第10話 ───絆───


───────東京都襟摩区に有る揚羽蝶アジト




「ボス。あれから何週間も経ちますが、まだ台湾に引き揚げないんですか?」



朱雀の問い掛けに、金総林は新聞を読みながら答えた。



「ん? 何故引き揚げる必要が有るんだ?」



「は? 俺達は試合に負けたじゃないですか。あれってそういう約束でしたよね」



不思議そうに首を傾げる朱雀に、総林は新聞を下ろして真顔で答える。



「契約という物はだな。ちゃんと書式を交わしてこそ成立する物だ。あの後、奴らは交渉のテーブルについたか?」



「い、いいえ」



「友達同士じゃあるまいし、口約束が有効だなんて信じる方がおかしい。違うか?」



「はあ……」



「奴らは我々が譲歩してやったのにも関わらず、その権利を放棄したんだ。だから我々も仕方なく当初の予定通り、日本の極道を殲滅させて貰う。あくまでも仕方なくだ」



「それじゃあ最初から……」



「人聞きの悪い事を言うなよ朱雀。奴らが交渉してさえいれば、我々は今頃本国の土を踏んでいた筈だ。僕は約束を反古にする程腐ってはいないんでね」



涼しい顔をしてまた新聞に視線を落とした総林を見て、朱雀は背筋に悪寒を感じていた。



「だが十年前ならいざ知らず、今の極道達は腰抜けの集まりだ。実はもう台湾から、援軍を二千人程呼んであるんだ。準備が整ったら、極道達の殲滅作戦を開始する。今度は素手で殺すなんてまどろっこしい事はしない。武器は沢山用意してあるし、時間は掛からないさ。まずは忌々しい鼻歌と周明から蜂の巣にしてやるさ。お前らもそのつもりで用意しておけ」



彼らの話を黙って聞いていた青龍の顔色が急に変わり、机を叩いて二人の間に割り込んだ。



「ボス……今なんて言ったんだ?」



「どうした青龍。恐い顔して、僕が何か気に障る事でも言ったかい? 本国から兵隊を呼び寄せて、極道達の駆逐を始めるって言ったんだ。……まさか卑怯だなんて言わないよな、僕達は所詮マフィアなんだ」



総林の答えに青龍は激しくかぶりを振る。



「いやいやいや、そんなのはボスの好きにしてくれ。俺が聞きたいのは鼻歌と周明の話だ」



「ああ、蜂の巣にするって話かい? アイツらの所為で揚羽蝶の名前に泥を塗られた。もう甘い事は言ってられないから、火器できっちりカタを付けるつもりだ。それがどうかしたのかい?」



青龍はスタスタと総林の前迄歩き、むんずとその胸ぐらを掴んだ。



「おい青龍、貴様! 何のつもりだ!」



激昂する総林に怯む事なく、青龍は射抜くような視線で彼を睨んだ。



「アイツをチャカで弾くなんて絶対に許さない! 俺と戦わせろ!」



「調子に乗るのもいい加減にしろ、青龍! いいか? 僕は揚羽蝶のボスだぞ。僕が命令すれば、メンバー全員を刺客としてお前に差し向ける事だって出来るんだ。これは決定事項だ!分かったらお前もさっさと準備をしろ!」



すると青龍に掴まれた胸ぐらの力が急に増し、総林はそのまま上に持ち上げられた。



「お、おい! 何するんだやめろ!……苦……し……い……」



青龍は片腕で総林を持ち上げながら、ドスの利いた声で恫喝する。



「いいか……俺は誰がボスを勤めようと構わない。それが世間知らずのお坊ちゃんがボスだろうと、全てを投げ打って忠誠を誓おうじゃないか。しかし、武術家を冒涜するような真似だけは許さない。俺を鼻歌と戦わせろ。鼻歌と戦わせるんだ……」



唖然としてこの様子を眺めていた朱雀が、漸く自分を取り戻し、慌てて青龍を止めに入った。



「青龍さん、止めて下さい! ボスが死んじまいますよ! 青龍さん! 青龍さん!」



総林の顔は赤黒く変色し、口の端から泡を吹いている。



「うげ……死ぬ……止めてく……れ、解ったか……ら……解った……から……」



「俺を鼻歌と戦わせるか?」



「あ、ああ。お……前の……望み通り……に……して……やる……」



その言葉を聞いて、青龍はやっとボスの総林を床に下ろしていた。





───────修司と明美の部屋




その日の深夜、修司はいつもの時間に帰宅していた。



「お~い、明美。居ないのか?」



しかし、いつも起きて待っている筈の明美の気配は無く、修司は手探りで明かりを点ける。



「おかしいな。まだ店から帰っていないのかな、それとも買い物か?」



そしてふとテーブルの上を見た修司は、凍り付いたまま動けなくなっていた。



「揚羽……蝶……?」



そこには目に付きやすいように蝶のマークのカードが置いてある。



修司はそのカードを手に取って握り潰し、屑籠へ叩き付けるように投げ入れた。



「アイツら、ふざけやがって」



怒りの余りに立ち尽くしているとまもなく電話の着信音が鳴り響き、修司は倒れ込むようにして受話器を手にしていた。



「北原だ。揚羽蝶の手の者か?」



少しの間が開いて、受話器の向こうから聞き覚えの有る声が響いてきた。



『鼻歌か?』



その言葉に修司は息を飲んだ。



「青……龍……?」



『そう私、青龍』



「何で……何で日本語を?」



『特殊工作員だった時に習った。少しだけ』



「そうか……って、そんな事より貴様ら、明美をどうしたんだ!」



『預かった、お前の女。返して欲しかったら私と闘え』



「お前まさか、それだけの為に明美を……」



『それだけ? 闘う理由、それで充分』



「ふざけるな!」



言っても明美は所詮ヤクザの恋女房だ。謂れの無い嫌がらせを受けたり、色々と面倒な事にも巻き込まれる。それは明美本人も解っていたし、それでも修司が好きなんだと言って憚らなかった。



だが今回は程度が違う。修司の返答に依っては、彼女の生命すら危ういのだ。



今迄マフィア相手に闘ってきた事を考えれば、充分予測出来たであろうこの事態に、全く何の対策も講じてこなかった自分のいたらなさを修司は呪った。



「明美は……明美は無事なんだろうな。擦り傷のひとつでも負わせてやがったら貴様ら……皆殺しだ」



『心配ない。女は私が責任持つ。VIP待遇。お前が要求に応じれば無問題【モウマンタイ】応じなければ苦しんで死ぬ』



修司は全身の血が煮え滾る程の怒りを感じていた。



「なんだと! そもそも何でお前らはまだ日本に居るんだ。とっとと本国に帰ったんじゃなかったのか!」



『極道、交渉のテーブルにつかなかった。揚羽蝶の出した条件、放棄した』



「交渉だと? そんな話は聞いてないぞ! さては最初から撤退する気が無かったんだな、卑怯者め!」



『卑怯じゃない。書式にして契約、当たり前。社会常識だろ? だから揚羽蝶、極道を殺す。全部殺す。だがその前に鼻歌、そして今は行方が解らない周明。お前達殺す。お前達の血で染めた旗振って、極道殺す、全部。ククククッ』



不気味な声を上げて青龍は笑っている。明美の事は心配だが、修司をおびき寄せる為の餌を最初から痛め付けるというのは考えにくい。VIP待遇だという言葉にも嘘臭さは感じられなかった。



