第2話 バーN・B
「センセイ。キョウハ、飲ミ行ケマスカ?」
五時過ぎに、留学生のスハルノが本多の部屋のドアをノックした。講義から戻り一息つく頃合いを見計ってのノックで、社交会でつちかわれた嫌みのない気配りだった。
「‥‥‥いいよ」
苦笑いを浮かべ、本多は麦茶のグラスをテーブルに戻した。打診がなければ、こちらから声をかけるつもりだったのだ。
「ホントゥー!」
スハルノは勢いよくドアを開けて、褐色の笑顔をのぞかせた。彼の後ろには、背の高い助手の小林が頭を掻いて遠慮がちにたたずんでいた。
スハルノはインドネシアの名門の子息で、本国では贅沢三昧の日々であったが、ここ日本では勝手が違った。デフレ気味といってもまだまだ高物価のため、留学生は大抵、欠乏に喘(あえ)いでいるが、本国からの送金に頼るスハルノには日本との貨幣格差が追い撃ちをかけ二重の苦しみを強いられていた。
「先生。久し振りに祇園のN・Bですか?」
小林がスハルノの頭越しに、行きたい店の名前を伝える。毎週水曜は祇園のN・Bとの決まりだったのに、ここ一カ月近く、水曜日に北原が訪れていたので、小林とスハルノはお預けを食っていた。
「そうだな」
講義案をカーフの革鞄に仕舞う手を止めて、本多が振り向くと、
「ナイス!」
よほど行きたかったのか、小林とスハルノは右手を顔の前で握りあって喜んだ。
「それじゃ、今日の質問は半分程度にして、残りは明日に回そうか」
部屋へ入ってきた小林とスハルノに、本多も笑顔で質問カットを申し出て、二枚目の用紙を机に戻した。
ゆったりとソファーに腰を下ろし、一時間余りの質疑応答の後、
「―――では、今日はここまで」
本多の声で、アイスティーを味わいながらの、気の置けないサロン風大学院講義が終わった。
ドアを施錠し、厳めしい真鍮の鍵をドアの桟に隠す―――といっても、先達からの習いなので〈公然の隠し場所〉へ置き、本多は二人の後から三階の廊下をゆっくりと歩いて行く。部屋の窓は御苑(京都御苑)の青々と目にまぶしいほどの若葉を映し出すが、北に臨む廊下からは広がるキャンパスの全貌と町並みが見渡せて、パノラマの壮観だった。御苑の緑には較ぶ可くもないが、キャンパスも垣根の緑が幾重にも縦横に走り、その中をクラブ活動に励む者と帰路につく学生たちが行き来する。
この大学へ助教授として迎えられ既に五年が過ぎてしまったが、大学で教鞭をとって分かったのは、季節の使者が学生の衣服だということだった。特に女子学生のそれが、敏感に季節を映し出すのだ。
東京にいる時は資料室と自室に閉じ籠りきりで服装の変化を感じ取る余裕もなかったが、京都へ来てやっと人間らしい心のゆとりが持てるようになった。ノースリーブの、グリーン・イエロー・レッドとカラフルなシャツをまとう女子学生たちを眺めながら、もう東京へは戻れない―――と思う。
―――しかし‥‥‥。
十四年前の約束を履行せよと、藤野英則がとうとう娘の靖子を送り込んできた。要求を口にすることはないが、意図が分かるだけによけい本多は心苦しく、負い目がいっそう増幅されるのだった。
「先生。祇園まで何時ものようにチャリで行きますか」
大学院事務室前で、エレベーターを一瞥し、小林が振り向いて本多に伺いを立てる。背の低いスハルノとは三Oセンチ近い身長差があって、小人の横に立つ巨人さながらの観であった。
本多も一八Oセンチ余りの身長があるが、小林はまだ一回り大きく、細身だが鋼(はがね)の如くしなやかな体躯だった。彼は本学での本多の親衛隊長ともいえる存在で、学者としても人間としても、本多を心から尊敬していた。
小林が本多に心酔するきっかけを作ったのは、三年前の学生と教授会の団交(団体交渉)だった。この大学も京都市内にある他の私大と同じく、当時、京都市外への移転問題で紛糾していた。
