ステップ・バイ・ステップ・オン
春義久志
ステップ・バイ・ステップ・オン
覚醒と呼ぶにはあまりに曖昧な目覚めだった。眠りについていた間にいつの間にか聞こえていたような気もする小さな物音と、時々顔に掛かるかすかな水しぶき。その両方が降り出した雨に寄るものだったと気付いた時には、あたりはすっかり暗くなり、肌寒さすら感じる。授業の合間、誰もいないところで一息だけつくつもりが、すっかり寝過ごしてしまったようだ。
「別にいいけど、さ」
独りごちた途端、大粒の雨が降り出した。ずぶ濡れになることはないかもしれないが、一度風が吹き込めば無事ではすまないかもしれない。既に屋根のないところには小さな水たまりが出来ていて、そうとも知らずに思い切り踏み込んだ右足に冷たい雨水が染みていく。思わずこぼれた小さな舌打ちは、雨音にかき消された。
寝ぼけ頭のままに屋内へと引っ込み、自然と足は自教室へ向かう。とりあえずカバンくらいは持って帰るとしよう。
部活動終了のチャイムが響く廊下を、昇降口へ向かう他の生徒達と逆行するように進んだ。少しばかり感じる視線を無視しながらたどり着いた教室にはしかし、一人だけ人間が残っていた。そいつのことが少しだけ苦手な俺は、その存在に気づかれないよう後方から教室に入り、荷物を掴んだその時、どこかで雷が落ちた。
近いなと頭の片隅で考えたとおり、間髪入れずに雷鳴が響く。おんぼろ校舎を震わせる轟音に驚いたのか、遠くから女子の悲鳴が聞こえた。こんな歳にもなって雷で泣き出すほどガキじゃないつもりだったのに、少なからずあったらしい動揺がそうさせたのだろうか。音もなく教室から立ち去るつもりが、机の上のカバンを引っ張ったときに、一緒に机まで倒してしまった。静けさを取り戻しつつあった教室に響いた不愉快な衝突音は、俺の存在を知らしめるには十分だった。
「遅かったじゃないか、一条くん」
こちらを振り返ることもないままに、迫水征一は俺に声を掛けてきた。
「待っててくれなんてこっちはひとことも頼んじゃいないけど、
鬱陶しい。長引かせずにとっとと帰りたい。
「知ってるのなら話ははやい」
だんまりを決め込む俺に構わず、迫水は話を続ける。
「この度、正式にこのクラスの学級委員に選ばれたんだ」
「よかったじゃないか、おめでとう」
「ありがとう」
出来る限りに嫌味ったらしく祝福の言葉を送ったつもりだったが、素直に受け取ったようだ。おそらく皮肉が通じない質なのだろう。
「どうせ立候補でもしたんだろうけど」
教室の前方にいるから聞こえないだろうと思い口にした独り言を、しかし迫水は聞き逃さなかった。
「君はエスパーだったのか」
「なんて?」
急激な話の変化に思わず奴の方を向いてしまう。
「あの場に居合わせなかったのにそのことがわかるのは、超能力者くらいだろう?」
なんともしょうもない
「普段の態度見てりゃ想像くらい付くっつうの」
かっちり着込んだ学ランと暑苦しいほどの七三分け、キラリと光る銀縁眼鏡と固く結んだ横一文字の唇。しゃちほこばった話し方も相まって、漫画やアニメに出てくるような、コテコテの真面目でお硬い委員長そのものを想像したのは、おそらく俺だけではなかっただろう。クラスのお調子者が迫水をからかい半分で
「そうか、難しいな」
「何がだよ」
「冗句のつもりだった」
「は?」
額にシワを寄せ考え事をしているふうだった迫水の口から出た言葉に拍子抜ける。
「委員長たるもの、クラスメイトと円滑なコミュニケーションが取れなければならないが、生憎僕はその点に少々不安があるのでね。どうしていこうか考えていたところに一条くんが来たものだから試してみたんだが、なかなか簡単ではないな」
ぶつぶつ呟いている迫水を無視して、あらためて俺は帰り支度を始める。どうも調子が狂って仕方ない。構っているとどんどんペースに巻き込まれてしまいそうだった。
「思い出した。一条くん、僕は君に用があるのだった」
「忘れてたくらいなら大した用じゃないだろ」
「申し訳ない」
相も変わらず顔色一つ変えないので、ほんとにすまないと思っているのかと噛みつきそうになるのをこらえた。このままでは迫水の思うツボである。
「一分だけだぞ」
「充分だとも」
