ゾンビ殲滅部隊 -朧げな橋-

 体が疲弊した状態でぬかるんだ斜面を登るのは相当きつかった。

 僕はピッケル代わりにボウイナイフを地面に刺しながら登った。

「もうちょいだ」

 ドンが言った。

 見上げるとガードレールがあった。

 僕は登るスピードを速めてガードレールに手を伸ばし、掴んだ。体をガードレールに引き寄せ、跨いで乗り越え、アスファルトの上に着地した。

 何時間ぶりかのアスファルトの感触。いや、文明の感触と言ったっていいだろう。

 高校生の時アッピア街道の歴史について学んだことを思い出した。当時は道路の歴史になんて全く興味がなかったが、今なら派兵のために道路を建設しようとした先人達の偉大さがわかる。

 道路を進んでいると、前方に巨大な橋が現れた。

 橋がかかっている谷は靄がかっていて、橋は朧月のように霞んでいた。

 橋の先に何があるのかもよく見えない。

 まるで異世界のダンジョンのようだった。

「あそこを渡るぞ」

 ドンが駆け足になった。

 橋の上に行くと冷たい横風が吹いた。靄がゆっくり麓の方へ流れていく。

 橋の下を覗くと、谷底に小さな集落が見えた。畑は草木が伸び放題だった。もう何年も放置されてるのだろう。

 今はもう差別を連想させるからあまり使われないが、「部落」という言葉がこの地域にはしっくりくる。

「こんな田舎にこんな巨大な橋。似つかわしくないですよね」

「だな。一応土木学会デザイン賞も受賞してるらしいが」

「へー」

 土木や建築に興味のない僕は、土木学会デザイン賞がどれくらいのレベルのものなのか予想もできない。

「元々この地域には産廃処理場を作る予定だったんだよ。ところが、住民からものすごい反発されたんだ。そこで、県は産廃処理場建設に同意してくれたらこの橋を作るっていう条件を提示したんだ。当時この谷を渡る手段は全くなくて、地元住民はわざわざ谷を迂回してた。住民は橋を作ってくれるならって、産廃処理場建設を受け入れたんだ」

「じゃあ、産廃処理場が近々できるんですか?」

「いや、橋ができても住民は反発の手を緩めなかった。県は利用されたんだよ。住民ははなから産廃処理場を受け入れる気なんてなかったんだ」

「すごい住民ですね」

「県の詰めが甘かったのさ」

 ドンが立ち止まった。

 靄の中で二つの赤い光がぼうっと浮かんでいた。車のテールランプだった。

 僕らは足音を立てないように車に近づいた。

 車は橋の柵を突き破って、前輪の片方が脱輪していた。

 ドンは窓から車の中を覗き込んだ。靄のせいで中がよく見えないのか、何度も中を確認していた。

 ドンは振り向いて、首を横に振った。

 誰もいないという合図だろう。

 車体には「八女市役所」と書かれていた。これは、避難所の様子を確認しに来た行政職員が乗っていた車かもしれない。

「なんか来るぞ」

 ゴブリンが小声で叫んだ。

 ドンはハンドサインで僕らに姿勢を低くするように促した。

 靄の中からゆっくり人影が歩いてきていた。ゆっくりゆっくり。アスファルトの上を靴の爪先が擦れる音が聞こえる。

 ドンはレインコートの袖で右手を覆い、手製のボウイナイフを握った。

 僕も同じように握った。

 靄の中の人影が近づいて来る。朧げだった人影は徐々にはっきりした形になっていき、靄の中から姿を現した。

 緑色の作業ズボンを穿いたゾンビだった。ゾンビの目は白内障のように濁っており、顎が垂れ下がって、体のバランスをとるために両腕を前に伸ばしていた。

 ゾンビの片脚は折れていて、折れた脚を引きずって歩いていた。上半身は裸で、腹部がぱんぱんに膨れ上がっていた。裂けた脇腹から腸がアスファルトまで垂れ下がっていた。腸の先端から赤い血が滴れて、ゾンビの軌跡には一本の赤い線が続いていた。