学生たちの言い分は多岐にわたるものであったが、移転決定の透明性の欠如が最大の争点といえなくもなかった。何度か全学集会という名の大学側の説明会がもたれたが、移転強行派の焦りと反対派学生の不満を増幅させる以外の何ものをももたらさなかった。
結局、苛立った強行派の理事・教授たちは今後の全学集会を打ち切って、キャンパス移転の強行を図ってしまった。これには、これまで腰の重かった体育会系の学生まで激しい抗議行動を起こし法学部長である平井安政に団交を申し入れ、デユープロセス(適正手続)違反を法学部長に認めるよう迫ったのだった。
平井は本多を本学へ迎えてくれた中心人物であり、しかもキャンパス移転強行派にとっては反対派学生への捨て駒のような存在であったことから、本多は平井に付き添って団交に臨まざるを得なかった。
しかし本学O・Bでなく、東京の旧帝大出身者の団交への出席は学生側の印象をさらに悪化させたのは事実で、平井と本多は深夜に入っても解放されず、全く無意味としか言いようのない責任追求に晒されていた。
脅迫罪や監禁罪が成立する場面といえなくもないが、学生の抗議行動に対して大学が機動隊や警察の出動を促すことは滅多になかった。大学の自治を守るという名目が優るが、身内の恥を晒したくないという意図も多分にあった。
大講義室を埋め尽くす学生たちのヤジと怒号が渦巻く中で、まともな答弁などなし得るはずもなく、空回りの議論の中で心身共に消耗し、大学側出席者は疲労困憊(こんぱい)に陥っていたが午前三時近くになってとうとう平井教授が倒れてしまった。本多の救急車の手配要求にもかかわらず、学生たちは、
「仮病だ! 虚偽の気絶だ! お前たちの欺瞞には、もう騙されないぞ!」
と、全く聞く耳を持たなかった。
膠着状態を打開するため、本多は体育会系学生のリーダー的存在であり空手部のキャプテンだった小林に、
「どうだろう。このままではラチが明かないし、平井教授の命にもかかわるので、君と僕が皆の前で仕合って、僕が勝てばこの場は取り敢えず我々二人を解放してくれないか。もし僕が負ければ、僕と平井教授が責任を持って今週中に全学集会の開催を理事長に要請しよう。そしてそれが成らなかったら、二人は大学を去ろう。もちろんそのための念書も書くから」
と、提案してみた。我ながら馬鹿げた申し出だと思ったが、異常下では得てして可笑しな提案が通り易く、平井の状況を考えると一刻を争う事態でもあった。
「ナンセンス!」
と叫ぶ者もいたが、結局は本多の提案が受け入れられた。学生たちも意味の無い、紋切り型の追求に飽き飽きしていたのだ。全国大会での入賞経験を持ち、全関西二位の空手部キャプテンがよも負けることはあるまいとの楽観。それに、高名な学者を祖父と父に持つ、本多の敗北にも多分に興味があったであろう。
が、結果は学生たちの期待を裏切って、本多が勝利を収めてしまった。唐突な提案も勝算に導かれてのもので、その意味では小林も学生たちも本多にして遣られたということになるだろう。
学生空手界で一目も二目も置かれている小林になぜ本多が勝てたかは、彼より三代前の曾祖父・本多正直(まさなお)に起因するものだった。彼が本多家の家訓を作った人物であり、死して六十年余りにもなろうというのに、いまだに一族の強堅なタガとなって子孫に大きな影響力を及ぼしていた。
本多家は徳川家康の最高謀臣として初期幕政に参画した、あの本多正信の末裔である。幕府治世下では権勢を誇った家柄も、明治政府の下では足枷にこそなれ、生きる縁(よすが)となることはなかった。
明治十九年生まれの正直も例外を形成するものでなく幼少の頃から塗炭の苦しみを味わってきたが、三十七歳の時、ようやく転機が訪れることになった。
