第二言語を習得する際に陥りやすい誤用の分析

 外国語学習において、学習者が犯す間違いを段階によって分類してみた。


 ①完全な誤り


 根本的に意味をなしていないもの。


 I'm water.


 私の知人がアメリカで「水ください」と言いたくて、ついこう言ってしまったらしい。この文は奇跡的に文法の誤りはないものの、もはや意味不明である。しかしネイティブもさすがにこれを聞いて「私は水です。あー、水が欲しいのか」と察してくれると思うので、通じることは通じるのかもしれない。

 ルー語しゃべりみたいなものもこれに入るかもしれない。ミーはイングリッシュをスピークする、とか言ったらまあおそらく通じないであろう。

 そういえば最近アメリカ人に日本語を教えているが、彼はまだ始めたばかりなので「わたし、食べる、さかな」とか英語的に語順を入れ替えてしまう。


 ②文法的非文


 I'm student. 私はガクセイという名前です。

 I'm interesting in America. 私はアメリカの中で興味深いです。

 

 それぞれ「私は学生です」「アメリカに興味があります」と言いたいのだろう。I ate A chickenなんかも、と受け取られる可能性もある。

 そして、be interested inもよく非ネイティブが間違えるポイントである。こういう場合はinterestedにしなければならない。もしI'm interestingと言ってしまうと、「私は面白い(人)です・私という人間は面白いです」ということになってしまう。

 外国人が喋るのを聞くと、ネイティブは頭の中で正しい文に自動的に修正しているのでこうした文は通じることは通じると思う。例えば以前、外国人の友人に「エビ食べられる?」と聞かれたことがあるのだが、「ああ、この人は『エビは食べられる?』と聞きたいんだな」と頭の中で勝手に変換してくれていたので相手の言っていることは分かった。①の間違いと比べ、相手が理解してくれる確率が格段に高まっているものの、逆に間違いを指摘してくれる人間が減るかもしれない。


 日本語を勉強している外国人に突然「みって!」と言われて分からなかったことがある。まあ本人は「見て!」というつもりだったのだろうが、動詞の活用が誤っているのでなんだか分からなかったのだ。

 日本語の動詞の活用も意外と難しく、「習って」を「ならんで」と混同したり「会います」と「会えます」の意味を取り違えたりする。

 「みって」のようなものは文法的に間違っている。外国人が日本語を勉強するときに間違えるポイントは大体、


 一 助詞の使い分け

 二 自動詞と他動詞

 三 な形容詞とい形容詞(形容動詞と形容詞)


 と相場が決まっている(独断と偏見)なのだが、二番と三番に関してはかなり上級者でも間違う。

 たとえば「今日は寒いだと思います」「大丈夫の?」「とてもすごいな人」とか「恥ずかしいなんですけど」は文法的におかしいし、「日本語の勉強をはじまる」「試験が落ちた」と聞いたら意味は分かるもののなんとなく変な感じがするだろう。

 見た目文法的におかしくなくても問題があるときもある。


 魚食べます。


 この文を見て日本人なら魚が何かを食べる様子を想像すると思うが、残念ながらこれを言った外国人が本当に言いたかったのは「魚を食べます」だったようである。日本語の格助詞は使い分けが難しい。「魚を食べる」は「魚を食べる」なのに「魚が食べたい」だと「を」が「が」に変わるなど、ヨーロッパの言語の常識から考えるとおかしい部分もある。しかし日本語には格はないし、日本語は日本語として考えるべきなのだろう。

 中国語のような孤立語でも文法的非文は存在し、有名な例を挙げるなら反復疑問文と疑問の語気助詞「吗」とセットで使えないことや、量詞の誤り――「一台电脑」は正しくても「一条电脑」「一张电脑」は間違い――などがあげられよう。


 ③語彙のチョイス


 文法をある程度クリアすると次に突き当たる問題がこれである。まあ卑近な例をあげるなら和製英語が代表格かもしれない。


 Please give me a morning call.


