第130話 変容の兆し

 誰も知っている人がいない世界で、一人でいるのは不安だ。そこが安全だとわかっていても、家の中にいてもその不安は消えることはない。ベッドから起き上がったみずきはそんなことを思った。


 みずきは自分の手の甲を見る。そこには、宝石のように輝いているものが埋め込まれていた。手に触れてみる。それは自分の身体と同じように脈動しているように思えた。体温すらあるように感じられる。これのおかげで、自分がいまこうしていられると思うと、異物を手に埋め込まれる不快感はまったくない。それ以前に、目で視認しなければ、それが自分の手の甲に埋め込まれていることすらわからないほどなのだ。まさしく身体の一部になっているのだろう。


 少し前まで、あれほど苦しかったのが嘘みたいだ。あの小さな女の子みたいな先生は、しばらく激しい運動はやめておいたほうがいいと言っていたけど、どこまでも走り出せるのではないかと思えるほどだった。彼に心配をかけたくないから、やれそうだと思ってもやるつもりはないけれど。


 手になにか埋め込まれるなんて、まるで漫画かなにかのようだけど、これは紛れもない現実だ。自分の手の甲がそれを証明している。そもそも、異世界に召喚されたことだって漫画みたいな出来事だろう。ここに来てから、不思議なことばかりだ。


 ベッドから降りたみずきはゆっくりと歩き出した。


 このセーフハウスは、以前友達と泊りに行った山奥にあるロッジのようだった。自分たちが来るまで誰も使っていなかったのか、あまり生活感が感じられない。


 窓はカーテンが閉められていた。開けて、陽の光でも浴びようかと思ったけれど、やめておいた。理由はどうであれ、自分たちは脱走した身なのだ。できるだけ、身を隠しておいたほうがいいだろう。自分は狙われてはいなくとも、彼は違う。自分を助けてくれた、彼に迷惑をかけることはしたくない。そう思った。


 カーテンが閉められた部屋は真昼なにもかかわらず薄暗い。みずきは、部屋の隅にある明かりに手を触れる。触れると同時に、薄暗い部屋が明るくなった。蛍光灯とも白熱電球ともLED違う雰囲気の明かり。この明かりだけでもとても不思議だ。きっと、この世界には自分の知らないことがもっとたくさんあるのだろう。そんなことを思っていると――


 がくん、と音を立てるように世界が歪んだ。同時に感じられたのは、強烈な頭痛。歩いていたみずきはよろめき、近くにあった壁に手をついて身体を支えた。


 貧血でも起こしたのか? 壁に手をついて身体を支えながら、そんなことを思った。あの先生はしばらくの間、体力が落ちやすくなったりすると言っていたけど、これもその一つなのだろうか?


 けれど、こんな風に頭が痛くなるなんて言っていなかった、はずだ。病に倒れていた自分のことを誠実に看病してくれたあの先生が、そんなこと重要なことを黙っているとは思えなかった。


 みずきは壁にしがみついたまま、強烈な頭痛に耐える。また、彼に迷惑をかけるようなことをしたくなかった。なにか変調があると知ったら、彼は倒れたときのようになにかをしてくれるだろう。だけど、その優しさに甘えるのは嫌だった。できることなら、彼とは対等な立場でいたい。無力な自分にそんなことができるはずもないことはわかっていたけれど、そうありたいと思うのだ。


 しばらく壁にしがみついて耐えていると、卒倒しそうなほど強烈だった頭痛が治まり始める。頭痛のせいで荒くなった呼吸をゆっくりと整えていく。揺れる足もとも収まってきた。深く息を吸い、それから吐いて――


「え?」


 しがみついていた壁から手を離して、まわりを見ると同時にそんな声が漏れた。

 部屋の中の光景が変わっていたのだ。正確に言うと、部屋の中にある家具の位置が微妙に変わっていた。気のせいじゃないか? そう思ったけれど、明らかに感じられた違和感を気のせいだとは思えなかった。


 なにが、起こったのだろう? ポルターガイストというやつだろうか? ここは不思議な力が存在する異世界だ。心霊現象のようなものが実在していてもおかしくはないだろう。そう思うものの、こうやって目の当たりにしてしまうと、とても恐ろしかった。


 この部屋に、なにかいるのだろうか? 恐る恐る部屋の中を見渡してみる。不審なものはなにもなかった。部屋の中にある家具を動かせるようなものが潜めるような場所もない。


 動いていた家具に近づいて触れてみる。当然のことながら、なにも起こらない。


 部屋の中で、わずかでも隠れられそうな場所に近づいてみた。当然のことながら、誰の姿もない。


 気のせいだ。そう思いたかったけれど、一度感じた恐怖は消えてくれない。恐怖は、油汚れのように頑固にこびりついている。


 一体、なにが起こったのだろう? 激しい頭痛に襲われていた瞬間、なにかが起こったのだ。だが、それがなんなのかまったくわからない。そのわからなさが恐怖をさらに増加させた。


 そんなとき、部屋の外から扉の開く音が聞こえてきた。買い出しに行っていた彼が返ってきたのだ。そう思うと、自身を支配していた恐怖心が少しだけ緩和された。みずきは、扉を開けて部屋の外に出る。


「おかえりなさい」


 両手に袋を持った彼の姿が見えて、みずきは安心した。この異世界で、自分が唯一知っている人間。地獄のような場所から、助けてくれた人。


「ただいま」


 彼はみずきの言葉に短く答える。


「……どうかした?」


 こちらの様子を知ってか知らずか、彼はそう問いかけた。


「いえ、なんでもないです」


 少し迷ってから、みずきは彼の言葉にそう答えた。


 いましがた自分を襲った不審な出来事を黙っているのはよくないのではと思ったけれど、やっぱり余計な心配をかけたくなかった。彼の重荷にはなりたくない。


「……そう。なら、いいんだけど」


 そう言った彼の言葉も、どこか歯の奥に詰まったような言い方だった。なにかあったのかなと思ったけれど、それを問うことはできなかった。


「とりあえず、必要になりそうなものを色々と買ってきたよ」


「ありがとうございます。買い出しくらいは、私がやりたいんですけど――」


「いいんだよ。きみはまだ病み上がりなんだ。無理はしなくていい」


 優しげな声で彼は返答する。


「でもまあ、そのなにかしたいって気持ちは理解できるよ。人はできることしかできないんだ。できないことを、無理してやろうとするもんじゃないよ」


「そう、でしょうか」


 自分にできること。それはなんだろう? とみずきは思った。


「買ってきたものを置くから、手伝ってくれないか? 二人しかいないし、なにがあるかお互いわかってないと不便だろうからさ。大丈夫?」


「はい」


 みずきは力強く答え――


 二人は、そのまま歩き出した。

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