終章
終章
植松は、ぼんやりと廊下を歩いた。
数分前までは、おかしなことを言う、校長先生たちに対して、まるで勝利したような気持ちでいたけれど、今は、すっかり敗北したような気がしてしまう。
まさか、自分が、鮫島徳子を何とかするようにと、言われるとは思わなかった。そう思うと、自分がしたことは、本当に愚かなことだったなあと思う。
あの時は、事実を隠してしまおうとする、先生方が許せなくて、自分はあんなセリフを言ったのだ。それに対して、副校長先生が、
「そんなこと言うんだったら、植松先生が、鮫島徳子を何とかしてくださいよ。植松先生がそういうことを言えるんだったら!」
と発言して、瞬く間にほかの先生も、そうだそうだと副校長先生に同意してしまったのだ。
「あーあ、何て言うバカなことを言ってしまったんだろう。」
今思っても植松は後悔する。
でも、そういわれたんだから、やるしかないじゃないか。そうなってしまったから、そうするしかほかにない。
そのためにはどうしたらいいのかも、全く分からないまま、植松は重い足取りで、教室へ向かった。
その時だった。教室の無機質なドアを見た瞬間、そうだ、あの人の力を借りればいい、と、植松は思いつく。
一方、製鉄所では。
「もう、これだから困るんだ!」
ブッチャーが、布団の上に横向きに寝たまま、咳き込んでいる水穂さんを眺めてこう言っていた。
枕にはわずかばかり血痕が見られる。
「もうどうしたらいいんだろう。薬を飲ませれば、夕方まで、目を覚ましませんよ。そうなれば、また夜の薬飲んで、眠ってしまう訳ですから、またご飯を食べなくなるなあ、、、。」
ブッチャーはそう悩んでしまうのであった。頓服で止血剤を与えてしまうと、その反動というか副作用で、強烈な眠気を与えてしまうらしく、一度飲むと、長時間眠ってしまうのであった。
「でもなあ、こうするしか咳き込むのを止める方法はないしなあ、、、。」
ブッチャーが悩んでいると、こんにちはという声がして、玄関の戸がガラガラと開いたのがわかった。「あ、天童先生だ。」
ブッチャーは、すぐこの人が誰なのかわかる。
「水穂さんの様子はどう?ちょうど近くで講演会をやったので、そのついでに来てみたのよ。どうしてるの?」
きゅきゅきゅと足音が聞こえてきて、天童先生が四畳半にやってくる。
「天童先生。いいところに来てくれましたね。ちょっと、助けてやってもらえないでしょうか。」
ブッチャーは、急いで、天童先生に言った。天童先生もすぐにわかったらしく、はいはいと言って、水穂さんのそばに座り、そっと彼の体を抱きかかえる。そしてその背をなでたり、たたいたりし始めた。時々、小さい子供に語り掛けるように、静かに、大丈夫よ、大丈夫だからね、と語り掛けているのだった。
「すみませんね、天童先生。俺には薬を飲ますしかできることがありませんし、薬を飲んでしまえば、長時間眠り続けてしまうので、それも本当によくないですよね。もう天童先生のお力添えが無ければ、水穂さんどうなっちゃうんだろうと、焦ったところでした。」
ブッチャーは頭をかじってそういうが、天童先生は、そのまま施術を続けていた。
するとそこへ、
「すみません。水穂さんいらっしゃいますでしょうか。」
と、誰かの声が玄関先でしていた。須藤さん、一寸出て、と天童先生に言われて、ブッチャーは、急いで玄関先に行く。
「はいはい。なんでしょうか。今日はバカに来客が多いなあ。」
ブッチャーは、そう言いながら、玄関先へ出た。
「ああもう、お客さん、どんどん入ってきてくださいよ。」
と、ブッチャーはガラッと入り口のドアを開ける。
そこには、植松と、生徒二人が立っていた。
「何ですか、学校の先生が、ここになんの用ですかね。」
その二人の生徒の恰好で、ブッチャーは学校の先生がやってきたのだとわかる。植松が、
「ああ、あの杉ちゃんの友達で、植松といいます。この二人はうちの生徒で、鮫島徳子と、」
と言いかけるとすぐに朝原が、
「朝原信夫です。」
とあいさつした。
「はあ、まあたぶん、学校の先生であるというのは分かりますが、なんでまたこんなところきたんですかね。この製鉄所に、現役で学生がやってくるというのは、本当に珍しいので。」
ブッチャーがそう言うと、
「ええ、今日はこの二人に、特別授業をしようという事になりまして。其れで、こちらへ来させてもらいました。この二人に命の大切さを訴えようと思いまして。あの、すみませんが、水穂さんはいらっしゃいませんでしょうかね。是非、会わせてもらえないでしょうか。」