そう言って迫水は黒板を指差した。教室の後ろでごそごそやっていたために気がついていなかったが、様々な委員会とクラスメイトの個人名が書き連ねてある。フケて昼寝をしている間に、学級委員長以外の委員会の所属も決めていたらしい。
その中には当然、クラスから二人選出される学級委員長の名前が記されていた。一人は当然迫水で、もう一人は。
「俺?」
「そういうことになる」
黒板の前に立つ涼しい顔の迫水に食って掛かる。
「黙って勝手に決めたのかよ」
「悪かったとは思っている。だけど、あの場にやりたがる女子が誰もいなくてね」
女子という言葉を聞いた途端、頭のどこかでなにかが切り替わる音が聞こえた、気がした。
口の中が渇いていく。手も足も、身体中の何処かしこからも熱が引き、醒めていく。
「君がいてくれて助かった。いや、この場合あの場にいなかったから助かったになるか。一体どっちだろうか」
またぶつぶつと話し始めた迫水を今度こそ完全に無視し、教室を出た。
廊下を歩いてしばらくすると、後ろの教室の電気が消え、すたすたと足音が聞こえてくる。奴も教室を出たようだ。
「そんな訳だから、今後は二人一組で様々な庶務をやっていくことになる。よろしく頼むよ、一条くん」
早足で歩いてきたのだろうか、あっという間に俺に追いついた迫水に向かって俺は振り返った。
「いいかこれだけは言っておく」
胸ぐらを掴もうにも俺と奴との間には体格差がありすぎて上手に出来ない。カバンを投げ、サイズの合っていない学ランを着て背伸びをしながら必死に襟元を締め上げようとしている俺の姿を、迫水はどう思っているのだろう。蔑んでいるのか、嘲っているのか。照明の消された暗い廊下では、その表情はよく伺えない。
「大事な大事な学級会議の場にちゃんといなかったことは悪いと思っているし、委員長を押し付けられたのも自業自得みたいなもんだから、それもしょうがない」
だけどな。締め上げる手に更に力が篭もる。
「俺はまだ俺自身を女と認めちゃいない。それだけは覚えとけ」
そう言い捨てて、俺は迫水を突き放した。もっとも体格の差のせいで、よろけたのは俺の方だったけれど。
床に転がっているカバンを拾って、俺は階段を駆け下りた。上の階から、迫水が何かを言う声が聞こえてきたが、廊下で反響をした結果何を言っているのかよくわからなかったし、それを知りたいとも思わなかった。
ちらほらとまだ生徒の残る昇降口の外は、先程ほどではないにしろ雷雨が唸りを上げていた。持ってきていた傘を探そうとしたけれど、どうして中々見つからない。やがて周囲の目を引いているのが嫌で嫌でしょうがなく、だから俺は、やっと生乾きになりかけていた内履きのままに、外へ向かって駆け出した。踏み出した足からはまた水たまりの雨水が染み込んできたが、やがてそんなことも気にならなくなるくらいにびしょ濡れになりながら、俺はここじゃないどこかへ向けて走り続けた。
どこからか飛んできた小さな物音が、夢の世界から意識を連れ戻す。うたた寝をしていたようだった。ここにいると不思議と寝てばかりいるような気がする。見ていた夢の内容に思いを馳せようとしたけれど、絵に描いたような晴天と流れていく綿雲の中に霧散していく。思い出せないのなら、きっとそこまで重要な夢ではなかったのだろう。
おそらく裏山が住処なのであろう野鳥のさえずりが聴こえてくる。こうも下手では、縄張りの主張に支障をきたす恐れがあるのではと、要らぬ心配が頭に浮かぶ。余計なお世話だろうか。益体もない考えが浮かんでは消えていく一方で、あの雨の日もこんなに好い天気だったなら、あんなに惨めでなくて済んだだろうかと、その想いだけは、しこりのように心の底に確かに存在し続けていた。
ずぶ濡れな上に靴も履き替えないまま学校から帰ってきた我が子を大して叱るでもなく出迎えた両親。何も聞かないでいたのは思いやりなどではなく、未だ距離を測りかねているからだろう。他ならぬ俺自身ですらそう思うのだから、文句は言えない。
思い返してみて自分でも驚くほどに突っかかった相手に会わざるを得ないと思うと、翌日こそ学校に向かうのは気が重かったが、無視を決め込んでしまえば案外どうにかなるもので、気がつけばあの雨の日から一週間が経とうとしていた。