東京での生活を諦め、失意の内に正信の出身地である三河(愛知県)へ戻って一カ月もしない大正十二年九月一日のことだった。突然マグニチュード八の大地震が関東地方を襲ったのだ。世にいう関東大震災である。
この大地震は、東京・横浜・湘南・房総半島南部に地震による大きな被害をもたらしただけでなく、東京・横浜などは余震の中で火災が発生し、特に東京の下町は火の海に包まれてしまった。
震災による窮状をいち早く察知した正直は、全財産の処分は言うに及ばず考えうる限りの借財を果たし、それを元手に市場はおろか林産地の材木に至るまでも支配下に収めてしまった。震災からの復興は膨大な木材需要をもたらすと踏んでの素早い行動だったが、彼の目論見が図に当たったのは言うまでもなかった。
莫大な資産を形成し、一躍青年実業家に躍り出た正直は、本多一族の未来永劫に渡る繁栄の画策に着手したのだった。手段は、厳格な家訓の確立と子孫によるその実践であった。
正直には三人の子供があり、長男正則・次男二郎、そして二人の間に挟まれて、長女ハナがいた。まず正則は最高学府の法学部へ入学させ、そこの教授に就けるとともに彼の長男も同じ道を歩むことを義務付けた。次男の二郎は経済の分野が担当で、企業集団としての本多グループの統括が彼の仕事だった。そして長女ハナは、当時、政界に隠然たる勢力を保持しつつあった橋本家へ嫁がせたのである。
これにより正直は、日本の学問と政財界に本多の血を注ぎ込むという、とてつもない野望を果たそうとしたのだった。しかも田分け現象による資産の散逸を防ぐため、徹底した長子相続を宗とし、複数の男子が生まれると次男以下は資産家の娘と婚姻させ婿養子という形態をとることを義務付けたのだった。
資産の消失防止のみならずグループへの資本還流に道を開く意図が明らかだった。が、この家訓のため二郎の系統である藤野英則は、大学の経済学部を卒業すると同時に藤野家の長女との縁組みが組まれ、婿養子とされてしまったのだった。
明治憲法の下では成り立ち得る家訓であったが、人権保障にあつい日本国憲法下では修正を余儀なくされ、現に藤野英則は妻の理解により卒業大学へ学士入学を果たし、現在法学部の教授をしていた。本多にしても、家訓に指定された母校を離れ、京都の私学の助教授に就いているのだった。
ただ一族全体から見ればこの二人は大きな例外で、彼らを除いては家訓の修正幅は小さく、正直の意向は現在に至るまで本多一族に脈々と受け継がれていると言っても過言でなかった。
この家訓以外にもう一つ、正直が子孫に伝えたものがあって、彼によって編み出された理新流柔術と呼ばれる格闘の技だった。命のやりとりをする場面に幾度となく遭遇したのであろう。正直は格闘技の必要性を痛感したようで、若い頃から護身術の考案に余念がなかった。
彼の生活体験に根差したともいえる実践的格闘技が理新流柔術だが、これも元をたどればもちろん剣の道にたどり着く。剣道各流派は大かれ少なかれ当て身を主体とする柔術の技を持っていたが、大抵は剣道の付属たる域を出ず、嘉納治五郎により創設された柔道の隆盛の前に大半がその消滅を余儀なくされて行った。
本多家に伝わる理新流柔術も一族以外に知る者はないが、これは家伝のものとして意図的に門外不出とされてきたからである。
謀臣たる本多正信は、陽の当る剣道より、陰の柔術に引かれたのではないだろうか。理新流柔術も、起源は正信に遡るのではないか。幼少の頃からの、漠然とした本多の疑問であったが、大学の古武術研究クラブに入り柳生新陰流柔術を知ったとき、長年の疑問が氷解したのだった。
徳川秀忠の執政と兵法師範。本多正信と柳生宗矩の抽象像が、本多の内で初めて具体的人格を成したのだった。
