親友から聞き出そうとしたが、口止めがなされているらしく、うまく行かなかった。少々手荒なまねも致し方無いと考えていた矢先に、楠岡から耳よりな情報がもたらされた。下海と同じ年に一外に勤務し、彼女と親しく付き合っていた古賀都が、恋人の転勤を機に浪速帝大病院を辞めて、現在、御茶ノ水医科歯科大病院に勤めているというのだ。取り敢えず彼女に当ってみようということで、北原は久し振りに東京の土を踏んだのだった。

 五時二十分を過ぎたので、券売機から少し離れたところに佇んだまま大学病院の方に目を向けると、小柄だがすらりとした麻の白いワンピースをまとった女性がこちらへ歩いてくる。シャワーを浴びて来たのか、パーマの髪が少し濡れていた。周りの人垣から、というか個性のない人垣の中から、一人の女性がゆっくりと浮かび上がって来るような錯覚を呼び起こす光景が迫って来るのだった。ヒッチコックの映画のシーンを思い浮かべ、北原の目が美人に釘付けになっていると、

「えっ!」

 なんと。彼女はこちらに向かってくるではないか。まさか、と思っていると、

「‥‥‥あのう、北原さんですか?」

 古賀都らしき女性が遠慮がちに声をかけた。

「え、ああ、そうです。北原です。ぼんやりしてて、すんません。古賀さんですか?」

「ええ、古賀です。大阪の人なんですね。大阪弁、懐かしいわ」

 都は北原の間近へ歩を進め、彼を見上げて微笑んだ。本多から「浪速帝大病院開院以来の美人ナースらしいぞ」との予備知識は与えられていたが、からかい混じりの冗談。そう受け流して、意にも介していなかったが、現物は掛け値なしだった。

 ―――どうやら、嫌われずには済んだな‥‥‥。

 琴線の触れあった男と女というのは不思議なもので、二言三言会話を交わしただけなのに長く付き合った恋人を超える親しみ、というか情愛に満たされることがある。明らかに自分を男として見つめる都の仕草から、北原は彼女の微妙な変化を読み取っていた。

「楠岡先生から伺っているのは、浪速帝大病院のことをお知りになりたいとのことでしたが」

 小首を傾げて、北原を見上げる顔が愛らしい。三十六という年を感じさせない、あどけなさがある。

「ええ‥‥‥、実は―――」

 言いよどんでいると、

「そこの喫茶店へ入りましょうか」

 古賀都は、裏通りの落ち着いた趣きの喫茶店へ北原を誘った。

「古賀さんは、下海歌子を知っていますね、―――浪速帝大病院で一緒だった」

 北原は奥の席に着くなり、いきなり用件を切り出した。

「えっ! 下海さん! ええ、知ってますけど‥‥‥、下海さんが何か?」

 元同僚を呼び捨てにされ、都は少し気分を害したが、驚きの方が勝った。つい五日前、大阪から予備校の講師がやって来て、医療ミスがらみで下海のことを聞かれたばかりなのだ。

「彼女、浪速帝大病院のドクターと付き合っていたんですが、彼の名前はご存知ないですか」

 この問いかけもすこぶる印象が悪いが、予備校講師から聞いて概要は知っていたので、都は少しとぼけてみることにした。

「どうして、そんなことを知りたいんです?」

 北原の口から医療ミスの話が出ると思っていたのに、

「実は‥‥‥」

 彼の口を突いて出たのは、下海から性病をうつされたという、意外な事実だった。

「‥‥‥そうだったんですか。でも残念ですけど、お役には立てませんわ。下海さんがドクターと付き合っていたなんて、初耳ですから」

 予備校講師に会ってから、都は下海の付き合っていたドクターを確定していて、北原の最終目的が医療ミスの解明であることも何となく理解できたが、医療ミスをどう利用するか分からず、迂闊なことも言えないので、取り敢えず話をここで打ち切ってしまった。

「そうですか。そりゃあ残念やけど、しゃあないな。ところで久し振りに東京へ出てきたので、二、三日こちらにいてようと思ってんですわ。もし時間が出来たら、一緒に食事でもしてもらえませんか」

 引き際が肝心、というより、都の微妙な表情から、北原は都の心裡を読んでしまっていた。あとは攻略、というか恋の駆け引きの中で、なるようにすればよく、又なるようにしかならないのが、世の中なのだ。ま、所詮この世は男と女。異論もあろうが、北原の処世訓だった。さて、どう転ぶか。北原は携帯番号の記載された名刺を渡すと、都に別れを告げて、御茶ノ水駅から藤野教授の研究室へ向かったのだった。


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