第155話 忍び寄る影

 一人でいるのがここまで不安に感じたのはいつぶりだろう? セーフハウスで一人になったみずきはそんなことを考えた。


 進学してはじめて東京で一人暮らしを始めたときよりも、ずっと心細く、そして恐ろしかった。なにしろ、ここは異世界なのだ。見知らぬ国どころではない。自分が知っているどこよりも遠い場所。それがここだ。


 それでも、少し前よりはずっとマシだと思う。この異世界にきてすぐ入れられた冷たい牢獄のことを思い出した。どこまでも暗く、空虚で恐ろしい場所。それを思い出して、みずきはその恐ろしさを振り払うために首を振った。


 みずきはソファに腰を下ろしたまま、部屋の中を見渡す。


 ここは、あの牢獄と比べるまでもなく整った環境だ。かつて自分が暮らしていた現代日本とそれほど変わらない。テレビもネットもスマホも使えないから、少し暇を持て余すことも多いけれど、そこまで望むべきではないだろう。頼れるものなどなにもなかった自分がこうやって、人らしい暮らしができていることだけでも奇跡に等しい。


 あのままあの牢獄にいたら、自分は一体どうなっていたのだろうか? 自分と同じく牢に入れられていた人たちは、一度牢から出されたあと二度と戻ってくることはなかった。それを考えると、彼ら彼女らがとてつもなく恐ろしい目に遭っていたことは想像に難くない。


 そこまで考えて、みずきは再び首を振る。


 そんなこと、考えないほうがいい。みずきは自分に言い聞かせる。あそこでのことなんて、思い出すべきじゃない。それは、自分を守るために必要なことだ。自分は幸運なことに、いまこうして人らしい生活ができている。自分と同じ世界から召喚された、彼に助けられて。


 一体、ここを出ていった彼はなにをしているのだろう? もとの世界に戻る手段を探しているのだと思うけれど――詳しいことはわからない。危ないことは、してほしくないけれど、そういうわけにもいかないのだろう。


「大丈夫、かな」


 自分以外誰もいない部屋の中で呟く。


 結局、自分はどこまでも無力だ。助けられるばっかりで、迷惑をかけるばっかりで、彼の力になれるようなことはなに一つできていない。自分にもなにかできることはないだろうかと思うけれど、結論はいつも同じだ。できることなどなにもない。なにをどうやっても、そこに行き着いてしまう。


 みずきは小さくため息をつき、自分の手の甲に目を向けた。そこには、親指の爪ほどの大きさの綺麗な宝石のようなものが埋め込まれている。自分のことを助けてくれた、生物のような脈動が感じられる、奇妙な石。自分と彼を繋げる、最後の絆。


 それに、そっと手を触れてみる。


 その石はほのかに温かい。無機物であるとは思えなかった。この石が温かいのは恐らく、自分の体温がこの石に伝わっているだけではないのだろう。本当に生きているのではないかと思てくるほどだ。


 だけど、その温かさはどこか心地いい。触れているだけで、不安が緩和されるような気がする。不思議な石だから、なにか特別な力でも持っているのだろうか? よくわからないけれど、あってもおかしくはない――と思う。


 座っているのも手持ち無沙汰になって、みずきは立ち上がった。特になんの理由もなく、部屋の中にあるものに、ひと通り目を通してみる。特になにもおかしなものはなかった。


 少し前に起こった、あのポルターガイストのような現象は一体なんだったのだろう? 勝手に部屋にあったものが動くという、実際に目の当たりにしていなかったら信じられない現象のことを思い出す。あの日以来、あの現象は一度も起こってない。やはり、気のせいだったのか? それとも――


 少し考えてみたけれど、答えは出ない。とても不可解な現象だったけれど、いまのところ実害があったわけではないのだ。いまの状況でなにか被害があってから考えるというのは少しばかり遅すぎるような気もするけれど、なにがどうかかわってあの現象が起こったのか不明である以上、できることはなにもない。そうなってしまうのは、自分が無力だからなのかもしれない。なにか一つでもできることがあれば、彼の力になれるかもしれないのと思う。こちらも行き着く答えは同じだ。できることなどなにもない。自分にできることは、ただ祈っていることだけ。本当に無力だ。