何か委員長としての用があるのかないのかわからないが、迫水の方から近づいてくればそれとなく逃げるし、話も聞いていない。他のクラスメイトもこちらの事情を知ってか知らずか、頼みごとは全て迫水に回しているようだった。もっとも、ダブついた学ランを着た短髪の、どうみても女にしか見えない人間になんて、怪しくて誰も近づいては来ないだろう。
このまま逃げ通せると思っているのかと、自問する自分自身がいる。うつむき立ち止まりその場から一歩も動かない、そのままで居続けられるのかと。
強い風が束の間に吹き抜けていく。校舎の錆びついたはしごが小さな悲鳴を上げた。
対して、自答をする自分自身はこう答える。いつしかどうしても動かなくてはいけない日がやってくる、それまでの小休憩くらいは良いじゃないかと。
ある日突然、どうしようもない出来事で自分の生活は一変してしまった。だから、もう一度変わるには、同じようなどうしようもないなにかが起きなければいけないんじゃないか。
だから半分は言い訳で、もう半分は本当の気持ちのつもりだった。
いつの間にか風は止んでいたようだった。それでもはしごは軋み続ける。少し遠くで聴こえていたはずのそれは徐々に近づき、そして泊まったその瞬間、真っ黒い七三の頭と銀縁眼鏡の頭だけがこちらを見据えていた。
「一条くんに協力してもらわないと困るんだが」
ならばその日とは、他でもない今日なのではないか。笑いをこらえながらそう追い打ちをかけてくる自分自身を、俺は睨みつけてやりたかった。
「屋上は出入り禁止になっているのは一条くんも知っているだろう」
迫水の小言を右から左へ流しながら、枕代わりに使っていた体操着を回収する。さようなら、屋上。
「どいてよ、
支度をまとめたのではしごを降りたいのに、迫水は動こうとしない。
「聞こえなかった?どいてって言ってんの」
「この間のことはすまなかった」
はしごに手と足をかけたまま、迫水は頭を下げた。再び、風が吹き始めていた。顔をぶつけそうだわ踏み外しそうだわで、見ているこちらのほうがヒヤヒヤする。
「邪魔だし、とりあえず上がんなよ」
「君の家ではないだろう」
「いちいちひとこと余計だ」
いっそ蹴飛ばしてやればよかった。
「屋上ってのはこんなふうになっているのか」
腰を落ち着けた迫水は辺りを見回している。言葉を見れば感心している風にも思えるが、相変わらず眉一つ動かさない。
「いいところだろ」
「だからきみの家ではないだろうに」
あの雨の日、暇を持て余し校内をうろつくうちに見つけた屋上の塔屋。管理がいい加減なのか開いたままだった扉を開け、はしごを使って最上段に昇る。排気口や室外機、それらを覆う小さな屋根しかない僅かな空間をしかし俺は嫌いではなかった。窮屈な校舎のてっぺんに存在していて、そこに出入りできることを知る数少ない人間が自分であることが、なんとなく嬉しかったから。
しかしそれも今日までだ。いちいち迫水にここまでやってこられたのではたまらない。追い掛け回される日々が始まると思うと、少しばかり憂鬱だ。
気落ちする俺をよそに、迫水は改めるように頭を下げた。
「繰り返すことになるが、この間のことは済まなかった」
「別に気にしてないから」
嘘をついた。
迫水はつらつらと話し続けている。昨年の暮れに俺が病気にかかったこと。そのせいで女の身体になってしまったこと。前の学校に居づらくなってしまい、卒業と同時にこの街へ越してきたこと。真面目に聞いてはいないが、そんなところだろう。
一体何処の誰から聞いたのだろう。噂話かそれとも先生か。そもそも俺が罹患したのは昨年の秋のことだし、この街に引っ越すことはその前から決まっていた。合っているのは俺が女の身体になってしまったことくらいだ。
サイズの合っていない学ランを着た短髪の新入生女子という、よくわからない怪しい存在を咀嚼し消化していくための過程の一つなのだろう。曖昧なりにそう理解は出来ても納得をすることは難しかった。レッテルを貼る方は気軽で羨ましい。
「うだうだ言ってるけどさ」
向いていたそっぽを直し迫水の顔を覗き込む。
「俺を探しに来たのは、心がこもってるようには見えない謝罪の言葉を並べ立てるためじゃないんだろ?」
半ばガンを飛ばすように見ていたはずなのに、迫水は眉毛一つ動かさない。
「理解していてくれて助かるよ」
