第112話 声

『――――』


 声が聞こえる。それは、耳から入ってきているのではない。頭の中に直接流し込まれるようだ。なんと言っているのかはわからない。その言葉はこちらの理解を超えた言語のように思えた。聞き取れない言葉が延々と木霊し続けている。その声は、延々と反響し続け、どんどんと大きくなっていく。その反響はまるで、脳を直接鷲づかみにされて乱暴に振り回されているかのよう。やめてくれと訴えかけても、それは消えることはない。呪いのように、理解できない言葉が響き続ける。


『――――』


 声が聞こえる。相も変わらず、その声は耳からではなく頭の中に直接流れ込んでくる。やはり、その声はなんと言っているのか、なにを訴えようとしているのかもわからない。ノイズとしか思えないその声は、こちらをただ苦しめるためにやっているとしか思えなかった。そのノイズは脳を着実に蝕んでいく。頭が痛い。その声のせいなのかはわからないが、いま自分の目の前がどうなっているのかもわからなくなっていた。いま自分の目に映っているの、原初の宇宙のような混沌とした光景。無秩序に暴れる光が渦巻く世界。それは、聞こえてくるノイズと同じようにどこまでも続いている。


『――――』


 声が聞こえる。何度聞いても、その言葉はこちらの理解の外側であった。どうして、この声を理解できないのだろう? いまの自分は、竜の力によって知らない言語であっても理解できるはずなのに。


 それとも、頭の中に直接流し込まれている声は、言語ではないのかもしれない。そんなことを他人事のように思った。もしそうなら、こちらが理解できないのも当然だ。無秩序の多くは、人には理解できないものなんだから――


『――――』


 声が聞こえる。やはりそれは、無意味な音の羅列としか思えない。それは、意味のないものに意味を見出してしまう人の認識をもってしても、無意味であるとしか思えないモノ。ただ、こちらに害を為すために響き続ける悪意ある音の羅列。その力強い音の羅列は人として、知的生命体が持つ精神性を徹底的に破壊していくようであった。


 脳が溶けていく気がする。


 精神が無意味な数値へと書き換えられていく気がする。


 人が人であらんとするために必要な『なにか』を対消滅させているようだ。


 無意味な音が聞こえるたびに、人が人であるために必要になるものがなくなっているような気がしてならない。


 アレクセイたちもこの声を聞いたのだろうか? 人間性をはぎ取る雑音を。脳を溶かす暴力的な声を聞いて、聞いてしまって、あのように操られてしまったのだろうか?


 そうなってしまうのも仕方ないように思えた。脳内に響き続けるその音は、あるいは声は――それだけの力を持っている。人は無意味なものを嫌う。無意味な労働が人の精神を疲弊させ、挙げ句破壊させるように。この声が、こちらに害をなさないものであるとは思えなかった。この声を響かせている『なにか』は、一体なにを目的にしているのだろうか? 脳の大半を雑音に埋め尽くされ、わずかなリソースしか残っていない状態で、なんとか思考をしてみた。


 だが、わからない。雑音によって思考力が極限まで低下しているせいだろうか? よくわからない。いや、なにがわからないんだろう? わからない。自分はどうしてここにいる? わからない。なにもかもがわからなくなっていた。わかるのは、いま自分が想像を絶する雑音に苛まれていることだけ。それ以外、なにもわからない――


『――――』


 頭の中に響く声はなおも変わることはない。延々と頭の中に無意味な音を響かせ続けている。雑音に支配され、いま自分の身体がどうなっているのかすれもわからなくなっていた。外界との境目がなくなっている。どこまでが自分で、どこまでが外界なのかもわからないほどだ。それは、世界と一体化しているかのよう。その感覚は、不快でありながらどこか快感だ。ある種の万能感、全能感すらも感じられた。


『――――』


 声が聞こえる。雑音としか思えないその声は、なおも力強さを増していた。これ以上、強くなってどうするつもりだ? とうにこちらの限界は越えているというのに。


 混沌とした光が、遠くなっていく。向こうが離れていっているのではない。自分が落ちているのだ。原初の宇宙のような混沌としたどこかへと向かって。どこまでも、落ちていく。無意識に手を伸ばしていた。当然のことながら、その手はなにもつかめない。ただ無為に、原初の宇宙のような混沌のどこかへと、どこまでも落ちていく。


『目を覚ませ』


 はっきりと聞き取れる誰かの声が聞こえて、ふと我に返った。その声を認識すると同時に、全身を包みつつあった全能感と浮遊感が消える。手を伸ばす。なにかに触れる感触があった。そこには、なにもないはずなのに――


