第156話 みずきの冒険

 窓から外に飛び出したみずきはあたりを見回した。


 裏道のせいか、人の姿はまるでない。真昼で明るいはずなのに、何故か恐ろしい気配に満ちているように思えた。それは、いま自分が狙われていることを明確になっているからなのか、それとも――


 いや、そんなことを考えても仕方ない。みずきは首を振ってそう自分に言い聞かせた。あの調子だと、そう遠くない時間にドアを破られてしまうだろう。である以上、いまはとにかく逃げなければ。こちらが逃げたとわかれば、ドアの前にいたあの男は追いかけてくるだろう。奴に感づかれる前に、できるだけ遠くに行かなければならない。


 みずきは、人の姿がおかしなほど絶えた裏路地を歩き出した。


 セーフハウスがある旧市街は、まだ区画整理ができていないのか非常に込み入っている。何度か外に出たことはあるものの、土地勘があるとは言い難い。そもそも、一人でセーフハウスの外に出たこと自体今日がはじめてだ。そのような状態で、どこまで逃げられるのだろう?


 だが、逃げなければなにも始まらない。あのままセーフハウスの中に隠れて、やり過ごせるとはどうしても思えなかった。


 みずきは裏路地を進んでいく。


 土地勘のない場所で動かなければならないというのはとても恐ろしい。あの男から逃げて変に動き回った結果、セーフハウスに戻ることができなくなったらどうしよう? 自分には頼れる者は彼しかいない。その彼も、いまは別のことで離れている状況だ。頼れるものは、自分の身体以外なにもない。そんな状態で、悪意を持って家に突然訪ねてきたあの男から逃げられるのだろうか?


 しかし、逃げなければなにも始まらないのも事実。もし、あのままあの男に捕らえられてしまったら自分はどうなっていたのだろう? そんなこと、考えたくもなかった。考えるべきでもない。


 細い裏路地を進みながら、みずきはそっと背後を覗き見た。


 後ろにはまだ、あの男の姿はない。いまは恐らく、セーフハウスの扉を破って中を物色しているのだろう。あのセーフハウスはたいした広さはないから、すぐに自分が逃げたことは知られてしまうはずだ。それまでに、どれくらい離れられるだろうか?


 みずきは小走りで裏路地の角を折れた。


 旧市街の裏路地はごみごみと込み入っているせいか、セーフハウスからどこまで離れられたのかまったくわからなかった。それ以前に、どの方向に進んでいるのかすらも判然としていない状況だ。もう少し土地勘があれば、もっとうまく逃げられたはずだが、この街に来て一ヶ月も経っていないいまの状況ではそんなことはできるはずもない。


 相変わらず、人の姿はおかしなくらい見られなかった。もしかして、なにか異常事態が起きているのだろうか? 偶然であるとはどうしても思えなかった。


 裏路地とはいえここは大きな街だ。そんなところで、人の姿がまったくないのは明らかに異常である。自分の知らないところで、なにか得体の知れないことでも起こっているのかもしれない。


 なにか異常事態が起こっていても、逃げなければならないことに変わりはない。逃げなければ、また彼に迷惑をかけてしまう。これ以上、彼に迷惑をかけるのは嫌だ。自分の身くらい、自分で守れるようにしないと。そう強く思った。


 だが、そう思ったところで、自分が無力であるという事実は変わるわけではない。本当に嫌になる。どうしてここまで自分は迷惑をかけているのだろう? 自分にもなにか力があればよかったのに――


 そのとき、自分の手の甲につけられている竜石が光っているのが見えた。それは間接照明のように、淡く光っている。外が明るいから、そう見えているわけではなさそうだった。


 しかし、そんなことは気にしていられない。竜石が光ろうがなんだろうが、いまは逃げることが最優先だ。自分の身を守るために。彼に迷惑をかけないために。


 しばらく進んで辿り着いたのは袋小路。三方が建物に覆われている。当然のことながら、その建物を越えて進むのは不可能だ。引き返して、別の道に行くよりほかにない。


 みずきは誰の姿も見えないことを確認したのちに来た道を引き返した。先ほどの角へ。進んできた方向とは別の方向へと足を傾ける。ごみごみと込み入った旧市街の裏路地はまるで迷路のようであった。


 そういえば、さっき見えた文字はなんだったのだろう? 歩きながら、自分が逃げるきっかけとなったあの不思議な現象のことを思い出した。


 あれが極限状態になりつつあって見えた幻影であるとは思えない。そうでないのなら、誰かがあれを見せたということになるが――


 考えてみたけれど、よくわからなかった。とにかくあれをきっかけにして、逃げると決めたことに変わりない。ここは不思議な力のある異世界だ。自分が知っている常識など当てはまらないことばかりである。たぶんあれも、そういうものなのだろう。考えてみても、仕方がない。


 みずきはなおも進んでいく。


 相変わらず、人の姿はない。まるで誰もいないゴーストタウンさながらだ。自分以外すべての人が消えてしまったのではないかと思えてくる。


 しばらく直進したところで、三叉路に辿り着いた。どちらに進むか一瞬悩んだのち、右へと進むことに決めた。背後一度見て、誰の姿もないこと確認したのちに右の道へと進んだ。


 大きな通りにまで出れば、誰かいるのだろうか? 誰の姿も見えない街を進んでいくというのはとてつもなく心細かった。ある程度、知っている街であればここまで心細さは感じなかったかもしれない。


 一体、どこまで逃げればいいのだろう? 体力には限界がある以上、ずっと逃げ続けることなどできるはずもない。このまま動き回っていたら、その限界が訪れるのはそう遠くないだろう。なにしろ追われている状況だ。普段よりもより多く体力を消耗するのは明らかである。


 それでも、足を止めるわけにはいかない。


 自分を守るために。


 彼に迷惑をかけないために。


 無様に逃げることしかできなくとも、果てまで逃げるしかなかったとしても、前に進まなければならないのだ。


 みずきは走る。


 息を切らせながら、恐怖で足を震わせながら、なおも前に進んでいく。止まってしまったら、ここで終わると思えたから――


 がくんと膝が折れ、みずきは転倒した。どうやら足が、体力が限界を迎えたらしい。


「……っ!」

 それでもみずきは立ち上がる。足が震えようと、息が切れようと、逃げなければここで終わってしまうと自身に言い聞かせ、身体を奮い立たせて立ち上がる。


 そんなとき、正面に見えたのは人の姿。恐らく、男性。距離が離れているので、歳や顔は判然としなかった。みずきと目が合い――


 彼がこちらへと向かってくるのが見えて、みずきはすぐに来た道を引き返して走り出す。体力が限界を迎えていたにもかかわらず全速力で走り出したせいで、みずきの心臓は張り裂けそうになった。


 あれは恐らく、家にやってきた奴の仲間だ。そう直感する。


 追手は二人。二人を相手にして、土地勘のないこの街でどこまで逃げれるのだろうか?


 違う。逃げなければならないのだ。逃げなければ、すべてが終わってしまう。自分が奴らに捕まってしまったら、また彼に迷惑をかけることになる。それだけは、なんとしても避けなければならないのだ。


 みずきの手の甲からにはめ込まれた竜石は相変わらず淡い光を放っていた。どうしてずっと光ったままなのだろう? なにか原因があるのか、それとも別の理由なのか? よくわからなかった。


 しかし、いまはそんなこと考えている暇などない。追手が一人増えてしまった以上、もっと遠くへ逃げなければ。


 みずきは限界を超えてもなお進み続ける。


 その先に、なにかがあると信じながら。

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