修司は冷静さを取り戻して考えた。どうやらコトは青龍との個人的遺恨に留まらない様子だ。北辰会の、いやひいては全国の極道達の今後に関わる一大事だ。



揚羽蝶は約束を破り、当初の予定だった極道の掃討を開始するつもりらしい。そしてそれは、修司と周明の首を掲げるのを皮切りに、幕が切って落とされるのだ。



明明に勝利したが片目を失った周明は、あれから行方知れずになっていた。揚羽蝶が彼を探し出すのは、恐らく修司を倒してからだろう。



逆に言えば、この闘いにさえ勝利したなら、相手の出鼻を挫く事が出来る。



青龍に勝って明美を取り戻せば、北辰会の、そして日本の極道達の準備期間を稼ぐ、大きな勝利となるのだ。



『女の引き渡し場所、この前と同じホテル「つきのわ」明後日の深夜零時丁度、明日の二十四時。女の無事、私命懸けで保証する。だが来なければ女は……」



「勿論行くに決まってるだろう! 俺の命に代えても明美は連れて帰る!」



『鼻歌……仏より私を楽しませろ。ボスに無理言って、この闘いの機会を勝ち取った。お前と私、闘う運命』



「勝手な事を抜かすな! それより明美は側に居るのか? 本当に無事なんだろうな、声を聞かせろ」



何やらゴソゴソと音が聞こえていたが、程無くして明美が叫んだ。



『駄目よ修司、来ちゃ駄目! 私は無事よ。部屋からは出られないけど縛られてもいないわ』



「明美、何かされなかったか? 怪我は?」



どうやらこちらの声は聞こえていない。質問には答えず、明美なりに掴んだ現場の状況を知らせてきた。



『修司、こっちには100人以上居るわ。こんなに沢山の敵に敵うわけ無い! 私は大丈夫だから来ないで! アッ……電話を返して! 返しなさいって……』



明美の声は小さくなり、荒々しいドアを閉める音が聞こえた後、また青龍が話し始めた。



『お前の女、何を話すか解らない。もう電話駄目』



「ああ、あいつは賢いからな。だが青龍、明美の無事は解ったが、俺がお前との闘いに勝っても、結局は沢山のマフィアに明美共々殺されるんじゃないのか?」



『馬鹿にするな! 命令した、俺の側近、お前安全に誘導する。武闘家の誇りに懸けて!』



音声が割れる程の怒鳴り声が、修司の耳をつんざく。



「いてて……、疑って悪かった。お前を信じよう。俺も武道家の誇りに懸けて全力で闘わせて貰う」



『楽しみだ、鼻歌。女の事、お前が勝った時の事、私が責任を持つ。勝つのは私だがな、ククククッ』



「そう言ってられるのも今の内だ、青龍。首を洗って待っておけ」



『じゃあ明日の深夜に』



「ああ……解った」



そして二人は静かに受話器を置いた。






翌日の早朝、的場組組長加納秀明は修司のマンションに呼び出されていた。



「懐かしいなぁ。兄貴のやってるそれ、確かピーアンって言ったよね」



道着に身を包んだ修司は、フローリングだった20畳程のリビングダイニングに畳を敷き詰めた特別あしらえの道場でヒデを迎えた。



「ああ。簡単な型稽古だ。ムショに居た頃、柄にもなく空手の指導員なんてやらされてたから、すっかり癖になっちまって……。こっちから呼び付けたのにスマンな」



修司は動きを止めずに言う。顔から出た汗が顎を伝って、ポタポタと畳に垂れている。



「まあそのお陰も有って、兄貴が模範囚として最短の刑期で出てこれたんだから、こっちからすれば空手サマサマだよ。ところで大事な用って何?」



修司は相変わらず動きを止めない。正拳を繰り出しながら答えた。



「ん……実は明美が……揚羽蝶に拐われちまってな」



ヒデは思わず目を丸くして、すっとんきょうな声を上げた。



「ええっ!? 姉さんが?」



修司は青龍と電話でやり取りした内容を事細かくヒデに説明すると、汗を洗い流しに浴室へ引っ込んだ。



「そ、そ、そりゃ大変だ! すぐこの事を北辰会本部に連絡しなきゃ。姉さんの事も心配だし。……しっかしアイツらふざけやがって! すぐに若い者を集めるからな、兄貴!」



ドアの外から捲し立てるヒデをよそに、修司はのんびり、まるで他人事のように返す。



「なんだぁ? まるで聞こえないんだけど」



アノ部分をぶら下げたまま浴室から出てきた修司は、頭を拭きながら言った。その能天気な態度に、ヒデは口角泡飛ばしながら詰め寄る。



「人が心配してるってのに何だよ! 当人がそんなんじゃ、連れてく若いモンの覇気にも関わる!」



修司は身体を拭き上げると、真っ白なバスローブを羽織ってヒデに向き直った。



「ヒデ、来て貰ったのはそこなんだ。明美を取り戻すのは俺一人で行く」



「へっ? どういう事?」



ヒデは眩しくもないのに目をシバシバさせながら聞き返した。



「組で話をしなかったのはヒデ、お前が熱くなって一緒に来るって言い出すんじゃないかと思ってだ」



「そんなの当たり前じゃ……」



ヒデの両肩に手を置いて、しっかりと目を見据えながら諭すように語り掛ける。



「いいか? お前には的場組を束ねる責任が有る。服役中の兄貴衆の為にも、組をしっかり運営していかなきゃならない。いつまでも若いチンピラ気分で居たら駄目だ」



「いや、でも……だけど……」



「組長が下した決定を無下に断る訳には行かんだろう? だから組では話さなかったんだ。この一件は俺個人の揉め事だ。だからお前達は巻き込めない」



ヒデは解っていた。修司はこうと決めたからにはテコでも動かない。だからこそ苛立っていた。貧乏ゆすりをする足を止められずに居た。



「そんな他人行儀な! 俺が何度兄貴に命を救って貰ったと思ってるんだ? 俺も連れてってくれよ」



「なぁヒデよ。幸い俺はお前の恩情で組員じゃなく『客分』の立場だ。だがそれは何か不都合が生じた時、トカゲの尻尾切りには丁度いい存在でもある」



「見損なうな! そんな風に考えた事はねえよ兄貴! だからわざわざ死にに行くような真似はしないでくれ!」



必死に訴えるヒデを見て、修司は笑みを零した。



「ヒデよ。俺がお前をここへ呼び出した理由はもうひとつ有る。お前に礼を言う為だ」



「礼?」



「そう。どうしてもお前に感謝の言葉を伝えたかったんだ。俺が十年振りに娑婆へ帰って来たら、世の中が様変わりしてた。本当なら俺は行く宛ても無く、のたれ死ぬしかなかった。それをヒデ、お前は暴対法でがんじがらめにされている中、服役していた俺達を思って必死に組を守り続けてくれていた。全く……感謝しても仕切れないよ。有り難う……ヒデ」



修司の言葉に感激して思わず涙を浮かべたヒデはしかし、慌ててかぶりを振ると真っ赤な顔をして怒鳴り散らした。



「何を言ってるんだよ兄貴! 杯を交わした兄弟達の為だ。そんなの当たり前に決まってんだろ! それに何だよ感謝って、お別れの言葉みたいじゃねえか! ふざけんなよ?!」



修司は目尻を下げて尚も微笑み掛ける。



「おいおい、チンピラ丸出しだぞヒデ。それになんだ? 泣いてんのか?」



「そ、そんな訳ねえだろ! 兄貴だからって承知しねえからな! グスッ……ウェッ……」



ヒデは男泣きに泣いた。もう何を言っても修司の決心は揺るがない。ヒデは修司に何もしてやれない虚しさに打ちひしがれ、歯を食い縛り、床に額を擦り付けるように踞っている。



一頻りヒデが泣くのを見守っていた修司は、彼が落ち着くのを見計らって漸く切り出した。



「的場組組長、加納秀明……いや、オヤっさん。短い間でしたが大変お世話になりました。今後も一家のより一層のご繁栄をお祈り申し上げます」



深々と頭を下げる修司に、改めてヒデも頭を下げ返した。



「いえ、修司兄貴のお陰でうちの組はここまで盛り返す事が出来たんです。お礼を言うのはこっちの方です。有り難うございました」



ヒデは涙を拭き、満面の笑みを湛えて顔を上げた。もう自分には、修司を快く送り出す他に道は無いと悟ったのだ。



その後、暫く思い出話に花を咲かせていた二人だったが、チラチラと時計を気にする修司に気付いてヒデが言った。



「それで兄貴は何時頃出発するんだ? 確か伊図だったよな」



「ああ……もう出発するよ。早めに行って向こうの雰囲気を掴んでおきたいしな」



修司はそう言って近くに置いてあったボストンバッグを手に取り、ヒデを促して部屋を出た。



「駅まで送ろうか?」



「いや、道すがら挨拶したい人も居るし、歩いて行くよ」



荷物を抱え、エントランスを出た修司は、そして再びヒデの元へ歩み寄り、優しい微笑みを浮かべて告げた。



「ヒデ……。じゃあ行ってくる」



「兄貴。お気を付けて」



修司は屈託の無い笑顔で、千切れんばかりに手を振りながら去っていく。恐らく生きて帰ってはこれないだろう。そんな寂しさを堪えながら、ヒデも精一杯の笑顔で修司を見送った。



「兄貴……」



ヒデはその姿が視界から消えるまで、修司の背中を見詰めている。



抜けるような青い空には、一筋の飛行機雲が真っ直ぐに伸びていた。



その日の午後、ヒデは組長室に若頭である『中山浩二』を呼び出した。豪奢な革張りの椅子にどっかと座り、浩二を迎えていた。



「お前を呼び付けたのは他でもない……」



「オヤっさん、どうしたんですか? 改まって」



質問には答えず、ヒデは盃をそっと机の上に置いた。



「これ……は?」



ヒデはニッコリ笑って言った。



「浩二、お前に折り入って頼みが有るんだ。俺はこれから行く所がある。恐らく帰っては来ないだろうから、この盃を北辰会の高倉さんに返して欲しいんだ。そしたらその日から、晴れてお前が的場組の組長だ。服役中の兄貴衆の事、くれぐれも宜しく頼む」