まっすぐこちらを見つめ返してくる瞳の中心に自分の顔が映る。思っていたより凄めていないことに傷つき目を逸らした。この身体ではやるだけ無駄であるらしい。
要件については聞くまでもなく、学級委員のことだろう。迫水もまた、前置きも一切せずに話を切り出した。
「これまでは忙しいなりにも一人でこなせないことはなかった。しかし、近いうちに第一回目の委員長委員会がある。こちらは原則各学級の委員長と副委員長二人の出席が義務だ。つまり君にも出席してもらわないと困るんだ」
白けている俺の顔にも再び吹き出した強風にも構うことなく淡々と話を続けていく。
「誰も参加するなんて一言も言ってないけど」
最初のように知らぬ存ぜぬを貫けばいいのに、まるで既定事項かのように―いや実際に決まってはいたけれど―話す姿があまりに憎たらしく、つい言葉を挟んでしまう。迫水はそれにも構うことなく、その後もしばらく今後の予定について話し続けた。
ようやく終わったのか、ふうと一つ息を吐くと、急にこちらの全身をまじまじと見つめ始めた。すこし気持ちが悪かったが、そう口にすること自体がなんだか女子っぽく思えて嫌で、黙り続けることにした。
「どうして君は学ランを着用しているのだい」
「どうしてだろうな」
今更になって何を。そう思ったのに、自分でも返す言葉が見つからず、天を仰いだ。
「着ているのはもちろん君自身の意思だろう」
悪目立ちでもしたいのかという迫水の問いにそういうわけじゃない、と反論するも、返答は浮かんでこなかった。
学校に制服の指定はないから、女子が学ランを着ていたところで怒られることはない。せいぜい不審の目で見られる程度だろう。
それでもなお、わざわざ兄貴のお下がりの学ランを着ている理由は、自分のことなのにおぼろげだ。着続けることで自身があくまで男であることを主張しているという意味もなくはないだろうが、あまり強い気はしない。むしろ、女子制服を着たくないという気持ちの表れなのかもしれない。着てしまったら、現に自分が身を置いている現状と向き合わざるを得ない気がするし、なにより常時女装しているみたいで恥ずかしいじゃないか。
「僕はその恰好はあんまりよくないと思っていることは伝えておくよ」
吸い込まれそうな空の色にぼんやりしながら考える俺に、迫水は忠告をしてくる。
「別に校則で決まってるわけじゃないからいいだろ」
むしろ、校則に制服の規定があったらば、こいつは何が何でも脱がしてきそうだ。そんな失礼なことが思い浮かぶ。
「まずサイズがあっていない地点で不格好だし、わざわざなにかマニアックなプレイをしているみたいで心配に思われる可能性がある」
「変態か」
「そう思われるかもという仮定の話だ。それに」
一呼吸を置いて、迫水は続けた。
「君自身の病気と経緯についての噂話―正しいか正しくないかはこの際はおいておく―怒り出すほどでないにしろ君は気にしているようだったが、今のまま二の足を踏んでいたところで同級生や諸先輩、先生方が正しい理解をするとは思えない。認識を改めさせたいのなら、君の方から打って出るしかないだろうと僕は考える」
相も変わらずこちらを見据える迫水の目を、もう一度見返す。
「それが、俺が学級委員を務める意義だと、そう言いたいのか」
「教室や屋上でぼんやりとしているよりも、無理にでも人と逢って話をする方が、説明をする機会は多いのではないかな」
「レッテルを張ってくるのは相手の方だってのにか?」
「それでも、貼られたものを剥がす努力は出来るはずだ」
「剥がしても剥がしても、きっときりなんて無いぜ?」
「言っただろう、学級委員は一人ではなく二人だと」
息の詰まりそうなやり取りが続いた。俺と迫水の声以外に聞えるのは風の音だけだった。
「最後にひとつだけ教えてほしい。そこまでして学級委員に拘る理由はあるのか?」
「僕が、学級委員になりたいから。それ以上にはないよ」
学ランを着続ける理由を答えられなかったのと対象的に、迫水はすぐに俺の問いに答えた。そのことが少し羨ましくでもそれを認めたくなく、結局俺に出来たのは再び迫水から視線を外すことだけだった。
「考えとく。行けたら行くわ」
苦し紛れにそう言うしか無い俺を尻目に、迫水は腰を上げた。
