サンキューガール・アンド・グッドバイ
ザワークラウト
サンキューガール・アンド・グッドバイ
8月、蝉時雨の夏。
私が気に入っていた小説が昨日完結した。作者は源義昭と言い、実に素晴らしい小説だった。架空の事件をまるで実際の出来事のように描く完成された世界観と精緻な文章。人間の表層と深層の心理という混沌を巧みに操る心情描写。
それら全てが突出しつつも争わずに絡み合うことで、唯一無二の展開を作り出していた。
特に、主人公が植物状態の母を生かしたままにするか、安楽死を選ぶかを病院の階段に座りながら苦悩する展開は、私まで感情移入して葛藤したほどだった。
この作品は文学として一つの頂点に達しているとさえ私は確信している。間違いなく100年後も読み継がれる作品のはずだ。
その後しばらくして、源先生から私宛にペンネームで手紙が届いた。便箋の中にはB4サイズの直筆の原稿用紙が約40枚と、新品の小豆色の表紙の参考書、そして使い古した安物のボールペンが入っていた。
私は感激に身を震わせ、その原稿用紙を立ったまま読み始めるのだった。
「拝啓、石田真琴さん。
今まで沢山のファンレターを頂いたお礼を言いたくて、この手紙を書いた所存です。ミミズが這ったような字をお許しください。
ファンレター、大事に引き出しに全部しまってあります。毎日それを読み返すのが僕の日課でした。これからも僕の支えになるはずです。
もし可能ならばこの先もあなたのためだけにでもいいから、いや、あなたのために小説を書き続けたいのですが、残念ながら不可能なのです。
私は確定死刑囚なのです。見苦しく最高裁まで控訴を続け、上告を棄却された罪深き咎人です。
私は殺人をしました。金や身体が欲しかったわけではありません。感情に身を委ねた末に生まれた黒い怪物と共に2人を殺しました。
何故、そのようなことをしたのか事の次第を聞いてください。願わくばこれを破り捨てるのは読み終わってからにして頂きたい。
これは言ってしまえば遺書なのです。
1989年の海の日に私は生まれました。文学少年と文学少女の間に生まれたからか、2歳の頃から絵本が好きだったそうです。自慢じゃありませんが11歳で三銃士を読破して、中学校卒業時には歴代生徒で最も本を借りた生徒として表彰も受けています。
しかし、そんなことはどうでも良いのです。その時の世界はオウムとか9.11とかコンコルド墜落とか色々ありましたが、私の人生においてそれは遥か彼方の街で虐待死した幼子のように、無関係のどうでもいいものばかりでした。
私の人生における特筆すべき出来事は全て、大学時代に詰まっているのだから。
私は一浪して2008年に東京の私立大学に入りました。我ながら頑張ればやれるんだなと思うほどの名門でしたが、やはり背伸びしすぎたせいで、入学してすぐにいわゆる「エリートの落ちこぼれ」となりました。
僕のような人間は珍しくなく、大抵の人は諦めてドロップアウトしていきました。しかし、中退したら今までの努力が水泡に帰してしまう、と、僕は大学をやめる気はありませんでした。
いや、正直に言うとやめる勇気が無かったのです。親戚を呼んで宴会を開くほど歓喜した両親、主に父の落胆する顔を見たくなかったのです。それなのに殺人なんてしてしまうのだから全く呆れたものです。
ところで私が本の虫。活字中毒者だったことは説明しましたよね。毎日毎日、本(漫画も沢山読みましたが)を読み漁っていた私は、いつしか読むだけでは無く、作家の真似事も始めていました。小説家、私にとってそれはいるかいないかも分からない神様なんかよりも、よっぽど敬服すべき存在でした。
私も作家になり、多くの人から感想をいただきたい。評価されたい。読んだ人間の人生にすら影響を与えるほどの文才が欲しい。いつしかそれだけに恋い焦がれ、砂漠を彷徨う人間が冷水を欲しがるように、小説家という職に固執するようになりました。
デビューするなら暇な時間が多い大学生の頃だと決めていたので、私はジェラートより練られた構想を武器にして、意気揚々と公募に応募する為の小説を書き始めました。大学をやめなかったのはこういう訳もありました。
