第110話

 その夜御成りなど告げずに、都の端にお屋敷をお構えになられていらっしゃる、神楽の君様のお屋敷に、烏帽子に御直衣姿の今上帝様がお越しになられた。

 大体内裏での今上帝様の直衣とは、御引直衣おひきのうしといって、一般的に高貴な方々が着用とされる物より丈の長い直衣で、長袴をご着用になられるのだが、〝御忍び〟という事だからだろうか、動きやすさなのだろうか、御直衣姿でお越しになられ、当然ながら牛車もとても今上帝様が御乗りの物とは、想像もつかぬ物をお使いだ。第一この国の天子様は、牛車に御乗りになられないが常だが、さきの天子様……つまり今上帝様のお父君様の上皇様が、お妃様と御乗りになられる様になられ、今上帝様も御使用になられる様になった。なんでもお妃様の御生れの処に、摩訶不思議な牛が存在致すとか………。

 そんな今上帝様が、かなり不機嫌の体を露わにされて、門を開けた白を一瞥されたまま、神使ですら驚く程の足速でお屋敷の母屋もやに向かわれた。


「こ、これは今上帝様……今宵は……」


 銀悌が慌ててお迎えするが、それすらも目もくれる事もなさらずに、眉間に皺をお作りになられて、かなり険しいお顔をお作りだ。

 その後を追う様にする晨羅が、銀悌を認めて微かに首を振った。


「い、如何されたのだ?」


「かなりの御憤おいきどおりだ」


「な?なんで?」


「神山に陰陽博士を、お連れしたであろう?」


「お、おう……巷で蔓延致さぬ内にと……は?」


 銀悌は、思い当たった様に大慌てする。


「如何してそなたも、同道なさらんだのだ?」


「……いや、馬が……」


「二頭しか、おらなかったご様子」


「そうなのだ……どうしてそれを?」


 とか言っているが、それはただ確認する為の言葉だ。


「陰陽博士だ」


「しかしなぜ?」


「後院のお妃様だ。かのお方が今上帝様に、琴晴の度重なる功を労う様言付けられた。それは素直なご性分の今上帝様であられる、お聞きになられぬ事は無い。官位の低い陰陽博士だが、特別に昇殿の宣旨をお与えになられた」


「……何をお聞きになられた?」


「酒を飲んで泊まった事だ……。神山は主上様にとって、神楽の君様と一夜をお過ごしになられた、それは美しい満天の星と、光り輝く月の様な思い出だ。その様に大事な場所に仮令民の為とはいえ、たったお二人で行かれては気を悪しくされて当たり前……そこへ持ってきて、前の夜に共に酒を飲んで、泊まったとお聞きになられれば……」


 晨羅はピタリと歩を止めて、銀悌を睨め付けた。


「ただの御憤りでは、お済みになられませぬ」

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