 身体が腐敗を始めるとまずは内臓から腐ると聞いたことがある。腸内の細菌が繁殖するからだ。胃酸や腸の消化液が胃腸そのものを溶かし、自己融解が始まるのだそうだ。

 今僕らの目の前にいるゾンビはかなり腐敗が進んでいる。まさに生きてるのか死んでるのかわからない状態。

 ゾンビは僕らに気づかず歩いて行った。あるいは、僕らに気づいていたが、振り向いて襲ってくる気力がなかったのかもしれない。

「行こう」

 ドンはゾンビを無視して走り始めた。

「殺らないんですか?」

「今は俺らの体力を残しとくことの方が先決だ」

 僕はゾンビを振り返った。

 あのゾンビはどこに向かっているのだろう。襲ってくることだけが目的でないなら、ゾンビはなぜ歩いているのだろうか。



 橋を渡り終えて数分歩いた場所に目的の施設はあった。

 施設は片流れ屋根のお洒落な建物で、壁のほとんどがガラス張りになっていた。

 駐車場には何台もの車が停まっていた。避難してきた人達の車だろう。

「うっ」

 施設に近づくと、嫌な臭いが鼻についた。牛肉が焼けるような、でもどこか血生臭い吐き気を催す臭気。

「見ろ」

 ドンが芝生の中に横たわる赤黒い物を指さした。

 芝生の上のそれは焼け焦げた死体だった。まだ少し煙が出ている。死体は苦痛に悶えたままの姿勢で固まっていた。

 焼死体のそばにはオイル缶が捨ててあった。

「誰かが焼き殺したんだろうな」

「まだゾンビと戦う気力のある奴がいるってことか」

 僕らは足音を立てないよう建物の入り口に近づいた。ガラス戸から透けて見える屋内は無人だった。

 ドンがそっとドアを開けた。ドン、ゴブリン、僕の順に中に入る。

 照明のついてない屋内は薄暗く、エアコンも効いてないので少し肌寒かった。

「地図がある」

 ドンは壁にかけてある施設案内図を剥ぎ取った。

「俺達がいるここはレストランだな。奥にまだプレイルームがあるみたいだ」

 ドンは薄暗い通路を指さした。窓から入る白い光線がわずかに見える程度で、通路の先に何があるのかは定かじゃない。

 僕は背後のレストランを振り向いた。表示板にはレストランと書かれているが、どちらかというとフードコートの方が雰囲気的に近い。

 テーブルや椅子の上には防災バックやリュックサックが置いてあった。床には毛布が散らばっていた。ここのレストランが避難者の過ごしていた場所だったと思われる。

「非常用ライトがあった」

 ドンがライトのスイッチを入れると薄暗い通路に光の線が伸びた。

 僕らは事務室に行くことにした。そこで館内の照明と暖房を入れるためだ。

 この施設は真上から見下ろすとカタカナの「マ」のような形をしている。僕らが最初に入ったレストランスペースは「マ」の一番左上の部分。事務室は「マ」の右上の部分にある。事務室よりさらに進むと絵本や木のおもちゃが置いてあるプレイルーム、それよりもっと先には昭和三〇年代の教室を再現した「なつかしい教室」コーナーがあるようだ。

 薄暗い通路を歩いていると、僕は中学生の時の修学旅行を思い出した。あの時僕は臆病なのに友達とお化け屋敷に入った。僕は本当にお化け屋敷が嫌いで、お化け屋敷に入るなりずっと「出ないでください。出ないでください」と唱えていた。僕のそんな様子を見て笑っていたのがクラスメイトの岩岡君と隣のクラスの山本君だった。ところがお化けが現れると僕よりもその二人の方が大声を出し、驚いていた。山本君は、野球部で体が大きいにも関わらず涙を流していた。僕は二人のその様子がおかしくて笑った。

 それ以来僕はお化け屋敷が平気になった。

 曲がり角にある事務室にたどり着いた。ドンはライトの光を右に向けた。おもちゃや絵本が並んだプレイルーム。薄暗い。子どもがいないこういう場所は妙に怖い。

「誰もいませんね」

「あぁ」

「生存者もゾンビもいないなんて」

 ドンは事務室のドアを開けた。ライトで照らしながら丁寧に室内をクリアリングしていく。

「大丈夫だ。ゴブリン、そこのブレーカー上げてくれ」

 ゴブリンがブレーカーを上げると館内の電気が順についていった。エアコンが作動する音も聞こえ始めた。

「これでまともな環境になったな」

「お前ら、少し休め」

 ドンに言われて、僕は椅子に座った。椅子に座ると体の緊張が解けた。腕を回したり脚を伸ばしたりして軽くストレッチをする。

 暖房の風も気持ちいい。できれば今すぐ温泉に入りたいが、今は暖房だけでも十分心地いい。

 僕は館長のデスクマットに挟んである冊子の記事に目が入った。マットに挟まれているのは2003年8月発行の地元の広報誌だった。記事にはさっき僕らが渡ってきた橋の写真がデカデカと載っていた。写真の真ん中に「未来にかける橋」と自信満々に書かれている。記事の文を目で追っていくと、橋が出来たことで八女市から久留米市までの道路整備が期待されるだの、橋の完成に伴ってこの地域に人の交流が生まれるだの、橋が起爆剤となり地域の活性化が見込めるだの都合の良いことがたくさん書かれていた。

