第7話 相変わらずの予断を許さない状況

「このあたりでいいか?」


 男は車を停めて、竜夫に言う。気づけばすっかり街の中だった。現代日本とは明らかに違う街並み。まったく知らないはずなのに、その街並みは何故か懐かしいものに思えた。東京とはまったく違う光景を見て、自分は知らないどこかに来てしまったのだとあらためて実感する。


 車のタイヤを付け替えてからの旅は、他の車とすれ違うことすら稀なくらい何事もなかった。無事にここまで辿り着けて、少しだけ安心する。


 タイヤを付け替えるのに時間を食われたせいか、外はすっかり暗くなっていた。街は電灯ともランプとも違った趣にある明かりにうっすらと照らされている。どこか幻想的だ。


 だが、ここに辿り着くのは目的ではない。目的は、もとの世界に戻る手段を見つけること。それを忘れてはならない。


「ええ、ここまでありがとうございます」


 竜夫は隣に座っている男に頭を下げ、礼を言う。


 名も知らぬ彼には感謝するばかりだ。もし、彼がたまたま通りかかっていなかったのなら、自分は間違いなくあの街道を歩いていたはずだ。そもそも、このようにここまで辿り着けたかどうかすらわからない。


 さて、これからどうしよう? 竜の力を得て、自衛くらいならできるようになったとはいえ、自分がいま無一文なのは変わっていない。まずはそれをどうにかしなければ。なにをするにも、先立つものは必要になってくるのだから。


 だが、なんとかするしかない。この状況をなんとかできなければ、ここで死ぬしかなくなくなる。自分のことを誰も知らない、この世界で。それは嫌だった。それに竜夫に力を与えるために消えたあの竜も自分が無為に死んでいくことは望んでいないだろう。


 これから自分は一体なにをなさなければいけないのか? それは自分にとってあまりにも途方に暮れるくらい大きすぎることのように思えた。なにしろ世界間の移動なのだ。そもそも海を越えることだって、人間にしてみたら大きなことである。その途方もなく大きすぎることを、自分はやらなければならないのだ。


「そうだ。これを持っていけ」


 男がそう言って取り出し、竜夫に差し出したのは紙幣だった。


「あんたは命の恩人だ。あそこであんたを乗せてなかったら、俺はあの強盗に殺されていたかもしれねえ。命は助かったとしても、身ぐるみをはがされただろうしな。命の恩人に渡すのには少ないかもしれないが、もらってくれ」


 男が差し出した紙幣には百という文字が刻まれていた。それが十枚。結構な額のように思える。


「……いいんですか?」


 竜夫は男の顔を見ながら問うた。


「当たり前だろ。事情がどうあれ、俺があんたによって助けられたのは事実なんだから。それに対する謝礼は必要だろう? というか、助けてもらっておいて恩を返さねえってのは我慢ならん。だから、必要なくても受け取ってくれ。あんたに礼をしなかったことが気になって眠れなくなったら嫌だしよ。親父の自己満足の道楽に付き合ってくれや」


「わかりました。ありがとうございます」


 ここで受け取らないほうが彼に対する誠意を欠いているような気がしたので、竜夫は差し出された紙幣を受け取った。


「ここまでお世話になりました。それでは」


 竜夫はもう一度男に礼をして、扉を開けた。扉を開くと同時に感じられたのは、自分が知っているものとはどこか違う感じのする空気。身体を車の外に出した。


「ああ。達者にやれよ」


「はい」


 竜夫は答え、車の扉を閉めた。扉が閉まると、車はすぐに動き出す。相変わらず駆動音が小さく、排気ガスの匂いもしない。車が見えなくなるまで、竜夫はその場で見送った。


 きっと、名も知らぬ彼とは二度と会うことはないだろう。この世界だって間違いなく広いのだ。その広い世界で再び相まみえる偶然が起こるとは考えにくい。だが竜夫は、彼のことを今後一生忘れることはないだろう。それだけは確信を持って言える。