「……は……い?……」



浩二は暫く狐に摘ままれたような顔をしていたが、ハッと気を取り直すと慌ててヒデを問い質した。



「ちょっとちょっと! オヤっさん。それじゃあ訳が解りません! どうしたらそんな事になるのか、キチンと説明して下さいよ!」



日頃ヒデの言う事には一も二もなく従ってきた浩二も、この時ばかりはそうもいかなかった。



「なんだよ浩二、お前キャラ変えたのか? ハハハ」



「笑い事じゃありませんよ。帰って来ないって、ご隠居なさるおつもりですか! そのお歳で?」



ヒデは浩二の頭をひとつ小突いて睨み付ける。



「んな訳ねえだろ! まだバリバリ現役だってえの!」



「それじゃまさか、自殺とか? ハハハ、そんなに悩んでらっしゃるようには見えないんですが……」



冗談混じりで浩二は言うが、ヒデは乗って来ない。真面目な顔で浩二を見返した。



「てめえ、随分言うようになりやがったな。でもまあ、それくらいのが頼もしいやな。この一件は組に迷惑を掛けちまうんだ。暫くしたら嫌でも解るから、今は知らなくていい」



何かとてつもない事情が有るのだと察した浩二は、否が応にも理由を聞き出さなければならないと思い、ヒデに詰め寄った。



「ちょっと! そんな説明じゃ駄目です! 盃を交わした親子じゃないですか! 何か深刻な理由が有るんなら教えて下さいよ!」



ヒデは柔らかい表情になって立ち上がり、浩二の肩をポンと叩くと自らの椅子に座らせた。



「可愛い子供達だから教えられない事も有るんだよ。じゃあ、後は頼んだぜ。組長」



そう言ってヒデは部屋を出て行く。後には茫然自失となり、組長の椅子に座らされた浩二だけが残った。




─────だいぶ日も傾いて、町は茜色に包まれている。



ヒデは一人、自宅のガレージを忙しなく行き来していた。



「いきなりだったからこんなモンしか無いが、まあ丸腰よりもマシかな」



車のトランクに掻き集めた拳銃、猟銃、数本の日本刀とありったけの弾薬を積み、丁寧にカモフラージュを施す。



「途中でサツにでも停められたらオジャンだからな」



最後にゴルフバッグを2つ放り込み、パンパンと手の埃を払った。



「さあ、これで良し」



「良くないですよ」



その声にヒデがビックリして振り向くと、入り口から浩二がひょっこりと顔を出した。



「こっ、浩二! てめえ何しに来やがった!」



ニヤニヤと笑いながら浩二はヒデに近付いた。



「そんなの決まってるじゃないですかぁ。オヤっさんと一緒に伊図へ行くつもりで来たんですよぉ」



シナを作って擦り寄って来る浩二の顔を押し退けながら、ヒデは怒鳴った。



「てめえ! なんで俺が伊図に行くって知ってやがるんだ!」



「オヤっさんの事を心配した高倉会長が、全て教えてくれたんですよ。尤も、抗争に発展した場合、それに関与した者は全て破門という事ですが、それでも行きたい奴は好きにしろと仰ってました」



ヒデは苦笑した。



「やっぱり会長には言わないでおくんだったな……。浩二、てめえは破門になった人間が、どんなに惨めな思いをしなきゃならねえかを解ってねえんだ。それよりも、生きて帰れる保証はねえ。てめえまで居なくなったら、誰が的場組を切り盛りすんだ、ああ? 少しは考えろよ、全く……」



「お言葉ですがオヤっさん、切り盛りするも何も、組員が一人も居なくちゃ出来ませんぜ?」



「何っ? 一人も居ないって……そりゃ一体どういう事だ!」



すると浩二の背後から的場組の組員、総勢72名全員が現れた。



組員達は旅の支度を整え、みんながみんな、笑顔でヒデをけし掛ける。



「オヤっさん、水臭いですよ! 俺達家族、死ぬ時は一緒でしょ?」



「オヤジ、破門なんか怖くねえよ! 昔みたいに仲良くやろうぜ!」



「久しぶりの出入りですね、絶対に役に立ちますから連れて行って下さい!」



ヒデの周りは瞬く間に組員達の笑顔で溢れた。



「て……てめえら、このやろ……」



ヒデの目から思わず涙が零れる。慌てて指で拭い去るが、後から後から溢れて頬を伝う。



「畜生……ふざけやがって……」



「オヤっさん、一人も居ないってのは、オヤっさんを見殺しにするような冷たい組員は一人も居ないって意味ですよ。それと……他にも援軍が居ます」



「援軍?」



すると、的場組組員達の背後から、石田組組長、石田勝敏と組員68名が顔を出す。狭くはないヒデのガレージ前の駐車スペースはしかし黒山の人だかりで、道路にまで人が溢れていた。



「加納さん、私達も微力ながら加勢させて頂きます。事情も伺いましたが、奴らは調子に乗り過ぎた。ここら辺でガツンと日本の極道の恐ろしさを教えてやりましょう」



「い……石田さん。貴方の組も、こんな喧嘩に関わったら破門にされちまいますよ! 生きて帰れる保証だって、無いも同然なのに……」



石田はにこやかに笑っている。



「フフフ。そんな事考えて生きてる極道がどこに居るんですか? それにうちには最高の極道『権田隆史』を殺された立派な大儀が有る。これはうちの戦いでもあるんです。さあ、言い出しっぺの貴方にはみんなを引っ張る義務が有る。出入りの前に、ここに集まった組員達へひと言気合いの入った抱負などを聞かせて頂けませんか?」



そこに集まった140名程の組員達から、惜しみない拍手が送られた。



「ま……参ったな……」



照れて頭を掻いているヒデに、組員達から冷やかしの声が掛けられる。



「オヤっさんしっかりー!!」



ドッと盛り上がる組員達。



ヒデは深呼吸をして、そこに集まった面々をキッと睨み付けた。



「みんな……俺は今猛烈に感動している。知ってるとは思うが、俺達極道の生活は台湾から来たマフィア野郎のせいで脅かされている。北辰会本部は当たり障り無く進む道を選んだが、そんな事をすれば、奴らが日本中に蔓延【ハビコ】るのを黙って見ているのと同じ事だ。そしてそれは俺達極道の終わりを意味する。何としてもそれだけは阻止しなければならない」



「おおお……」



事情も知らず何となく、勢いだけで集まって来た組員達も居たが、ヒデの演説でやっと理解が出来たようだ。危機感を煽られると共に、士気と団結力が更に増していく。



「伊図で俺達を待ち受けているのは、極道の生存権を勝ち取る戦いであり、そして俺達の英雄『北原修司』と、その最愛の恋人『古屋明美』を奪還する戦いだ。マフィア共は俺達を腰抜け呼ばわりしてるらしいが、まだ日本には本物の極道達が大勢生き残っていることを奴らにたっぷり思い知らせてやろう!」



パチ……パチ



パチパチパチ……



パチパチパチパチパチ



「いいぞ、オヤジ!」



「加納さん最高!」



「極道の底力見せてやるぜ!」



一頻りその場が盛り上がるのを静観していたヒデはそして、高らかに皆を鼓舞した。



「みんな、俺に付いて来い! 蝶々狩りだあっ!!」



「ぅおおおおおおぉぉぉぉぉぉおおおおおお!!」



組員達が上げる、耳をつん裂く程のシュプレヒコールが響き、付近一帯を揺るがした。



総勢140余名。時代遅れの極道達、一路伊図へ。





夕方四時過ぎ。北側【ホッカワ】温泉郷の海岸沿いで、修司はテトラポットに座り、オレンジ色に染まった海を眺めていた。



「伊図って綺麗な所だなぁ。朝だったら海から登るお日さまがバッチリ拝めたんだろうに」



すっかり山向こうへ姿を隠してしまった夕日を儚んで、タバコに火を点ける。



「明美の住んでいた所は確か、隣の阿多側【アタガワ】温泉郷だったっけ。あいつも事故で両親を亡くしておじさん夫婦に育てられたから……寂しくなったり辛い思いをしたら……こんな風に海を眺めていたのかな」



