終わりは突然に訪れる。大概の予感させられた終わりには続編がある。

海原ノ島

私に舞台を教えてくれたあなたへ

「誰もお前に生きろと頼んだ覚えはないよ———お前は自分で望んで生きているんだ。」


生唾を飲み込む。言葉を続けた。


「たとえお前が望んでいなくとも、お前の、お前の中の、お前じゃない部分が生き続けようとしているんだ。

今だってお前の鼓動がお前自身を打つだろ?お前の鼓動は、お前が終わるその時まで生きようとすることを止めないんだ。

自分で止めようと思って止められるものじゃない、流れでる血を止められるものなら止めてみろ。」


唇が乾く。目の前の子供のように狼狽した表情を浮かべる兄弟に言う。


「無理に決まってる。心だけがお前を形作る全てじゃないんだ。

お前はちっともお前自身を省みやしない。少しはお前自身の囁きに耳を傾けてみろ。

誰でもないお前自身がだ、他に誰がそんな面倒なことをしてくれる?

母か?

父か?

俺か?

恋人か?

友か?

そんな遠くにいる人間に、お前の中の囁きが聞こえるわけないだろ。

世界はもっとうるさいんだ、いちいちそんな声の小さいヤツに構ってる暇なんか、俺にも他の誰にもありゃしないんだ。」


手が痺れる。力を込めすぎて鬱血した拳を握り直す。


「へその緒を切られた、生まれてきたときからお前が独りだったのなら、終わるときだってお前は独りだ。

誰がどれだけ近くにいて、四六時中肌を触れ合ってたとしたって、心も体もくっついているわけじゃないんだ。

ただな、死が終わりだと思うなよ。死んだら死んだ先で孤独だし、誰も彼もお前を忘れるときがきたらそれはまた孤独だ。死んだらはいお終い、なんて簡単になると思うなよ。」


一気に言い切って、兄を睨みつけた。

彼は何かを言おうとして、目を泳がせた。





数秒間の沈黙の後、優也は顔を歪めて呻き出した。

「ああ、だめだクソ、台詞完全に飛んだ。」

そう言ってよれたシャツの胸ポケットから乱暴に折れ目だらけのカンペを取り出した。

私は思わずカッとして

「ふざけんなよ、もう時間ないんだ。しかもこんなクライマックスで何やってんだよ。」と言った。

優也はまるで聞いてないふうで、カンペを睨み混んでブツブツ言っている。

「これじゃ俺の独り相撲じゃないか」と思った言葉が口から漏れ出た。

私は周囲を見渡して、「いい時間だから休憩しよう、俺は少し外の空気吸ってくるから。」と紙に顔を埋めている目の前の男に声をかけて舞台を後にした。



新品の引き戸を開けて外に出る。容赦なく照りつける日差しに、しかめたところで大して凄みもない顔をしかめさせた。

つい最近まで空は渋い顔をして時折思いついたように降る無計画な雨に苛立たされていたのに、今度は嘘かのように、これでもかというほど太陽を見せてきて鬱陶しい。

体にまとわりついて離れない暑さが私の首元を浅く締め付ける。


戸の前の建物で影になっている部分に入ってポケットからタバコを取り出した。

私はあれ以来すっかり火が苦手になってしまったのだが、こればっかりはどうしようもない。ポケットからライターを取り出して火をつけた。

私の住む街は比較的栄えていた。都会というにはちょっと引け目を感じるが、新幹線が止まる駅から電車で2駅行ったところだ。

ただ、1年前にこの街は一変してしまった。


深夜、私が自宅の換気扇の前でタバコをふかしながら台本を読みふけっていると、突然床が突き上げられた。そのときの私は何が起こったかもわからず、よろけてタバコを落とした。