 竜夫は手に持っていた紙幣に目を落とす。そのまま持っているのは嫌だったので、ポケットの入っていた財布にその紙幣を入れる。それから竜夫は歩き出した。


 男に渡された金額はいくらなのだろう? 歩きながらそれを考える。渡された紙幣が、ドルやユーロに相当するものだったのなら、そこそこの金額になるはずだが――


 考えていても仕方がなかった。男が渡してくれたお金がまとまったものだと信じるよりほかにない。それよりもいまは、どこか寝泊まりできる場所を探さなくては。


 竜夫は街を進んでいく。


 ちゃんと街灯が設置されているせいか、行き交う人の数は多い。道幅も大きいから、ここはメインストリートだろう。治安が悪そうに見えなかった。


 竜夫に対し奇異の目を向ける人間はいなかった。どうやら、いまの自分の格好はこの世界の住人から見てもおかしなものではないらしい。


 メインストリートを進んでいくと、横に大きな建物が見えた。入口の上には見たこともない文字でホテルと書かれている。まったく知らないはずの文字を理解できるのは言語化できない不思議な感覚があるが、ありがたかった。


 しかし、メインストリートにあるあのホテルは見るからに高級そうだった。竜夫はいま、あの男に渡された十枚の紙幣しか持っていないのだ。現段階ではできる限り節約したほうがいいだろう。安全を重視するのは、資金に余裕ができてからだ。それに、いまの竜夫は自分の身を守る力くらいはある。多少の危険を冒しても問題ないだろう。


 モーテルのような宿はないだろうか? これだけ大きな街なのだし、すぐに見つかりそうだが――


 竜夫は横にあった小道に入る。一つ奥に入っただけで、明らかにまわりが暗くなった。そこは、人の姿がなく、明かりも少ないせいか、どことなく恐ろしげな雰囲気に包まれていた。


 そんな恐ろしげな雰囲気に満ちた裏通りを竜夫は進んでいく。真っ直ぐ進み、角を折れ、また進んでいく。


 最悪の場合、空き家のような場所でもいい。見たところ裏通りもスラムというわけではないようだから、一夜を過ごすくらいなら大丈夫だろう。固い地面の上で寝るのは嫌なのは事実だが、そうも言っていられない。


 そういえば、とそこであることに気づく。三時間以上車に揺られていたのに、疲れも空腹も渇きまったくなかったのだ。三時間以上も車に乗っていれば、普通ならもっと疲労感に襲われているだろう。なのに、それがまったくない。これもやはり、竜の力を得た影響なのだろうか?


 そんなことを考えながら裏通りを進んでいくと、淡い明かりが見えた。竜夫は少しだけ歩む足を速めて、それに近づく。近くに置かれた古い看板にはホテルと書いてあった。


 裏通りにあるのだし、恐らくモーテルの類だろう。竜夫は入るかどうか一瞬だけ考えて、入ることに決めた。扉を押して、中に入る。


「いらっしゃい」


 扉を開いて中に入ると同時に、フロントに立っていた男がそう言った。髪の毛の薄い、中年の男だ。


「一泊したいんですけど、部屋は空いてますか?」


 竜夫はフロントに近づいて言う。


「ああ、空いてるよ。料金は先払いだ。どの部屋がいい?」


「えっと、一番安い部屋を」


「それなら三十六テンドだ」


 テンド、というのは先ほど受け取った紙幣に書かれていた単位だった。恐らくこれが、この国で使われている貨幣の単位なのだろう。


「これで、大丈夫ですか?」


 竜夫はそう言って、財布から先ほど受け取った百テンド札を取り出す。本当に大丈夫なのかと不安になったが、男は特に気にする様子もなく竜夫が出した紙幣を受け取った。


「はいよ、これおつり」


 男は差額分を目の前にトレイに置いた。過不足がないことをちゃんと確認してから、竜夫はおつりを財布へとしまう。


「えーっと、それじゃあこれが鍵ね。明日の朝十時までにチェックアウトしてくれりゃあいい」


 男は鍵を取り出して竜夫の目の前に置く。竜夫はそれを手に取り、ホテル内にあった時計で現在の時刻を確認する。どうやら、いまは夜の七時を回ったところだった。


 時刻を確認したところで、竜夫は歩き出した。少し歩いて、鍵に書かれた番号と同じ部屋に入る。そこは、六畳ほどの広さにベッドだけが置かれた簡素な部屋だった。シャワールームはないようだった。だが、不満はない。こうしてベッドがある場所で寝られるだけでも充分だ。


 竜夫はベッドに腰を下ろす。


「異世界、か」


 竜夫はそう呟いた。


 とりあえずいまは休息しよう。これからどうするか考えるのは、明日になってからでいい。


 そう判断した竜夫は、靴を脱いでベッドに寝転がった。

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