修司が砂浜に目をやると、まだ海水浴には早い時期だが、子供達が元気に遊んでいた。



「もう夕方なのに、寒くないのか? 元気だな」



いつか明美が言った、極道を引退して伊図で居酒屋をやる約束を思い出し、子供を交えて幸せに暮らす想像を巡らせ、一人照れていた。



「フッ……柄じゃないよな。それに絶対生きて帰れやしない」



そう溢した修司の背後に、音も無く数人の男が近付いた。街灯に照らされた長い影が修司の影に並ぶ。



「お出迎えか? 約束は真夜中じゃなかったか?……ああ、通じないか」



修司は振り向きもせずに問い掛けたが、聞き覚えの有る声が返事をした。



「北原さん。通訳の王【ワン】です。ここだけの話ですが、青龍さんは少しせっかちな方なので、もうすっかり準備が出来ています」



男達の一人が、薄ら笑いを浮かべながら王に耳打ちする。



「とっとと始めないか。どうせ俺達は社会のゴミみたいなもんだ。念仏を唱える時間なんて必要ないだろ?……だそうです」



「ああ、確かにその通りだ。だが明美は違う、彼女は無事なんだろうな」



「ええ勿論。もう会場にいらっしゃいます。お逃げになられると困るので、足だけはやんわりと縛らせて頂いていますが……」



「何だと?」



修司の低い声に、王は血相変えて言い訳した。



「あ、い、いえ。あくまでやんわりです。ご本人にも何度も確認して、きつく無いようにしておりますので……」



修司は立ち上がりざまに振り返る。



「明美に何か有ったら、命に変えてもお前ら全員地獄に落としてやるからな、ああ?」



「ご、ご心配は無用です。例えどんな事態になろうと、明美様は無事に送り届けますので……」



修司から立ちのぼる怒りのオーラが揺らめいて見えた気がして、王は怯んでいた。



「じゃあ早く決着付けて明美を返して貰うか。案内しろ」



足元に置いてあった道着を肩にからげて修司が促すと、「こちらです」通訳の王が道案内をかって出る。黒服に身を包んだ五人の男達と共に会場へ向かった。



「あれか?」



オレンジと紫が混在する空をバックに、岸壁ギリギリに建っている廃ホテル『つきのわ』の真っ黒な影が見えてくる。



「こないだはよく見えなかったが、あんな風になってたんだな」



前来た時とは違い、離れて見る廃ホテルは、今にも海に飛び込んでしまうのではないかという危ういバランスで建っていた。



その様子は修司の心を写すかのようで、死ぬと解っていても闘いに飛び込んで行かねばならない、心の葛藤そのままに見えた。



ホテルを遠巻きにしながら歩いていると、エントランスに続く一本道へと差し掛かる。道の両側には揚羽蝶のメンバー二百人程が並び、それぞれが修司を睨み付けている。



「おやおや、俺一人にたいそうなお出迎えだな」



「うちのメンバーは、青龍様が一目置いてらっしゃる貴方に興味が有るんですよ。でもほら、手を出してきたりはしません。青龍様のご命令で『手出し無用』となっているからです。従って明美様に対して下されている『安全に送り届けること』という指令も遵守されます。ご安心下さい」



道案内をしていた王が答えた。



「まあマフィアの言う事だ、言葉半分で聞いとくよ。だが王、あいつらさっきから何を叫んでやがるんだ?」



時折修司に向かって掛けられる野次めいた物が気になって仕方がない。



「訳してもよろしいんですか?」



言葉は丁寧だが、王の口元には薄ら笑いが浮かんでいる。黙って首を縦に振った修司へ訳した内容を伝えた。



「お前は何のつもりでここに来たんだ。勝てると思ってるのか? 馬鹿じゃないのか?……いや北原さん、か、彼らが言っていることなので」



今にも襲い掛かられそうな眼光に気付いて、王は慌てて付け加えた。



「解ってるって。じゃあアイツは何て」



「ハナクソ、ハナクソ、ハナクソ!」



「畜生、俺は鼻歌だ!……あ……」



修司は襟首を絞り上げられた王と目が合い苦笑した。



「悪い……またやっちまった……」



「げほっ、……ほんと勘弁して下さい。ああ、彼は『お前の墓場は此処だ』と……彼は『青龍様は揚羽蝶一の手練れだ。死ぬにしても俺達を楽しませてから死ね』と言っています」



「抜かせ! お前達の度肝を抜いてやらぁ! 王、こいつらに言ってやれ」



王の言葉を聞いて、地面を揺るがす程のブーイングが起こる。修司はそんな事など気にもせず、怒号渦巻くただ中を颯爽と歩き、建物へ入って行った。



「ここに来たのはついこないだなのに、なんだか随分昔のような気がするな」



階段を登って煌々と明かりのともった二階の大宴会場に入ると、そこには揚羽蝶のボス金総林と朱雀、青龍と他のメンバー十人程が待ち構えていた。



大袈裟な椅子に深々と腰掛けていた総林がゆっくりと立ち上がり、いやらしく含み笑いを浮かべながら修司に現地語で語り掛ける。



「またはるばる伊図までようこそ。鼻歌さん、だそうです」



「そんな事より総林、明美はどこだ!?」



修司が大声で聞くと、青龍が横から答えた。



「上のフロアだ、鼻歌。逃げないよう足縛った。口は塞いでない。呼んでみろ」



青龍から片言で告げられると、修司は大きく息を吸って、精一杯の声で明美を呼んだ。



「明美ぃい!! そこに居るのかぁっ!?」



すると上のフロアから、明美の返事が反響して聞こえてくる。



『修司ぃい……どうして来ちゃったのよぉお……殺されちゃうよぉお……』



その声を聞く限り、明美は無事のようだ。修司は少し安心した様子で、また問い掛けた。



「待ってろよ明美ぃ! 今助けてやるからなぁあっ!」



『……バカ修司ぃい……』



いつも通りの軽口が返ってきたので、修司は笑みを溢した。そして総林に向き直り、高らかに宣言する。



「総林、明美は絶対助け出すからな!」



修司を見下すように身体を反らし、ニヤニヤ笑いながら王に耳打ちする。



「ああ助かるさ。ただし、君の花嫁だけだけどね、だそうです」



総林が指を鳴らし、仲間へ合図をすると、外に居た揚羽蝶のメンバー達が続々と会場に入り、修司を取り囲んだ。



「鼻歌さん、これから始まる素敵なショーに僕はワクワクしているよ。だけどこれだけのショーをこんな少しのギャラリーだけで楽しむのも勿体無いとは思わないかい?」



「どういう意味だ?」



修司が訪ねると総林は朱雀に声を掛ける。彼は総林の命令を受け、いそいそと会場の裏へと消えていった。



総林は話を続ける。



「青龍から伝わっているとは思うが、僕達は君達極道との約束を反故にする。理由は契約書を交わさなかった事もそうだが、君達があまりにも腰抜けなので、真面目に約束を守る価値も無いと判断したからだ」



「だからどうした。勿体無いの説明になってないだろうが!」



「まあ、聞き給え。実はもう台湾からの援軍は招集済みなんだ。いつでも極道達の掃討を始められる。だが青龍の『どうしても君と戦いたい』という希望もあり、どうせなら極道達の英雄である君をなぶり殺しにする映像を全国の極道達に見せれば、落胆して僕達の仕事がよりやり易くなると考えたんだけど……どうだい、いいアイデアだとは思わないかい?」



「ケッ! 悪趣味な野郎だ!」



修司がそう吐き捨てると、裏から朱雀が戻ってきて言った。



「総林様、準備が整いました」



すると、総林は視線を近くに有ったカメラに向ける。



「君達が残していった機材を再利用させて貰うことにした。そして今頃は北辰会を通じて、全国の極道達に緊急ファックスが送られている筈だ。『極道最後のヒーロー【鼻歌の修司】その最期』どうだい? この番組は凄い視聴率だろうね、フフフッさあ、挨拶を始めるよ」



揚羽蝶達は一斉に静かになり、その様子を直立不動で見守っている。




─────その頃




全国に送り付けられた緊急ファックスで、極道社会は軽くパニック状態になっていた。



「鼻歌の修司がまた闘うらしいぞ」



「揚羽蝶の奴ら、日本を乗っ取ろうとしているんだと!」



「これはいつまでも『対岸の火事』だとタカを括っては居られないんじゃないか? もはや北辰会だけの問題ではないのでは……」



前回の試合同様、ワンセグ放送が行われるというので、全国の極道達はそれぞれの方法で画面を見守っていた。



伊図へ向かっていたヒデ達にも逸早く情報が入り、彼らは車中でワンセグの映像を見ていた。



「オヤっさん、試合は真夜中の予定でしたよね。でももう修司さんは来ているみたいだし、時間変更なんですかね」



「参ったな、予定が狂ったぞ。雅、北側【ホッカワ】迄はあとどの位だ?」



「ええっと……ナビでは一時間って出てますが、少し混んでるんで、もうちょっと掛かるかも……」



ヒデは後部座席の液晶パネルを見ながら、逸る気持ちを抑え切れずに呟いた。



「間に合ってくれ……待っててくれよ、兄貴……」



程無くして画面の総林は、不気味な微笑みを湛えながら、全国の極道達に語り始めた。



『やあ極道の皆さん、またお会いしましたね。揚羽蝶の金総林です。先日の手打ち試合では素晴らしい試合を見せて頂き感謝しています。あの試合で私達揚羽蝶は負けました。しかしながら我々は、試合に負けた際の約束を反故にさせて頂く事を宣言します。



何故なら、貴方がた極道は試合の後、交渉のテーブルに着く事をしなかった。調印し、ことわりに則った書式を交わしてこその契約です。それをしない貴方がたに非が有るのは当然。



更に貴方がたは、この危機的状況で誰一人立ち上がろうとしなかった。本物の極道とは、大義の為、看板の為、親の為、兄弟の為には命を投げ打って闘う『男の中の男』だと聞いておりました。しかし実際に日本へ来て私が見た極道達は、暴対法に依って骨抜きにされた、情けない『烏合の衆』に過ぎなかった。



そんな組織と、私達は約束などしない。



弱小国家と対等な立場で条約を締結する大国など無い。そしてこれから餌になる家畜と約束を交わす者だって、居やしないのです』



この映像を車で見ていたヒデは、悔しさで激しい歯ぎしりをしていた。



「家畜だとぉ?……あの野郎ふざけやがってぇ」



そして総林は続ける。



『我々は近日中に極道達の駆除に取り掛かります。今の貴方がたならそんなに苦労もしないで私達の夢を実現出来るでしょう。そしてもう一つ。

貴方がたの英雄「鼻歌の修司」さんをゲストとしてお招きしています。これから我が組織最強の使い手「陳青龍」が彼をなぶり殺しにします。


貴方がたはその映像を見て未来に絶望し、その後は恐怖におののきながら死の瞬間を待つ日々を送るのです。


不服のある方は、どうぞこちらまでいらして下さい。伊図の北側温泉郷の廃ホテル、「つきのわ」でお待ちしています。もっとも、生活の為になんとなく過ごしてきたサラリーマンのような貴方がたに、そんな勇気は無いでしょうけどね。さあ、素敵なショーの始まりですよ。とくとご覧下さい』