「助かるよ。今後ともよろしく頼むよ」
不貞腐れた俺に背を向けて歩き出した迫水だったが、程なくして立ち止まり、もう一度俺の方を見た。
「さっそくで悪いが、手を貸してくれないか」
「は?」
「実は高所恐怖症でね、風も強いし、はしごを降りれないんだ」
もう一度天を仰いだ。エクトプラズマすら出てきそうな深い溜め息は、雲一つない青空へと登っていった。
気疲れがどっと襲ってきた。形容し難い声を上げながら地べたに頭から滑り込む。以前であればそんなことをすれば顔中擦り傷だらけになっていただろうが、少し前に敷物を用意しておいたから、こんな芸当も可能なのだ。
「しっかりしてくれたまえ一条くん。そんなだらしのない格好、学級委員としての示しがつかないだろう」
「どうせ俺と
「そもそも体操着とは言えその姿勢は女子としてどうだろう」
「だから女子って言うな」
大体、気疲れの理由の大半はお前のせいだっつうのと言いたいのをぐっと飲み込む。こういうやり取りを続けていると、どうせいつものような脱力展開で余計に疲れが増すことになるのだから。
迫水が屋上に昇ってきた日から数週間が経過した。不満を抱えつつも学級委員の任を勤めているのは、あのあといつまで経っても梯子で降りることが出来ずにやけくそで飛び降りたところ足を捻った迫水に対して引け目があるからである。あいつの説得に納得したからではない、断じて。
「あと何日になったっけか」
「6月の初週だから約3週間というとこだ」
「まだ案外あるな」
「そう思っていられるのはおそらく今のうちだろう」
「ありそう」
まだまだ気を緩められそうもない。悲鳴未満のため息が逃げていく。
最近はもっぱら、学園祭の準備に追われている。クラスと実行委員会、教職員との間のパイプ役として学校中を行ったり来たり、あれが足りないそれはどうするなどと喧々諤々の毎日だ。
「君が今くらいに頑張ってくれてさえいれば、どうにかなるだろうさ」
「どっかの誰かさんがもう少しつっけんどんな話し方を直せれば、もっと楽になるんだろうけど」
「申し訳ない」
そう言いつつもやはり表情は変わらない。いい加減慣れてしまった。
本来は、あくまで学級委員をやりたがっているのは自分ではないのだからと、迫水の後ろについて、時々手伝ってやるくらいの気でいたのだ。しかし、基本的に思いついたことや言いたいことをずけずけと遠慮せずに口にする姿は中々に危なっかしく、傍から見ていてはらはらしてならなかった。最初のうちこそ、険悪なムードになりそうなときだけ助け舟を出すつもりだったのに、そんな機会があまりに多く、結果的に俺の方から率先的に交渉事をやらなければならなくなっていた。
意外にも迫水はそんな俺の態度にこれといった反対はしなかった。普段通りのポーカーフェイスで、俺の後ろで腕を組んで意味ありげに頷くのが最近は板につきはじめている。時折腹が立つ時もあるが、長というのは案外これくらいの方がちょうどいいのかもしれない。
結果として、クラスメイトだけでなく先輩や教職員からもわりと顔と名前と事情を覚えられてしまった。当初の目的を達成しつつあると思えば悪くはないが、迫水がきっかけになったと素直に認めるのはなんだか癪に思えて、皮肉のように当てこするばかりである。大概はその皮肉が迫水に通じないから、俺だけが苛つく結果で終わるのだけども。
「聞こう聞こうと思ってずっと聞けなかったんだけどさ」
「なんだい」
「
体操着の袖で額の汗を拭い、自販機で買ってきたアクエリの蓋を開けながら、珍しく俺は迫水にあの風の強い日以来の質問をしてみる。ハンカチで汗を拭く姿を見て、こいつも恒温動物なんだとどうでもいい考えが浮かんできた。きっとこのうだるような気温のせいだろう。風が吹かないとたとえ日が当たらなくても屋外は既にそれなりに高温になる。教室にエアコンの電源が入る頃には、もうここには来ないようになるかもしれない。そのことが少しだけ寂しく、そしてそう思った自分自身が少しだけこそばゆい。
「学級委員としての責務を果たすことが目標の第一歩になるから、だな」
迫水は以前と同じように、憎らしいほどにこともなく即答をしてみせた。