 この文には文法的に何も誤りがないように見えるが、morning callは「モーニングコール」であり和製英語なのでよく分からない意味になってしまう。wake-up callと言わないと「モーニングコール」の意味にはならない。他にもタイヤがパンクしたと言いたくて「My tire is puncture」と言っても全く分からないに違いない。punctureには「パンクした」という意味はなく、flatがそういう意味になる。

 the art of writingという単語を見たとき「art」というのが「技術」という意味で使われているのに気づいたときハッとしたことがあった。artificialは「人工の」という意味なのだが、「技術」と考えれば納得がいく。どうしても日本人的な発想でart=芸術と考えてしまっていたわけである。(そういえばさっきのAmericaもアメリカ人はアメリカのことではなくアメリカ大陸のことだと思っている場合が多く、国名のThe United Statesとか言った方がアメリカ合衆国に限定される。日本人の思う『アメリカ』のイメージに合うのはこちらであろう)

 以前、日本語を勉強している台湾人と話したとき(日本語で)「あなたのように中国語のできる外国人は親切な感じがします」と言われてこの「親切」が何のことかよく分からなかったのだが、後で中国語の辞書を見て「亲切」という単語が中国語で「親近感、親しみ」という意味があるのを知って、ようやく彼が言いたかったことが理解できた。


 ④非ネイティブ的な文章


 最近Game of Thronesというドラマを見ているのだが、


 You have my word.


 というセリフが非常によく登場する。「約束するよ」という意味なのだが、日本人の頭ではYou have my wordという表現がどうして「約束するよ」になるのか分かりづらい。


 The Dornish climate agrees with me ドーンの気候は私にあってる


 これも「agree」が「賛成する」という意味で機械的に暗記しているだけだと分かりにくいと思われる。

 英語は日本語と大幅に違う言語なので、こうした日本語と発想の違う表現が多い。日本語なら「私の家に犬がいる」とか「犬を飼っている」と言うのに対し、英語ではI have a dog/dogsと言ってhave 持つ という動詞を多用する。もしThere’s a dog/There’re dogs in my houseと言ったら文法的に正しいし語彙的にも何の問題もないが、ネイティブ的な文章ではない。同じような理由でso-calledを「いわゆる」と同じだと思って使ってしまうと、so-calledが持つネガティブな意味合いが出て変な意味になってしまう場合がある。


 中国語で「看什么看!」と言うと「何をジロジロ見てるんだ」という意味になるのだが、動詞で「什么」を挟むという発想も日本人の頭ではなかなか出てこない。他にも「你觉得呢?」だけで「どう思う?」という意味になったり、「说也白说 言っても無駄」の「白+動詞 無駄に~する」なども難しい。日本人なら「時間を無駄にする」というときに「白费」よりも日本語に似た「浪费时间」の方を使ってしまう気がする。白费はもっと意味が広く、時間以外のことにも使うことができる。

 このように、どんな言語にも大体「××語的な表現」というのがある。日本語なら古典的ではあるが「象は鼻が長い」などがあげられようか。ほとんどの言語では「象の鼻は長い」という表現が好まれるだろう。「象の鼻は長い」でも文法的に正しいし語彙のチョイスもあっている。しかし我々はなぜか「象の鼻は長い」と「象は鼻が長い」という二つの文どちらも使うことがあって、ニュアンスの違いで言い分けている。


 そういえば以前、日本語を勉強しているベルギー人と話していたとき「私は体を手術されて」と言われて、妙に感じたときがあった。日本人なら(たとえ自分自身が手術したのでなくとも)「最近胃を手術した」という感じで「手術する」と言うはずだからだとすぐ気づいたのだが、ヨーロッパの言語は同じ表現をするときに受動態を使うのだろうか。


 ***


 ①~④の間違いの中で、私は②と③の間違いを重点的に直すべきだと考えている。この段階をクリアしないとまず通じないからである。そして④に関しても、ある程度上級になったら触れるべきだと考えている。

 しかし②の間違いは化石化しやすいので、究極直らないのかもしれない。③の間違いは②の間違いに比べ見た目明らかにおかしいので指摘されやすいのに対し、②の間違いは通じると言えば通じるので文法について深く理解している人でないと気づかない。