通訳の王が深々と頭を下げると、カメラアングルは待機していた修司と青龍に切り替わり、ライトに照らされた二人を大きく映し出した。



そんな事を気にする様子もなく修司は尋ねる。



「青龍、着替えてもいいか?」



「好きにしろ」



肩にからげていた道着をほどいて着替えを始める修司に、青龍が質問する。



「それ、空手着か? 黒い道着珍しい。見た事ない」



「ああ。大志館闇空手の継承者に手渡される道着だ。背中に継承名も刺繍してあるぞ、ほら」



修司は振り返って背中を見せる。



「月光か」



「ああ。日陰者って意味だ。ヤクザもんの俺にはぴったりのネーミングだろ?」



「ぴったり。しかし、私にもぴったりの名前」



「ハハ、おもしれぇな。お前は。さあ、着替えは終わったぜ。始めるか」



「今回、審判居ない。反則も無い、平気か?」



「ああ、望む所だ」



二人の目つきは険しくなり、各々構えの姿勢を取った。



北辰会だけに留まらず、全国の極道達の期待を一身に背負い、修司の孤独な戦いが始まろうとしていた。




─────北辰会本部




「日野さん。……どうしても行くのか?」



北辰会会長の高倉は、眉間に深い皺を刻んだまま、杯を返しに来た日野をもう一度引き止めた。



「会長。申し訳ありません。私も幹部として抗争の火種になる行動は慎まないといけない立場なのですが……でも、やっぱり私は最後まで極道としての生き方を全うしたいのです。我々が奴らに引導を渡してきます。蝶々共に目にもの見せてやりますよ」



高倉は嘆息と共に呟いた。



「日野さんよ……俺は今程自分の立場に息苦しくなった事は無い。……本当ならあんなふざけた野郎共は、俺が先陣切ってカチ込みたいところなんだが……」



「貴方は特に責任ある立場です。今後の為にも規律は守らなければならない。我々の事は気にせず、極め道を精進なさって下さい」



「すまねぇな……日野さん」



日野が頭を下げて部屋を出ようとした時、高倉が呼び止めた。



「ああ日野さん、あんたに持っていって欲しい物があるんだ」



「なんでしょうか……」



「ちょっと付いてきて貰えないかな」



高倉に促され、日野は地下室へと続く階段を降りて行く。そして、そこに保管されていた高倉秘蔵の数々の品物を手に取って驚嘆する。



「こ、これは……」





─────廃ホテル『つきのわ』




「鼻歌。なんだ? 私倒した時、そんなだったか? ホントにお前鼻歌か!? 弱過ぎるぞ!」



修司はいきなり窮地に立たされていた。



いつも通りに精神を統一し、いつも以上に持ち得る技の全てを繰り出していた筈だった。しかし青龍の技量は予想を上回り、修司の技はことごとく跳ね返された。



「シャァアアアアッ」



羽を拡げて相手を威嚇するポーズを取る青龍。その眼光は鷹が乗り移ったかのように鋭い。



「アイヤァァァア、ハイハイハイハイッ」



風を切る翼のように繰り出される青龍の両拳。それを必死に受け流す修司。



「畜生、反撃する隙がねえ……」



「テリャァァァアア!」



「ぐはぁぁっ」



そして手技の合間に繰り出される青龍の蹴りが的確に決まり、修司は弾き飛ばされた。揚羽蝶側から歓喜の雄叫びが上がる。



「ウォォォオオッ!」



「ぐっ、うっ……くくっ……はぁっ、はぁっ」



苦しそうに肩で息をする修司を冷ややかな目で見下ろしながら、青龍は力無くかぶりを振った。そして通訳の王を呼び付けると、修司に向かって激しい調子で詰【ナジ】り始めた。



「青龍様はこう仰ってます。期待外れもいいとこだぞ鼻歌、仏のタカシとは比べ物にもならん。お前の力など仏の半分にも満たない! 奴が一目置く意味が解らない。俺がどれだけお前と闘うのを楽しみにしてきたと思うんだ! この腑抜けめ!」



修司はやっとの思いで立ち上がり、フラフラになりながらも青龍と対峙した。すっかり血の気が引いたその顔には、バツの悪そうなひきつった笑みを浮かべている。



「ああ……済まねぇなぁ……青龍。お前と一度闘った時は咄嗟に『闇空手』の技が出ちまったんだ。だが昔その技を使って、10人以上殺しちまってな。お前との闘いは出来れば『表』の空手でなんとかしたいと思ってるんだが……」



青龍は苦笑していた。やりきれないという表情で視線を落としている。



「鼻歌。今のお前の一体どこにそんな余裕が有ると言うんだ? それにお前は『闇空手』という武器を使わず、その結果力を出し惜しみしている。それは則【スナワ】ち俺を侮辱する行為に他ならない。俺を落胆させるな。そして俺は、仏を殺した仇だってことを忘れるな」



力を失っていた修司の眼光が再び輝きを取り戻した。



「そう言えば……そうだったな! 本気で行かせて貰うぜ、青龍!」



「テリャッ!」



しかし悲しいかな、修司の身体はカウンター気味に放たれた青龍の蹴りに依って吹き飛ばされた。



「うげぇえっ! がはっ!」



修司はもんどり打って倒れ込み、腹を押さえて転げ回っている。



「ううっ……うううっ……」



周りは敵しか居ない孤独な闘い。例え目の前の青龍に勝ったとしても、命の保証は愚か、明美の安全も確実とは言えない危うい闘い。だが修司は、痛みと歯痒さで震える身体に鞭打って、再び立ち上がる。



「ま……まだまだぁ……こんな事でくたばる修司さんじゃねぇぞ……! ぐはぁっ!」



だが無意識的に封印された『闇空手』を、思うように出す事が出来ずに、修司はまた床へ転がされる。



ドンッ!「うげっ」



ズパン!「ぐぉっ」



ビシィッ!「うがぁっ」



修司を打ちのめす打撃音と悲痛な呻き声が、上のフロアに居る明美へ届く。



椅子に縛られて身動きが取れない明美は、修司の状況を察しながら、何も出来ずにただ泣いていた。



「ううっ……修司ぃ、死なないでよぉ……」



その剰りにも一方的な試合に総林は溜め息をつき、修司達の側へ歩み寄った。



「青龍、もういいだろう。彼は一応極道代表のようだが、君には全く歯が立たなかった。これ以上は時間の無駄だ。もう息の根を止めてしまえ」



青龍は総林の言葉に頷き、そして視線を修司に移した。



「そういう事だ、鼻歌。しかし……どうして仏程の男がお前に一目置いていたのか……本当に不思議だぜ。じゃあな、鼻歌……」



そして青龍は修司にとどめを刺す為に歩を進めた。



「明美ぃいっ!」



「修司ぃいいっ!」



階をひとつ隔てただけの二人の距離はしかし、剰りにも遠い。互いを呼び合う声は、虚しく会場に響き渡っていた。



その時、ホテルの外から男の大声が聞こえてきた。拡声器を使ってがなり立てている。



その突然起こった事態に、総林は早足で窓へと駆け寄って外を見た。



「!!」



するとそこには、黒服に防弾チョッキを着込み、拳銃や木刀を携えた屈強な男達がホテルを取り囲んでいる。



「ウォ……我不明白【ウォーブーミンパイ】(どういう事だ?)」



総林が二階からその男達を見下ろしていると、代表者らしき男が前に進み出る。的場組組長、ヒデこと加納秀明その人だった。



「おい総林!! さっきはよくも好き勝手言ってくれたなぁ! 俺達は関東共和会石田組と関東北辰会的場組だ! そこにいる北原修司と明美さんを奪還しに来た! それとな……」



パン! チュィン!