「人が一人きりで出来ることには限界がある一方で、二人、四人、八人と募っていけば、実現可能な事象は増えていく筈だ。人が群れる理由のそれはきっと一つだろう。しかし、集まれば集まるだけそこにはまた軋轢も生まれる。一人として同じ人間などいない、それもまた当然だろう」
残っていたボトルの麦茶を飲み干す迫水。蓋を握る手には少しだけ力が入っている、気がする。
「ならば僕は、その間の妥協点を探りたい、落とし所を見つけたい。人と人とを繋いで、不可能を可能にしてしまいたい。それが僕の人生の夢であり、目標であり、進むべき道だと信じている。その第一歩が、学級委員として、皆の橋渡しをすることなんだ」
普段の振る舞いからは感じ取ることの出来ない熱が、微かにしかし確かに感じられた。それはきっと、この暑さのせいではないはずだ。
「人生と来たもんだ。随分ロマンチストだな」
「笑うかい」
「そんなことないさね」
向かう先すらままらないこの俺が、笑うことなどできようものかよ。
「まあ、性格的に向いていないかもしれないのは自分でも痛感しているがね」
本人が口にしたように、向き不向きで言うのならば後者の方なのかもしれない。遠慮のない物言い、変わらない表情、ある意味威圧感のある風貌、突拍子もないところで間の抜けた事を口にするところも、話相手としてはやりづらくはあるだろう。現にこの数週間がそうだったのだから。
「それでも、諦めるつもりなんてないんだろ?」
真面目くさった顔の迫水は、無言で首肯してみせた。
「いまの自分がどうあるかと、いつか自分がどうありたいかは別だから」
一段落ついたところで調子よくチャイムが鳴り響く。かっこいいじゃんかという独り言を掻き消してくれたことに、心のなかで感謝をする。遅れてもいいからちゃんと授業には来るようにと釘を差しながら迫水ははしごを慎重に降りていった。もはや俺の手助けを必要としないようになった後ろ姿を見ながら俺は考える。主に、迫水が口にした、いつか自分がどうありたいのかということについて。
長い長い一日も終わりが見えてきた午後七時。日も沈み周囲の街灯には明かりが灯り始めていたけれど、そんなものを必要としないほどに煌々と照らされていた。
屋上から見ていても櫓は想像以上に大きく見える。実行委員の人間に話を聞くと、どうも発注の際に薪の量を間違えてしまったかららしい。取っておいてもしょうがないとそれらを全て使用して組まれた櫓は人の背丈ほどもあり、当然そこから上がる炎はそれ以上の高さまで登っている。一体どれくらいの間燃え続けるのだろうかと、後始末をする人間を心配してしまう。
学祭当日を迎えさえすれば学級委員の仕事もお役御免だろうと高をくくっていたが、いざ始まってみると、生徒からも先生からもいろいろ頼まれごとやお言付けを受けてばかりで、のんびりと展示や出し物を見て回るつもりがそれどころではなかった。しかしそれもまた、自身が何者なのかという認識が広まったからこそと思えば、決して無意味な数週間ではなかったと、そう思えた。礼の一つでも言わなければいけないかもしれない。
巨大キャンプファイヤーに吸い寄せられるように、気がつけばそこそこの数の生徒がグラウンドに集まってきていた。制服姿が多い一方で、仮装姿の人間も見える。確かに日中もちらほらと目にはしていた。雑貨店で売ってそうな動物を模したものもいれば、アニメやゲームのキャラもいる。一番多いのは、男子の学ランを着ている女子と、女子のセーラー服を着ている男子だろう。みな、炎を囲んで談笑している。似合っているものなどろくにいないが、あかりがそうさせるのか、あるいは日中から続く高揚感からか、こうして遠くから眺めていてもなお楽しそうにみえる。
塔屋の下から、階段を登ってくる足音が聞こえた。誰が来たのかは考えるまでもないだろう。塔屋まで登ってくること無く、屋上のフェンスに身をもたれかかっていた。
「行かないのか」
「いたのかい、一条くん」
どうせ分かっていたのだろう。こちらを振り向きもしない。
「ここ以外にいた例なんかないだろ」
「それもそうだ。だけどそれは僕も同じだよ。こうして眺めている方が性に合ってる」
いつものかしこまった顔であの集団に加わる迫水の姿を想像してみたが、あえなく失敗に終わる。
「それもそうだな。で、どうだったよ、学祭は」
今日という日の感想を迫水に尋ねてみる。
