第80話 診察

「待たせたね」


 ハル医師がセーフハウスにやってきたのは、電話をかけてから四時間半ほど経過したときだった。帝都からローゲリウスまで三時間弱かかることを考えると、電話が終わってすぐ準備をしてこちらに向かってくれたのは明らかだ。非常にありがたいのは事実だが、突然の申し出でここまでさせてしまったことに申し訳ないとも思う。


 彼女は、小学生女子と同じくらいの小さな身体がすっぽりと入れられるほど大きなキャリーバックを引いていた。診察のために、色々と道具を持ってきたことが窺える。


「……ありがとう、ございます」


 竜夫は、自分よりも頭一つ分小さなハル医師に頭を下げる。


「別にいいよ。わたしは医者である以上、頼まれたら対価をいただいて診ることが仕事なんだから。訪問診察だって立派な仕事だよ。だからそんなに気にしなくていい。きみは若者なんだからもっと堂々としていたほうがいいぞ。まあ、今回見たいな遠出はなかなかしないのは事実だけど」


 ハル医師は、真剣さを崩さずに軽く笑う。頼もしく、それでいて悲壮的ではなく、楽観的すぎない彼女が纏う空気の、絶妙な匙加減がいまの竜夫にとってはとても心地よく感じられた。


「まあ、そんなことよりも。倒れたって子はどこだい?」


「こちらです」


 竜夫は短く言い、ハル医師をみずきが寝ている寝室へと案内する。このセーフハウスはそれほど広いわけではないのに、みずきが伏している寝室までの道のりはやけに遠く感じられた。


「ところで、一つお願いがあるんだけど」


 みずきがいる寝室の前でハル医師が申し出る。


「急な外出だったから宿のあてがなくてね。それに、場合によっては付きっきりになる必要があるかもしれないし、ここに泊めてもらえるとこちらとしてもありがたいんだけど。大丈夫かな?」


「はい。大丈夫です。この部屋の隣が空いていますからそこを使ってください。先生が見ている間に、僕が準備しておきます。それに、ここは僕ら二人だけでは少し広いですから」


「そうか。ならよかった」


 ハル医師の少しだけ嬉しそうな言葉を聞いたのち、竜夫は部屋の扉を開け、彼女を招き入れる。ベッドに伏すみずきの姿が目に入ると、竜夫の心には静かな痛みが感じられた。


 ベッドに伏すみずきは相変わらず苦しそうだった。顔が赤く、呼吸が荒い。できることなら、彼女のそんな姿は見たくなかったが、そんなことはしていられない。目の前に広がる現実を否定していてもなにも始まらないのだ。現実を直視し、できることをしなければ。それが、唯一自分にできることなのだから。


 ハル医師はベッド脇の椅子に腰かける。


「大丈夫かい?」


 ハル医師が話しかけると、みずきが彼女に気づき身体を起こそうとする。


「横になったままでいいよ。無理はしなくていい。私はハル。医者だ。あっちにいる氷室くんから連絡があってね。きみのことを診察しに来た。安心しろ、と言いたいところだが、そう言って安心できるのなら医者なんて必要ないね。きみや彼が安心できるように、私は最善を尽くそう」


 優しげに、それでいて堂々と彼女は言う。あの小さな身体のどこから、これほどまでに強さが感じられる言葉は出てくるのだろう? と思った。


「まず熱は、と」


 ハル医師はそう言って、みずきの額に載っていた手ぬぐいをどかし、自身の手を当てる。


「彼が言う通り、かなりの高熱だね。あとで検温をさせてもらうよ。いいかな?」


 ハル医師の言葉を聞いて、みずきは絞り出すように「……はい」と言って答える。その声は見ていられないほど苦しそうだった。


「まずは問診をしよう」


 ハル医師は持ってきた巨大なキャリーバッグを開け、中から聴診器を取り出す。


「氷室くん。申し訳ないが少し外しててくれないか? 彼女も若い女性だし、病で苦しんでいるからといって、男性のきみの前で服をはだけさせられるのは嫌だろうからね。ひと通り終わったら、現段階でわかる範囲でその結果をきみに余すことなく伝えよう」


「……わかり、ました」


 竜夫はハル医師の言葉に答えたのち、部屋の外に出る。気がつくとセーフハウスの中はうす暗くなっていた。ハル医師に電話をかけてから四時間半も経過しているのだから、当たり前だ。竜夫は竜石のランプを灯して部屋を明るくする。竜石はこの世界で様々な用途で広く使われている不思議な鉱石だ。この竜石が、この異世界文明を支えているらしい。その光は、電気の明かりとは違った雰囲気だが、明かりが人の心や精神を安心させてくれるのは変わらない。