 ④の間違いについては、膨大なコーパスを暗記すればそれなりにはなるだろうが、根絶するのは不可能に近いだろう。結局のところ間違いを直すのは自分の言いたいことを通じやすくするためであり、どんなに間違いを減らそうと努力しても第二言語である限りゼロにはならない。


 ヨーロッパの言語は屈折が多いので、②の間違いが頻発しやすいと考えられる。例えばスペイン語は男性名詞と女性名詞があり、形容詞は名詞の性と数に従う。un perro pequeño 「一匹の小さな犬」はperroが単数で男性名詞であるのでpequeñoになるが、「いくつかの小さな家」であればcasas pequeñasになって後ろが-asになる。

 一部例外的に-aで終わるに男性名詞、-oで終わるのに女性名詞というものも存在する。idioma 「言語」は男性名詞、mano 「手」は女性名詞でel idiomaとla manoになって、形容詞がついてもidioma japonesaではなくidioma japonés 「日本の言語=日本語」だしmano pequeña 「小さな手」になったりする。かなり面倒である。


 ロシア語やドイツ語のような格のある言語だと、名詞が格で屈折する上に形容詞も屈折するので一致させるのが大変である。Я читаю книгуは「私は(一冊の)本を読む」で「книга 本が」が「книгу 本を」に格変化する。しかし後ろを「у」に変えて対格にするのは女性名詞であり、男性名詞の場合は主格と同じ形になるのでЯ читаю учебник 「私は教科書を読む」は「учебник 教科書が」と同じ形のまま使える。これを「учебнику」にすると「教科書に」になって与格になる。そしてЯ читаю учебникуでは「私は本に読む」という意味不明な文になってしまう。そして形容詞も性・格・数で屈折し、「小さな本が 女性・主格・単数」なら「маленькая книга」で「小さな教科書が 男性・主格・単数」なら「маленький учебник」、「私は小さな本を読む」なら「小さな本を 女性名詞・対格・単数」で「Я читаю маленькую книгу」になり形容詞の語尾がどんどん変わる。Я читаю маленькая книгаと言ってしまえば、「私は(チイサナ)本読む」というまたよく分からない文になってしまうわけである。


 これに対し中国語やタイ語のような孤立語は②の間違いが起こりにくい。そもそもの性質として屈折がないので「非文」ができにくい、というのは想像がつくと思う。

 しかし実は孤立語においても②の間違いは多く存在し、ヨーロッパの言語の屈折とは別の形で出てくる。中国語とタイ語を例にとって、大きく三種類に分類してみた。


 ・文が特定の句形でしか成立しない


 以前中国語のエッセイで紹介したが、


 买书 本を買う + 了

 →买书了。

 →买了一本书。

 →买了书了。


 买了书 × 买了书,__ 後ろに文が続く場合OK

 というのも、中国語には文法がないように思わせてしまう原因になっているのではないだろうか。

 今日は「今天」、天気は「天气」、良いは「好」なのだから、「今天天气好」で「今日は天気がいいです」の意味になるかというとダメで、「今天天气很好。」にしなければならないと習う。そうか、形容詞には「很」をつけるのか、と思って中国語の文章を読んでいると「今天天气好」というような文が登場してなんでやねんと思うこともあるだろう。

 これはただ単に後続する文があるかないかという話で、「今天天气很好。」で終わりなら「很」を使い、比較する対象が後ろに続いたり疑問文になったりすると「今天天气好吗?」になって「很」がとれるのである。

 このように、中国語の文というのは特定の句形でしか文が成立しない場合が多い。孤立語的な言語を勉強したことがない人間から見ると、「『今天天气很好』は『很』がつくのに『今天天气好吗?』はどうして『很』がつかないんだ?」と思ってしまいあたかも規則がないように見えてしまうが、文法が違う形で存在しているだけである。「很」は文の調子を整え一つの文としての座りをよくするために置かれていて、「这么好「太好」になれば「很」は落ちる。

 同じような現象がタイ語でも見られる。


 เขียนสวยๆ khian5 suay5 suay5

 きれいに書きなさい。


「เขียน khian5」が「書く」、「สวย suay5」が「きれい」という意味なのだが、สวยๆ suay5 suay5になってสวยが二回繰り返されている。これを「เขียนสวย khian5 suay5」だけで成立させることはできないのは中国語と似た理由で、一見問題ないように見えるが非文だからだ。孤立語で最も難しいのはこのような非文の存在である。


