第154話 戻れ

 早く戻らなければ。みずきを襲っているかもしれない危機に竜夫は焦りを感じていた。


 焦ってはならない。それはわかっている。危機的な状況において、焦りは身を滅ぼしかねない毒でしかない。


 それでも、焦りを感じずにはいられなかった。なにしろ、一番恐れていた事態が起こっているかもしれないのだ。自分のせいで、みずきが狙われる。それを避けるために帝都を離れてこの街までやってきたのだから。


 自分が狙われるのはいい。理由はどうであれ、狙われても仕方ないことくらい重々承知している。生き残るために、それだけのことをやったのは間違いなく事実だ。


 だが、みずきが狙われるのだけはあってはならない。彼女はなにも悪くない。この国を乗っ取らんとしている竜たちによって無理矢理召喚されてしまっただけなのだ。そんな彼女が、狙われていいはずがない。


 竜夫は建物の上を駆けながら、そっと背後を覗き見る。


 いまのところ追手の姿はない。突然、膝をついて動かなくなった彼は追跡してきていないようだ。一度倒して、そのあとしばらくしてこちらを狙ってきたことを考えると、ある程度遠くからこちらを捕捉する手段を持っていると考えておくべきだろう。あの状態がどれだけ続いているのかは不明だが、永遠にあの状態のままではないのは明らかだ。こちらを捕捉する手段があるのなら、時間の猶予はそれほど多くない、かもしれない。彼との三度目の戦闘がいつ起きてもいいように覚悟を決めておく必要がある。


 そこで竜夫は気づく。


 先ほどまでどこかから自身に向けられていた無数の視線が消えていることに。それは恐らく、偶然ではない。間違いなく――


 みずきが狙われている。


 無数の身体を自分のもののように操ることができる奴は、その視線をみずきに向けているのだろう。そういった理由を考えてみても、奴が言ったあのセリフは、こちらを脅し、揺さぶるものではないはずだ。


 いまだ姿が見えぬ奴に操られた人間は相当な力を持っている。それは実際に戦闘を行った自分自身が一番理解していることだ。そんなのに狙われたら、普通の人間でしかないみずきはひとたまりもないだろう。


 どうにかして、彼女だけでも守らなくてはならない。それが、戦える力を持った者の義務でもあるし、あの地獄から彼女を助け出した自分自身の責任でもある。それだけは、全うしなければ。


 竜夫は建物の床から飛び降り、地面に着地。相変わらず、街には人の姿は絶えたままだ。なにがどうなっているのかまったくわからないが、現実としてこうなってしまっている以上、受け入れるよりほかにない。現実から逃避したところでなにも変わらないのだ。街に人の姿が絶えていることも、みずきが狙われていることも。


 地上へと着地した竜夫は入り組んだ細い道を駆けていく。角を折れ、まっすぐ進み、また角を折れる。


 ここまで来れば、セーフハウスまであともう少し。頼むから、無事であってくれ。力を持っていながら、祈ることしかできないのはとても歯がゆかった。


 竜夫は誰もいない細い道を駆けていく。


 そして、セーフハウスの前まで辿り着いた。あたりを見回す。敵の姿はない。扉に手をかけたそのとき――


 ぞわりと背中に嫌なものが伝った――ように思えた。背後を見る。誰の姿もない。それを確認したところで――


 ドアノブを回すと、鍵がかかっているはずの扉が開かれた。その瞬間、竜夫の心の中に最高速の緊急信号が走った。


 乱暴に扉を開け、中へと入る。


 リビング。誰の姿もない。


 次に部屋を見る。自分が使っている部屋にも、みずきが使っている部屋にも、空き部屋にも誰の姿はなかった。クローゼットやタンス、収納スペースなど隠れられそうな場所はすべて見たが、みずきの姿はどこにもなかった。それは、言うまでもなく――


 遅かった。そうとしか言いようがなかった。竜夫は強く奥歯をかみ締めたのち、心の内に絶望が広がった。やはり、無数の身体を操れる奴を上回ることはできなかったのか。守らなければならない相手を守れないなんて、自分はどこまで無力なのだろう? 無力感と自身の至らなさに怒りを抱かずにはいられなかった。拳を壁に叩きつける。空虚な痛みと鈍い音だけがあたりに響き渡った。


 だが、怒りを壁にぶつけたところで、みずきの姿がどこにもなかった現実が変わるわけではない。ならば、考えるべきは――


 どうやって、奴からみずきを取り返すかだ。駄目だったのなら、次に打つ手を考えるよりほかにない。


 恐らく、奴はみずきを殺したりはしないだろう。奴が狙っているのは自分なのだ。有効的に使えるワイルドカードを破り捨てるような真似をするとは思えない。


 どうする? と竜夫は自身に問いかけた。


 このような状況になってしまった以上、なにがなんでもみずきを取り返すしかない。竜夫は決意する。必要とあらば、自分の命を代えてもいい。奴にさらわれてしまった彼女を取り返せるのであれば――


 早く行こう。ここで悩んでいたところで、みずきがさらわれてしまった事実が変わるわけではない。奴がみずきをさらったのであれば、なんらかの手段を持ってこちらに接触をしてくるはずである。


 そのときを、狙うしかない。勝ちを確信したときこそ、隙というものは生じやすい。なんとかして、その隙をつければいいのだが――


 竜夫は踵を返し、部屋を出ようとしたところで――


 ふわり、と不思議な匂いが漂ってきて――


 その瞬間、意識が白色に包まれた。

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