古都にくちづけ、さよなら吾妻都(刑法学者と売れない作家が、大学病院と出版社のミスと不正に迫る)
南埜純一
第1話 水曜日、刑法教室を訪れる客
【表稼業は刑法学者。裏のそれは難題解決請負人】
キャンパスを南北に走る―――人の背丈ほどに刈り込まれた垣根から、ときおり卯の花が匂い立つ六月半ばの水曜日のことだった。京都御苑を見下ろす大学の助教授室で、背の高い二人の男がラム革のソファーに体を預けて向かい合っていた。
南窓を背にゆったりと両腕を背もたれに伸ばし、くつろいだ仕草でサンダル履きの足を組むのは本多直則(なおのり)で、彫りの深い知的な面立ちは一目でこの部屋の主と分かる。―――が、太い眉と涼やかな瞳、それに贅肉のないスリムで頑丈な体躯(たいく)は、どこか大学教師と思えぬ風情も醸し出していた。
さて、訪問客の紹介が遅れてしまったが、名は北原雄治。本多の十八年来の親友で、整った目鼻立ちだが、ボクシングのヘッドギアのせいで揉(も)み上げが少し縮れた厳つい野武士然とした風貌だった。
「ところで、‥‥‥浪速帝大病院に一泡吹かせ、溜飲を下げるのもいいがな、相当な反撃を食うぞ。もちろんお前は覚悟の上で、受けて立つつもりだろうが、聖人君子だって叩けば埃(ほこり)の一つや二つは出るんだから」
「ああ、お前も知っての通り、俺は埃だらけの身やからな。‥‥‥ま、男いうのは救いようのない人種やけど、ピリっとしたとこも死ぬまでに一回ぐらい見せとかんとな。折角この世に男と女を創ってくれた、神さんに申し訳がないやろ。それに、もし汚い反撃してきたら、俺も大学病院の恥部を徹底的に暴(あば)くつもりなんや。材料は事欠かんからな」
北原は自嘲気味な笑みを浮かべ、言葉を継いだ。
「ま、そういう意味では格好の舞台やないか。この際、大学病院と刺し違えて大掃除するのもエエやろ。そやから、その辺の心配は無用にしてくれ。―――それはそうと話は変わるが、靖子女史は今日も居てないのか? さっきドアをノックしたのに、応答がなかったぞ」
北原は短くなった煙草を灰皿でもみ消すと、思い出したように本多を見上げた。
「いや。昨日学会から帰って来たので、今日はいるよ。今、講義中だ。―――もう終わる頃だな」
親友の問いに、本多は苦笑しながら腕時計に目を落とした。靖子女史とは藤野靖子のことで、彼女はこの四月に本多の勤務する大学に講師として採用された、世にいう才媛であった。
「藤野教授も、とうとう最愛の一人娘まで送り込んできたんやな‥‥‥」
北原が同情口調で、ため息交じりに親友の顔をのぞき込むと、
「‥‥‥うむ」
本多も苦笑いを返した。
「しかしまあ、物は考えようやで。そこまでしてお前を東京へ連れ戻したい言うんやったら、戻ったったらどうや。それに今時、あれだけのベッピンは滅多にいてないで。おまけに頭は折り紙つきやし」
「おい。可笑しなことを言うなよ。靖子と俺は親類なんだから」
北原の次の言葉を牽制しようとして、本多は親類という曖昧な社会表現を持ち出したが無駄だった。
「可笑しいのは、お前の方やで。お前と藤野教授は祖父どうしが兄弟やさかい、六親等やないか。その人の娘とお前が結婚するのに、何の差し障りがあるんや。法学部の助教授の言とは信じられへんで」
「そうだったな‥‥‥」
北原に揚げ足を取られ、素直に頷いてから、本多は口をへの字に曲げてしまった。四親等の従兄妹どうしでも結婚が可能なことは、中学生でも知っているのだ。親友に指摘されるまでもなく、七親等の本多と靖子に法的な障害などあるはずがなかった。いずれにしても、こんな意味のない理由を述べるほど、本多はこの話題から逃げたい。
「藤野教授が俺を東京へ帰らせたいのは色んな思わくがらみのことで、―――それに俺の家のことは、お前もよく知ってるじゃないか」
眉間にしわを寄せて、本多はうんざりした口調で言葉を継いだ。