痛々しくも、当時の自分は己には何か絶対的な力があり、他の人間を圧倒できるのだと硬く信じていました。信じられるのは自分だけ。それが自分の心情でした。
しかし、結果は落選でした。当時の私は、きっとこの作品はこのレーベルの作風には合わなかったんだとか、審査員達は見る目が無いなんてことを思っていましたが、今思えば何てことは無い。ただの自分の実力不足以外に他なりません。
自らが苦心の末に胚胎した作品は、自分の目には煌めく拳大のサファイアのように映るでしょう。でも、裏物語である私の努力のエピソードを知らない赤の他人からしたら、プラスチックのダイヤが良いとこなのです。これがわからなかった。
数日も経てば頭も冴えたというか冷静になって、やはりあれは自らに対しての薫陶が足りなかったのだと思い、一層読書に没頭しました。この時の私の中で成績なんてものは、駄菓子を買った時に貰うレシートのようなもので、あっても無くても大差無いちっぽけなものでした。
いや訂正します。今振り返って見れば、あの時の私は現実を受け入れたことで冷静になれたわけでは無く、周囲の人間に対する蔑視で己の血管に氷を流していたのです。
こいつらはこんな名門大学の生徒の癖に朝から晩まで飲み歩きやがって、今に早死にする連中ばかりだ。
酔っ払いの吐瀉物を嬉しそうに啄む鳩のように、いずれ追い詰められて、不必要に巨大なプライドすらかなぐり捨てて行くのだろう。
そんなことを見苦しく思っていました。こういうのが引かれ者の小唄とでも言うんでしょうか。むしろ下から数えたら一瞬で自分の名前を見つけられる自分の方が、周りからはそういう風に見えたのでは無いでしょうか。
僕も偉そうなことは言えませんが、人間は生涯で混じりっけ無しの本音を言う機会なんてまずありません。探せば煙草の吸殻のように至るところにあるのですが、積極的に避けているのです。声に出して発せられる言葉は9割が嘘で、その中に真実が1割混ぜ込められていたら、それはもう上等なものです。
話が傍に逸れてしまい申し訳無い。話を元に戻しましょう。僕は更に自分の視野を広げる為に、自分が苦手とする時代小説やノンフィクション小説にも手を出しました。
時代小説、僕あれ苦手なんですよ。子どもの頃、読書感想文を書く際に母親から無理矢理大久保利通の伝記を読まされたのがずっとトラウマだったんです。
あまりにも嫌いだったから(大久保利通自体は立派な人物だと思っています)表紙をハッキリ覚えていたので、司馬遼太郎の燃えよ剣の読破後に書架を探してみたら、ありました。大学図書館に置いてある時点で何となく分かっていましたが、やはり小学生にはやや難しすぎる内容でした。
しかし、過去の自分に打ち勝つ為にこれも読みました。
読書はやはり、自分が読みたいと思わないもの以外は無理して手を伸ばさない方がいいですよ。痩せ我慢して読んでも内容が頭に入ってきません。ただの労働です。
一カ月かけてだいたい70冊くらいを読み終えた時、僕は同じ学部の知り合いから意外な事実を知らされました。
何と、この大学に既に作家が1人いるというのです。名前は仁科と言いました。ペンネームでは無く、本名です。何という作品を書いていたのかも伏せさせてください。純文学とだけ言っておきます。
仁科はとある酒造メーカーの御曹司で、羽振りが良くて成績も優秀で、そして線の細い少年のような顔立ちの美青年でした。17歳の時に何かの賞に当選して作家になったそうです。容姿も相まって、学校ではかなりの有名人でした。
前述の通り、僕は愚直に作家の夢を追い続けているせいで、恥ずかしながら校内という狭いコミュニティの時事すらロクに知りませんでした。
僕が「仁科?」と首を傾げた時の知り合いの表情は、今でもはっきりと思い出せます。まるで日本人に生まれて千利休を知らず、イギリス人に生まれてネルソンを知らず。と言ったような顔でした。
僕は彼に対して興味よりも嫉妬が勝りました。これに関してはまさか先を越されまいと信じていたので、面食らい、憎しみの泥が皮膚を覆って乾きました。まるで、貯金していつか買おうと思っていたプラモデルを目の前で買われたような気分でした。