 僕が見た限り、2019年現在も地域が活性化したようには全く見えない。

 この地域は結局無駄な公共事業の犠牲になったのだ。

「まだ電源が生きてるピッチがあった」

 ドンがスタッフのデスクの引き出しから何か見つけたようだ。

「ピッチ?」

「おいおい。ピッチが通じない世代か」

「俺もギリわかんねぇっすよ」

「ギリわかってるじゃねぇか」

 ドンとゴブリンだけ盛り上がってるが、僕は全然ついてけない。

「PHSのことだ」

「ガラケーってことですか?」

「うん、まぁ、そうだなぁ」

 ドンが困った表情をしていた。

 珍しい。ドンがあんな表情をするなんて。

「こいつで電話して、ライアンとバレンタインに迎えにきてもらう」

 ドンは踵を返した。

「わざわざ外に出るんですか?」

「そうだよ」

 ゴブリンは僕を見てニヤニヤ笑っていた。

 何がおかしいんだろう。ここから電話すればいいのに。

 ドンが出て行った後、僕はデスクの上のノートパソコンがスリープ状態になっていることに気がついた。

 マウスを動かしてみて、スクリーンセーバーを解除した。きっとノートパソコンのバッテリーが生きてたから、ブレーカーが落ちても電源が落ちなかったんだ。

 パソコンが立ち上がるとメールブラウザの画面が表示された。ブラウザには送信済みのメールが映されている。


***

件名:避難所運営引き継ぎについて

本文:

事務局長池田さん


おつかれさまです。

本日午後からの避難所運営の引き継ぎをお願いいたします。

以下、避難所開設からの主な流れと注意点です。


8月◯日

市役所の指示により避難所開設。私が解錠のため出勤した時には駐車場に避難者数名が来ていた。

市役所職員から到着が遅れると連絡あり。


8月◇日

避難者9世帯がレストランスペースで避難生活を行う。

町全体が避難準備区域に指定される。

市役所職員は未だやってこない。

当施設は一時避難所として開設したが、避難所の状態がしばらく続く可能性あり。幸い、厨房に食料があるので食べ物には困らないと思われる。


※注意

久間さんところのご主人が体調不良を訴えている。年齢的に発症してもおかしくないが…。


どうぞ、引き続きよろしくお願いします。


館長 牧口

***


 この施設の館長が事務局長宛に送ったメールのようだ。僕らが来る前に一度館長から事務局長に業務が引き継ぎされている。

「平林」

「はい」

 僕は椅子から立ち上がった。

「いや、わざわざ立つことはねぇよ」

「あ、はい。ですよね」

「俺、ちょっと建物の中の様子見てくるわ」

「はい。一緒に行った方がいいですか!?」

「いや、いいよ。どうせたいしたことないだろうし。もうすぐドンが戻ってくるだろうから。平林はここで待ってな」

「はい」

「しかしあれだな」

「?」

「平林って毎回呼ぶのめんどいな。はやくあだ名つけないとな」

「いや、いいですよ」

 ゴブリンは手を上げて挨拶した後、部屋を出て行った。

 僕は椅子に座り直した。

 さっきのメールの続きが知りたい。引き継ぎされたはずの事務局長はどうなったんだろう。

 僕は立ち上がって事務局長のデスクを探した。だいたいこういうのは、館長の席の近くにあるもんだ。

 僕はそれっぽい机を見つけたので近づいてみた。パソコンも置いてないし、ノートやメモもない。

 残念。避難所運営の日誌のような物があるかと思ったが…。

 僕は何気なく机の引き出しを開けた。

 中には血痕のついたルーズリーフが入っていた。

 僕はそれを取り出した。

 ルーズリーフには殴り書きのメモが書かれていた。


***


最悪だ。引き継ぎされて避難所に来たが、こんなに酷いとは思わなかった。

避難者同士ギスギスしている。


村に来る途中にゾンビを何体も見た。くそっ。自衛隊や警察はなにやってんだ。



毛布が足りないからって平山のジジイと武松のジジイがケンカしやがった。これだから年寄り相手は疲れるんだ。




久間のところの主人が毛布にくるまったまま起きなかった。

恐ろしいことに、避難者同士で話し合って、久間の主人の頭をかち割ることにした。毛布で体を包んで、皆んなで殴った。俺も殴った。毛布の中で体がモゾモゾ動いてた。誰かが「ゾンビ化してる」と叫んだが、俺にはそう思えなかった。間違いない。俺達は生きてる久間さんを殺してしまった。


