第287話 強き意思
『なんだい坊や。もしかしてあたしの声を忘れちまったのかい?』
直接顔を会わせたのは一度だけであったが、強烈な存在感を持ったギャングの親玉の声を忘れられるはずもなかった。
聞こえてきた声はアンリのもので間違いなかった。いま彼女は自分の声帯を使って喋っているわけではないから、かつて聞いたときのままの声で聞こえているのだろう。
『いや、あんたの声を忘れたわけじゃあないが、いまこのときにあんたの声を聞くとは思わなかったからな。驚いただけだ』
こちらの言葉を聞いたアンリは、『そりゃその通りだ。長生きしてると思いもよらないことが起きるねえ』と豪快な調子で言葉を返してくる。
『ま、あたしもまさか自分の身体は奪われるとは思っちゃいなかったけどね。それはそれとして、大事な話をしようか』
アンリはすぐさま声の調子を一変させた。
『あたしの身体を奪ったこいつがなにをしようとしているのかなんとなくわかっている。なら、坊やがやることはただ一つだ。それがなにか、言わなくてもわかるだろう?』
『……あんたを殺せってことか?』
竜夫の言葉に対し、アンリは『そうさね』とだけ短く返してくる。
『遠慮はいらない。身体を奪われたあたしが何故消えなかったのかはわからないが――それがなんだってにせよ、あたしがこうやってわずかでも残っていられるのはそう長くない。あたしがあたしのままでいられる間に、あたしを殺しな。あたしからの、坊やへの最期の頼みだ』
『いいのか?』
わずかな間を置いて竜夫はアンリの言葉に返答する。
『心残りや悔いがないかと言われれば嘘になる。だけどね、あたしがあたし以外の奴に使われるのだけは我慢ならない。たとえそれが竜であってもね。それに、死ぬ覚悟くらいとっくの昔にできているよ。これでも人生の多くを裏社会で生きてきたんだからね。いつ死んでもいいように、婆になるまで生きてきたんだ』
自身の身体すらも奪われてしまったアンリの言葉からはなんとも言い知れない強さが感じられた。ここで彼女のどのような言葉を投げかけたとしても、その意思を曲げることは絶対に不可能であると思われた。
『もうあまり時間がない。そろそろ奴に感づかれるかもしれないからね。でも、最後に一つだけ訊かせておくれ。子供たちは無事かい?』
『クルトのおかげで、大変な状況だけどいまのところ全員大丈夫だ』
『ああ、それならよかった』
アンリはどこか遠くを見つめるように、感慨深い声でそう返答した。
『それじゃあね。あたしを殺したあとも元気でやるんだね。あんたにはなにかやることがあるんだろう? あたしの屍を超えて、それをしっかりとやり遂げな。坊やみたいな若者が死ぬには、まだ早すぎる』
そう言い残し、アンリの声は聞こえなくなった。彼女はこちらに対し、なにをすべきか伝えた。これ以上言葉を交わす必要はない。あとは、やるべきことをやるだけだ。
最期まで人であろうとしたアンリのために、彼女を殺す。それが誇り高き老婆への手向けになると信じて。
人の姿のまま、知っている誰かを殺さなければならないというのははじめての経験だ。正直言って、気は進まない。その選択が正しいのかどうかもわからなかった。
だが、前に進むのであれば、アンリの誇りを守るのであれば、それも乗り越えなければならないことなのだろう。自分にいまできることは、それしかなかった。
竜夫はアンリだったものに目を向ける。
アンリだったものは余裕そうにこちらと相対している。その様子を見る限り、先ほどの会話を聞かれたとは思えなかった。どうやってアンリがそのようなことを可能にしたのかはわからないが、それを知る必要もない。いまやるべきことはただ一つだ。
アンリの身体を奪った竜を殺す。最後まで誇り高くあろうとしたただ一人の人間の意思を尊重するために。
しかし、それを成し遂げるためには、奴が駆使するあの堅牢な防御を超えなければならない。心を震わせ、鼓舞したからといって、できないことができるようになるわけではないのだ。
一応、奴を傷つけられる術自体はある。とはいっても、それは使いどころを見誤れば危険なのはこちらだ。向こうも、こちらに自分を傷つけられる手段があることも把握している以上、警戒はされているだろう。ただがむしゃらに振り回したところで奴を倒せるはずもなかった。
竜夫は小さく息を吸って吐き――
アンリだったものへと向かって飛び出した。
こちらから傷つけることが難しいからと言って、消極的になるのはいい選択であるとは言えないだろう。前に出なければ、道は開けないのだ。前に出れば、道が開けるわけでもないけれど。
前へと飛び出した竜夫はアンリだったものを刃の間合いで捉える。前に踏み込みながら袈裟斬り。
アンリだったものは半歩後ろに下がって、竜夫の袈裟斬りを捌く。硬化した腕で振り下ろされた竜夫の刃を防いだ。
竜夫の刃を防ぎつつ、逆の手で拳を放ってくる。超至近距離での一撃。わずかなスペースしかないが、それでも人間の身体を破壊し、致命傷を与えるだけの威力は間違いなくあった。死の匂いを感じさせる一撃が迫る。
竜夫はその一撃を回るようにして回避。アンリだったものの横に回り込む。手榴弾をいくつか創り出してそれを転がしたのちに離脱。離脱と同時に爆風が広がる。通常であればそれで終わっているはずであるが――
「そのようなこともできるのか。さすがはあのお方の力を持つだけのことはある。こちらが狙っていることを読んでいたか」
手榴弾の爆発とともに舞い上がった砂塵を切り裂くようにしてアンリだったものが現れ、距離を詰めてくる。やはり、圧倒的な強度を持つ奴に、手榴弾程度ではろくに傷一つつけることはできないらしい。
だが、それもはじめからわかっていたことだ。生半可な手段では奴を傷つけられないことくらい嫌というほどわかっている。いまやるべきことは、とにかく前に出ることだ。そうやって、道を開くしかない。
先ほどのことを考えると、安易なタイミングで極薄の刃を使用して攻撃するのは危険だ。こちらが創り出す極薄の刃は奴にとって脅威であると同時に、狙うべき隙でもある。脅威となるそれをこちらに使わせて、反撃を狙ってくるのは常套手段と言ってもいい。極薄の刃を使うのであれば、奴が予測し得ないタイミングで使うしかない。
こちらに接近してきたアンリだったものの拳が放たれた。劣化ウランのような重さと硬さを誇る拳。竜夫はそれを待ち受けた。
放たれた拳に刃をぶつけるようにしてそれを防御。圧倒的な重さと硬さを誇るそれになんとか踏みとどまる。
アンリだったものの拳を防いだ竜夫は刃を地面に突き刺して――
自身の周囲の地面から無数の刃を突き出させた。当然のことながらそれらは、範囲内にいたアンリだったものにも襲いかかる。
しかし、アンリだったものはそれに耐えた。しっかりと致命傷となり得る部分だけを両手で防御し、あとはその身で受け止める。アンリだったものとぶつかった刃は砕けて消えた。
同時に二人は後ろへと飛び、距離を取った。十五メートルほどの距離。それなりに離れているが、理外の存在同士の戦いに置いてそれは充分と言えるものではなかった。
やはり、極薄の刃を用いなければ、奴にダメージを与えることすら難しい。どうにかしなければならないところであるが――
使うのであれば、奴の予測を上回らなければならない。奴の予測をかみ合ったら、こちらがやられてしまうだけだ。
あと少し、なにかがあれば。
そう思ったものの、都合のいいものがここで出てくるはずもなかった。
人の誇りを守るための戦いは、まだ流れていく。
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