彼の姿を見てみようと思った僕は、彼が在籍する商学部の講義に聴講生として参加し、運良く彼の真後ろに座れました。(作家の癖に文学部では無く商学部だったのも彼を僻む理由の一つでした)彼から発せられる柑橘系の香水の香りが非常に甘ったるく、軽い目眩がしたのが最初の印象でしたね。
僕にとって、仁科は最初で最期の生で見た小説家でした。私は彼の背中をじっと見つめて、私には無いものを探そうとしました。しかし、当然と言えば当然なのですが、講義を受ける仁科はどこから見ても人畜無害な普通の男にしか見えず、覇気や威厳というものは毛ほども感じませんでした。
言い忘れましたが、彼の作品は彼自身を知る前に一冊だけ読んだことがあります。別段何とも思わない、及第点くらいの内容でした。しかし、世間に認められた以上、僕より優れているに違いないのです。
僕は彼が講義中もこっそりスマートフォンで執筆作業を進めているんじゃないかとか、思いついたネタをノートの端に書き込んでるんじゃないかと予想していましたが、彼は至って真面目に教授の話を聞いているだけでした。
そうこうしてる内に、僕は2作目も無事に書き終わり、入念に何遍も何遍も読み返して修正を加えました。20歳にして我が子がいるような気分でしたね。汚れた300枚の原稿用紙が僕の生きる希望であり、喜びでした。僕の指には常にペンダコがあったのを覚えています。
念には念を入れて日光東照宮へと出向き、500円玉で神と神君家康公に祈りを捧げ、帰りに郵便局に行き、出版社へと送りました。
結果は落選でした。反対に、仁科は有名文学賞を受賞しました。
その時の自分はため息しか出ませんでした。ただただ、ため息しか出ませんでした。およそまともな親なら、自分の子どもが卑下されて腹を立てないはずはありません。
足が重い。歩けない。僕は大学の敷地内に入った途端に植え込みにもたれかかって、項垂れました。
その日の天気が青空だったことにすらその時の僕は怒りを覚えました。皆が皆自分を嘲笑している。退学や除籍になった連中すら僕よりは上だろうと僕を精神安定剤代わりにしている。
そんな強迫観念にすら取り憑かれ、その日は逃げるように帰宅しました。
地獄、この世は地獄。プライドがへし折れるというのがこれほど苦痛だったとは知りませんでした。恐らく僕が真っ当な道を進んでいたとしても、これに勝る屈辱は無かったでしょう。僕はこの日、重圧というものを芯から味わいました。恐怖とは全く異なる感情。しかし、その重圧を作ったのは自惚れ、自らを過信する己だったと後に気づかされました。
今ここに麻薬の売人がドラッグを売ってきたら、迷わず買っていたはずです。自殺を考えるほどではありませんでしたが、流石に立ち直るのに時間がかかりました。
一度目の落選の時は言い訳を抜きにしても色々自分に対する落ち度を見つけることが出来ましたし、作品自体が締め切りに間に合わせる為に不純物が混じった未完成に近いもので応募してしまったので、落選した際にも「まぁ仕方ないかもな」と思うことが出来ました。
しかし、今回は野球部の部員が一日に何百回と素振りをするように、作家志望の人間として申し分ない研鑽に励んだはずなのです。それで落ちたのです。しばらくの間、全てが埃っぽく見えました。
かたや仁科は新聞の一面を飾り、自分は彼の後塵を排するどころか、同じ世界にすら入門していないのです。
僕はだんだん仁科に対して抱いていた嫉妬が、憎しみに変わることが実感できました。自分には才能が無いということだけは、死んでも認めたくありませんでした。
金持ちは金に物を言わせて若い内から色々な事を経験できて羨ましい、才能を金で買ったも同然だ。そんなことを醜悪に思い詰め、僕は仁科の不慮の死すら願うようになりました。
売れっ子作家の仁科。作家志望の僕。僕と仁科はコインの裏と表そのものでした。自分が渇望する物を仁科は持っている。これに勝る憎悪の種なら誰もが抱いているものですが、僕はこれにせっせと水を与えてしまい、蔓を伸ばしていきました。
