第13話 偶然の悪戯(いたずら)
八月の二十三日に、靖子はチャリで八瀬・大原へ出かけることにした。そして八月最後の日曜日には、小林の車を借りて本多の後をつけようと思っている。出来ればそんな卑しいまねはしたくなかったが、もう限界だった。靖子の頼みに、小林は車の用途に気付いたのだろう、一瞬ためらいを浮かべたが、
「ええ、いいです。最近は滅多に乗らないから」
快く愛車の使用を許してくれたのだった。司法試験の勉強に打ち込んでいないのであれば今日、小林を誘ったのだが、邪魔をしては悪いと思い声をかけなかった。スハルノがいれば彼を誘ったところだが、夏休みに入るとすぐインドネシアへ帰ってしまった。政情不安に加え、民族・宗教紛争勃発の危険ありとのことで、後期の授業が始まるまで、たぶん日本へ来れないと一昨日メールが届いたばかりだった。
「行ってきまーす」
久子に告げて、十時過ぎに家を出た。今日の靖子はいつもの彼女からは想像もできない身なりをしていて、ベースボールキャップにサングラス、Tシャツに短パンという出で立ちなのだ。チャリもいつものママチャリと違ってマウンテンバイクだった。
本多たちと一緒にチャリで祇園のN・Bへ行くようになって、靖子はマウンテンバイクを購入した。最初の日は靖子を気遣って、本多は今出川通りを走って祇園へ出たが、次回からは京都御苑を通るいつものコースを選んだ。靖子が希望したこともあったが、しかし走ってみると、ママチャリでは御苑の砂利にタイヤを取られ走りにくい。これがマウンテンバイクを購入した動機だった。
「マウンテンバイクを買うために、東京へ帰るのを控えてるの」
本多にそんな言い訳しか出来ない自分たちの仲が、靖子には寂しかった。母の遺産のおかげで、手元に処分できる十分すぎる財産があるのは、本多は百も承知なのだ。
大学へ通う足にするつもりで購入したマウンテンバイクだったが、靖子はまだ一度もそれに乗って大学へは行っていない。一、二回生の法学概論を受け持っていて、男子学生に〈沢口マドンナ〉と有名女優に因んだニックネームで呼ばれる靖子としては、男のような格好をしてマウンテンバイクに跨がることは矢張り抵抗があった。だから今日が初乗りと言ってよかった。
高野川に沿ってしばらく走ってから、国道三六七号線に乗り花園橋へ着く頃には、靖子は変速ギヤの操作にも慣れてしまった。東京にいた頃はチャリでこんな長距離を走ることはなかったし、京都でも今日が初めてだった。
暑い日差しを浴びてうっすらと汗をかきながら、靖子は八瀬へ向かう坂道を上って行く。走るにつれて道の勾配は険しくなり、靖子の息が上がる。眼下に見下ろす高野川も先程までの穏やかな佇まいはすっかり消えて、切り立った岩肌を木々の間から覗かせる荒々しい雄姿に変わっていた。
バイクを降りて押してもいいくらいの急坂に何度も差しかかるが、その都度ギヤをローにして上り切る。京都で暮らすようになってから自分でも驚くほど体力がついた。体から汗を吹き出しながら曲がりくねった山道を駆け上がっていたが、ひんやりと涼しい木陰で靖子はようやく足を止めた。背中のリュックから水筒を取り出すと、よく冷えた麦茶を渇いた喉に流し込む。さあ、三千院まであと一息だ。談笑しながら坂道を歩く―――観光客の一団を追い越して、靖子は十二時前にやっとお目当ての寺院に着いたのだった。
目的地へ着いた安堵感からか、それとも体を動かさなくなったので余計なことに気が回るのだろうか、忘れたいはずの嫌なことが頭に浮かんで来る。間もなく、本多が〈ある人〉と会う時間なのだ。
―――今日は忘れよう‥‥‥。
マウンテンバイクを鳥居下の坂道に立てかけ、靖子はキュッと口を結んだ。
彼女は嫌なことを忘れるためにも、観光客に混じってゆっくりと三千院の境内を散策したが運命とは皮肉なものである。靖子がもう少し早く見物を終えていれば、本多と千津に会わなかったはずなのに、忘れるための散策が靖子に二人の密会場所を教えてしまった。