***


 ルーズリーフが白紙になった。

 記述を途中でやめたのだろうか。

 いや、白紙かと思ったが、蛍光灯の光に当てると、うっすら文章の跡のようなものが見えた。

 インクのないボールペンで書いたのか。暗闇の中で慌てて書いたのかもしれない。

 僕はシャーペンの芯をルーズリーフの上に転がして、指の腹で擦って黒鉛を紙の表面に広げた。

 文章の輪郭がくっきりと現れ始めた。


***


やっかいなことになった。

入江さんのところのばあちゃんが発症した。平山のジジイに噛み付いた。

平山のジジイもゾンビ化した。

その後は、皆んなゾンビになった。

俺は事務所の奥で隠れてる。



ゾンビは皆んな外に行った。

この施設は9:00〜18:00の間、一時間ごとに学校のチャイムが鳴る。チャイムの音にゾンビが引き寄せられるので、ブレーカーを落としとく。


くそっ。

なんで俺が噛まれないといけないんだ。しかも久間の主人に噛まれた。

こんなところに来るんじゃなかった。

引き継ぎなんてせずにサボればよかった。

このままじゃ俺もゾンビ化する。

あんな姿になりたくない。


焼死体があれば、俺のことだと思ってくれ。


***


 メモはここで終わっていた。

 僕は電灯を見上げた。

 まずいことになった。

 ブレーカーを上げてしまった。

 僕は急いでブレーカーのところへ向かった。

「チクショおおおおおっっっ!!!」

 ゴブリンの叫び声が聞こえた。施設の奥、「なつかしい教室」の方だ。

 今ブレーカーを落としたら見えなくなる。

 僕は走ってゴブリンのところへ向かった。

 施設の奥にある「なつかしい教室」は、昭和三〇年代の木造校舎の教室をそのまま再現している。木造部分だけでなく、窓、机の上の落書きや照明の雰囲気、そろばん、三角定規まで鮮明に再現している。これらは、おそらくどこかの学校から寄贈された物だろう。