と、植松は言った。
「ええ、まあ、いることはいるんですが、水穂さんは、天童先生と一緒です。今は、ちょっとださせるわけにはいきません。」
ブッチャーが正直に言うと、
「天童先生。それは、お医者様ですか?」
と、植松は言った。
「いや、いや、あのね、医者というか、民間療法の先生で、、、。」
とブッチャーが言うと、
「民間療法?そんなモノに頼っているんですか?それよりもお医者さんを呼んだ方がいいのではないですか?」
植松も言った。
「そうなんですけどね、医者を呼んでも、たいして変わりませんよ。医者を呼んだって、どうせ薬飲まされて、眠らされるだけでしょ。其れなら、天童先生のような先生を連れてきて、少しでも楽にしてあげたほうがいいんです。」
ブッチャーは改めてそう言うが、こういう言葉は、なかなか信じてもらえないだろうなという事も、知っていた。特に、学校の先生のような人は、なかなか受け入れにくいと思う。
「あの、そうじゃなくてですね。民間療法ではなくて、ちゃんとお医者さんを呼んであげたほうがいいのではありませんか。そのほうが、きっと水穂さんも楽になれるのでは?もしよろしかったら、僕がお呼びしましょうか。」
植松はちょっと声を強くして、ブッチャーに言った。
「いやあ、そういうやり方ではもう無理です。中に入ってみればわかると思いますよ。」
と、ブッチャーは、三人に中に入ってもらう様に促した。実はこれが植松の狙いだった。とりあえず、そういう事ができて、良かったと思う。ブッチャーもブッチャーで、百聞は一見にしかずという事をよく知っていた。
「それでは、入らせてもらいます。」
植松は、どんどん製鉄所の中に入る。後の二人も、それに続いて中に入った。朝原信夫は心配そうな顔をしているが、鮫島徳子は、小ばかにしているような、そんな顔をしているのだった。ブッチャーはそんな彼女を、変な顔で見た。
三人は、ブッチャーの指示に従って、廊下を静かに歩いた。鴬張りの廊下は、三人分のかなり大きな音をたてた。それを朝原信夫は面白い体験だといったが、鮫島徳子は、何も言わなかった。
「水穂さん、何でも、学校の先生がみえたんですよ。何でも二人の生徒さんに、特別授業をしたいと言って、きているんですよ。全く、何の教材になりますかね。まあ会わせてくれというものですから、連れてきました。」
と、ブッチャーが説明して、静かにふすまを開ける。
同時に水穂さんは、天童先生に抱きかかえられるように、布団に座っていて、ひどく咳き込んでいた所だった。天童先生が、大丈夫よ、大丈夫だからねと言って、しずかに背中をなでてやっていた。
「大丈夫よ。ゆっくりね。ゆっくり吐き出してみて。」
天童先生が、水穂さんの口元にタオルをあてがってやると、そのタオルはすぐに朱に染まってしまった。
「よし、うまくいった。ああもう、天童先生が来てくれてよかったですよ。薬で眠らせちゃ、またご飯を食べなくなりますから。よし、これで楽になったんだから、暫く起きていてくださいね。」
と、ブッチャーは、ため息を一つついて、額を持っていた手拭いで拭いた。
「どうもすみません。講演の後でお疲れのときに。」
「いいえ、いいのよ。大した事はしてないもの。水穂さんが、発作から解放されてくれれば、それでいいわ。」
天童先生は、水穂を静かに布団に寝かしつけ、かけ布団をかけてやった。
「もうねエ。医者を呼ぶと、どうせ副作用の強烈な薬飲まされて、また眠らされてしまうでしょうからね。そうなると、ご飯の時間になっても起きないんですよ。無理に起こしても、数分後にはまた眠ってしまうの繰り返しです。それがもう、三日も続いているし。もう、三日間薬を飲まされて、出血は止まるが、まるでいばら姫のよう。」
ブッチャーは、苦労話を語り始めた。
「そう、たいへんだったわね。じゃあ、今日は、おかゆでも食べられるかな?私もびっくりしたわ。もう、ここまでやせほそってしまって、ただモノではないと思った。」
ブッチャーの話に、天童先生もそう言うのである。
「そうなんですよ。もうね、お医者さんには栄養失調だ、すぐに何か食べさせろ、と言われてもですよ、偉い人は、口ばっかりで、実行するのは俺たちですよ。それを食べさせるのに、どれだけ苦労するか。水穂さん、楽にしてもらったんだから、今日こそしっかりご飯を食べてもらいますからね!」