「まあ、それはよう分かってるけどな‥‥‥。せやけど、もったいない話やで。彼女、高校―――いや中学時代からお前のこと好きやったんちゃうか。ちっとは察したれよ」
どうやら、北原は本多と靖子をくっつけたいようである。八ヶ月前、妻と離婚し、「もう結婚はコリゴリや」の口癖男が、よくまあ人に結婚を勧められるものだと思うが、本多は切り返す意欲すら湧かなかった。
「もう、その話はやめよう」
まだ何か言いたそうな北原の機先を制し、本多がコーヒーを入れようと立ち上がった時、
「失礼します」
講義を終えた藤野靖子がドアをノックした。
「どうぞ」
本多の声でドアを開けたものの、北原の背中が目に入ると、
「お客様でしたか―――、失礼しました」
靖子はドアを閉めて隣の自室へ行こうとする。
「いや、北原だよ」
「え!? 北原さん!」
驚いた顔の靖子に、
「久し振りやな、靖子ちゃん」
反応を楽しむように、北原はおもむろに立ち上がって笑顔を向けた。三人は同じ大学の卒業生で、しかも本多と北原は古武術研究クラブにおける靖子の先輩でもあった。
「うん、なかなかいける味やな。夏はやっぱり、冷たい抹茶に限るな」
美人講師自慢の抹茶ティーを口に運んで、北原は後輩に軽口をたたいて彼女との回顧談に白い歯を覗かせていたが、
「それはそうと、お父さんはお元気ですか?」
靖子の父の話になると、柄にもなく改まった。豪放磊落(ごうほうらいらく)な男が急にかしこまるにはもちろん訳があって、彼はあわや退学処分のところを靖子の父によって救われていた。当時、助教授だった藤野英則は、本多に代わって何度か娘の家庭教師を引き受けてくれたという理由だけで、北原のために職を賭して教授会の決定を覆してくれたのだった。
〈銀座のホステスを巡る、ヤクザといわくつき学生の刃傷事件の真相!〉
週刊誌に見出しが躍り、連日、テレビのワイドショーまで賑わす事態に至ると、退学はおろか社会からの抹殺も時間の問題だったが、藤野は冷静沈着だった。
〈喧嘩闘争と正当防衛に関する一考察―――北原雄治君は、本当に殺人罪なのか?〉
学界誌に論文を発表し、大胆にも検察と裁判官を牽制する論陣を張るとともに、藤野は敢然とマスコミにも立ち向かい、正当防衛による無罪主張を展開してくれたのだった。
「ええ。昨年、胃の手術の後、少し塞ぎ込んだ時期がありましたが、今は元気にしています」
靖子の返事に、
「そうですか。胃の手術を‥‥‥」
北原は神妙になる。
「今度東京へ行くときは、必ずご挨拶にうかがうと伝えてください」
靖子に伝言を依頼すると、北原は二人に別れを告げて部屋を出て行った。
「あいかわらずダンディね。それに義理堅いところがとても好きだわ」
久し振りに気の置けない先輩に巡り会えて、靖子は上機嫌である。本多の向かいの北原が座っていたソファーに座りなおすと、
「おじさま―――。私が東京へ帰る水曜日に、よくこの部屋を訪れていたというのは北原さんだったんですね。小林君から聞いて、誰かなと思っていたんですが‥‥‥」
靖子は笑いながら本多の顔をにらみつけた。小林というのは、院生(大学院生)の小林安人のことで、本多の隣に、インドネシアからの留学生との相部屋が与えられている。
「どうして教えてくださらなかったのかしら?。‥‥‥さては、例の裏の仕事と関係がありそうね」
本多をにらんだまま、靖子は探りを入れてみる。確証があるわけではないが、どうも本多は大学教師以外に何か仕事をしている。ここ二カ月近くの間、本多の生活を注意深く観察した結果、靖子はそういう結論に達していた。どんな仕事をしているのか気になって聞いてみるのだが、
「俺も大学教師の安月給じゃ食っていけないから、何かいい裏稼業があればしたいと思っているんだ。いいのがあったら紹介してくれないか」
