第240話 自己の簒奪者

 覚醒したアンリ・チェザーレが最初に襲われたのは、とてつもなく奇妙な感覚であった。


 その感覚を言葉に言い表すことは難しい。それは六十年以上生きてきて初めての経験であった。


 一体、なにがあった? 帝都にとてつもなく大きな地震が発生したことは覚えている。所要で自宅のある帝都中心部から離れていたため、怪我などはしていなかったはずであるが――そのあとが思い出せない。なにか、とてつもない衝撃に襲われた感覚だけははっきりと覚えている。それは、若い頃に銃で撃たれて死にかけたとき以上のものであった。


『なにが、どうなっているんだい?』


 困惑に襲われながらもアンリは前を見た。そこに映っているのは見覚えのない光景。自分がいたはずの帝都郊外ではない。住宅すらもまばらな街道のようであった。光景からして、都市部からかなり離れているところだろう。


 そこでアンリは気づく。


 身体が動かない。身体の感覚はあるはずなのに、何故か自分の意思に反しているかのように動かないのだ。目線を動かすことすらもままならない。地震のあとに、全身が動かなくなるほどの大怪我を負ったのだろうか?


 いや、違う。いま自分がいる場所は病院ではない。もし、全身麻痺になるような大怪我を負っていたのなら、間違いなく病院にいるはずだ。その状態で、都市部から離れた場所にいるはずもなかった。


 まったく身体が動かないのに、何故か痛みも苦しみもまったくない。そういった苦痛すらも感じなくなるほどの大怪我を負ってしまったのか? そこまで考えたところですぐさま否定する。いや、それもおかしい。それならば身体の感覚もすらもなくなっているのが自然ではないのだろうか? 医学に関する専門的な知識は持ち合わせていないので不明であるが。


 それにしてもまったくわからない。あの地震の直後、自分の身に一体なにが起こったのか――


 アンリはそこでもう一つ気づいた。


 いま自分が歩いていることに。身体の感覚はあるのに身体が動かない、それにもかかわらず、何故か身体が動いている。それが、覚醒した自分が感じた奇妙な感覚の正体であったのだろう。さらに疑問符が増える。どうして身体が動かないのに、身体が動いているのか? これではまるで――


『そちらはどうだ?』


 そこまで考えたところで、どこからともなく声が響いてくる。まったく知らない男の声であった。近場には誰の姿もない。一体、どこから――


『ああ。問題ない。器が年寄りだったのが気がかりであったが、しばらくすればそれも解決されるだろう。そちらの状況は?』


 次に響いたのは女の声。こちらの声もまったく聴いた覚えのない声であった。声の印象からして歳を食っているようには聞こえなかったが、その声だけでは判断することはできなかった。


『予定通りだ。もう動き出す準備はできている。あとは運動がてらに歩いてくると言ったストリンの奴待ちだ。律儀な奴だから、時間に遅れることはないはずだが』


 自分のことなど一切気にすることなく知らない者同士の会話が続く。なにがどうなっているのかまったくわからなかった。時間が経てば経つほど疑問はどんどんと増えていく。だが、いま自分に押し寄せているこれが尋常ならざるものであることだけは理解できた。


『ところで、お前は聞いているか?』


『聞いているとは、なんのことだ?』


『ローゲリウスに行ったあの双子がやられたらしい。街を壊滅させ、住人を殺し尽くしたにもかかわらず、肝心の標的を仕留めそこなったようだ。まったく、上は何故あんな狂った奴らに任せたのか。あれだけの大都市ならば有用な器が数多くいただろうに。ただ浪費するだけとは実に嘆かわしい。』


 呆れるような女の声が聞こえてくる。


『では、あの双子が異邦人にやられたのか。奴らの性質を考えれば――その異邦人、相当できるようだな。さすがはあのお方が力を与えただけのことはある』


 今度は感心するような男の声が響く。響いた声からはどことなく楽しさのようなものが感じられた。


『であれば、あの忌み子をうつされたもう一人の異邦人も生きているということか。そうでなければあの双子を討ち取ることはできんからな。そちらもそちらでなかなかに厄介だな』