一週間ばかり酒浸りの生活をしてアルコールに逃げていた僕は、それでもまだ作家の夢を追い続けることを決意しました。
何故だか分かりますか? 僕には作家以外に夢が無いんです。作家になること以外での人生設計なんか考えたことがありませんし、積極的に避けていました。失礼ながら、他の職は全て蝿がたかってるようにすら思えました。
僕は本当に、自分は山本有三や太宰治に勝る男だと二回落選してもまだ信じ込んでいたんです。馬鹿馬鹿しいでしょう。鼻で笑ってください。
三度目の正直を実現するため、僕は自分の中ではプライドを捨てました。作家になる方法を扱った書籍を読むようにしたのです。元々この手の本の存在は知っていましたが、出まかせと作者の聞き苦しい自慢と、根拠の無い励ましばかりだと思っていましたし、実際のところ大半はそうでした。
読んでて何度も睡魔に負けました。しつこいですが、やはり本というのは唆られないものを自主的に読んでも苦痛なだけです。
僕はそれでも何か一粒の砂金を得るために、それらのシリーズを何冊か読み進めました。しかし、残念ながら金剛石の如き感銘を受けた一文は僕にはありませんでした。
ライトノベル作家になるのも良いかと思いました。でも、慣れないことに1から手を出すのもしちめんどくさく思いました。
どうしても作家になりたい。作家になれずに大学を出て何処かに就職しても自分に本当の幸福は訪れない。きっと無意識のミスで懲戒解雇か、上司のミスを押し付けられて懲戒解雇。あるいは過労死が関の山でしょう。この認識だけは今も変わっていません。
ああ、でも論文関連の参考書は結構要約や起承転結をスムーズに書くことに役立ちました。そういえば真琴さんは17歳でしたっけ。丁度いいので僕が当時利用していた参考書をあなたにも差し上げます。推薦入試なら小論文がありますし、そうでなくとも大学生になれば論文やレポートは課題によくあるので、役に立つと思いますよ。
ですからこの手紙は焼き捨ててしまっても、この参考書は大事にしてほしいと切に願います。
そしてこの後、自分はただただ逃げていただけのことにようやく気づかされるのです。
作家によるアドバイス書籍に見切りをつけた僕は、この際突き放されるか好印象を持たれるか一か八かに賭け、仁科に直接アドバイスを乞おうという結論に至りました。僕は仁科には穴を穿つほどの憎しみを抱いていましたが、もうなりふり構っていられなかったのです。
仁科は僕もよく利用する大学図書館で、ほぼ毎日3時間ほど執筆作業をしていると知っていました。なので思い立ったがすぐに早速メモ帳と鉛筆を持って、その日の講義終了後は図書館に勇んで向かいました。
その日はまだまだ寒さに身を強張らせなければならない、暗くなり始める2月の18時頃でしたかね。途中で陸上部の部員が頭から血を流した姿で担架に乗せられ、他の部員達によって慌ただしく医務室に運ばれていくのが遠くから見えました。
僕は学生証をセンサーにかざして館内に入ると、一階の窓際に沿って横に並べられた席をぐるっと見渡しました。仁科は右寄りの席に座って、逆に持ったボールペンで机を叩いていました。
僕はボールペンを胸ポケットから取り出して一直線に彼の元へと向かい、歩きながら尻ポケットに押し込んだ小さなメモ帳も取り出しました。
そうして、彼まで残り1メートルほどまで来て、せめて深呼吸をと前を見た瞬間、僕は殴られました。仁科にでも暴漢にでも無く、現実と自分の本性に殴られたのです、
前を見た時に、僕は陽の光が失せた窓の闇に映る仁科の姿を直視しました。仁科は背筋をぴしりと伸ばした状態で椅子に深く座り、ほんの微かに眉間に皺を寄せて真剣に原稿用紙を見つめていました。
原稿用紙の左横には参考資料と思われる本が三冊積まれ、右横には飲みかけのサイダーが置いてありました。仁科は今、心の底の底まで集中しているんだということがすぐに見抜けました。何か後光のようなものすら窓の仁科から感じられたのをハッキリと覚えています。
美術には詳しくありませんが、いわゆる黄金長方形というものにこの時の仁科は当てはまっていたはずです。それほど執筆に撃ち込む仁科の姿は、僕には神々しくさえ見えました。