「くたびれたってのが第一だよ。特別楽しもうという気はなかったから、嫌ということではなかったけど、諸々で引っ張りだこだったさ」
「似たようなもんか」
なあなあと、続けて質問をする。
「誰かと誰かとを繋ぎたいって、この間の
俺と同じように、頼まれた用事もあらかたが終わった、エアポケットのような時間なのだろう。振り回されて辟易したのなら、なにもない今こそ下校の絶好のチャンスのはず。なのにこうして、屋上から遠巻きにグラウンドを眺めているのは、あの中の輪に加わりたいという未練が、ほんの少しでもあるからなのではないだろうか。
この数ヶ月、俺からの問にいつだって即答してきた迫水が、初めて少し言葉に詰まったようだった。
「僕自身、自分の感情表現や、それに伴う対人関係の距離の取り方の拙さは理解しているつもりだ。楽しそうにしている輪の中に飛び込んで、他の人が不快になるくらいなら、黙ってここから見ている方がマシだろう」
「繋がりの邪魔になるくらいならいない方がマシだってか」
「まあ、そんなところだ」
認めたな、捕まえたぞ。
「だけど
「言ったっけかな、そんなこと」
「逃げようったってそうは行かねえぞ」
初めて目にする苦し紛れのすっとぼけに苦笑いが溢れる。やはりこいつは、ただ喜んだり起こったり、悲しんだり楽しんだり、それら感情を表に出すのが苦手ということなのだろう。
「仮に僕がいつかそれを口にしていたとしよう。だとして、君は一体これからどうする気だい。僕を引きずって、今からグラウンドにでも向かうってかい?」
「まさか。かったるいし、恥ずかしいっての」
だから、こうしてやるのさ。
塔屋の上から屋上の地べたへと飛び降りる。大した高さでこそないのに、ちんちくりんな今のこの身体では少々危険だったようだ。だけどもう踏み出してしまったのだ、後戻りは出来ない。暗がりから飛び出して、迫水の前に姿を現す。
「だから、踊るぞ」
「踊る?」
「踊る」
「ここで?」
「ここでだ。グラウンドから曲も流れてきただろ、丁度いいじゃんか」
キャンプファイヤーを囲んでのフォークダンスは、今日の後夜祭のおおまかなスケジュールに組み込まれている。誰が言い出したのだろう。懐古趣味の教師だろうか。今時こんなのはやらないだろうと思っていたが、グラウンドの生徒たちもああだこうだと言いながら動き始めた。屋上では音は少し遠いが、聞こえないわけじゃない。
「つうわけで、シャル・ウィ・ダンス?」
なーんて。
風の強い日と同じように沈黙が俺と迫水の間を通り過ぎていく。違うのは、聞えてくるのが風の音でなくカントリーミュージックだということ。
「なにか、言うことはないので?」
しばし逡巡したのち、何かに気付いたようにポンと手を叩いて、ようやく迫水は話しだした。
「ダブついた学ランよりは、いいと思うよ」
相変わらず、眉一つさえ動かさずに、ただそうとだけ迫水は口にした。
「なんか、リアクションが薄いと思うんだけど、どうですか」
「いやいや驚いたよ、うん。驚いた。びっくり」
「だったらもっと、大きいリアクションしろっつうの」
「言っただろう、感情表現は苦手だって」
やはり、風の強い日と同じように大きなため息が、今日は煙と一緒に天まで昇っていく。
せっかくこんな、箪笥の奥にしまってあったのを引っ張り出したのに。誰にも見つからないようにこそこそと学校まで持ってきたのに。スカートの中に風が入ってめちゃくちゃスースーして、ただ立っていても動いてみても、とにかく恥ずかしかったのに。
断じて迫水のためなんかではない、ついでだ。俺はあくまで俺自身のために、願掛けをしていたのだ。いつだって顔色一つ変えやしないこいつを少しでも、目に見える形で驚かせることが出来たのならば、そうするための一歩から、俺ももう一度前に進めると。
その悪巧みは失敗に終わった。口では驚いたと言っているけど、全く信じられない。こいつは、まったく、信じられない。
「宗旨変えしたんだね、結構結構」
「みんな学祭で仮装してんだから、これはあくまで女装で、だから今日限りだ今日限り」
「いいじゃないか、学ランよりぜんぜん似合ってる。休み明けからやっぱりセーラー服で登校した方がいい」
「うっさい阿呆」
