第8話 一夜を明けて

 そいつはどこまでも雄大だった。


 考えられないほど多い民から尊敬されている。その数は、自分が暮らしていた現代社会よりも多いかもしれない。一体どれだけの民がいるのだろう? 数えられるようなものではなかった。それくらいたくさんいる。


 その存在は、圧倒的な数を誇る民の上に立つもの。恐らく指導者なのだろう。あれだけ多くの民を幸福に導かねばならないのはとんでもない重責のように思えた。尊敬される民の前ではそれを見せることは絶対にないけれど。


 そいつは今日も民からの、あるいは自身の側近や官僚たちから話を聞いていた。ここからでは、なにを話しているのかはわからない。だが、何故かその表情は重いものに見える。なにか、困ったことでも起きたのだろうか?


 側近や官僚たちと議論を続けても、それを解決する糸口はなかなか見つからないらしかった。その会議を重ねるごとに、参加者たちは重い雰囲気に侵食されていく。一体なにが起こったのだろう? なにか知っているような気がしたけれど、思い出せなかった。


 それでもそいつは、自身を尊敬してくれる民の前では、会議で見せていた険しい表情は絶対に見せることはない。民の前に出るときは、ある時ユーモアを込めて、ある時には雄弁に、ある時には共感が得られる程度に感情的に振る舞った。自分が暮らしていた世界の政治家も、これくらいできていたらもっといい社会になっていたかもしれない。そんなことを思った。


 時間が経ち、指導者たちが議論していた困難が民にも知れ渡った。それによって社会は不安と悲観に満ちていく。


 そうなった時、別の存在が現れる。


 そいつはいまの指導者に比べればはるかに若く、自信と可能性に満ちていた。


 そいつがなにかを言う。それは、その社会に迫りくる困難を回避する方法。


 それは――



 見知らぬ天井が目に入った。それを見て、竜夫は一瞬混乱したのち、自分がどういう因果か異世界に来てしまったことを思い出す。


 寝て起きたら、もとの世界に戻っているかと一抹の期待を寄せていたのだが、それは叶わなかった。やっぱりこれは夢ではないのだ。


 竜夫は身体を起こし、靴を履く。それから時刻を確認した。現在の時刻は朝の五時過ぎ。疲れも眠気も残っていなかったので、動き出すことにした。


 備えつけの洗面台で口をゆすぎ、顔を洗う。異世界の水も、空気と同じくどこか違うような気がした。


 そしてやはり空腹は感じなかった。わけのわからない状況に巻き込まれて食欲がないというわけではないのだろう。


 空腹を感じないというのは奇妙な感覚ではあったが、その身一つで異世界に来てしまったいまの状況ではありがたい。こちらの世界だって、飯を食うには金がかかるのだから。


 風呂に入って身体を流したいと思ったが、残念なことにこの部屋にシャワーはなかった。だが、どうしよう。着替えもなく、風呂にも入れないというのはまずい。いくらなんでもこの世界にいる間、風呂にも入らず、いま着ている服一着だけで過ごすのは最低限文化的な生活を保障されている現代人としてあるまじき行為のように思えた。というかそんなの我慢ならない。


 風呂なら水場があればなんとかなるかもしれないが、服はどうしよう? 当然、服を買うのだって金がかかる。そのうえ服というのは結構いい値段をするものだ。この世界では何故か異常なほど衣服が安い、なんてことはないだろう。手持ちの資金が潤沢ではない現在、新しい服を買っては汚れたら捨てていくわけにはいかない。贅沢が過ぎる。そんなことをしたら、乏しい資金はすぐに尽きてしまうのは容易に想像できた。


 果たしてどうしたものか? と考えたところであることに気づいた。


 竜の力を使えば、なんとかなるのではないか? そう思った。あの竜が、人間が活動するにあたって絶対に発生する衣服や身体の汚れの問題について考えていなかったとは思えない。なにしろあの竜は、見知らぬ世界で生きていく力を与えると言っていたのだから。


 とにかく、やってみよう、と竜夫は判断した。


 目をつむって、自分の身体に刻まれた竜の力を起動する。身体と服をそのまま煮沸消毒するイメージを構成。できるはずだと自分に言い聞かせる。なにしろ自分は、銃で武装した強盗を素手で撃退できたのだから。