直後、一瞬で仁科に対する偏見は消え去り、現実が僕に覆い被さりました。僕は仁科の背中にすら萎縮して口から垂れた唾液を拭うと、震えた子犬のように後ずさり、真後ろの棚にもたれかかりました。
仁科にあって僕には欠けていたものがこの時ようやく分かったのです。それは経験でも才能でも技量でも無く「心構え」でした。
僕はもう一度窓を見ました。そして無限の静寂を我が物にする仁科と、鼻の穴を膨らませて今にも崩れ落ちそうな自分を交互に見比べました。
何だこの差は。自分は絶対に、こんな毅然として、なおかつ洗練された美しさを醸し出しながら執筆なんか出来ない。今の仁科は己の才覚を発揮している真っ最中なんだ。それに比べて土色の肌をした貧弱そうな俺は何だ。まるで恐竜とダニだ。そう思い込むと、身体の中を風がびゅうびゅう吹き抜けて行きました。
そして、仁科を見てこうも思えました。自分は今まで作家業というのを見下した上で、いけしゃあしゃあとそれを目指していたんだ。と。
小説家には学歴も不要ですし、アイススケートや卓球などのスポーツと違って、幼稚園児の頃、あるい生後3歳くらいから猛練習をしなければならないというわけでもありません。その分、備わった才能が最も顕著に現れる職業と言えますが、自分はそれを気楽なことだと心の内では密かに思って作家業を侮っていました。
僕は自分には作家以外の職業はあり得ないと豪語していましたが、実際は作家くらいなら無能な自分でも何とかなれるんじゃないかという、浅はかな侮蔑が夢の根底にあったと気付かされ、更にもう一つ。自分はあわよくば自作が世間に認められて、一緒に自分も認めてもらいたいという愚かしい自己顕示欲にも気づかされました。
考えてみれば、真摯に小説家を目指しているならば、既に校内作家がいたとしても冷静でいられるはずなのです。目の上のたんこぶとなんて考えないはずなのです。だから何だよ、が、当然のはずなのに。
まるで針の筵を体に巻いたようでした。
確かに仁科は僕に無言のアドバイスを授けてくれました。自分のような俗物が作家を志すなどちゃんちゃらおかしい。僕の小説からは功名心が滲み出ていて読むに耐えない。
仁科は窓に映る己の姿だけで、それを自分に思い知らせました。窓に映る僕と視線も合わせずに。
僕は今までずっと作家になることだけを夢に描いて生きてきました。しかし、それは果てなき欲望と逃げと浅知恵と無知の結晶でした。今まで自分は少なくとも、それなりに清く生きてきたつもりでしたが、全くの逆でした。
自分は泥にも劣る下等な生き物でした。どうすれば少ない力で世間の賞賛を得られ、楽に生きられるかということだけに執念を燃やしていた、小賢しさすら無い、どうしようもない屑だったのです。内心ではわかっていた。わかっていたはずなのに......。
自分はずっと浅ましい考えと共に成長してきたことを知った僕は、溶けそうなほど自分が恥ずかしくなって、とにかくこの場から逃げ出そうと踵を返して走り出しました。
すると。
「どうか、されましたか?」
ずっと真後ろに立たれていて、気になったのでしょう。突然仁科が僕を呼び止めました。ただその場を去りたかった僕は確か、失礼。とだけ言った気がします。
これが僕と仁科の最初で最後の会話で、仁科千秋の最期の言葉でした。
針小棒大に言うつもりは毛頭ありません。感情に身を委ねた末に生まれた黒い怪物とは、結局のところ邪な自分でした。
気づいた時、僕の服は赤黒い血だらけで、僕の足元には頭から流血し、リカちゃん人形のように首を反対側に曲げた姿で仰向けに倒れている仁科と、何故かベルトで絞殺されている事務員の老人が倒れていました。
窓ガラスが何故か割れていて、そこから冷たい風が吹いて、床に染み込んだ仁科と事務員の血を乾かして行きました。僕の頭は電池切れの電卓のように何も呼びかけて来ませんでした。この時の自分は、頭と心が離れ離れになっていたと思います。
少しだけ我を取り戻し、一番最初に頭に浮かんだ言葉は「どうしよう」の一言だけでした。無数のそれらははっきりと頭の中で文字になって脳のひだに刻みこまれていきました。