 木造校舎を舞台にしたホラー映画の撮影なんかに使えそうな場所だ。

 ゴブリンは教室の真ん中でゾンビに襲われていた。

 ゾンビはモンペを履いたおばあちゃんで、体格がよく、長い白髪を山姥のように振り回してゴブリンに掴みかかっていた。

 ゾンビの片目にはドンお手製のボウイナイフが突き刺さっている。だが、それだけでは致命傷につながらなかったのだ。

「平林! 助けてくれ!!」

 言われるまでもなく、僕はボウイナイフを構えてゾンビに突進した。ナイフをゾンビの喉に向かって突き刺した。

「!!」

 手に激痛が走った。

 ボウイナイフの柄の表面の凹凸が刺した時の衝撃で手に突き刺さったのだ。

 僕は痛みから逃れるため即座に手を引いた。

「バカやろう! 手を庇ってる場合か!」

 僕はゴブリンの右手を見た。血が出ている。噛まれた? 違う。ボウイナイフを突き刺した時に手を切ったんだ。

 所詮はプラスチックトレーを熱で溶かして作ったナイフなので柄の表面部分は岩のようにゴツゴツしている。レインコートの袖で手を覆ったくらいじゃ怪我は完璧に防げない。

 出血くらい覚悟しろってことか。

 ゴブリンに襲いかかっていたゾンビは向きを変えて僕に掴みかかってきた。

 ゴブリンはゾンビの長い髪を引っ張って膝裏に蹴りを入れた。ゾンビは自重も相まり、後方に大きくバランスを崩した。

「顎! 刺せ!」

 僕は両手でボウイナイフを握り、ゾンビの下顎から上顎に向かって突き刺した。

 手に激痛が走る。痛い。掌がカッターナイフで切られたように刻まれて血が溢れ出した。

 ゾンビはまだ起き上がって襲い掛かろうとしてきた。

 僕はゾンビの下顎に刺さっているボウイナイフに向かって蹴りを喰らわした。

 ボウイナイフは上顎も貫通して頭蓋骨の中にまで達した。

 ゴブリンは木製のテーブルを持ち上げてゾンビの頭の上に落とした。ゾンビの頭が潰れた。

 ゴブリンは丸太のように太いゾンビの足を抱えて、無理やり力を加えて、へし折った。

 ゾンビの体はまだ動いている。だが、起き上がって襲いかかってはこれないくらいに人体は欠損している。

 僕もゴブリンも息が上がっていた。

「助かったわ。ありがとう」

 ゴブリンにお礼を言われた。

 僕ははっと思い出し、教室にかかっている時計を見た。

 16:59。

 まずい。

 僕の慌てぶりに首を傾げるゴブリン。

 突如学校のチャイムが鳴り響いた。


 キーンコーン…。


 昭和三〇年代の教室にチャイム音が鳴り響いた。

 おそらくこのチャイム音は館内中、そして外にも聞こえてるはずだ。

 きっとこの施設を作った人はこのチャイム音が粋な演出だと思ってつけたんだろう。

 今の僕達にとっては迷惑この上ない騒音。

「なんだこれ」

 ゴブリンがチャイム音に呆気にとられていると、突然教室の窓ガラスが割れてゾンビが流れ込んできた。

 一体、二体、…、五体。

「おいおいおい、なんだなんだなんだ!!!!」

 ゴブリンが驚いて叫んだ。

 僕はゴブリンの腕を掴んで走った。

「逃げましょう! もうここは危険です!」

 僕とゴブリンは元来た道を戻った。

 レストランの窓ガラス越しに、大量のゾンビがこの施設に向かって来るのが見えた。

 僕らは事務室に逃げ込んだ。

 僕の脳裏に事務局長のメモが浮かんだ。きっとあの人もこうやって追い詰められたんだ。

 事務室の裏口が開く音がした。

 ドンだろうか?

 僕とゴブリンは事務机の影に隠れて、裏口から入って来た者の様子を伺った。

 スポルディングのスニーカーを履いた、全身黒いジャージ姿のゾンビがのそのそと歩いてやってきた。

「くそっ」

 僕は小声で呟いた。

「どうします? 武器がないです」

 ゴブリンは事務椅子を指差した。

「あいつでゾンビを突き飛ばしてその隙に裏口から逃げるぞ」

 得策とは思えなかった。ここにあるのは簡素な作りの事務椅子。対してゾンビは理性がないから遠慮なく全体重をかけて襲ってくる。事務椅子で突き飛ばすタイミングが少しでもずれたら噛まれる。

「俺がやる」

 ゴブリンは事務椅子を構えた。

「行くぞ!」

 僕の意見を聞く間もなくゴブリンは飛び出した。

 ところが黒いジャージ姿のゾンビの背後から両手が伸びてきて、ゾンビの口の中にボウイナイフを突き刺した。左手はゾンビの両眼と額を抑え、右手は卓上用のテープカッターを掴み、それでボウイナイフの柄を何度も叩いた。打ち付けられる度にボウイナイフは杭のように深く深く刺さっていった。ナイフが刺さるたびにゾンビの口から血が漏れて、歯が欠けた。ナイフの先が後頭部から突き出た頃、ゾンビは後方から払腰を受けて後ろに倒れ込んだ。