団交会場における仕合いから遠ざかってしまった感があるが、仕合いの結末の疑問を知る上でも、また本多の男達の強靭な心身の理解のためにも、最後に正直の編み出した理新流柔術とは如何なるものであるかの検討は有意義であろう。
理新流柔術も人を倒す格闘の技である以上、空手・柔道・拳法などと基本的に異なるところはないのであるが、以下の点で際立った特異性を放つものであった。
第一は、攻撃時における防御のスキ―――これを最大の攻撃チャンスと位置づける点だった。攻撃を仕掛ける者は防御を考えないか、たとえ考えても当然、二の次になってしまう。その一瞬のスキを突くのである。
第二に、わずかのスキに乗じるには、鋭い踏み込みを身につける必要がある。踏み込みと間合いの詰め、そのための素早い運歩法の鍛練に大きな力点が注がれた。
第三は、急所の徹底解明。わずかの力で致命傷を与える部位への攻撃は、当然速く出すことが出来る。相手の攻撃がいかに破壊力が大きくとも、彼よりわずかでも速く急所へ攻撃できれば、攻撃を受けずに相手を倒せる。当然の道理であろう。
以上の三つを、本多家の男子は幼少時より頭と体にたたき込まれるのだ。富豪の子弟が甘やかされての贅沢三昧の暮らし―――そして没落。これは著しい誤解であり、公平感を生み出すために意図的に捏造(ねつぞう)された偏見の趣が多分にある。そのような家庭は比率的にはそれほど多くなく、厳しい幼少時を過ごす富豪の子弟は少なくはなかった。本多も例外でなく、幼い頃から父の一郎に柔術の極意を教え込まれてきたのだ。
さて、団交会場へ戻る機会がようやく与えられることになったが、すでに柔術の極意を極めた本多にとって、小林を倒すことは朝飯前のことと言って良かった。まず相対する前から、小林には油断があった。よも負けることはないという自惚れが生んだものであるが、これだけで既に勝負はついていたといって良いだろう。
次に、小林には最初の攻撃に対する迷いがあった。これも本多には手に取るように分かった。教師に対し、拳や蹴りによる顔面への攻撃は控えようと、顔に書いてあった。
結局、腹部へ前蹴りを入れるか、本多の左体側部に回し蹴りを放つしかないのだが、小林は本多の読み通り右足の回し蹴りを放ったのである。空手部のキャプテンをしているだけあって体捌きは滑らかで侮れない相手であったが、体重を左軸足に移す瞬間、小林に防御のスキが生じてしまった。攻撃のチャンスが生まれたのだ。
右足がわずかに地を離れたとき、すでに鋭く踏み込んだ本多の当て身が、小林のミゾオチに食い込んでいた。
余りに呆気なく、また意外な結末に、皆、呆然としていたが、本多の喝で小林が気を取り戻すと、再び騒ぎ始めた。夢想だにしなかった結果に、不満の声が沸き起こったのだ。
「おい、みんな! 約束は守ろうじゃないか! ―――な、頼むよ」
小林が必死に説得してくれたおかげで、本多と平井は無事に解放され、団交会場を後に出来たのだった。
「そうだな。何時ものようにチャリで行こう」
小林の問いに微笑を返すと、本多は二人を促して開いたエレベーターに乗り込んだ。エレベーター内で、三人とも手際よくバッグをショールダーから背中に掛ける。
京都という町ほど、自転車が重宝する町は他に少ないだろう。歩道の整備が行き届いて坂が少ないことも手伝い、少々の距離を走っても疲れないのだ。
アルコールが入るときはタクシーに限られるが、雨の日を除き、本多はマウンテンバイク・オンリーのバイク党だった。
チャリに跨がり校門を出ると、三人は今出川通りを並んで東へ走る。途中、何度も女子学生がさよならの挨拶をくれる。三人のバイカーは結構、女性の評判が良いのだ。