その都度、本多はトボけた答えで靖子の問いをはぐらかす。
「おい。ここでは、おじさまは御法度だろ」
何時ものように靖子の追求をはぐらかそうとして、本多は彼女の言葉尻を取る。彼はこの十歳下の遠縁の娘が苦手である。二カ月前、突然京都へ赴任して来たかと思うと、まるで母親のように本多の生活を監視して、口煩(うるさ)い。今も本多をのぞき込む顔は笑っているが、目は注意深く彼の反応を観察していた。
「なぜ、俺が裏の仕事をしていると思うんだ」
「だって、月々のおじさまの支出は、給料を遥かに上回っていますもの」
靖子はこの二カ月、本多の支出を丹念にチェックしてきたが、マンションの家賃と食費だけでも彼の給料を上回るものだった。
「だから不足分を填補する何かが必要だけど、一郎おじ様と邦子おば様からはお金は出ていないし‥‥‥」
靖子は本多を見上げて、意味有り気に笑う。一郎と邦子というのは本多の両親である。彼らは、息子が京都の私学の助教授になることに、絶対反対だった。というより、本多家の家訓がそれを許さないものである、といった方がよいだろう。
家訓の点は本多や靖子に関係する重要なことなので、後に詳しく説明したいと思うが、いずれにしても本多は建て前上、両親の援助を当てに出来ない立場にあった。
もっとも、本音の世界は建前(たてまえ)とは自ずから違う。母親が息子に甘いのは昔からの通り相場で、彼がいくつになっても、そのまま維持され変わることはない。
確かに靖子のいう裏の仕事もしているのは事実だが、謎解きを楽しむ趣味の域を出ないもので、得られる収入もたかが知れている。実際、不足分の大半は母の送金による補填でまかなわれていた。
「誰かスポンサーがいるわけでもないし‥‥‥」
靖子は全身の注意を緊張させて、本多の反応を窺う。ひょっとするとスポンサーがいるのではないかという疑いは、完全には払拭されていないのだ。
「―――すると、後は何か秘密の仕事をしていると考えるのが、論理の筋道でしょう?」
靖子は目をくりくり動かして、本多に自己の推論の是非を問いかける。
「なるほど‥‥‥」
母からの援助を知らない靖子としては妥当な推論であり、間違っていない。
本多が頷いたのを見ると、
「矢張り何か裏の仕事をしているのね」
靖子は目を輝かせて、身を乗り出してきた。彼女の知りたがっている裏の仕事というのは、祇園のバーのママ仁美が持ち込む事件の解決のことである。客から相談を受けた事件の中から、本多が処理するに相応しいものをママが選別し、彼に依頼するという関係が数年前から出来あがっていた。
学問の世界、というより東京の大学での出世競争で挫折を味わい、京都へ流れて来た本多にとって、仁美ママが持ち込む事件の解決はフラストレーションの解消に役立つだけでなく、なんともスリリングで興味深いものだった。教授の平井安政に初めて連れて行かれた夜、客の命を救ったのが縁で舞い込むようになった仕事だが、本多はこのアウトローの世界がとても気に入っていた。
「北原さんが見えられていたのも、裏の仕事と関係があるの?」
大学教師以外の仕事をしていると認めたわけではないのに、靖子はすでに決めつけている。
「北原の相談というのはね‥‥‥」
相談の内容は北原のプライバシーにも関係することなので、本多は話して良いものか迷ってしまう。もっとも、週刊誌にポルノチックな小説を連載し、おまけにプライバシーなど有って無い生活を送っている北原にとっては茶飯のことで、靖子に知られたからといって何の痛痒(つうよう)も感じないことも分かっている。
「北原さんの相談というのは?」
「うん‥‥‥」
色白の可愛い顔にじっと見つめられると、本多は妙な気分になる。これまで靖子に女を感じたことは全く無いといえば嘘になるが、極力そういう目で見ないように努めてきた。