ただタバコを拾おうにも住んでいたボロ屋が悲鳴をあげる程揺さぶられていて、私はただキッチンにしがみつく他なかった。しかし、揺れは強さを増すように思われ、壁を頼りにしながら玄関へ向かった。このときの玄関がやけに重く感じられたのは、単にボロ屋だからというよりも、おそらく地震で歪んでしまったのだろう、あの時もう少し遅ければ閉じ込められていたかもしれない。


階段の手すりに子供のようにすがりつきながら、やっとの思いで一階へ降りたときには、他にも不安で外に逃げた人が見えた。少し揺れが引いたかっと思ってほっと胸を撫で下ろした瞬間、膝が崩れるような衝撃が来た。

私は世界が裏返されたのかと思った。街灯の灯りは弾け飛び、空気が震え、轟音の中に絶えず悲鳴とガラスが割れる音が響く。私の住んでいたアパートは屋根が落ち、一階が重みに耐えられず押しつぶされた。

腰に力が入らず、へたり込んだ私の前で落ちてきた瓦が砕け散った。思わず後ずさりして、暗闇の中「道路の真ん中に来い」と叫ぶ声の方へ這い寄った。


揺れが収まった後しばらく放心していると、どこかから「火事だ」という金切り声が聞こえた。気づけば、そこかしこの家のからくすぶったような煙が上がり始めていた。

周囲にいた大人一緒にと老人を連れ立って近くの小学校に向かう頃には、東の空は日の出と見間違うような赤に染められていた。辺りもくすぶったような臭いが立ち込めて、薄明るくなっていたように思う。


そしてあの赤く染まる空の下に優也はいた。

私が優也と再会できたのは、その2ヶ月後だった。




タバコの火が手元に近くなる前に火を潰した。

今公演を間近に控えた舞台は、幼馴染の優也や早月を含め、今のメンバー数名と震災の前から計画していたものだった。高校の時の仲の良い演劇部同期とで一から始めたこの舞台は、あの一年前の出来事を経てもう元通りにはできない程に砕けた。もう会えないヤツもいる。

あの時はもう、この舞台は無理だと思っていた。正直なことを言えば、皆それどころじゃなかった。けれど、優也が私を焚き付けて、そうしているうちにいなくなったヤツの両親や友人が集まり出して、気づけば周囲の応援があってここまで来られた。私や皆にとって、もうこの舞台の意味は様変わりしてしまった。


劇場の中に入って、舞台上で優也と他のメンバーが話しているのを客席の奥から眺める。

本当だったらこの会場だって、まだ何もかもがこれから始まる私たちには手に届くはずのない場所だった。本当だったらというのはおかしいかもしれないけれど、こんな場所を得るためにはまだ技術も評価も————そうした沢山のものを身につけることで自分で勝ち取るはずなのだ。

身勝手な人が私たちに変なものを背負わせてきた。


私は最初、優也に脚本を変えようと言った、せめて役だけでも交代しようと。

こういう時に味方になってくれた、高校の時から一緒でいつも脚本を勤めてくれた早月ももういない。今回の舞台の脚本も彼女による作品だ。

優也と早月は長いこと付き合っていたけれど、震災の前に別れたのだった。内心、私は早月に憧れていて、だから少しだけ気が晴れたような感覚を覚えたのを記憶している。今となっては胸を少し灼く火のような虚しさと形を変えてしまって、私たちは互いに一切早月について触れることもないままだった。

私と優也を結びつけ、同時にどうしても埋められない溝を作り出した張本人は、この舞台を勝手に放り出してどこかへ行ってしまった。いやどこかへ行ってしまったのは彼女ではない、私たちの方だ。彼女の知る由もない先を私たちは歩んでしまう、この足を止める術も知らない。

私たちの背後へ、過去へ、どんどん遠のいていく。

失われた何もかもが、共に歩むことを止めてしまっていく。

私と優也の関係を複雑にさせていた早月は、もう私たち二人を結びつける単純な時間のランドマークとなってしまったし、私は二人に抱いた後ろめたさを解消できる可能性を遂に失った。