車で賑わう加茂大橋を渡って、今度は鴨川沿いに南へ下って行く。六月も半ばを過ぎると初夏の匂いが町の至る所にたちこめていて、鴨川の水までほんのりと甘い香りを鼻腔に漂わせてくれるのだった。
ワイシャツの背中に鞄を背負い、二十分も漕がない内に三人は人と車で込み合う賑やかな四条通りに着いた。鴨川沿いの歩道にチャリをとめ、通りを東へ渡ると既に祇園の一角である。
五年前と較べ町並みは変わらないが、風俗や量販店の出店ラッシュでネオンや照明がけばけばしくなり、この界隈は何とも風情が乏しくなってしまった。
足下を流れる白川を渡り東へ折れると、心地よい闇が辺りを覆って、京情緒溢れる通りがほんのりとした明かりの中に、敷き詰められた石畳を浮かび上がらせる。
白川の流れに沿って、人影まばらな枝垂れ柳並木を少し歩くと、左手にお目当てのN・Bがある。電動の格子戸をくぐり抜けて店内へ入ると、
「まあ! 直さん―――。おこしやす」
本多を見て、ママの仁美が薄化粧の福よかな笑顔で迎える。小柄な体に涼しげな白い和服がよく似合う。一カ月近く来店しなかったので、何か口から出かけたのであろうが、不粋なことは御法度なのだ。
「ね、直さん。ちょっと」
調理の手を洗いカウンターから出てくると、仁美は、小林の横に座ろうとした本多に声をかけて、店の一番奥の席へ彼を誘う。すでにスハルノはにわかバーテンダーを決め込んで、カウンターの中でシェーカーを振っていた。
「うん?‥‥‥」
本多が怪訝顔を浮かべ、鉢植えの陰のテーブルに腰を下ろすと、
「こないだから、頼まれ仕事が入ってたんやけど、直さん、来てくれはらへんかったから」
仁美は彼の肩に右手をおいて、少し口を尖らせ拗(す)ねるような仕草を浮かべた。余程の急用でない限り、彼女は本多のマンションや携帯へ電話を入れることはなく、可笑しいくらい頑(かたく)なに筋を通すのだった。薬科大学出のインテリであるがすっかり祇園のママになり切っていて、十年余りの、総合病院調剤部勤務は微塵も感じられなかった。
本多は小柄な美人を眺めながら、女性の適応力の強さに改めて驚かされるのだった。商船大卒の船乗りと大学在学中に恋に落ち、卒業と同時に結婚したものの、わずか三年で夫を亡くしてしまった。子供のいない身軽さとはいえ、大胆な変身は余程の事情が関与しているのであろうが、本多は尋ねたことがなかった。
「‥‥‥うん。親友がここしばらく、水曜日に欠かさず顔を出していたもんだから」
苦笑しながら、本多は来れなかった言い訳をする。北原を連れて来れば良いようなものだが、酒を断っている彼の横で自分一人飲むほど、本多は神経が鈍くなかった。
北原は銀座の事件以来、ずっと酒を断っていて、この十四年間、一滴のアルコールも口にしたことはない。理由を言わないが、藤野英則への感謝の気持ちを忘れないためであろう。もちろん被害者の遺族に対する後ろめたさもあろう。
「で、仕事の内容というのは?」
本多はロックのダブルを一口含んで、ゆっくりと喉へ送り込んだ。
「今年の初め、直さんに頼んだのと同じ仕事なんえ」
「―――また、あれか‥‥‥」
本多は顔をしかめた。全く気乗りのしない仕事なのだ。彼の好みは、謎解きで八、九割の解決を見、残りの一、二割に体を張るというものである。例えば北原の事件がこれに当るが、残念なことに料金は取れず、仁美にまわる仕事ではない。いずれにしても、一月にした仕事は謎解きを楽しむという類のものではなかった。
最近、京都でも新興宗教による被害がまたぞろ相次いでいるが、その中でも特にひどいのが、教祖の独善的解釈に基づく宗教原理を教え込んで、無垢な若者に家族との絆を断たせようとする、似非(えせ)教団だった。
