第328話 救いを……

「……すさまじいな」


 その姿を見たタイラーの口からそんな言葉が漏れて出る。


 いま目の前にいるのは、かつてジニーだった存在。それはもう、人の原型すら留めていなかった。そこにいるのは、無数の触手を生やしたイソギンチャクのような生物。変異するその瞬間をはっきりと目撃したはずの自分自身ですら、それがジニーであったことが信じられないほどである。竜の力とは、このような非道すらも可能とする事実に恐怖を覚えるしかなかった。


『――――』


 ジニーだったものは、さらなる異形の姿になってから、断続的に発しているうめき声とも叫び声とも取れない異音がさらに不愉快なものになっていた。脳を鷲づかみにされて揺さぶられるようなその音は、いつまでもそれを聞いていると、こちらまで発狂してしまいそうだ。


 恐らく、ジニーがこうなったことを考えると、アンドレイも同じくもはや人だったことすらもわからなくなるような変異をすると思われる。見知った相手がこうなってしまうのは、とてつもなく心が痛む。


 とはいっても、ああなった彼らを助けられる手段はない。彼らを倒し、これ以上尊厳を奪われることがないようにする以外できることはなかった。今回の出来事は、あらためて自分の無力さを感じさせられる。


 完全な異形と化した元ティガーたちの戦闘力はさらに強力になっているだろう。人型というのは別段戦闘能力に優れているわけではない。いや、それどころか適していないと言えるものだ。多くの獣が一般的に人間よりも遥かに優れた身体能力を持っていることを考えれば、人型を捨てたジニーだったものそうなっている可能性は非常に高いだろう。


 身体能力が優れているからといって、それだけが勝負を決めるものでもない。こちらにだけできることだってあるはずだ。そうやって、人はこの世界を生き抜いてきたのだから――


 タイラーは斧を構える。


 こちらの能力は岩や地面を操るというものだ。空中に浮いている岩などあるはずもなく、地面も遠く離れている。当然のことながら、空中という場においては極めて相性が悪い。持っている手段の多くを封じられたに等しい状況だ。非常に厳しいが、ここで退くわけにもいかなかった。多くを守るためにも。


 タイラーは空を蹴って前へと踏み出す。なにもないはずの空間を蹴り込めるというのは不思議な感覚だ。間違いなくその身だけで空を飛んでいるはずなのに、現実感がまるでなかった。


 こちらの接近を察知したジニーだったものは、身体の至るところから生やしている触手を突き出してくる。その数は三本。タイラーは向かってくるそれを斧で叩き斬りながら距離を詰める。自身が持つ斧の間合いでジニーだったものを捉えた。斧を両手で振り下ろす。


 ジニーだったものは、どこが胴体でどこが頭部なのかすらも判別もできない状態となっていた。未だにジニーがああなってしまったことを信じられなかった。正直なことを言えば、このような姿になり果ててしまったとしても、殺さなければならないのは非常に心苦しい。その思いが両手を鈍らせようとするが、タイラーはそれを振り払った。


 振り下ろした斧は命中したものの、ジニーだったものを傷つけることはできなかった。反発力の強い弾力性が高いものを叩いたときのような感覚が両手に広がる。その弾力性は斧を全力で振り下ろしても、容易にこちらを押し返してきた。


 こちらの攻撃を防いだジニーだったものは、全身から棘のようなものを突き出させて反撃。タイラーは押し込んでいた斧を起点にして翻るようにしてそれを回避。いくつかの棘が身体を掠めた。回避したのち再び空中を蹴って距離を取る。


 ジニーだったものは退いたこちらに対し追撃を仕掛けてきた。身体の至るところから触手をこちらに向かって突きださせてくる。太い木の枝ほどあるそれが直撃すればただでは済まないだろう。それがいくつも襲いかかってきた。その動きは極めて高速だ。


 タイラーは高速で押し寄せてくる触手を、斧を巧みに操って迎撃を繰り返していく。触手は次々と身体の全方位から突き出してくるため、こちらに反撃に転じられる隙を与えてくれなかった。前も後ろもない怪生物と化したことを存分に活かした攻撃。いつどのような状態であっても、防戦を強いられるというのは厳しいものであった。


 ここが空中でなかったら、ここまで防戦一方とはならなかったはずであるが、そう考えたところでここが空中でなくなることはない。いつどこでどのような場所であったとしても十全にその力を発揮できてこそ一流と言えるものである。そうであったのなら、などと悔やんだところでいまの状況が変わってくれることなどないのだから。


 ジニーだったものは留まることなく触手を生やし続けている。身体の一部であるはずの触手を斬り落とされ続け、確実にその質量が減っているはずなのに、その身にまったく変化はない。なにがどうなっているのか皆目見当をつかないが、それを暴いている余裕などまったくなかった。そういうものである、言い聞かせるしかないだろう。


 もはや何本目になるかもわからなくなった触手を斬り落としたところで、ジニーだったものはその身を弾丸のようにして突撃を仕掛けてくる。異形の塊と化したそれを受け止めることは不可能だ。受け止めようとすれば、武器ごと身体を破壊され、致命傷となるだろう。


「ち……」


 タイラーは弾丸のような突撃を横に飛んで回避。人間を遥かに上回る質量となったジニーだったものが自分の身体のすぐ近くを通り過ぎて行く際に、びりびりとした衝撃が伝わってくる。触れずとも、あれが命中していたらどうなっていたかを想起させるものであった。嫌な汗が滲んでくる。


 どうすればあれに傷を負わせることができるだろう? ただ斧を振り回しただけで傷つけられるはずもないのは明らかであった。ああなってしまった彼女を倒すのであれば、その手段が確実に必要となるのは間違いなかったが――


 地上から遠く離れた空中では、利用できそうなものはなにもなかった。ここで能力を行使できたとしても、これだけ離れているとなるとかなりの時間差が生じる。そもそも、これだけ地上から離れていると、地上と同じように能力を使えるかどうかも不明である。


 できることなら他の仲間に頼りたかったが、彼らも自分と同じく元ティガーとの戦闘中だ。異形と化した元ティガーたちと戦いながら、こちらを手助けできるとは思えない。


 非常に厳しい状況だ。だとしても、前を行くタツオたちの背後を守り、自分たちの後ろにあるカルラの町を守るのであれば、この状況であってもなんとかしなければならなかった。


 ここまで厳しい状況で戦わなければならないのはいつぶりのことだろう? 以前の探索で敵に操られたアレクセイたちに不意を打たれたときよりも厳しいように思えた。あのときは自分が持てる手札が極限まで限られているわけではなかったのだから。


「今回ばかりは、まずいかもな」


 そんな言葉が口から漏れ出た。ティガーというのはいつ死んでもおかしくない危険な仕事である。死の覚悟くらいはとっくの昔にできているが――


「だが、仲間にこんなことをされちまった以上、諦めることはできねえ。なんと言われようと、とことん戦ってやるさ」


 通り過ぎていったジニーだったものへと目を向ける。もはや表情どころかどちらが前でどちらが後ろなのかもわからない姿となっているが、ほとんど消耗していないことだけは間違いなかった。


 タイラーはゆっくりと息を吐き――


 ジニーだったものとタイラーはほぼ同時に動き出した。

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