 すると、身体が熱に包まれた。それと同時に身体は温まり、いままで感じたことのない爽快感に襲われ、すぐに消える。


「これで、大丈夫かな?」


 竜夫はそう呟いた。身体が清潔になった実感があるのは確かである。だが、自分の体臭というのはなかなか自覚できないものだし、そもそも行為自体が呆気なかったので、これで本当に大丈夫なのか不安になった。


「これで駄目だったら、そのときに考えよう。いまはそんな余裕ないし。それに、この感覚は悪くない。癖になりそうだ」


 竜夫はそう判断し、思考を打ち切った。次は――


 食料はどうだろう? いまのところ空腹は感じないけれど、これがいつまで続くかは正直なところ不明だ。しばらくは保つような気がするが――


 しかし、食料であれば金さえあれば確保は可能だろう。街の様子を見た限りでは、多くの人が困窮しているわけではなさそうだったし。


 これも、そうなってから考えるしかなさそうだ。手持ちはあるから、しばらくは大丈夫だろう。だが、なにかしらの手段は考えておく必要がある。金というのはただ生きているだけで消費していくものである以上、それを獲得する術は絶対に必要だ。できるだけ早い段階で、どうにかしておかなければ。これは、なかなか悩ましい。


 なにしろ、自分はこの世界において社会的に存在しないのだ。社会的に存在しない以上、労働といったまともな手段で金を稼ぐのはほぼ不可能である。


 となると、金を稼ぐ手段はイリーガルな方法、要するに犯罪行為ないしそれに近いものになってくる。そのうえ、武装した強盗を素手で撃退できる力を持った自分なら、いともたやすくできてしまうだろう。


 だが、あまり気は進まなかった。できることなら、やりたくないが――


 とはいっても、いまの状況ではそうも言っていられない。手段を選んでいられるほどの余裕などいまの竜夫には存在しないのだ。高潔さを貫いて、なにもできずに死んでいくよりも、手段を選ばずに意地汚く生きるほうが正しいように思えた。死んでしまったら元も子もない。人生には、コンテニューなんてものは存在しないのだ。


 できる限り、なんの罪もない人を巻き込まないようにしよう。そうしていれば、必要以上に罪悪感に襲われずに済む。どこまでそれを貫けるかはわからないが。


 そんなことを考えている間に時間が過ぎていた。現在の時刻は六時半。一時間半弱。結構長くあれこれ考えていたらしい。


 とにかく動き出そう。普通であれば動き出すには早い時間だが、いつまでもこのモーテルにいたところでなにも始まらない。竜夫は少し身体を伸ばしたのちに、ベッドの脇に置いてあった鍵を取って部屋を出る。一応、施錠はしておいた。廊下を進み、フロントへ。


「鍵を返しにきたのですが」


 フロントに辿り着いた竜夫はそう言った。フロントにいたのは昨日、受付にいた男とは違う人物。眼鏡をかけ、髭を蓄えた男。昨日の男よりも若そうに見えた。


「ああ、そう。そこに置いといてくれ。まいど」


 髭眼鏡は目の前の机に手を向け、業務的な口調で言う。昨日の男と同じく、竜夫には一切興味なさそうだった。


 しかし、変に勘繰られるよりはそのほうがずっといい。竜夫はそんなことを思いながら鍵を置いて、モーテルを出る。外に出ると同時に、朝日が降り注いできた。からっとした陽気で、過ごしやすそうだ。


「異世界でも、朝日は昇るんだな」


 そんなことを言って、そりゃそうだよな、と自分が言った言葉に突っ込みを入れる。太陽に類するものがなかったら、人間のような生物が生まれるはずもないのだ。自分と同じように見えない人間がいる以上、この異世界は間違いなく地球と似た環境をしているはずである。


「とにかく、動こう。そうだな、まずは――」


 情報を収集しよう。これだけの大都市なら、図書館の一つくらいはあるはずだ。まずはそれを探そう。


 竜夫は、どこかにあるはずの図書館に向かって歩き出した。

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