ついた傷さえ大切なものになってしまった。どんなに深く抉れた傷であってもやがてかさぶたになり、跡形もなく癒える。治り始めた傷に、泣き喚いて消えないでくれと頼んだところで無意味だ。

どうせこの記憶も思いも淡く、薄っぺらくなっていくのだろう。苦しさも痛みもすべて幸福だった記憶に塗り潰されていく。



だから、という訳じゃない。脚本を変えようと私が優也に言ったのは、きっと早月も苦い顔をしてこんなつもりじゃなかったとか呻きながら同じことを言うだろうこと、そして何よりも、早月が別れる前の優也に贈った脚本だからだ。

さっき練習していた台詞は、その最後の会話だった。

優也はこの薄い台本になってしまった、紙と文字だけの早月に何を見ているのだろう。私の知っている早月はそんな風に答える。

早月と優也の間に起こったことを私は何も知らない。きっと二人の恋愛が終わるには十分な理由だったのだろうし、正直今でも知りたいとは思えない。ただ、こんな酷な舞台を残すだけなのだから、恋愛が終わってもなお二人は互いにとって大切な人であったのだろう。






舞台から優也が私に呼びかける。

「おい、始めるぞ。時間はないんだ。タバコなんか吸ってる暇ないだろう?」

照明の調節の為に、一つだけつけられたライトが舞台に一筋だけ光を束を落とす。光のカーテンの中に佇んでこっちを見る彼は、少し現実味を欠いていて私は優也の存在を希薄に感じてしまう。

「ああ、そうだな。時間はないな。」そう答えて私は客席を降りてゆく。

腹の高さまである小劇場の舞台に乗り込んで、さっきの会話をもう一度やり直す。







「何もかもどうでもよくなって、ただ呼吸をしているだけの人間が生きていることに必然性などないだろう?

それはもう妥協の産物として誰かの舞台の上に置かれただけのハリボテだ。」


と兄は言った。


「誰もお前に生きろと頼んだ覚えはないよ。お前は自分で望んで生きているんだ。」


と私は返した後、兄の目を見た。


「たとえお前が望んでいなくとも、お前の、お前の中の、お前じゃない部分が生き続けようとしているんだ。

今だってお前の鼓動がお前自身を打つだろ?お前の鼓動は、お前が終わるその時まで生きようとすることを止めないんだ。

自分で止めようと思って止められるものじゃない、流れでる血を止められるものなら止めてみろ。」


こんなことを言う必要もなさそうな、穏やかな表情の彼に向かって私は続けた。


「無理に決まってる。心だけがお前を形作るすべてじゃないんだ。

お前はちっともお前自身を省みやしない。もう少し内側の囁きに耳を傾けてみろ。

誰でもないお前自身がだ、他に誰がそんな面倒なことをしてくれる?

母か?

父か?

俺か?

恋人か?

友か?

そんな遠くにいる人間に、お前の中の囁きが聞こえるわけないだろ。

世界はうるさいんだ、いちいちそんな声の小さいヤツに構ってる暇なんか、俺にも他の誰にもありゃしないんだ。」


こんな言葉を残していった彼女を私は恨む。優也がこれを私に言うよう望んだことも。


「へその緒を切られた、生まれてきたときからお前が独りだったのなら、終わるときだってお前は独りだ。

誰かがどれだけ近くにいて、四六時中肌を触れ合ってたとしたって、心も体もくっついているわけじゃないんだ。

ただな、死が終わりだと思うなよ。死んだら死んだ先で孤独だし、誰も彼もお前を忘れるときがきたらそれはまた孤独だ。死んだらはいお終い、なんて簡単になると思うなよ。」


兄が一呼吸置いて口を開く。一つしかついていないはずの照明は酷く眩しかった。

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終わりは突然に訪れる。大概の予感させられた終わりには続編がある。 海原ノ島 @unabara_noshima

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