ブッチャーがそういう苦労話が出来る人も、天童先生が頼りなのだろう。確かに、こういう話を、お医者さんにしいても、意味のない話だ。
「まあ、俺たちは、看病人ですから。水穂さんさえ良ければ、それでいいという事かな。」
「そうね。あなたも苦労するけれど、頑張って頂戴ね。愚痴でも言いたければ、何時でもあたしたちを頼ってくれていいのよ。あたしたちは、そのためにいるんだから。」
ブッチャーと天童先生はそういう事を言った。
「ほら、見てみろ。」
と、植松は二人の生徒に言う。
「二人とも、命は大切だが理解できないなんて、二度と書いてはいけないよ。こういう風に、まもなく
命が消えてしまう人もいるんだから。たとえ、もう少しこっちに居させてくれと、いくら願ってもかなわない、という人がね。」
二人の生徒の反応を見てみると、朝原信夫のほうは、このような発作の場面を初めて見たのだろうか、見ると涙をこらえていた。彼には、心に突き刺さる事例だったようである。
「すみませんでした。俺じゃない、僕、もうちょっと自分が生きているっていう事を、自覚しなおしてみます。」
彼はそんなことを言っていた。ああ、多分この涙に嘘はないだろう。と植松は思った。そうなると、朝原信夫のほうは、たぶん、授業は正確に伝わってくれたのだと思う。
ところが、鮫島のほうは、そうはいかなかった。
「何が、命は大切ですか。こんな場面を見せられて、生きていても仕方ない人がいるから、考え直せというの?は、馬鹿みたいですね!そういうことなら先生も、やり方を間違えたんじゃありませんの。先生、明治時代じゃないんですから、今だったら、簡単に治すことだってできるでしょうよ。それを見せられても、あたしは驚きません。あーあ、ばかばかしい。あたしは、考えを変えるつもりはありませんよ。」
静かにいう彼女は、本当に落ち着いていて、ある意味というかものすごく、不気味な印象を与えるのだった。一瞬、ブッチャーも天童先生も、凍り付いてしまうくらい、彼女の表情は気味が悪いものであった。
「先生、帰ってもよろしいでしょうか。あたしは、この後受験勉強がありますので。あたしが、大学に行くことで、学校の名誉も上がるって、知ってますよ。それにしっかり答えなければ、いけませんもの。先生、こんなことで、あたしは、だまされませんから!あたしが、何をしたらいいのかくらい、知ってますから!」
「鮫島!」
そう冷たい表情でいう彼女に、植松は思いっきり彼女のほほを平手打ちした。
「何をするのよ!生徒を先生が殴るのは、法律で禁止されているんでしょ!そんなことをやっていいのかしら!」
と、また不気味な口調で言う徳子。
「は、先生でさえも、教えられないことはあるんじゃないですか。まあ、どこかの先生が教えてくれましたけど、年貢さえ収めていれば、百姓ほど気楽なものはない、っていうお触れがあったんですってね。あたしは、こう解釈していることにしてるんです。いい点数さえ取っていれば、学生ほど気楽なものはないってね!その無味乾燥な行事を、自分を押し殺して!どうせ、あたしたちは、先生がいい顔するための、道具にしかないんだしね!」
「徳子さん、そんな事ありません。少なくとも僕は、徳子さんの素敵なところを、知っているじゃないですか。僕、この前の試験の事覚えているんですよ。徳子さんが、僕に消しゴムを貸してくれたの。あれ、僕にとってはすごいことだったんです。だって、僕のうちは、一円でもお金を無駄にしたら、こっぴどくしかられるしかない、そういう家庭だから。」
徳子に対して、信夫はそういった。植松は、徳子と信夫がくっついた理由がやっとわかって、もっと詳しく聞いてみたくなったが、その前に細い細い声で、水穂さんがこういうのである。
「鮫島さん。今は誰もいないかも知れないけど、心から愛してくれる人を見つけてください。そうすれば、あなたの悲しみも、消え去ると思います。あなたは、愛されていないから、周りの人間に対して愛そうと思えないだけなんですよ。其れさえ取り除くことができれば、あなたは普通に生活できるはずです。」
一瞬、徳子の唇が震えた。
「今はそういう人が、まだいないだけです。きっといつかどこかで見つかると思います。人間には、誰でも黙って通りすぎなければならない時期っていうモノは必ずあるんです。でも、そこさえ通り越すことができれば、幸せになれます。」
「水穂さん、人に対してそういうことを言うんだったら、少し俺たちのいう事を聞いて、ご飯を食べてくれませんかね。俺は、水穂さんにそういいたいんですけど、ちっとも伝わってない。」