『それで、だ。あの双子が仕留めそこなった異邦人どもの始末は私たちが引き継ぐことになった。発掘者たちの回収はお前らに任せることになるが、大丈夫か?』


『我々の力を手に入れたとはいえ、発掘者たちのそれは限られたものだ。実際に目にしてみないとなんとも言えんが、現状の情報だけを分析すれば、我々三人だけでも充分だろう。失敗した双子どもの任務を引き継ぐということは、お前らはこちらには来ないのか?』


『いや、そういうわけではない。異邦人どもも壊滅したローゲリウスからカルラのほうへと向かっているらしいからな。奴らの行き先がカルラであるのなら、私たちの行き先もそちらになる。お前らとは別系統で動くことになるが』


『そうか。では、そちらはお前らに任せよう。俺たちは俺たちがなすべきことをやる。油断するなよ。奴らは我々と同等の力を持った存在だ。下手をこけばやられるだろう。それは我々が差し向けた幾人もの刺客がやられたことからもそれは明らかだ』


『わかっているさ。その言葉は、お前にも返しておこう』


 そこまで言ったところで見知らぬ何者かたちの会話は終了した。動かせない身体は、変わることなく動き続けている。先ほどの会話を聞く限り、その声の主たちは両方ともカルラへと向かうようであるが――


『ところで驚いたな人間。私を転写されてもなお消えずに残るとは。ただの年老いた人間だと思っていたが――なかなかできるようだな』


 その声は明らかに自分に向けられたものであった。


『……あんたは一体、何者だい?』


 困惑に襲われながらも、アンリは声の主に言葉を返した。


『ほう。この状況で私に問いを返すか。人間にしてはなかなか肝が据わっているらしい。とはいっても、所詮は人間。いずれ消える運命だ。である以上、私がお前に名乗る理由など皆無だが』


 向けられたその言葉は、六十数年の人生の中で一度も聞いたことのない重さが感じられた。まるでそれは、言葉そのものは質量を持っているかのよう。いままでの人生で接してきたどの大物よりも強い迫力と存在感を持っている。並みの人間であったのなら、その声を聞いただけでひれ伏してしまうように思われた。


『しかし、私に圧し潰されても消えなかったことには少しなりとも讃える必要はあるだろう。その褒美をくれてやる人間。貴様の身体の奪った私は、貴様らが竜と呼んでいる存在だ』


『……なんだって?』


 竜。それはかつてこの世界のすべてを支配し、ある時を境にしてどこかへと消えた超常的な存在。それは通常であれば到底信じられるような話ではなかったが――


 こちらへと向けられたあの言葉の強さと重みを、なにより目覚めてからの状況を考えれば――


 この声の主が竜であることを信じざるを得なかった。


『……竜とはね。驚いた。長生きはしてみるもんだ』


 地震の直後に感じられたとてつもない衝撃は、竜によって自分の身体を奪われたことによるものか。竜であったのなら、銃で撃たれる以上の衝撃が感じられたのも当然だろう。


『で、あんたはあたしの身体を奪ってなにをするつもりだい? さっき、カルラに行くとかなんとか言っていたが』


『我々の目的は復活だ。そのために邪魔者を排除しに行く。ただそれだけだ。貴様の身体を利用してな。そして、貴様は意識を残したまま我らの覇道を傍観できる権利を持っているのだ。喜ぶがいい』


 響いてくる声は、容赦なくこちらを圧殺するかのような重さを持っている。それは、少しでも気を抜けば、すぐさま潰されるほど強力だ。


『私に消されなかったことへの褒美はこれまでだ。これ以上、貴様に話すことはない。貴様の運命はもう決まっている。精々、わずかに残された時間を楽しむことだ』


 そう言ったのち、女はこちらの言葉に反応することなく街道を進んでいく。


 自身の身体すらも失ったアンリに、できることはなにもなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る