しかし、ここしばらく身近に接していると、日増しにあでやかさを増し、しっとりと女らしくなったように思う。パーマをあて、うっすらと化粧をした顔からはかつての女学生の面影はすっかり消えてしまい、すでに二十六の成熟した女の色香を漂わせている。急に込み上げてきた邪(よこしま)な心を隠すように、本多はあわてて靖子から視線をそらすと、
「‥‥‥知り合いのナースに性病をうつされたんだ」
苦笑いを浮かべながら、北原が巻き込まれた事件について口を開いた。
「まあ!」
あまりに直截的な表現に、靖子は目を丸くするが、すぐ赤くなって俯いてしまった。これくらいのことでうろたえるようでは、どうやら二十六にもなってまだ処女のようである。
―――これまで言い寄ってきた男は随分いるだろうに‥‥‥。
恥ずかしそうに目を伏せた靖子を見ていると、本多は後ろめたくなってくる。人間というのは可笑しなもので、幼い頃や思春期に言われた何気ない一言を、まるで神の啓示のように受け入れてしまうところがある。靖子の場合、十二歳のときに祖母に言われた一言が、彼女の男性観と結婚観を完全に固定してしまった。
本多が靖子の部屋で彼女に勉強を教えていたとき、茶菓子を運んできた祖母の梅が、
「靖子は大きくなったら、直則さんのお嫁さんにして貰うといいね」
と、二人に微笑みかけたのである。十二歳の少女の顔が、傍目にもぱっと輝いたのが分かった。その日を境に、靖子の本多を見る目が変わってしまった。彼を男として意識しだしたのである。
「―――北原さん。あいかわらず御盛んなのね‥‥‥」
靖子は俯いたまま、ポツリとつぶやいてから、
「それで、どんな内容の相談なの?」
ようやく赤い顔を上げて本多を見つめた。
「うん。性病事件をどうこうするつもりは無いんだが、そのナースが北原にびっくりするような医療ミスのさわりを寝物語りに語ったらしい。そこで、性病事件をネタにして医療ミスを聞き出せないかという相談なんだ」
「医療ミスを聞き出して、どうなさるつもりなのかしら?」
「ポルノ小説から足を洗うためにも、ノンフィクションを書いて当てたいらしいんだ。そのためには、どうしても正確な事実をナースから手に入れる必要が有るだろう」
「でもそれって、脅迫罪にあたる可能性が有るんじゃないかしら」
靖子は自分の専門の刑法の罪名を持ち出す。
「微妙だな」
頷いたものの、本多は問題にしていない。相手の女は北原から金を騙し取っていて、それを立証する証拠は彼が握っているので、たとえ脅迫罪に当る行為をしても、彼女が訴える可能性はまず無いのだ。
「取り敢えず分かっていることはね、そのナースは以前、医者と付き合いながら、並行して病院出入りのプロパーと呼ばれる製薬会社の社員とも交際していたんだ。彼らと別れて寂しかったんだろう。北原がうまく誘われて据え膳を食ったら、毒まで食わされていたという訳だよ」
性体験を繰り返してきた女性にとって、一年近くも男なしで過ごすことがどれほど辛いことか靖子に話しても理解できないであろうから、本多は「寂しい」という婉曲的表現を使った。
「そこで最初の問題は、彼女に性病をうつしたのはドクターなのか、それともプロパーかということなんだ」
本多はソファーから立ち上がって、壁のホワイトボードにナースの頭文字Nと、それにDとPを書く。
「彼女は性病をうつされたのが分からなかったの?」
「うん。生々しい表現で恐縮なんだが、女性の膣というのは医学的には雑菌だらけと言ってよい状態らしいんだ。だから、菌が入り込んでも明確な自覚症状は出にくいんだって。それに対し、男性の尿道は無菌に近いので、菌が入り込むとすぐ自覚症状が出る。北原の場合も、潜伏期間が経過した二週間前後に激しい自覚症状が出たらしい」
「‥‥‥すると、彼女に性病をうつしたのはDとPの内で、彼女と最後に接触した人物ね」
靖子の推理に、本多は「ほう」という顔をして、