乾いた音が響き渡り、ヒデが放った弾丸は鮮やかに総林が顔を出している窓枠に当たった。



「クッ!」



歯を喰い縛ってこちらを睨む総林を見て、ヒデはリボルバーから立ち上っている煙をフッと吹き消し、ニヤリと歯を見せた。



「それと、お前らに引導を渡しに来たぜ!!」



総林は逆上し、会場に居たメンバー達に叫んだ。剰りの激昂振りに、最早何を言っているのかさえ聞き取れない程だった。



総林から尻を叩かれる形となったメンバー達は、拳銃や鉄パイプを片手に三々五々階段を駆け降りて行く。



ヒデはまた拡声器を使い、大声で二階に語り掛けた。



「兄貴ぃい!! 待ってろよぉ! 今助けてやるから、なあお前ら!!」



得意そうに胸を張り、そこに勢揃いした組員達を振り返る。



「それはそうなんですがオヤっさん」



「なんだ、マサ。気合い入れてけよ?」



「はい、それは勿論です。でも……さっき総林が顔を出してた時、ヤツの頭を弾いた方が良かったんじゃ……」



一瞬、その場を静寂が包んだ。



「ああっ! しまった、そうだった!」



ヒデは慌てて二階の窓を見たが、総林はもう居ない。既に後の祭りだった。






─────会場では、修司と青龍が顔を見合わせている。



「あれはお前の部下か?」



修司はクスッと笑った。



「部下じゃない、俺のオヤジ……組長だ。盃の順番からすれば弟分だけど……。後先考えずに俺を助けに来た、時代遅れの大馬鹿野郎さ」



王から通訳して貰うと、青龍は楽しそうに笑った。



「フハハハ。いい仲間じゃねぇか。じゃあお前も舎弟分達の手前、惨めな戦いをする訳にはいかねえな。……だそうです」



すると上のフロアから、また明美の声がした。



「修司ぃい……お願ぃい……死んじゃ嫌ぁあ……」



青龍はニヤリと笑った。



「ほら……花嫁もああ言ってるぜ」



修司は帯と道着の襟元を整え、猫足立ちに構え直した。



「仕方ない……。もう少し頑張ってみるか……」



二人は再び互いに相手を見据え、



「そいやぁぁあ」



「アイヤァァァアア」



気合い一閃、火花を散らす。




───── 一方『つきのわ』の周りでは




揚羽蝶と石田組・的場組連合軍との激しい銃撃戦が繰り広げられていた。



ヒデと的場組組員、マサこと沖田雅彦は、物陰に隠れてリボルバーに忙しなく銃弾を詰め込んでいた。



「オヤっさん、何なんですかこれは……まるで……戦場そのものじゃないですか!」



「ああ……そう言やあマサは出入りの経験が無かったな。その鉄兜、恥ずかしがらないでキチンと被ってた方がいいぜ」



「でも、こんなの被ってるの、俺だけですよ? 重いし、昔の戦争映画みたいだし……」



チュィィィン!



ブツブツ文句を言っていたマサの頭から、激しく火花が上がった。



「痛ってぇぇっ!」



衝撃で倒れ込んだマサはヘルメットを脱ぎ、被弾して凹んだヘルメットを手に取って青ざめた。



「ハッハハ! 命拾いしたな、マサ」



マサは涙ぐみ、訴えるように言う。



「オヤっさぁぁん、笑い事じゃありませんよぉ……」



すると表情をガラリと変えたヒデは、マサに詰め寄った。



「マサ、死にたく無かったら必死で応戦しろ!」



「は、はいっ! 解りました。くたばれ、蝶々共!」



二人は詰め込み終わった弾丸を、再びホテルに向かって撃ち込み始めた。



パンッ、パンパンパンッ!



「グェッ!」



パンパンッ、パンッ!



「畜生、やられた!」



その後、双方で更に激しい銃撃戦が交わされたが、被弾する者が続出し、一進一退の攻防が続いていた。そして日暮れから暫く経ち辺りが闇に包まれると共に、その均衡は少しずつ崩れていった。



「クソッ! 全然見えねえ! どこから撃って来やがるのか、まるで見当付かねえぞ。さすがに暗闇での戦いには慣れてやがるな」



「奴らが発砲した時の光を撃てばいいんですか?」



マサは弾丸を詰め直したリボルバーを手渡しながら伺いを立てる。



「定石としてはな……だが奴ら、全く同じ場所に留まってねえんだ。この出入り、長くなるかも知れねえぞ……おい、マサ」



月明かりにうっすらと照らされた人影を見付け、ヒデはマサにそっと囁いた。



「……あそこのあれ、見えるか?」



「え? どれですか?」



その瞬間、柱の影に隠れていた揚羽蝶の一人が被弾覚悟で走って来た。



「来やがった! 撃て!」



「は、はい! こ、この野郎!」



パンパンッパパパン!



二人の拳銃は何度も火を吹いたが、その銃弾は全て暗闇に飲み込まれ、外れてしまう。



「マサ! あっちに行ったぞ!」



「え!?」



その人影はヒデ達よりもホテルに接近して陣取っていたチームに飛び込み、その瞬間。銃声と呻き声が次々と上がった。



「まずい! 行くぞ!」



ヒデとマサが銃弾をかいくぐりながらそこに駆け寄ると、既に四人の仲間は血まみれになったまま突っ伏し、最後の一人が今まさにナイフを突き立てられる瞬間だった。



「このクソ野郎がっ!」



ヒデはとっさにその男へ銃口を向け、残りの玉を撃ち尽くす。



パンパンパンッ!



「グ・グワァッ!」



最後の弾丸が眉間を貫通し、男は絶命した。



「あ……有難うございました」



石田組の組員は寸での所で命拾いをして、ガタガタと震えている。



「今……一瞬……ほんの一瞬だったんです。四人いっぺんにこいつから殺られちまって……」



「当たり前だ! 奴らはみんな殺しのプロなんだ! 油断するな、この暗闇に紛れて次々来る。弾切れに気を付けろ!」



弾を込めながら石田組の組員を叱り飛ばしたヒデの言葉通りに、ホテルの物陰から一人、また一人と揚羽蝶メンバーが飛び出し、周りに居た仲間達の中へそれぞれ消えていく。



「おわっ!? ぎゃぁぁぁあ」



パンパンパン!



「ぐえっ、ぐわぁぁあ!」



そしてそこココから間髪入れずに銃声と悲鳴が上がる。それは石田組・的場組連合軍の組員達が発する断末魔に違いなかった。



「畜生っ! この状況は俺達に不利だぞ!」



ヒデの怒号が闇を突ん裂き、ホテルからはまた新たな揚羽蝶メンバーが走ってくる。



「おい! アイツを撃ち殺せ! 接近させると何をするか解らないぞ!」



ヒデとマサ、さっき命を助けられた組員はその男へ銃口を向け、一斉射撃を繰り返す。



しかしやはり暗闇で狙いが定まらない中、紙一重で銃弾は逸れ、とうとう男の接近を許してしまう。



「野郎っ!」



ヒデは銃弾が無くなり、別の拳銃を胸から手に取ったその時。



パンッ!



「ぐっ!」



一発の銃弾が肩をかすめ、ヒデはその場に踞うずくまった。



「オヤっさん!!」



マサがヒデに駆け寄ろうとした瞬間、揚羽蝶の男がその胸に痛烈な蹴りを放ち、マサはそのまま気を失った。



「う……動くな!!」



最後に残った石田組の男は刺客に銃口を向けたが、さっきの恐怖で銃身がカタカタと震え、狙いを定められない。



揚羽蝶の男はまるで「撃ってこい」とでも言うかのように胸を開き、不気味な笑みを浮かべている。



「う……撃つぞ! 本当に撃つからな!」



しかしその銃身は、素人目にも当たらない事が解る程、恐怖に震えていた。



ヒデは踞ったままなんとか顔を上げたが、被弾した衝撃で上手く身動きが取れない。



「ク……クソ……身体が動、かねえ……」



揚羽蝶の刺客は胸に忍ばせた拳銃を抜き取り、石田組の組員へ向けて構える。暗闇に光る白い歯だけが、月の明かりに照らされていた。



パン!



石田組の組員が引き金を引いたが案の定、弾は遥かに逸れ、刺客はせせら笑う。



「クックックッ……」



「ひぃぃい! 助けてくれぇぇえ!」



拳銃を放り出し、ヨタヨタ逃げ去ろうとしている彼の背中に刺客の銃口が向けられた。



「やめ……ろ……」



しかしヒデの制止は頼りなく、蚊の鳴くようにしか聞こえない。



「?」



するとその時、一人の男が刺客の後ろに音もなく立ち、その頭を両手で掴み上げた。



「ア?」



突然の事で呆気に取られている刺客の頭を、男は無言のまま直角に捻った。



グキャッ!



「ッ!!」



刺客の男は声を上げる間もなく地面に打ち捨てられ、暫くゼンマイ仕掛けの人形のようにバタバタと動いていたが、じきにおとなしくなった。



「……おやすみなさい」



カッと見開かれた刺客の目を閉じてやり、たった今自らが刈り取った命に冥福を祈った男がヒデを振り返る。



「あ……あんたは……」



太めの眉に整った目と鼻。精悍な顔立ちの右半分は、派手な刺繍が施された黒い革の眼帯で覆われている。



「ごめんなさい、ヒデさん。道が混んでて少し遅れちゃったの」



その厳つい身体には全く似合わないお姉言葉を聞いて、ヒデは安堵した。



「おお、周明さん……あんた、行方不明だって聞いたぜ?」



月明かりに照らされた口元に笑みを浮かべて、周明は答える。



「まあ色々有ってね……でも、盃を交わした修司さんの一大事とあっちゃ、兄弟としては駆け付けない訳にはいかないでしょ?」



「周明さん……」



台湾マフィアの周明は、本来極道のしきたりを守る義務はない、有ろう筈もない。しかし彼は自分の命も顧みず、ひなびた温泉地の外れにある廃ホテル迄わざわざやって来たのである。ヒデは胸の内から湧き上がってくる感動を抑え切れず、その目からは涙が零れそうになっていた。