 竜夫は椅子に腰かけ、ハル医師の診察が終わるのを待った。かたかたと貧乏ゆすりをしつつ、時間だけが過ぎていく。


 みずきは大丈夫なのだろうか? 大丈夫であると信じたい。だが、ここは異世界だ。なにが起こるのかわからないし、自分の常識をひっくり返すことが起こっても不思議ではない。そもそも、自分の常識を覆すものなど、異世界に召喚されてすぐ目にしているのだから。


 無事であってほしいという思いと、もしみずきになにかあったらという思いがない交ぜとなり、竜夫の脳内を暴れ回った。このままずっと、この時間が続いていたら、どうにかなってしまいそうだ。


 どれだけ時間が過ぎたのだろう? 何時間か、それともまだ数分か。竜夫が時計をみようとしたそのとき――


 奥から、扉の開閉音が聞こえてきた。その音に反応し、竜夫はびくっと身体を引き起こす。足音が聞こえてしばらくすると、ハル医師が居間へと戻ってきた。


「……心配かい?」


 憔悴し続ける竜夫にハル医師はそう語りかけた。


「……はい」


 竜夫は素直に頷く。


「それで、彼女は一体どんな病気に――」


 なったんですか? と竜夫は問いかけた。


「率直に言おう。彼女の病気は――」


 竜夫はそこで息を呑む。最悪の事態が起こっても自分を保てるように、静かに覚悟を決める。


「風邪だね」


「……え?」


 ハル医師の予想外の言葉に、竜夫は驚きの声を漏らす。


「風邪っていうのは……その――」


「そう。きみも知っている風邪だ。誰にでもかかるときは罹ってしまうあれだ。期待外れだったかもしれないけど、現状ではそうとしか言いようがない」


「でも、風邪って――」


 あんな風に高熱になるもんなんですか? と竜夫はハル医師に問う。ただの風邪で、あそこまで高熱になるとは――


「そうだね。あの娘もきみと同じくらいの歳だろ? なら、普通はあそこまで重症化するものじゃない。高齢か持病持ちか、免疫機能に障害がない限りはね。あの娘に、なにかそういうのがあったりする?」


「……いえ。ないと思います」


 竜夫は首を振って、ハル医師の言葉を否定したのち、あることに思い至る。


 自分と同じような人間が暮らしていると言っても、ここは異世界だ。ならば、異世界にしか存在しない病原体も存在するだろう。であれば、異世界人であるみずきに、この世界固有の病原体に一切の耐性がないのは必然だ。それならば、免疫機能に障害がなかったとしても、このように重症化してもおかしくないのではないか?


 圧倒的な軍事力で瞬く間に地球を征服した火星人が、地球に存在する病原体に対する耐性を持っていなかったせいで、風邪であっさり死滅してしまうという古いSF小説のことを思い出した。いまのみずきは、それと同じ状態なのではないか?


「きみと同じく、彼女もなにかワケありってことかな?」


「……はい。彼女は、僕と同じ出身です」


「そうか。では詳しくは立ち入らないことにしよう。しかしまあ、奇妙なこともあるもんだ。健康な若い子が、あそこまでただの風邪で重症化するなんてね」


「風邪ってなると、治療薬とかは――」


「ないね。できるのは対処療法だけさ。身体を温めて発汗を促し、氷枕なんかで頭を冷やしたりね。いまの彼女は四十度近い高熱を出しているから、解熱剤を飲ませたほうがいいけれど、できることはそれくらいかな。残念なことだけど」


 悲しそうな声でハル医師は言う。


「そして、重症化した風邪は肺炎なんかを併発させる可能性もある。いまの彼女は、それが起こっても不思議ではない。そうなってくると、ここで治療というのは難しくなる。場合によっては、最悪の事態が起こり得るかもしれない」


 ハル医師の重く真剣な言葉は、竜夫の頭の中に突き刺さった。


 最悪の事態。言うまでもなくそれは――


「このままだと死ぬかもしれない、ってことですか」


「……そうだね。この症状が長引けば、それは充分に起こり得る。覚悟しておいてくれ。私は医者として最善を尽くすけれど、最善を尽くしたからといって必ず救えるわけじゃない。現代医学というのは有用だけれど、万能なものではないからね」


「…………」


 竜夫は無言のまま歯を食いしばる。自身の無力さを、ここまで呪ったことは初めてだった。


「だけど、彼女がきみの言う通り、もともと健康なのであれば、救う方法が一つだけある」


「本当ですか?」


「ああ。本当さ。私には希望を持たせるような嘘を吐くような甲斐性はないからね。まあ、これはこれで問題があるのだけど――」


「どういう、方法なんですか?」


「それは……竜石を身体の中に入れる手術だ」

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