せっかく大原へ足を運んだのだから、寂光院へ寄って行こう。そう思って三千院を後にして国道三六七号線に差しかかると、見慣れた車が目の前を通り過ぎるではないか。自分も十数年前、助手席に乗ったことのある英国車で、先日、本多が東京から乗って来たものである。
車は大原のバスターミナルを少し行った人気のない所で停車した。腕時計に目をやると、ちょうど一時。靖子の網膜には当然、木陰から俯き加減で人目を忍ぶように出てきた、千津の姿が写し出されている。
―――やはり!‥‥‥。
靖子の勘は当たっていたのだ。彼女はハンドルを握ったまま、二人を乗せて走り去る車を呆然と見送っていた。車のクラクションでようやく我に返ってバイクを道路脇に移動させたものの、靖子は大原のバスターミナル前から下宿までの行程を全く覚えていない。帰ろうと思ってマウンテンバイクに跨がると、目から涙が溢れ出した。天を仰いで必死に堰を作っていたが、溢れる涙は頬をぼうだして止めようがなかった。震える手で涙を拭いペダルを漕ぎ始めると、今度は体が激しくわなないて、堪えようとしても嗚咽が漏れてしまう。これまでの人生で味わったことのない、言い表しようもない惨めな気持ちだった。恐らく下り坂でなかったら、途中でへたり込んでいただろう。泣き濡れた顔で平井家の玄関をくぐると、
「お帰り。早かったじゃないか」
久子が朗らかな声で迎えてくれたが、
「―――どうしたの!?」
尋常でない様子に、驚いて玄関まで駆けて来た。
「おばさま!―――」
靖子は不覚にも、久子の胸に顔を埋め泣いてしまった。平井教授がいれば、虚勢を張って平静を装っただろうが、母のように心安い久子だけだったので弱気が勝ってしまったのだ。
「見たんだね。大原で‥‥‥」
久子の口から意外な言葉が漏れる。
「えっ!?」
驚いて彼女の顔を見つめると、
「嫌な予感がしてたんだよ。昼ごろ三千院へ行くって言うから。ひょっとして大原のバスターミナルの所で鉢合わせやしないかって、気が気じゃなかったんだよ‥‥‥」
久子は靖子の顔を見ずに、いまいまし気に呟いた。
「‥‥‥ご存じだったんですか」
「いや、私もね、三―――いえ、ついこないだ、大原のバスターミナルで見かけたんですよ」
本当は三年前、三千院からの帰りに二人を目撃したのだが、少しでも靖子の気持ちを和らげようと、「ついこないだ」、と言い直した。千津に同情していたので安政にも黙っていたが、久子はもう黙認するわけには行かなかった。娘のように可愛がっている靖子が、こんなにも傷ついているのだ。
「‥‥‥千津さんも、どういう了見なんだろうね。義雄さんがあんなだからって、していいことと悪いことがあるじゃないか!」
久子は憎々し気に吐き捨ててしまった。すでに娘を守る母親の気持ちになっていた。
「‥‥‥ご存じなんですか? 相手の女性を」
靖子が恐る恐る久子の顔を覗き込むと、
「ご存じも何も、私と平井が仲人を務めたんだから、―――千津さんと義雄さんの」
「それじゃ、相手の方は結婚なさっているんですか」
靖子の頭に一瞬、〈不倫〉という二文字が浮かぶ。
「ええ、そうなんですよ。ご主人の義雄さんてのは、平井の山岳部の後輩でね。八年前、一の倉沢で重傷を負って、―――ほら、何て言うの? 脳の機能がだめになった人のこと‥‥‥」
「脳死ですか?」
八年も生存しているのだから植物状態と言うべきだが、靖子は久子の言葉に引き摺られて脳死と言ってしまった。
「そう、その脳死になってしまって」
久子はダイニングへ靖子を連れて入り彼女を椅子に座らせると、自分も正面に腰を下ろし、白井千津と義雄のことを詳しく話し始めた。
―――彼女に会いに行こう‥‥‥。
久子から千津の情報を得ると、靖子の不安はずいぶん和らいだ。大原で二人を見送った時は、本多が手の届かない遠い彼方へ去って行ったように感じてしまったが、何とか自分の方へ引き戻せる。久子の話を聞きながら、靖子はそんな自信が湧いてくるのだった。
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