第257話 狙いしもの

「少しだけ外に出てくる」


 叔父と仲間たちにそう言ってジニーはヴェスティアを出て夜の町へと足を向ける。ティガーの行方不明事件が起きているいま、本来であれば騒がしい夜の町は少しだけ静かであるように思えた。


 ジニーは暗い夜の空へと目を向ける。


 最初に目に入ってくるのは、帝都上空に出現した城のような巨大な建造物。それは遠く離れているにも関わらず、圧倒的な存在感が感じられた。それが目に入るたびになにかの夢や冗談ではないかと思い、圧倒的な存在感を持って、あれが紛れもない現実であることを突きつけてくる。


「これから、どうなるんだろうな」


 そんな言葉が漏れ出た。


 これから、自分たちを取り巻く社会はどうなってしまうのだろう? 現実とは思えない出来事が現実になってしまったいま、自分たちはかつてと同じ日常を過ごすことができるのだろうかと不安になる。


 言いようのない不安に襲われつつ、それを振り払うようにジニーは歩を進めた。


 やはり、夜の町はいつもよりも静かな気がした。行方不明事件のせいか、それともいまこの世界で起こっている異常な事態のせいなのか――どちらが原因なのかはよくわからなかった。たぶん、どちらも原因なのだろう。歩きながらジニーはそう結論づけた。


「そろそろ独立しようかと思ってたけど――これじゃあ無理かな」


 高名なティガーである叔父に師事し、一緒に仕事をするようになってからあと少しで五年になる。そろそろ、自分一人でやっていけるだけの実力と経験はつけられたはずだ。いまの仕事に目処がついたら叔父にその話をしようかと思っていたのだが――


 人生というものは、思うように物事が進んでくれないらしい。少しだけ嫌な気持ちになるが、こればかりはどうしようもないのもまた事実。物事を思うように進められない中で、できる限りのことをやっていくしかない。なんとかできるはずだと自分に言い聞かせる。命に関わる危険がある場で、気の迷いを生じさせるのは厳禁なのだから。


「……なんだろう」


 歩いている最中、どこからともなく不思議な香りが漂ってきた。酒や食べ物の匂いではない。香や香水といったものに近いもの。不快なものではなかったが、いままで嗅いだことのない匂いだ。はじめて嗅ぐもののはずなのに、懐かしさが感じられた。そんなものが微風によって流れてきている。


 その匂いが気になったジニーは、その匂いが感じられる方向へと足を傾けた。匂いがするほうへと進んでいく。


 不思議な匂いは、路地の奥側から漂ってきているようだった。そちらへと進んでいく。念のため、腕で鼻と口を押さえた。


 裏路地を進むたびに、不思議な匂いはその濃さを増していった。毒物というわけではなさそうだが、言葉にできないなにかが感じられるような気がした。


 少し危険かもしれない。そう思ったが、何故か足を止めることができなかった。さらに不思議な匂いが濃さを増していく。地に足をつけているはずなのに、身体が浮いているような感覚に襲われた。


 さらに進み、角を折れる。その先に――


「一人か。もう少し釣れるかと思ったが、まあ別にいいだろう。人間を釣るのはそれほど難しいことじゃない」


 そこにいたのは、長身で細身の男。その男の近くかあら、不思議な色をした霧が立ち込めていた。あれが、不思議な匂いの原因なのだろうか?


「なにをしているの?」


 ジニーは男へと問いかけた。ジニーの言葉を聞いた男は軽く笑い声をあげたのち――


「さっきも言っただろう。釣りだ。相手は魚ではなく、お前ら人間だが。いや、正確に言うのなら、人間ではなくティガーとやらか」


 男の言葉を聞いたジニーの警戒心が一気に跳ね上がる。もしかして、こいつが――


「お前が思っている通りだ。私たちがお前らティガーを釣り出して、攫っている。なに、恐れることはない。それはお前らにとっても非常に光栄なことだろう? 復活せし我らの礎になれるのだから」


 男の言葉から異様なほどの力が感じられた。言い放った言葉そのものがまるで重い壁ではないかと錯覚させられるかのよう。いままでこれほどの重圧を感じたことはなかった。どう考えても、只者ではないのは明らかだ。


「……ふむ。私を目の前にしても折れないか。人間にしてはなかなかできるようだ。限定されているとはいえ、我らの力を得ただけのことはあるらしいな。よかろう。そうでなくては、検体としての利用価値もないからな。できれば殺さずに捕えたいところであるが――さて、どうするか?」


 男が一歩前に近づいてくる。ただそれだけで、こちらへと迫ってくる圧迫感が強まるのがはっきりと感じられた。嫌な汗がどんどんの滲み出てくる。まだ、なにかしたわけでもされたわけでもないのに、息が上がりそうになった。


 そこでジニーは自身の武器である杖を呼び出し、手に持って構える。向こうがなにかしようとしてきたときに、いち早く迎撃するために。


「どうした? それを私に振るわないのか? 別に遠慮することはあるまい。こちらはお前らがどれほどのものかを確かめたくてこうやって足を運んでいるのだ。多少はそれを見せてもらわなくては困る。そろそろ選ぶ検体も厳選しなくてはならんからな」


 さらに男はもう一歩前に踏み出してくる。圧迫感と重圧がさらに強くなった。


 ただ目の前に立ってゆっくりと近づいてくるだけなのに、膝をついてしまいそうになる。こうなっているのは、奴の近くから発生しているあの不思議な色をした霧のせいなのか、それとも奴がそれだけの力を持っているのか――どちらなのかよくわからなかった。


「…………」


 ジニーは無言のまま、歯を軋らせる。


 前に進むことも、逃げることもできない状況。いまの自分は、圧倒的な強者を前にした哀れな獲物であることをはっきりと認識させられた。


「どうした? 恐れることはない。人間の無礼くらい受け止められんくらいでは支配者とは言えんからな」


 男は明らかにこちらを挑発していたが、それに怒っていられるような余裕などまったくなかった。だが、このままではいずれこちらが奴の圧迫感と重圧で押し潰されてしまうだろう。ジニーは全身の力を振り絞り――


 前へと踏み出して、男へと接近。持っている杖に力を収束させ、それを振り下ろした。


「やればできるではないか。だが、所詮は人間か」


 男はそう言って、軽やかにジニーの一撃を回避。そのまま二歩後退し、地面に向かってなにかを投げつけた。それは、ジニーのすぐ近くに赤紫色の霧を発生させる。


「……っ」


 その直後、身体が動かなくなった。ジニーは地面へと崩れ落ちる。一体、なにを――


「安心したまえ。麻痺毒の類だ。即効性で強力だが、死ぬようなものではない」


 動けなくなったジニーに男が近づいてくる。


「ふむ、やはりもう少し動かしてみたほうがよかったか? やはり、情報は多い方がいいからな。次はそうしてみることにしよう」


 こちらへと向かって男の手が伸びてきたところで――動けなくなったジニーの意識は断絶した。

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