「でも私は妹分だけどねっ!」



「ブッ!」



スーツの裾を広げ、シナを作ってウィンクした周明のおどけたポーズに、ヒデは思わず吹き出した。



「ハハハッ、おかし過ぎて涙が出らあ……グスッ」



「たった一杯500円のビールが随分高い物に付いたけど、私は後悔なんかしてない。寧ろこんなにみんなから慕われてる兄弟を持てて光栄よ?」



「グズッ……ジュウベイザァァアン(周明さぁぁあん)」



笑って出た涙だと誤魔化すつもりでいたヒデだったが、もはや滝のように溢れ出る感涙を押し留める事が出来なかった。



「アラアラ……仮にも貴方は歴とした親分さんでしょ? いつまでも泣いてたら駄目。一緒にビルに飛び込むわよ!」



「グスッ……へっ?」



「いい? これから私達がビルに突っ込んで突破口を開くから、貴方がたで援護をお願いするわ」



「そ、そんな危険な事をして貰う訳には……」



周明は笑い飛ばした。



「ハハハッ大丈夫よ。私達は散々こういう事をしてきて慣れてるの。それに、ただ守っているよりも攻撃の方が強いのよ。解る?」



そう言って周明が合図をすると、周りから芍薬のメンバー達が続々と集まってきた。



「みんな、首尾はどうかしら」



「こっちは全滅させました」



「若頭、海岸側の蝶々共も粗方片付きました」



「こちらもあと少しです」



「そう。偉いわ、いい子達ね。それじゃあ私が先陣切って向こうへ行って合図するから、一斉に突入するのよ!」



芍薬のメンバー達は、声を揃えて返事をする。



「はい、解りました!」



そして周明は視線をヒデに移した。



「どう? ヒデさん、まだ動けないかしら」



「んな訳ねえだろ! でも、ちょっと待ってくれ」



ヒデは急いで撃ち抜かれた肩の応急処置をし、ポリカーボネイトで出来た盾を携えている周明の後ろに付いた。



「ヒデさん、いい? しっかり付いて来るのよ? 貴方達もいつものように弾を防ぎなさい」



「おうよ! 周明さん」「はい! 若頭」



「行くわよ!」



芍薬の部下達が持つ盾に守られて、周明達はホテルのエントランスまで猛然と走った。



カシンッ! カシィィィイン!



揚羽蝶側から放たれる雨のような銃弾が盾に当たって跳ね返り、渇いた音を響かせる。



「突っ込むわよ!」



「ウォォォオオ!」



奇声を上げながら一丸となってエントランスをくぐると、筋骨隆々の大男達が三人、周明達を待ち構えていた。



しかし彼らはそれに全く怯む事なく、そのまま盾ごとぶち当たり、大男達は無様に床へ叩き付けられた。



「逝きなさい! アイヤァァア!」



グエッ! ギャッ! ゴェエエ!



突如上がった味方の叫び声を聞き付け、一階にいた数十人の揚羽蝶メンバー達の視線が、一斉にエントランスへ集まる。



「貴方達……私の顔は知ってるわよね。死にたい奴は前に出なさい!」



そう言う周明の姿を見て、その場の空気が一瞬で凍り付いた。



「モノクロ!」



「黒白的周明!」



怯んだ揚羽蝶の様子を見て、周明は手を上げて合図する。



「今よ!」



「うぉおおおお!」



「アイヤァァアアア!」



雄叫びを上げ、ホテルの窓という窓から、一斉に芍薬のメンバー達が飛び込み、各々が揚羽蝶達に襲い掛かった。



「貴方達! 芍薬の恐ろしさをたっぷりと教えてやりなさい!」



周明は大声で仲間を焚き付ける。



「ハイッ! ハイハイッ」



パンパン、パンパンパン!



「グエッ、ギャァアア」



「アイヤァァア!」



「グゲェエッ!」



パパン! パパンパンッ!



一階のフロアは銃声と悲鳴で阿鼻叫喚の惨状と化した。芍薬達に依って、いとも簡単に揚羽蝶メンバーが倒されていく。



「凄げえもんだな……台湾マフィアと俺達じゃ、物が違う」



ヒデが茫然と見守る傍ら、周明は上のフロアを窺っていた。



「ヒデさん。ここは任せてもいいかしら?」



「あ、ああ。ここまでくりゃ俺達でも何とか。周明さんは?」



「上のどこかに修司さんの彼女が居るんでしょ? これから私が行って助けてくるわ」



「そりゃ助かるが……正面階段も非常階段も、そしてエレベーターもきっと蝶々共が銃を持って待ち構えてる筈だ。……危険だぜ?」



真剣な眼差しのヒデに、周明は窓の外をニッコリ笑って指差した。



「大丈夫。外に雨水のパイプが壁に伝ってるから、なんとか登れそうよ。動きが取り易いように私が一人で行くし」



ヒデは頼もしい味方を得て、改めて感激していた。



「それじゃあ姉さんの事を宜しく頼む……いや、宜しくお願い致します」



ヒデは腰を折り、深々と頭を下げて懇願する。



「頭を上げて。私も兄弟の為に頑張りたいの。だから任せて」



そう言い残し、周明は窓から顔を出して注意深く辺りを確認すると、争いのどさくさに紛れてそっと建物の外へ出た。




─────丁度その頃




総林と朱雀は、修司と青龍の試合を見る傍ら、下で繰り広げられている攻防を注意深く観察していた。



「総林様、とうとう周明達まで参戦して戦況が不利になってきたように思うのですが……」



心配する朱雀をよそに、総林は余裕の表情でふんぞり返り、腕時計に目をやった。



「いや、予定ではあと十五分程で下の港に後続部隊が到着する。完全武装した兵隊が二千人だ。たかが二百人ぽっちの極道なんか一網打尽にしてやるさ」



総林は横に侍らせていた女を抱き寄せ、その肌に舌を這わせてみせる。



「それより、この二人の試合を楽しまなきゃ。ほら、もうそろそろ終わりそうだよ?」



総林の言う通り、技が殆んど通用しない青龍に対して満身創痍で戦う修司の姿は、誰が見ても敗色が濃厚だった。



「なぁ鼻歌よ……」



青龍は軽くステップを踏みながら修司に語り掛ける。



「お前、まだ闇空手とやらを出さないのか? 技を出し切らない内では死んでも死に切れないだろう」



修司はもう、青龍の問い掛けにまともに答えられない程疲弊していた。



「……るせえ……出したくても……出ねえんだよ……」



本来修司は優しい男だ。だが十年前に闇空手を使った時は、組長の愛娘を殺された事に逆上し、武装した抗争相手の極道達に対して闇空手が噴出するのを抑え切れなかったのだ。



しかし無我夢中で技を振るったあと、我に帰った修司が目にした物は……血反吐を吐き、不自然に身体が捻じ曲がったまま転がっている無残な死体の数々だった。



この出来事が修司の心に深い傷を残しトラウマとなって、その恐ろしい技を二度と使わないように、自らの中へ封印してしまった。



だがこの非常事態に、それも最愛の恋人が囚われの身になっているのにも関わらず、あの時脳裏に焼き付いた惨劇を拭えず、裏空手を発動出来ないでいた。



「あれを使う位なら……」



修司はそう呟き、死を覚悟した。そんな彼を青龍は軽蔑の眼差しで見詰めている。



「鼻歌よ……お前には失望した……最早これ迄だ」



青龍は修司にとどめを刺すべく、重い足を一歩二歩と前に出す。上のフロアからは明美のすすり泣く声が響いていた。



「グスッ……聞きなさいよぉ、馬鹿修司ぃ……」



「明美……」



争乱の中に在ってもその声は、修司の耳へ確かに届いた。



「修司ぃ……私のお腹には……貴方の赤ちゃんが居るの」



青龍の足は止まり、そして項垂れて力無く立っていた修司の眉も、ピクリと動いた。



「俺の……赤……ちゃん?」



そして明美はしゃくり上げ、嗚咽にむせながら、やっとの事で言葉を繋いだ。



「修司、ヒック、私ね……凄く楽しみにしてたんだ。……貴方も長い間一人だったし、グスッ……私もずうっとひとりぼっちで待ってた。そしてやっと一緒になれた二人の間に……赤ちゃんが生まれるんだよ? 修司が欲しがっていた家族が、もう少しで出来るんだよ?」



「家族……」



しかし明美が必死に語り掛けているにも関わらず、修司の様子は変わらない。



「鼻歌、そうなのか……」



青龍もすっかり明美の話に聞き入っている。



「なのに……それなのに……修司が死んじゃったら私はどうすればいいのよっ! 馬鹿ばかバカ馬鹿ばか修司っ!……もう寂しいのは……修司が居ないのは嫌だよおっ!」



そう言い切ると、明美は声を上げて泣き出した。



「ククッ……」



肩を落としたままの修司から、笑いが漏れる。



「ふふっ……ふはっ……」



「そうだ鼻歌。子供が出来て嬉しいだろう。これで惨めに死ぬ訳にはいかなくなったな……だそうです」



王が青龍の言葉を伝えても、ついには腹を抱えて大笑いし始める修司。



「ドワハハハハ、ひぃぃっ! 可笑しいったら無いぜ」



「何が可笑しいんだ! 気でも狂ったか」



青龍の顔は俄に気色ばんでいく。



「その通りだ、頭がおかしくなりそうだぜ。最愛の女も、これから生まれて来る命も守れずに死ぬなんて、俺は男のクズだ」



修司はそう言って肩を竦め、ニヤ付きながらかぶりを振った。



「そう思うなら構えろ、戦意を喪失した相手を殺るのはツマランからな」



「何言ってんだ! 俺はお前を楽しませる為に闘ってんじゃねえ! それにもう諦めた。一思いに殺ってくれ」



「えっ? 駄目ぇぇ修司ぃぃぃ!」



「鼻歌、お前!」



青龍の顔は怒りで血がのぼり、赤を通り越してもはや赤紫になっていた。



「胸くそ悪い。お前の女があんなに懇願しているというのに、まだ闘わないと抜かすかっ! お前はもう『仏』が認めた男ではない。以前お前に俺が倒されたのも何かの間違いだ! 目障り以外の何者でもない……消えろっ!」



青龍の瞳は燃え上がり、その背負ったオーラには黒い殺意が渦巻いている。かぎ爪に渾身の力を込め、修司に走り寄った青龍は高々とジャンプし、



「アィャァァァアアアッ!」



両爪を打ち下ろした。



ザクッ!