ブッチャーが、そういったので植松も、天童先生も噴き出してしまったが、徳子だけは相変わらず冷たい表情のままだった。
「僕も、世間から愛されない人生を生きてました。もうすぐ、これからやっと解放できるんです。みなさん其れは分かっていると思う。だから、もうこのまま逝ってしまうほうがいいんです。でも、鮫島さんは違います。そこをわかって下されば、もう少し生きようと思えるんじゃないかと思います。」
水穂さんが優しい声でそういってくれた。徳子の表情は変わらなかったが、それに乗じて天童先生が、優しくこう言ってくれた。
「みんな誰でもつらい時期ってあるの。大体の人は、自分だけがつらい思いをしていて、他の人は幸せそうだと勘違いして、怒ったり呪ったりするけれど、本当は同時に辛い思いをしたりする方が多いのよ。それを、分け合って、みんなで共有できるといいのにね。つらい思いってのはね、一緒に泣いてくれる人がいないと、乗り越えられないのよ。でも、どうしてなのか、人間はそこを忘れて、うれしい事ばっかりSNSとかそういうところに、掲示したがるから、おかしくなるのよね。つらい事もおんなじくらい、掲示すればいいのにね。」
「じゃあ。」
と、朝原信夫がこういうことを言った。
「水穂さんも、そういう事を、掲示してくれればいいじゃありませんか。そうすれば、水穂さんだって気持ちが楽になってくるかも知れませんよ。そして、ちゃんとした病院に入院して、なんとかすれば、きっとよくなりますよ。明治とか、大正だったら、死ななくちゃならないかもしれないですけど、今はそんなことは、まず、ありませんから。」
水穂さんは、しずかに首を横に振った。
「なんでですか。大丈夫ですよ、今は抗生物質とか、いろいろあるでしょう?」
それでも、水穂さんは首を縦には振らない。
「もうちょっと、勉強してご覧。折角学校行っているんだから、学校の先生に聞いてみてごらんなさい。日本はみんな平等だと言っているけど、決してそういう事は無いのよ。」
と、天童先生が言った。信夫は、一生懸命何か考えているらしい。それでも答えが、出ないようだ。
「今でなくたっていいの。そのうちわかるようになるから。きっと社会の先生は詳しいわよ。それを試験の点数を稼ぐための道具と思わないでね。」
「はい、決していたしません。」
信夫は涙ぐみながら、そういった。という事は、わかったのだろうか。植松は、その発見について、自分が、それをけがしてしまう事は、やめようと思い、一切声をかけなかった。
「あなたもよ。」
天童先生が、徳子に言った。植松は、徳子が怒るかもしれないと思って、ちょっと身構えたが、彼女は何も言わなかった。
でも、その表情は、先ほどの冷たい表情から少し変わっていた。
だから植松は、やっぱり彼女にも何も言わないほうがいいと思った。
「さて、人に対して、奉仕したんですから、水穂さん、今日こそご飯を食べてくださいね。でないと俺は、もう倒れてしまいます!」
と、ブッチャーが、いつの間にかお盆をもってやってきていた。お盆には、白いおかゆが入ったお茶碗が置かれている。
「そうね。私も手伝うから、ご飯を食べようね。」
と天童先生がお盆を受け取って、枕元に置いた。植松は、もう、特別授業はおしまいにしようかと、思いついた。
「それでは、ありがとうございました。水穂さん、今日は素晴らしかったです。僕にはあんな言葉、言おうとしても言えませんよ。よし、二人とも、水穂さんの食事の邪魔になるから、もう帰ろうか。」
植松は、にこやかに言って、二人に帰るように促す。
「有難うございました。」
信夫は顔中を涙で濡らして、徳子は硬い表情のまま、丁寧に座礼して、四畳半を出ていった。二人に、この授業の作文でも書かせようかと思っていた植松であったが、もうそういうことはしないと決めていた。
三人は、製鉄所を出て、大渕公民館に向かった。そこからバスで帰る予定だった。バスは、数分後にやってきて、三人を乗せた。信夫は、声を挙げて泣きたいのを我慢しているようだ。それができるなら、信夫の事は心配いらないだろう。徳子は?と思って植松は彼女のほうを見る。彼女は黙って、そとの景色を眺めていた。植松は彼女の顔に、一粒だけであるけれど、涙が浮かんでいるのを、確認した。
冒険する魔訶迦葉 増田朋美 @masubuchi4996
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