社会経験の浅い若者は、社会悪への抵抗力が弱く簡単に騙されてしまう。おまけに一途な情熱があるだけに質が悪い。N・Bの常連客の娘がまさにそうだった。
完全に洗脳されてしまって、家の財産を持ち出すだけでなく、奉仕活動と称して大学へも出ずにいかがわしい商法に従事させられていた。気付いた親の反対にあうと、今度は家を飛び出し〈神の絆〉と呼ばれる信徒仲間との共同生活に入ってしまった。
客の依頼は合宿所からの娘の救出であった。救出そのものは難しい仕事ではなく、奉仕活動に出たときを利用して、小林が彼女を連れ去るだけで十分だった。娘に対する誘拐罪の成立が認められようが、大したことではない。
盗人にも三分の理ということが昔から言われている。三分では足りないが、五分を少し上回れば人は自分の行為を正当化できるのではないか。裏の仕事をし始めて、本多はそう考えるようになった。
目隠しをし、猿轡を噛ませて、その夜の内に六甲にある仁美の山荘に彼女を運び込んだ。本多と小林が依頼主と顔を合わせることはなく、後は仁美の領域である。
しかし、この仕事はそれだけで終わらなかった。邪悪な宗教に侵された若い魂は、容易に元に戻るはずがないのだ。結局、乗りかかった舟として、宗教からの足抜きまで請け負う羽目に陥ってしまった。
短期間に正常に戻さねばならぬという、強い家庭の事情と父親の情にほだされてのことであるが、その結果、小林はほぼ一カ月近くの間、監禁状態の中で彼女と起居を共にしなければならなかった。後日トラブルが起こることは皆無と踏んでの選択だったが、いまだにあれで良かったのかと、本多は悩むことがある。
「ママ。あの仕事はもう駄目だよ」
第一、小林が女性と一カ月も生活を共にできるような状態ではなくなっている。彼は靖子が講師に赴任してからというもの、彼女に夢中で、
「自分も司法試験に合格して、少しでも藤野さんに近付きたいんですが‥‥‥」
と、本腰を入れて受験勉強を始める気配なのだ。もちろん、靖子が本多に特別の感情を抱いていることなど知る由もなかった。
「やっぱりアカンね。一月の時、直さん言うてはったもん」
仁美もあっさりしたものである。大体、仕事料にしても彼女が要求するのではなく、依頼人の気持ちで決まるという商売っ気のないものだった。
本多の気持ちが分かると、仁美はもうそれ以上仕事の話はしなかった。
給料日前の事情も手伝ってのことであろうが、今夜、N・Bを訪れた客は、本多らを除きわずか二人という寂しさであった。
ここ祇園も停滞気味の日本経済を反映して、かつてのように店を開けているだけで客が転がり込むという、夢の時代は今は昔になっていた。仁美のように浪費家の旦那を持たず、堅実に切り盛りしてきた者はかなりの財産を残しているが、ほとんどの店は高額のテナント料と人件費に泣かされ、おまけに客の奪い合いのような状況の中で経営は決して楽ではなかった。
常連の二人の客が十一時過ぎに帰ると、仁美は店の片付けをスハルノと小林に任せて、本多の横でドライマティニのグラスをゆっくりと口に運ぶ。亡夫の好きだった酒を、気に入った客の横で飲むのが彼女の最高の贅沢なのだ。
本多は、スハルノが注いでくれたスコッチをオンザロックで味わっていた。彼はウィスキーはスコッチしかやらない。恐らく父の影響だろうが、子供の頃に身についた英国志向はなかなか頑固で、無意識の内にもそれが出てしまうのだった。
十二時前に片付けが終わると、
「おおきに」
仁美はスハルノと小林にねぎらいの言葉をかけて、N・Bの灯を消した。縄手通りで客待ちのタクシーを拾い、
「アデュー」
フランス語で三人に別れを告げると、彼女は四条大宮へ帰って行った。
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