仁科は作家として全てが僕の遥か上を行っていました。そして、仁科に呼び止められる前の僕は朧気に入水を考えていました。しかし、作家として仁科に仕返しがしたかった僕はそれが叶わないと知り、遅かれ早かれ自分も死ぬついでに、彼の命を奪うことで細やかな仕返しがしたかったような気もします。
彼を殺したことに理由があるなら、身勝手極まる話ですが、それしかありません。
事務員を無意識に殺した理由だけは今でも分かりません。老婆殺しを見られたラスコーリニコフが目撃者のリザヴェータにそうしたように、仁科の殺害現場を見たことへの口封じかもしれませんが、もしかしたら日本では初犯なら1人だけ殺しても死刑には滅多にならないので、わがままなんてもんじゃありませんが仁科と道連れに自分が確実に死刑になる為、適当な数合わせで殺したのかもしれません。
いくつか言い訳が頭に浮かびました。自分は講義が終わった後に准教授から病院に行けと言われるほど衰弱していて、現に体重は17キロ減った。それに逆恨みと言えども恨んでいたことに変わりは無いんだ。
でも、すぐにそれは愚かなことだと思い、目を瞑って考えることをやめました。
僕は脚立に座り込み、目の前にあった村上龍の「限りなく透明に近いブルー」をパラパラとめくりました。きっと僕も、こんな感じで作家なんか目指さずに大学生らしく荒淫にだけ夢中になっていたら、こんな酷いことをしなくて済んだんでしょう。
仁科のパッカリ割れた頭は、なんだかくす玉の出来損ないみたいでした。僕は事務員の胸ポケットにあった煙草に火を点け、吸ったり咥えたりしながらパトカーのサイレンの音を聞きました。
複数の警察官の方の足音が徐々に近づいてくるのを感じると、もう二度と聴けないのかと好きだったビートルズの「サンキュー・ガール」が無性に聴きたくなり、それだけの為に一瞬逃走が頭をよぎりましたが、その瞬間に捕まりました。
18ヶ月後、僕は死刑を宣告されました。弁護士の言われるままに控訴を続けていたので、最終的な確定は事件から約5年後でした。
仁科の母親があの時僕に向けた表情は今でも忘れません。とても悲痛な憤怒を孕んだ顔でした。窓ガラスに映る仁科と同様に、母親の泣き腫らしたあの顔はまだ僕の内側から僕を睨みつけています。
正直言って、僕は仁科と事務員さん、及び遺族の方々に対して無論申し訳ないとは思っていますが、それよりも仁科の小説が好きだった彼のファン達に対する慚愧の念の方が、強く僕を苦しめました。
仁科によって自殺を止めた人間が何人かいたとして、その人が仁科の死を嘆いて後を追ったりしたならば、僕は本当に取り返しがつかないことをしたと悔やみました。
過ぎたことは全部笑い話と言いますが、こればっかりはどうも、ね。読んでいて軽薄な文章でしょう。やはり僕はこんなものしか書けないようです。
刑が確定してから数ヶ月後、体重も完全に戻り、一週間は一年より長く感じる。と、僕がぼんやり考え込んでいた時、一通の手紙が届きました。かつて僕が1回目に応募して、落選した出版社の編集長からでした。
内容はこうです「あなたの作品は私がまだ一編集者だった頃に読み、何か光る物を感じていたのですが、何分あなたの作品は我が出版社の作風に合わなかった為、泣く泣く落選させることにしました。
そのことがあなたをこのような狂気に走らせてしまったなら、当時あなたの才能を見抜きつつも見捨てた私には大なり小なり責任があると思っています。
今私は編集長になりました。もしあなたさえ良ければ、獄中出版という形であなたを小説家にさせたいと我々は思っています。無論、あなたが死刑囚ということは伏せて出版します。
小説家になりたかったのでしょう。」
手紙は読んだ後、しばらく経ってゴキブリを殺すのに使ってしまったので、内容を鮮明には覚えていませんが、だいたいこんな感じだったかなと思っています。でも、実際は400文字くらいあった気がします。
普通、このような話を頂いた場合は最低でも半日は考えるべきなのでしょう。しかし、僕は即決してこの話を承諾することにしました。