『お前がいま見て聞いているそれは、すべてまやかしだ。目を覚ませ、異邦人。お前の目的は、このままどこかへ落ち続けることではないだろう?』


 自身に語りかけられたその声は、どこまでも力強い。それは自身を支配しつつあった声を弾き飛ばすほどの力強さがあった。


 そうだ。とやっと気づく。


 自分がなにをしていたのかも。


 なにをしようとしていたのかも。


 一つずつゆっくりと、だけど確実に、失われつつあったそれらを思い出していく。


『いつまでも寝てるんじゃない。さっさと行け異邦人。わしが少し手伝ってやる。手を伸ばして、つかめ』


 そう言われ、手を伸ばした。その手に広がったのは、ただ触れただけで感じられるほどの強さを持ったなにか。それは、生物の臓器のように脈動している。それをつかみ――


 つかむと同時に、自分の身体が上へと引き上げられ――


 そのまま、乱暴に投げ捨てられる。


 投げ捨てられた身体はどこまでも上昇していき――


 その果てまで辿り着いたところで――


 氷室竜夫は自分自身を取り戻した。



『ほう。我が声を聞いておきながら、自身を取り戻したか。人であるくせになかなかできる。先ほどの奴らとは違うらしい』


 竜夫が意識を取り戻すと同時に、頭の中に声が響いた。人工音声のような、性別も年齢も判然としない声。


「……っ」


 突如、頭の中に響いた声により、竜夫は身構えた。それからあたりを確認する。そこは、先ほどまでウィリアムたちといた場所に似ていた。ドーム状の広い空間。敵の姿は見えない。しかし、先ほどまでいた場所と決定的に違うものがある。この部屋の中心に――


「これは……竜石?」


 この広い空間の中心に、青緑色に輝く巨大な結晶があった。それには圧倒的な輝きと力がある。その強さをはっきりと認識し、竜夫は思わず息を呑んだ。


『よく見たら貴様、紛いものではないな。その力、一体どこで手に入れた? まさか奪ったわけではあるまい』


 再び頭の中に声が響き、竜夫は身構える。だが、敵の姿はどこにもない。あるのは、巨大な竜石の結晶だけだ。


『いや、この力の感覚――そうか。貴様があの方の力を受け継ぎ、我が主たちに仇名す輩か。こんな穴倉にいては相まみえることはないと思っていたが、予想というのは当たらないものだな』


 幸運かどうかはわからんがね、と声を響かせた。


「どこに隠れてる?」


『なにを言っている。目の前にいるではないか』


「なに?」


 竜夫の目の前にあるのは巨大な竜石の結晶だけだ。他には、なにも――


 そこまで考えたところで、竜石の中に『なにか』があることに気づく。竜石の結晶の中心近くに、人間の頭部ほどの大きさのなにかがあった。もしかして、あれが――


『理解が早くて助かるな。相手が下等であっても、認識されないというのは存外に腹立たしいからな。いや、下等であるからこそ、腹立たしいのか』


 まあ、どちらでもいいか。そんな声を響かせて、声の主は結論を下した。


「お前が、アレクセイたちを?」


『その名は知らんが、その名が先ほどここに来た人間どもであるのなら、それは是であると答えよう。我の役目は、侵入者の排除だからな』


 堂々とした声を響かせる。


『それがどうかしたかね? もしかして貴様は我があの人間どもを手駒にしたことを怒っているのか?』


 竜夫の頭の中に、淡々とした声が響く。


『それは筋違いだぞ人間。我が主たちの場所を荒らしているのは貴様らのほうではないか。私が怒ることはあっても、貴様らが怒るようなことではあるまい。違うか?』


「…………」


 淡々とした声を聞き、竜夫は確かにと納得する。侵入者であるのは否定するまでもなく事実なのは間違いない。だが――


「確かにそうだが――だからといって好きなようにやられていい気持ちはしないな」


 竜夫は冷静に言葉を返す。


『面白いことを言うな人間。いや、貴様は我が主と同じであるから、人間とは言えんか。まあ、どちらでもいいか。わざわざ気にするようなことでもなかろう』


 貴様らが侵入者であり、貴様が我が主たちの敵であることに変わりなないからな、と機械的な声を響かせて述べた。


『である以上、私はお前を見過ごすことはできん。死にかたくらいは選ばせてやろう。どれが好みだ?』


「死にかたの好みなんてねえよ。お前をどうにかしなきゃ、アレクセイたちは戻らないし、ここからも出れないんだろ? なら答えは一つだ」


 竜夫は刃の切っ先を竜石の結晶の中にいる『なにか』に向ける。


『相容れぬというわけか。仕方あるまい。私の役目は侵入者の排除だ。である以上、役目は果たさんとな』


 そんな声が聞こえると同時に、この空間の入口が霧に包まれ、どこからともなく先ほど戦った人型と同じようなものが出現する。


『では来るがよい。できるだけ楽しませてやろう。侵入者どもをもてなすのも我が役目の一つなのでな』


 竜夫は刃と銃を構え――


 地面を蹴り、この空間の中心にある竜石の結晶へと突撃した。

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