 そこには息の上がったドンが立っていた。どうやら走って戻ってきたようだ。

 ドンはゴブリンが持っている事務椅子を指差した。

「それじゃリーチが短いからお勧めしない」

 ゴブリンは事務椅子を投げ捨てた。

「あんたお手製のナイフよりマシだろ」

 ドンは鼻で笑った。

「全員無事か?」

「今すぐ病院に行きたいけどな」

「平林は?」

「僕も手当てしてもらいたいです」

 僕は血だらけの掌を見せた。

「上出来だ。外に出るぞ。もうすぐライアン達が迎えに来る」

 事務室の裏口から外に出ると、そこは小高い丘になっていた。

 僕らはそこを駆け上り、辺りを見渡した。

 チャイムの音に誘われて町中からゾンビが集まってきていた。

 あの橋の上にもゾンビの群れがいた。

「さすがにこれを突破できる気はしませんよ」

 僕がぼやくと、ドンは「大丈夫だ」と言って橋の向こうを指さした。

 僕は指してる方向を見た。

 橋の向こうから一台のハイエースが近づいて来た。

 ハイエースはゾンビを二体ほどぶっ飛ばした後、施設の駐車場に停まった。

 ハイエースからバレンタインとライアンが降りてきた。

「しばらく時間稼ぎ頼む!!!」

 ライアンが叫ぶとバレンタインはうなずいて、スリングショットを取り出した。

 バレンタインは左腕を真っ直ぐ伸ばし、右手でゴムを顎の下まで引いた。右手を離すと、狙いの先にいたゾンビの脛がバチンっと弾け、ゾンビは崩れ落ちた。

 バレンタインが発射したのは直径15ミリの鉄球だった。

 バレンタインは素早く玉を装填して次々ゾンビの脚を撃破していく。

「走るぞ!!」

 ドンが大声で叫んだ。

 僕らは全速力でハイエースに向かって走った。

 バレンタインは手慣れた動作でゾンビを狙撃していく。

 だが、狙撃されたゾンビは再び起きて迫ってくる。僕は中学生の時に見たニュース映像を思い出した。やつらは銃で撃たれても物ともしないやつらだ。スリングショットくらいでは絶命させることはできない。

「準備できた。いくぞ!!!!」

 ライアンが叫んで、なにか大きな物を宙へ放り投げた。

 放り投げられたのは、ガソリン缶だった。ガソリン缶にはよく車の助手席に取り付けてある発煙筒がガムテープで貼り付けてあった。発煙筒は、赤い炎と煙を噴出している。

 バレンタインは装填する玉の種類を替えた。ホーローセットのとめネジを装填すると、ゴムを顎の位置まで引いた。

 ガソリン缶はゾンビの群れの中に落下した。

 バレンタインがガソリン缶に狙いをつけ、ネジを放った。

 ガソリン缶に穴が空いて、中からガソリンが溢れた。ガソリンが地面の上に広がり、気化したガソリンに発煙筒の炎が引火した。

 地面の上を炎が走り、ガソリン缶に点火すると、缶が弾ける音と共に炎が膨れ上がり一気に爆発した。

 ゾンビの群れは炎に包まれた。

 僕は目の前の光景に圧倒されていた。まるでベトナム戦争ものの映画のナパーム弾投下のシーンを見ているみたいだ。

 ライアンは橋の上にもガソリン缶を投げた。

 バレンタインがネジを放つと、爆発が起こり、橋の上に火柱が立った。

「平林! 急げ!」

 ドンもゴブリンもハイエースに乗っていた。

 僕は急いで車に向かった。

「があぁぁぁ」

 茂みからゾンビが一体現れた。

 完全に僕が油断していた。

 ゾンビは僕の腕を掴んで噛みつこうとしてきた。

 ゾンビの額に小さな穴が空いて、ゾンビの後頭部から脳味噌が噴き出した。 

 バレンタインが狙撃で助けてくれたのだ。

 バレンタインは狙撃したゾンビに飛びついて地面に押し倒した。至近距離でスリングショットを構え、ゾンビの鼻根に向かって15ミリの鉄球を発射した。

 ゾンビの目と目の間が深く凹んで、目玉が飛び出た。

 バレンタインは僕の腕を掴んで「行くよ」と小声で言った。

 僕とバレンタインが乗り込むと、ハイエースは急発進した。橋の上の火柱の中を駆け抜けて一気に安全地帯まで坂道を下る。

「到着が早かったな」

 ゴブリンがライアンに声をかけた。

「お前らの誰とも連絡取れなくなったから、こっちに向かってたんだよ。ドンから連絡があったのはこっちに来てる途中だったのさ」

 僕は椅子にもたれた。

「大変だったな」

 ライアンがミラー越しに話しかけてきた。

「はい。大変でした」

「とりあえずボラセン帰って、その後病院の外来だな」

 ドンも椅子にもたれて呟くように言った。

「そういえば、あのゾンビどうしたんでしょうかね?」

「ん?」

「橋の上で出会った腸が垂れ下がってたゾンビ」

「いたな、そんなの。知らね。今は退治する気が起きん。疲れた」

「殲滅部隊なのに、討ち漏らしたのか?」

「うるせーよ。はやくボラセンまで送ってくれ」

 ライアンが笑った。

 僕も笑った。

 バレンタインはスリングショットを片付けていた。

 ゴブリンは椅子にもたれて眠っていた。

(続く)

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