この期に及んで僕はまだ、作家になる夢を見ていたのです。一度捨てて粉々に砕けたのに、拾い集めて袂にしまっていたのです。それも大事に大事に。
原稿用紙は二週間に一度、100枚ほどが出版社から送られてきて、最初の時には広辞苑と英和辞典が送られてきました。後で自費で六法全書も購入しました。
父親は自殺し、大学は放校されて全てを失ったはずなのに、酷いことに僕は自らと彼らを生贄にしたことで、ようやく自分の悲願を達成できたのでした。
人生って一体何なんでしょう。神がもしいるとしたら僕は相当弄ばれているようです。一寸先は闇でしたが、光の中でこそ見つからなかった光陰を闇の中で見つけることができました。
4畳の独房の中で遂に小説家となった僕は、かつて落選した小説を推敲して一から書き直しました。余談ですが、源義昭というペンネームは高校時代、食堂で昼食のうどんを食べてる時に何となく思いついたものです。名前の由来は察しの通りです。
(余談ですが、この手紙が届くまで僕は暇潰しに児童文学の点字翻訳をしてました。なので、視覚健常者でありながら僕は点字が読めます)
書き終わったものは、落選した時の作品とは似て非なるものとなって生まれ変わりました。出来上がった完成品は、ただ己の薄汚れた心情を女々しく吐露しただけのものでした。
でも、これでいいのです。世の中は九つの嘘の中に一つの真実があれば上出来と言ったでしょう。ならば原稿用紙の中、自分の世界だけでは十の真実を披露してやりたいと思ったからです。素直な僕の気持ちを書いたのですから、リアリティがあったでしょう。
自分の短い人生における最大の過ちは、自分の味方は自分だけだと思っていたことにあります。誰もが僕を悪罵し、卑下していると信じ込んでいて、逆に周りを見下してアゴで使ってやりたいという不埒な理由から作家を目指していたのです。
僕は独房という、誰もいない狭くも広い無際限の城邑で、仁科を殺めた時を思い返し、自分すらも時には自らを寝返って、敵に回ることがあると思い知りました。誰もが逆上して我を忘れてしまうことがあるように、自分を完璧に制御できるなどというのは、人そのものを舐めた甘い考えだったのです。
話を元に戻します。僕が書いた小説は全5巻に分けられて無事に出版されました。受け取った文庫本を手に取った時は、流石に昂ぶるものを感じました。
恥も外聞も無く、この時の僕は仁科を理不尽に殺したこともすっかり忘れて、本を両手で掲げながら部屋中を転がり周りました。まるでクリスマスに要求の叶ったプレゼントをサンタさんから貰えた子どものように、この時の僕は全てを忘れてただ幸福な気分で童心に帰っていました。
いっそこの時、刑務官が出房を命じてくれたら僕は歓喜の大海を泳ぎながら死ねたでしょう。しかし、そうは問屋が卸しません。
最初はようやく我が子が形になったと狂喜乱舞していましたが、やがて強欲にも誰かから感想を賜りたいと思い始めました。強欲ではありますが、しかし当然と言えば当然です。多くの作家がそうであるように、僕もまた感想が欲しいが為に、今まで一応書き続けてきたのですから。
しかし、今時律儀にファンレターを書いて送る人間なんて少ないものです。僕ですら今まで一枚も書いたことがありませんでした。しかし、どうしても自作が認められた証である感想を頂かなければ、いよいよ死ねないとすら思うようになり、編集長にネットの評価を教えて欲しいという旨の手紙を書いていた時、真琴さん。あなたからのファンレターが届いたのです。
最初は信じられませんでした。刑務官がからかってるんじゃないかと思いました。でも、女性特有の丸みを帯びた手紙の字は、大人の男には書けないものですので、そこからこれは本物だと気付きました。
これは嘘では無く真だと分かった時、僕の身体の中で大輪の花が咲き、頭頂から冷たい甘露が溢れ出すような気分がしました。僕は傲慢な人間で、恥知らずな人間なのでしょう。しかし、これでようやく作家の端くれになれたという事実にみっともなく昂揚しました。
僕はこの時、両手で握手はできないように自分一人では満たすことも、手に入れることもできないものがあるという事実を深く思い知りました。