「どうしよう、かな」


 無力感に苛まれていても、自分がなにもできないという事実は変わることはない。いま自分にできることをやるしかないのだ。できることはら、彼の無事を祈っていることと、無事に戻ってきた彼を出迎えるために、この場所を綺麗にしておくことだけだ。


 閉められたカーテンから覗く光は明るい。時計を見る。時刻はまだ昼過ぎ。夕飯の支度をするにはまだ早すぎる。ならば――


 掃除でもしようか、そう思ったときだった。


 部屋の向こう側から、扉を叩く音が聞こえてきて、みずきは反射的に身体を震わせた。


 誰かが訪ねてきた? それにしては――


 叩く音は実に乱暴だった。この部屋は玄関から離れていて、なおかつ扉を挟んでいるのだ。相当強く叩かなくてはここまで聞こえてこない。


 そこまで考えたところで、みずきは彼の言葉を思い出す。


 彼はこのところ、不審な人物につけられていたらしい。場合によっては、このセーフハウスから逃げなければならないかもしれないとも言っていた。


 もしかして――


 嫌な考えが頭を過ぎった。


 彼を狙っている、何者かがここにやってきたのだろうか?


 そもそも、このセーフハウスの訪ねてくる人間など誰もいない。なにしろ自分も彼もこの世界の住人ではないのだ。現にいままでここを訪ねてきたのは自分が倒れていたときに来てくれたハル先生だけである。いまになって急に、誰かが訪ねてくるようになるとも思えない。


 扉を叩く音はなおも聞こえてくる。


 どうする? みずきは自身に問いかける。誰が来たのかだけでも確認しておくべきか? それとも、ドアを叩いている何者かが諦めるまで、居留守を決め込むか。


 どうするべきか悩んで、みずきは扉をそっと開けて部屋の外へと出る。


 部屋の外に出ると、扉を叩く音は鮮明に聞こえてきた。それは、こちらをいかにも威嚇するような音であった。


 できるだけ音を立てないよう、玄関にまで近づいていく。重い音が、どんどんと響き渡る。その音が耳を打つたびに、嫌な汗が滲む。


 扉の前まで辿り着いた。扉を叩く音はなおも聞こえている。その叩く強さは、もっと強くなっているようにも思えた。


 いきなり扉を開けるのは危険だ。みずきはそう判断する。扉につけられたレンズで、誰がやってきたのかだけでも確認してからでも遅くない、はずだ。


 みずきは息を呑み、それから扉につけられたレンズを覗き見る。


 そこから見えたのは、若い男の姿だった。当然、知らない男だ。格好からして、この街にたくさんいる聖職者だろう。どうして、聖職者がここに訪ねてくるのかわからない。その瞬間だった。


 レンズ越しに、目と目が合う。それを認識した瞬間、みずきはレンズから目を離した。そのまま尻もちをついてしまう。


 それから、扉を叩く音がさらに強まった。扉が軋む。いつ破られてしまってもおかしくないように思えた。


 逃げなきゃ。そう思ったけれど、恐怖で足が震えてなかなか立つことができなかった。


 扉を叩く音はさらに強まる。この扉が破られてしまったらどうなるのだろう? 考えただけでも恐ろしかった。


 みずきは、恐怖を堪えながらなんとか立ち上がる。壁に手を突いて、部屋の奥へと向かう。


 どうしよう? あのままではいずれ扉が破られてしまうだろう。そうなったら、部屋の中に隠れていてもすぐに見つかってしまうのは明らかだ。


 そのとき――


 自分の視界の前に、文字が浮かび上がった。ここから逃げろ。その文字はすぐに弾けて消え――


 そんな文字を見たせいか、みずきは決心する。


 部屋の奥にあるカーテンを開けて、窓も開けて――


 できるだけ音を立てないように、みずきはただ一人でセーフハウスから飛び出した。

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