第6話

 自転車で坂を下る。あのときの彼には、目の前の世界が輝いて見えた。空はどこまでも高く、雲は真白い。そして隣には花のような不思議な香りの耳隠しの美しい女性。しかし今はどうであろうか。ただ、夕焼け空が広がっているだけだ。彼はいつも鏡子がいる港へ向かっていた。自転車を転がす道中がいつもより長く思えた。その長さは彼女との心の距離をあらわすように彼には思えた。

 港ではあの日のように和装をした鏡子が一人佇んでいた。もうすぐ夜になる。深い青に染まる茜空に、彼女の着物の色がよく映えた。松永にはただ一人の男を想っていることが、胸が痛いほどわかった。その姿に見とれ、声をかけることも、彼にはできなかったのである。鏡子が振り向いた。松永を認めると陰気な様相な一転し、口元に手をやり、眼を半月状に細め、奥ゆかしく笑った。

 「あら、先生。こんばんは。今日も私に会いに来てくれたのですか」

 「ええ」と一言短く返答をする。自転車の前かごにはスケッチブックと小さな花束が積んである。松永はその花束を黙って鏡子にひざまずき、差し出した。西洋の男がいとおしき女性に行うように。情熱的な瞳で鏡子を見る。

 「最初に逢ったときから、あなたのことを、お慕いしておりました。」

 困ったように鏡子は笑う。松永の鼻腔にふわりと鏡子の香がとどく。鼓動がばくばくとなり、頬が染まる。おそらく鏡子に逢うのも、こんな気持ちになるのも最後であろう。

 「でも、先生……」

 「ええ、知っています。それでも貴女に想いを伝えて、自分の気持ちに決着を付けたかったのです」

 「そうですか。先生はどこまでご存じなのでしょうか」

 「あなたが浅井氏にお世話になっていることは。しかし、貴女がどんな思いでそれを受け入れ、今浅井氏のことをどう思っているのかは当たり前ですが存じません。でも、もしあなたが浅井氏のことを想っていないのであれば、もし私の想いを受け入れていただければどこにでも一緒に行きます」

 鏡子は相変わらず困ったように笑っている。彼女は耳のあたりの髪の毛に手串を入れた。

 「私が、15歳のときから浅井の世話になっていました。そのころの私は弟を育てることに必死でしたから。最初は弟のためという義務感でしたが、だんだんと浅井の良いところが見えてきたのです。ですから、先生の気持ちは受け入れられませんわ。だって私の浅井のことを女として慕っているのですもの。例え、浅井が本当は甲斐性のために私を養っていて、気持ちは全く私になくても」

 鏡子は寂し気に笑う。その笑顔は海を眺めているときと同じ表情であることに松永は気が付いた。彼女は滔々と語る。

 「はっきりと言われましたわ『お前はお飾りの妾』だって。『女として興味はないが、娘だと思っている』とかいろいろと。奥様に、本当に夢中なのです。私のところに来るのも月に一度。出張中は手紙も寄こさないのです。それでも、あの人のことを慕っています。ですから、先生、私は」

 「そうですか。いいのです。頭をどうかあげてください。このことは分かり切っていましたから。」

 「ええ。ごめんなさい。」

 「お互い、片恋同士ですね」

 「そうですね」

 そういうと、鏡子と松永は二人で真昼に浮かぶ月のようにほほ笑んだ。

 松永は手を振る鏡子を見送る。松永の鼻にはいつまでも鏡子の不思議な花束のような匂いが残っていた。彼はぼんやりとこの体験を小説にしようと心に想う。書き出しはどうしようか、ふわりと鼻腔を霞めるこの香をどう表現しようか。

 そうだ、こう書き出そう。Mは美しい女性に激しい思慕の情を寄せていた―

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片恋 石燕 鴎 @sekien_kamome

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