あなたは素晴らしい。あなたの靴下を脱がす価値すら僕には無いでしょう。
あなたの感想文には僕の作品に対する愛情が伝わり、その言葉の一つ一つだけで、僕はこれからの人生における最大の苦難すらも易々と受け入れる覚悟を抱くことが出来ました。
僕の作品はそれほど人気は無かったようですが、それでもいくつか他に感想は貰えました。でも、あなたから送られてくるお便りに勝るものは遂に来ませんでした。仁科の思考がようやく微々と分かった気がしました。感想を貰える喜び、これは今までの自分には分からないものでした。
僕は今まで自分の作品を誰にも見せたことが無かったので、これを知らなかったのです。誰も彼もが否定しかしないと思っていたものですから。
はっきりと言いましょう。僕は仁科を殺したことを最初は実に馬鹿なことをしたと後悔しました。しかし、あなたから頂いた感想により、未だ後悔すれど収穫はあったと思うようになり、大分気が楽になりました。
僕があの時窓に見た仁科の姿に威圧されながらも挫けずに作家業を目指したとします。でも、きっと不必要に人間不信のまま何をやっても的外れに終わり、仁科に一方的な憎悪をひたすら募らせるだけだったでしょう。
仁科を殺したことで、僕は今までの自分を見つめ直し、生まれて初めて世間一般で言う改心では無く自分らしい改心を遂げることが出来ました。そして、あなたがそれを気づかせてくれたのです。ダイヤモンドの原石を手に入れた僕、研磨を担当してくれたのがあなたです。
今の僕は人を信じることができて、時には自分を疑うこともできます。感情に任せて仁科を殺したことは長い目で見れば、僕にとって決して不幸ではありませんでした。
むしろ、無能な僕が作家になる為には、否が応にも彼の死を通過儀礼にしなければならなかったのだという結論すら、見出せました。
僕は狂人かもしれません。しかしあなた自身は「自分は狂人の思想に迎合してしまった」なんてことは思わないで欲しいのです。
僕が世に送り出した本は、確かに自身の感情を吐き出したものでしたが、それでも世間が作った借り物の目では無く、あなただけの目で今一度見ていただけたら理解して貰えると思います。
どんな邪な理由があろうと、僕はただひたすら狂おしいほどに作家になりたかったのです。そして僕に仮に物書きとしての武器があるなら、僕は惨憺たる不幸。つまり地獄を描くことができることだと思います。
何故なら自分は今まで数多の地獄を己の中でわざわざ生み出し、身を焦がしながら罰だ試練だと思い体験してきました。ですので、我ながら自作を見返してみると中々に涼やかな地獄を描けたと思っています。
その独創の地獄の中に、僕個人の余計な悪感情は混入していないと自分は確信しています。ですので安心して、これからもたまに手に取っていただけることを切に願います。
最後に。僕はもうすぐ30になりますが、何となく三十路にはなれないような気がします。最近、隣人が入れ替わったからです。
今日の朝食は味付け海苔が付いたご飯、わかめと切り麩の味噌汁、真っ赤な塩鮭とひとつまみくらいの切り干し大根とデザートにイチゴが3粒。紙コップに入れられた牛乳が一杯でした。
あまり長く書くと刑務官の方々に迷惑ですので、口惜しいですけど、もう手短に済ませます。
僕はほんの一時でも作家の端くれになれたこの充実感と、あなたに出会えた喜びを噛み締めて本当の地獄に行きたいと考えています。
僕が犯した罪は死んで贖う他はなく、とても今生だけでは償いきれないと思っています。
でも、こんな過ちを犯してしまった自分を受け入れながら僕は幸福になりたいですし、そんな自分をいつでも愛しています。
お身体に気をつけて。サンキューガールアンドグッドバイ。棺にはあなたの手紙を入れるよう頼んでいます。
僕の最期の願いは、まだ生きている母親が僕の小説を僕が作者と知らずに読んでもらえることです。
高橋広政」
サンキューガール・アンド・グッドバイ ザワークラウト @kgajgatdmw
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