 ・否定文の作り方が面倒くさい

 ヨーロッパの言語や日本語では基本的に動詞に「ない」をつければ否定文を作ることができる。例外的に英語はdon'tやdoesn'tなど人称に合わせてnotが変化するが時制はそのままである。

 ところが中国語では「去 行く」を否定文にすると「不去 行かない」になるのに対し、「去了 行った」「去过 行ったことがある」を否定文にすると「没去过」や「还没去」になって「不去了」や「不去过」という表現はできない。「不去了」に関しては「行かなくなった」という意味になる。

 また孤立語では動詞+動詞・形容詞等で結果補語や方向補語といった補語を作る特徴がある。例えば「看得懂 (読んで)分かる、読める」は「看 見る」「懂 分かる」を並べて作られている。しかし「看得懂」が「看不懂 読めない」になるのも慣れないとすぐに「不看得懂」と言ってしまいそうである。孤立語では多く、否定する文法要素の直前に否定の副詞が来る。

 こうした動詞の補語はタイ語にも存在し、否定文になると似た構造をとる。


 เขาทานมาก khao5 thaan1 maak3 彼は大食いだ

 →เขาทานไม่มาก khao5 thaan1 mai3 maak3 彼は大食いではない

 คิดออก khit4 ɔɔk2 考え付く

 →คิดไม่ออก khit4 mai3 ɔɔk2 考え付かない

 ทาน thaan1 食べる มาก maak3 多い ไม่ mai3 否定、~ではない คิด khit4 考える ออก ɔɔk2 出る


 例えばタイ語で「僕は日本語を話すのが下手だ」という場合ผมพูดภาษาญี่ปุ่นไม่เก่ง phom5 phuut3 phaa1saa5 yii3pun2 mai3 keng2になり、「僕-話す-日本語-ない-上手い」という語順になるのだが、こういう場合動詞と補語の間に目的語が割って入るのでさらに分かりづらいかもしれない。

 

 タイ語ではbe動詞にあたるものが二種類あり、เป็น pen1 คือ khɯɯ1を後続する名詞の性質によって使い分けている。


 ●คือ khɯɯ1

 เมืองหลวงญี่ปุ่นคือโตเกียว mɯang1luang5 yii3pun2 khɯɯ1 too1kiaw1  日本の首都は東京だ →名詞+名詞 固有名詞など


 ●เป็น pen1

 ผมเป็นนักศึกษา phom5 pen1 nak4sɯk2saa5 僕は大学生だ → 性格、性別、国籍、職業など 


 ●無し

 นี่ขนมไทย nii3 kha4nom5thai1 これはタイのお菓子だ → 主語が「これ」「それ」「あれ」と言った指示代名詞である場合、何も使わない


 加えて、否定文になるとさっきのไม่ mai3をつけるだけというわけにはいかず、中国語よりもややこしい。


 ●ไม่ใช่ mai3chai3を使う場合

 ผมไม่ใช่นักศึกษา phom5 mai3chai3 nak4sɯk2saa5 僕は大学生ではない

 เมืองหลวงญี่ปุ่นไม่ใช่โตเกียว mɯang1luang5 yii3pun2 mai3chai3 too1kiaw1  日本の首都は東京ではない

 นี่ไม่ใช่ขนมไทย nii3 mai3chai3 kha4nom5thai1 これはタイのお菓子ではない


 ●ไม่ได้เป็น mai3dai3pen1を使う場合

 ผมเป็นโรค phom5pen1rook3 僕は病気だ โรค rook3 病気

 →ผมไม่ได้เป็นโรค phom5mai3dai3pen1rook3 僕は病気ではない

 

 このように、組み合わせ不可能な文法要素の対立がある

 日本語でも「知ってる?」と聞かれて「知らない」と答えるような現象がある。「知っていない」は間違いではないもののおかしく聞こえ、孤立語では④のタイプの間違いが問題になってくる。

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