こちらの気落ちなど知らないで、前々からそうだと思ってたんだうんうんだなんて独り言ちている。とてつもない敗北感だ。
「あーもう、とりあえず踊るぞ畜生」
「それはやめないんだ」
「こんな馬鹿みたいな格好までして、踊り方まで一応調べてきたんだぞ。踊りでもしなきゃやってられないっての。
「そもそも二人で踊るのに、この曲って合ってるのかい」
「知らんそんなこと」
「はいはい」
何もかもやけくそだった。後から思い出してみたなら、とんでもなく恥ずかしいことをしているだなんて、そんなことを考える余裕はなかった。
ちょうどよく、グラウンドから流れてくる曲もまた一から始まろうとしていた。俺も迫水も、互いの手を取り、いちにのさんで踏み出した。
「あ」
俺も迫水もほぼ同時に、正確には迫水の方がやや早く足を踏み出していた。結果どうなるか、言うまでもない。わずかに遅れた俺の足が、迫水のそれを踏み抜く。時間すら止まったかのように、ふたりとも動くことができなかった。
「なにやってるんだい」
「なにって、こういうの男の方から踏み出すもんだろが」
「君は女子だろう」
「女じゃないっつうの、って」
ああ、そうか。俺も迫水も、自分が男としてリードする側だと思っていたから、まっさきに前進してしまったのか。これは盲点だった。
「そうか、付け焼き刃じゃあやっぱり駄目か」
「なんでもいいけど、足をどかしてくれないか」
「ああ、悪い悪い」
そう言いながら顔を上げた時、とうとう俺は目にした。
うっかり踏んづけたまま、どかさなかった俺と俺の足に対して、眉をひそめる迫水の姿を。
「
「どうしても何も、足を踏まれたまま放っておかれて、嬉しい人間なんていないだろう?」
あれほど、迫水の顔色が変わる瞬間を望んでいたのに、今となってはそんなこと、どうでもよくなってしまっていた。
嘘だろう。あんな恥ずかしいことまでしても変えられなかったこいつの表情を、たった一度、踏んづけただけなのに、こんなに劇的に変わって。
いや女装したままダンスの真似事だなんて、結局恥ずかしいことに代わりはなくて、いや、しかし、でも。
「もういいだろう」
声の不機嫌さを隠そうともせずに、そう俺に言い残すと背を向けて、再び迫水はグラウンドを眺めだした。
ちいさく笑い声が聞える。それを上げているのが自分であることに気づくのに少しばかりの時間を要して、それがまた可笑しくてさらに笑ってしまった。
表情を崩す迫水を目にする日が来るだなんて夢にも思わなかった。けれどその初めてを生み出したのは、なんてことのない自分のたった一歩。それだけで、変わるわけ無いと思っていた世界が簡単に変わってしまったのだ。こんなにおかしいことがあるだろうか。
「人の足を踏んづけておいて高笑いだなんて、意外と君は意地が悪い。評価を改めなくては」
「ああ、うん、ごめんな、
「どうせ少しも悪いだなんて思ってないだろう、そんなに笑って、何が面白いんだか」
「ごめんってば」
迫水の言うとおりだった。繋がりさえすれば、一人でなし得ないことだってこんなにも容易く出来てしまうのだ。ただそれだけのことが今、とてつもなく嬉しい。
どんな小さな一歩でも、何かが変わる。たとえその変わった何かが、始めはマイナスだとしても、いくらでもそれはプラスに転じることが出来るはず。今はとても簡単に、そう信じられる。
屋上のアクシデントなど知るべくもなく流れ続けた音楽がまた一周を終えた。時計を見てみたが、まだ店じまいには早いだろう。少なくとももう一曲は流れるに違いない。
「気を取り直してさ。時間あるんだし、せっかくだから練習やっとこうぜ」
「どうせまた踏んづけといて笑うんだろう?」
「大丈夫だって、今度こそ上手くやってみせるさ」
拗ねたままの迫水の手を引き、フェンスから引き剥がす。暗いけれど、相手の目を見返せる。大丈夫、次ならきっと上手くいくはずだ。
「今度はリード、任せたぜ、
「失敗しても、笑わないでくれると嬉しいんだが」
「ん、考えとく」
鼻を鳴らした迫水と俺、手と手をあわせて初めから。
ありたい未来に想いを馳せて、いちにのさんでもう一度。
ステップ・バイ・ステップ・オン 春義久志 @kikuhal
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