2章 小さな町の防衛戦線
第239話 竜の進撃
ピーター・ノイマンは遠くの空に浮かんでいる巨大な建造物をただ眺めていることしかできなかった。
古い城のようなあの建造物が浮かんでいるのは帝都の方角だ。噂によるとあれは、地下から浮かび上がってきたらしい。その噂が本当なら、帝都はまさしく大混乱の渦に飲まれていることは間違いないだろう。一体、なにが起こっている? 一瞬にしてこの日常が消し飛んでしまうような『なにか』が起こり始めているのだろうか?
幸い、帝都から離れたここにはいまのところ被害はない。だが、この国の首都があのようなことになった以上、そう遠くない日に、こちらまでその混乱が押し寄せてくることは間違いなかった。そうなったとき、やっとの思いで手に入れたこの日常がどうなってしまうのか、まったく想像できなかった。
そんなことを考えたところで、自分にできることはなにもない。自分が無力であることなど、竜の遺産を巡って大陸中が戦禍に飲み込まれたときに思い知っている。今回だって同じだ。できることなどなにもなく、なすすべなく抗いようのない状況に流されていくだけ。抵抗したところで無意味だ。なるようになるしかない。
「おい、ピーター爺さん、あんた知ってるか?」
話しかけてきたのは近所に住むジョニーだ。
「……なんだ。随分と騒々しいな」
「ローゲリウスの街が燃えているらしい。しかも、ただの火事じゃない。街全体が燃えているって話だ」
「なんだと?」
ジョニーの言葉を聞いたピーターは眉根を上げる。
ローゲリウスといえば帝国第二の都市にして、ここから一番近い場所にある大都市だ。そこが燃えている? しかも街全体が? 普段であれば信じられないような話であったが――
ピーターは帝都がある方角に浮かぶ巨大な建造物に目を向ける。
あんなものがどこからともなく浮かび上がるなんていう異常事態が起こっている以上、ローゲリウスのような大都市全域が燃え上がるような火事が起こっても不思議ではなかった。やはり、この国ではなにかが起こっているのだ。
「本当なのかそれは?」
そう思ったものの、日常を蝕む異常事態が起こっていることを否定したくて、ジョニーにそう問いかけた。
「ああ。本当だ。俺も信じられなくてさっき高台に行ってみたんだが、ここからでもはっきり燃えてるのがわかるくらい大規模な火事だった。どう考えても異常だ。帝都の空似あんなもんが浮かび上がっているし、一体なにがどうなってやがるんだ――」
ジョニーはなにをどうしたらいいのかわからないというのがはっきりと感じられた。それも無理もない。こんな異常としか思えない事態が起こって冷静でいられるほうが異常なのだ。
「お前が言う通り、ローゲリウスがそんな風になってるのなら、こっちまで滅茶苦茶になるのもすぐだろうな。まったく、どうしたもんか――」
「……そう言ってるわりには落ち着いているな、爺さん」
ピーターの様子を見て、ジョニーは怪訝な声を上げた。
「別にそういうわけじゃないさ。歳を食ったせいで色々と反応が鈍くなっているだけだ。俺もお前と同じくどうしたらいいかまったくわからなくて途方に暮れているよ」
歳なんて食いたくないもんだ、なんて言葉をピーターは漏らした。
「とはいっても、どうせ俺たちにできるにはできることしかできないんだ。どれだけとんでもないことが起こったのだとしてもな。お前も歳を食えばわかるようになるさ。まあ、それはそれとして――」
ローゲリウスでそんなことが起こったのなら、こちらもそれなりの覚悟が必要だ。ここはなにもない町だが、ローゲリウスから馬車で一時間ほどの距離しか離れていない。ローゲリウスで起こった混乱はここをすぐに飲み込むだろう。そうなったとき、ここがどのようになるのか誰にも予想はできない。できることなら、若い連中を守ってやるくらいのことはしたいが――
「道を訊ねたいのだが」
そこまで考えたところで、背後から声が聞こえてピーターは振り向いた。
そこにいたのは、若いようにも歳を食っているようにも見える杖を持った軽装の男。おかしなところはどこもないのに、どこか尋常ならざるものを感じさせる。その男が纏う空気に気圧されたが――
「……ああ、なんだ」
少しだけ間を置いたのち、ピーターは道を訊ねてきた男に返答する。
「カルラという町に行きたいのだが、この方向でいいのか?」
そう言って男は街道のほうに目を向ける。
「そうだが――まさか歩いていくつもりか?」
ここからカルラまで歩いて行ったら、丸半日はかかる。険しい道ではないが、杖しか持たずに歩いていく距離ではない。
「久々に外出したもので、少しばかり運動をしようと思ってな。なにか問題か?」
なんでそんなことを訊く? と言いたげな軽装の男が纏う空気に圧倒され、ピーターは言葉を返すことができなくなる。
「別に問題はないが――少しばかり運動をしようってときに歩く距離じゃないぞ」
「……ふむ、そういうものか。別に気にするな。体力には自信がある。道を訊ねたおぬしに迷惑をかけるつもりはない。心配する必要などないはずだが」
軽装の男ははっきりと言う。その言葉に一切の澱みはなかった。
「なああんた、どっから来たんだ?」
そこで割って入るようにして、軽装の男にジョニーが話しかけた。
「どこから――そうだな。しいて言えば帝都のほうになるか」
「いま帝都のほうがどうなってるんだ? なんてたってあんなものが地面から浮き上がってきたんだろ?」
ジョニーの言葉を聞き、軽装の男は「ああ、そういうことか」と納得するような声を上げた。
「おぬしが想像している通りの状態だ。とてつもない混乱に見舞われている。私も詳しい状況が知らんがね。まあでも、安心したまえ」
軽装の男は射貫くような視線をジョニーに向けた。
「その混乱はすぐに収まる。別に気にする必要などない。変革というものには時として血を流す必要があるものだからな」
軽装の男の言葉が予想外だったのだろう。ジョニーは、あんたはなにを言っているんだと言いたげな顔をしていた。
「ふむ、見たところお前のほうは若く健康そうだ。素体としては及第点か。早かれ遅かれ我々に飲み込まれることになる以上、多少早くても問題はないか」
軽装の男はジョニーに観察するような目を向ける。
「それは、どういう――」
そこでジョニーの言葉が途切れ、動きが止まる。それは明らかに不自然なものだった。
しかし、目の前にいる男がなにかした様子はまったくない。
「それでは、私はそろそろ行かせてもらおう。仕事が控えているのでね。道を教えてくれて感謝する」
軽装の男はピーターに一礼し、歩き始めた。ピーターは不審さを抱きながらも、軽やかな足取りで離れていく軽装の男をただ見ていることしかできなかった。残されているのは自分と、不審な状態で動きを止めているジョニーだけ。
一体、なにが起こっている? なにもかも理解できないまま、ピーターはただ立ち尽くすことしかできなかった。
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