「どうしてそう思うんだ」
自分と同じ結論に至った理由を聞いてみる。
「いずれにしても、最後に接触した人物は性病に感染しているわけでしょう。たとえ感染していなかったとしても、彼女と接触することで感染してしまうから。そこで、もし彼が彼女にうつされたんだったら、北原さんと同じく彼女にそれを伝えて治療するように言うわ。でも、現実には彼女に性病感染を伝えなかったんでしょう」
よほど腑に落ちないのか、靖子は首を傾げながら続けた。
「‥‥‥ドクターやプロパーが意図的に性病をうつすということは通常考えられないから、誰かにうつされたドクターかプロパーが自覚症状のない潜伏期間内にナースと性交渉を持って、その結果、彼女にうつしたと考えるべきね。―――ということで、最後に接触した人物を疑うのが論理に叶うでしょう?」
「‥‥‥そうだな」
「最後に接触した人物はプロパーなの、それともドクターなの?」
「彼女は言わないんだよ。これは自分とうつした人物との問題だと言ってね」
「随分勝手な論理ね。北原さんに被害が生じているというのに」
「うむ‥‥‥」
本多も苦笑いを浮かべて頷いた。呆れんばかりにしたたかな女性で、生来のものか、医業に従事することで培われたものなのか、実は考えあぐんでいる。
「で、どちらがうつしたか分かりましたの?」
「俺の推理では医者だよ」
「どうして?」
靖子の問いに、本多は机の上のテープレコーダーを取り上げて再生ボタンを押した。本多の指示で、北原は電話やナースとの会話を録音していて、克明に会話内容が記録されていた。相手の承諾を得ていないので問題が無くもないが、裁判所は従来から証拠能力を認める傾向にある。
テープには三人の声が入っていて、北原以外は男女各一名ずつだった。この男女の犯罪の立証に役立てる意味もあるのだろう。女性の声は北原に対する二項詐欺という犯罪、男の声は脅迫罪の成立を証明していた。もっとも録音されている北原の声も慎重に言葉を選んでいるが、脅迫罪が成立する可能性無きにしも非ずという、きわどい内容であった。
「あなたは人違いをしています! どうして、そのナースが勤務している一外(いちげ:第一外科のこと)のドクターを捜さないんですか!」
ヒステリックに叫ぶ男の声で、本多はテープを切った。
「この声の主は誰ですの?」
「浪速帝大医学部附属病院の第三内科に勤務する、井上保夫という医者だよ」
「浪速帝大というと、大阪にある国立大学―――という呼び名は正確じゃないわね。独立行政法人化がなされてからは国立大学はなくなってしまったから。でも、まあ旧来通りの呼び名でも別に問題はないわね。で、この声の主は浪速帝大医学部のドクターなのね」
北原が巻き込まれた性病事件は、靖子の刑法学者としての興味を喚起せずにおかなかった。彼女が講師に採用された研究論文が、〈刑法における人の死について―――脳死の問題点〉というものであり、浪速帝大病院が先鞭をつけ、それに触発されたといえなくもない、臓器移植法の制定。そして、この法律によって認められた脳死を人の死とする立場と真っ向から対立するものだからである。
靖子の専門である刑法という学問領域は、一定の犯罪行為に対して一定の刑罰を科するという法を研究対象にしているのであるが、そこにおいては人の生死は特に重要な意味を持っていた。最も重大な保護の対象が人の生命であり、人を殺せば殺人罪で処罰されるが、生まれる前の人(胎児のこと)であれば堕胎罪という、殺人罪に較べ数段軽い刑罰が用意されているのだ。同様に、死んだ人(死体)を傷つけても人に対する犯罪である殺人罪にはあたらず、死体損壊罪に該当するだけである。
このように刑法においては、胎児が人に変わる時点(人の始期という)と人が死体に変わる時点(人の終期)が極度の重要性を持つが、人の始期については大きな争いは無く、胎児が母体外に一部でも現れれば人と認められている(一部露出説)。母体から一部でも出てくれば、母体とは別個独立に攻撃の対象とされるため、これを胎児よりも厚く保護して殺人や傷害行為から守ろうという意図である。
これに対し人の終期(死亡時点)は大争点で、従来から多数の見解が主張され論点を形成してきたが、現在有力なのは総合判断説(三徴候説ともいう)と脳死説の二説である。
総合判断説は、心臓の鼓動と自発呼吸の停止及び瞳孔反応の消失を総合的に判断して人の死亡を認める考えであり、靖子の支持する見解である。
脳死説はまさに読んで字の如く、脳死を人の死とするものであって、近時有力に主張され、臓器移植法制定とあいまって、通説を形成する勢いを持っている。
法律に明文規定が置かれていても複数の解釈可能性がある以上、解釈というものは単なる事実認識のレベルを超え、決断ともいうべき実践の領域に連なることは否めない。当然解釈者の主観が色濃く反映され、その拠って立つ世界観を抜きにしては語れないものである。浪速帝大医学部附属病院が脳死を人の死と認めて死期を早めたいのは、臓器移植との関連で優良な臓器を早く死体(ドナー=臓器提供者)から取り出したいがためであった。移植を必要とする患者の救済という点で、大きな実践的意義を持っていた。
臓器移植に関する法律(臓器移植法)の制定により、近時、脳死者からの臓器移植は一定の厳格な要件の下で認められることにはなったが、もし脳死が人の死と認定できるなら厳格な要件を踏むことなく臓器移植が可能であることから、いまだ脳死説の実践的意義は失われていなかった。
この脳死説の対極にある総合判断説は、死亡時点を出来るだけ遅らせようとする見解であり、人を殺人や傷害行為から可能な限り保護し、死亡時期を慎重に判定するという実践的意義を持っている。いずれの見解も当然成り立ち得るものであり、どちらが正しいかは究極的には個人の価値判断に委ねられることになるであろう。
ただ、臓器移植の問題に限っていうなら、脳死説は移植を必要とする患者救済の観点から特に実践的意図を持って主張されてきた見解であるのに対し、総合判断説は本来そのような利益集団を持たないが、結果的にはドナーの利益に奉仕する見解といって良かった。
そして靖子が総合判断説に与(くみ)するのは、取り立てた利益集団が無い点でいつ少数者にならんとも限らない危険に晒されているからだった。
「靖子。民主主義というのは多数決で物事を決定するから、多数者の利益に奉仕する制度だと思われているが、それはとんでもない誤解なんだよ。民主主義は多数決で決められないものの存在を認め、それを前提にして、多数決で決められるものであっても討論と説得によって妥協を導くという、本来、少数者の利益―――を、決して無視しないという制度なんだよ」
小学校六年の時、母に内緒で父の書斎へ忍び込むと、父は論文を書く手を止めて靖子の問いに答えてくれたが、〈少数者の利益〉を口にしたとき、急に穏やかな笑顔が消えて、「何か」に挑むように遠くを見据えたのだった。その「何か」を今なら明確に理解できるが、当時の靖子には知り得べくもなかった。
いずれにしても、あの時の父の言葉と鋭い眼差しは、十四年経った今も靖子に鮮烈な影響を及ぼしていて、行動の指針さえ与えるほどに至っていた。
「ねぇ、おじさま。北原さんの事件、新しい事実が分かりしだい、これからも私に報告してくださらない?」
本多から事件の概要を聴き終わると、靖子は上目遣いに彼の顔をのぞき込んだ。
「―――うむ」
本多が渋々うなずくと、
「ありがとう」
彼女は女学生のようにはしゃぎながら、ドアを開けて自分の部屋へ二人分のランチを取りに戻ったのだった。
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