「ッ!!」



その瞬間。



血しぶきを上げていたのはしかし、青龍の方だった。肩から胸にかけてパックリと空いたスーツの間から、醜く抉り取られた肉が見えている。



「?……な、なんだ、今のは」



修司の構えは、それまでの両手で顔をガードする一般的な構えから、左中段に手刀、右手をやや下げて、人差し指を鉤状にする不思議な格好に変わっていた。



「青龍……。なんだかんだ言ってたが、お前も本気じゃなかったんだろ。本当の殺意が無ければ、闇空手の封印を解く事は出来なかったんだ。だが……この技が出たからには青龍。……恨みっこ無しだぜ」



青龍はフンとひとつ、鼻で笑った。



「鼻歌。やれば出来るじゃない……かっ!」



気合いと共に羽を広げる構えのまま走り寄り、修司を切り裂きに掛かる青龍を、手刀で難なく受け流す修司。



「アィャアッ!」



しかし下半身をまだ間合いに残していた青龍は、横っ飛びざま修司の脇腹目掛けて蹴り込んだ。



「……ルル……」



しかしそれも体【タイ】の移動で難なく交わし、青龍は危うく転げる所を踏みとどまった。修司の口は、何かを唱えるかのように動いている。



「……ルララ……」



対峙する二人の空間は、不思議な緊張感で包まれていった。



「ルル……ララ……」



この様子を見ていた総林は、隣の朱雀に質問した。



「おい、あいつ何か呟いてないか?」



朱雀も目を凝らして修司の口元を注視する。



「確かに……何か言っているようです」



二人が注意深く耳を澄ませると、修司から微かなメロディーが聞こえてくる。



「……フフン、ララ……ルララルル……」



「鼻歌……? それがお前の通り名の謂われなのか?」



その不可解な修司の行動に、青龍は思わず問い掛けたものの、修司の耳には一切届いていないようだ。



「そうか。お前はこの期に及んで、まだこの闘いを冒涜するんだ……なっ!」



そう言った途端。青龍は修司の間合いに素早く踏み込み、羽ばたくような突きで上半身の攻撃を牽制しながら、修司の脇腹目掛けて中段回し蹴りを叩き込む。



「ルルルララァア」



だが修司の動きは急激な変化を見せ、青龍より速い踏み込みからその首目掛けて一本の抜き手を放り込んだ。



シュパッ!



「ツアッ! ハイィィィイ」



しかし青龍は、まるで剃刀のようなこの攻撃をとっさに交わし、首の皮が少し裂かれただけにとどまった。



「鼻歌、今のはヤバかったぜ……」



青龍は修司の放った二つの殺人技を見て、これまでの修司では無い事を悟った。



「これが闇空手なのか……」



青龍は再び距離を取り、両手を広げ、このまま飛び立って行きそうな身軽さで、また軽くステップを繰り返した。



「ルルララララァ、ルルルルゥゥウ」



尚も歌い続ける修司は、どこを眺めるともなく佇んでいるように見えるが、その実隙が無い。青龍は切っ掛けを掴む事が出来ず、攻めあぐねていた。



「ララララァアア……ルルラルゥウウ」



更には修司の歌に翻弄され、少しずつ集中力を欠いていく。



「おいっ! その歌はなんだ! 答えろ!」



苛立つ青龍の質問にも、相変わらず修司は耳を貸さない。それどころかその鼻歌は少しずつ大きくなり、もはやはっきりと聞き取れる歌になっていた。



「些細な事でぇ~お別れしたあの夜ぅ~瞳に浮かべた涙の訳はぁ~」



闘いながら歌っている修司の態度に激怒した青龍は、また素早く間合いに踏み込み、左右の翼をはばたくように連続で打ち下ろして浴びせる。



「ハイハイハイハイハイッ、アィャァアッ!」



だがこれを修司は難なく交わし、青龍が少しだけバランスを崩した隙を見て、その足を払い、転倒した青龍の首もとに足刀蹴りを放った。



ザシュッ!



青龍はとっさに手でガードし、蹴りの軌道を変えようと試みたが、その剰りの鋭さに首の皮が弾けるように裂けた。



「ツァァアッ! ゴホ、ゴホッ!……こいつ……」



「もう貴方の心にぃ~私が居ない事を知っていたからぁ~さよならも言えずにぃ~佇んでいる貴方の背中をぉ~偽りの笑顔で押す私ぃい~」



修司はまるで夢遊病者のように、無表情のままで歌い続けている。そしてこの歌を上のフロアで聞いていた明美は呟いた。



「この歌……修司の好きな『別れのブルース』だ……ウフフ、いつ聞いても下手くそなんだから……」



さんざん泣き腫らした瞼の涙を指で拭って、明美は微笑んだ。



そしてそのメロディは、明美救出の為に雨水の排水パイプをよじ登っていた周明にも聞こえてきた。



「この歌声……多分修司さんだ……。これは悪魔の囁き? それとも死に逝く者へのレクイエム? あの時も彼はこの歌を歌っていたのね」



周明は建物の外にまで響いているその不気味な歌声を、感慨深げに聞いていた。





───── 一方この頃




一階のフロアでは、芍薬メンバーを加えた、ヒデが率いる連合軍が、揚羽蝶達との激しい攻防を繰り広げていた。



ヒデ達は修司奪還の為に二階に駆け上がろうと試みたが、正面階段と非常階段の付近には、屈強な揚羽蝶メンバー達が武器満載で待ち構えていて、近付くことさえ出来ない。



更に、広いフロアのあちこちに潜む揚羽蝶からの意表を突いた銃撃に翻弄され、ヒデ達連合軍はその活路を見出だせないでいた。



パンッ!



「ぎゃっ!」



「うわぁぁあ!! ノリ! 憲仁ぉぉお!!」



またひとり、そしてひとりと、揚羽蝶の攻撃に依って組員達が犠牲になる。



「おいマサ! 感傷に浸るのは後だ! オタオタしてやがると、次は俺達が死体になる番だぞ!!」



「は……はい!」



ヒデに焚き付けられたマサは自らに言い聞かすように頷いて、また必死に応戦し始めた。



「ん?」



だが彼は急に手を止め、天井に吊されてあったテレビカメラを眺めている。



「てめえ、マサ! まだ解らねえのかっ!」



怒鳴り付けられてもマサは視線を外さない。



「オヤっさん、このテレビカメラって……生きているんでしょうか?」



「知るか! 何だってそんな事を今言い出しやがるんだ、死にてえのか!」



するとマサはヒデに構わず大きく息を吸い込んで、カメラに向かって喚き始めた。



「おいこら! 聞こえてるか? 見えてるか? 全国のフニャチン極道共! お前らこの状況を見て何とも思わねえのかっ! 修司さんは日本の極道の為に、たった一人で闘ってるんだぞ! それなのにお前らは画面の向こうで高みの見物だと? そんなに破門が怖いか? 命が惜しいか? このインポ野郎共が! お前らみてえな腰抜けは、極道なんか辞めちまえ、このクソ! チンカス!」



ヒデは興奮してまくし立てているマサの肩をポンと叩いた。



「無駄だ。きっとこのカメラは動いちゃいねえよ。行くぞ、場所を変える」



「クソッ! どうにかならないんですかっ、畜生め!」



足元に有った観葉植物の鉢を蹴り飛ばし、マサは悔し涙を拭いながら、後ろ髪引かれる思いでヒデの後を追った。



しかし、ヒデ達の予想は外れていた。このテレビカメラは生きていて、スイッチャーをしていた揚羽蝶メンバーが、必死で訴えるマサを面白がって、ワンセグ放送に流していたのだ。



勿論カフも上がっていて、マイクを通してマサの思いの丈は全て放送された。



「腰抜けだとぉ?」



「インポ野郎とか抜かしてましたぜ」



「俺達だってなぁ、そりゃ……色々なけりゃ駆け付けてえよなぁ」



マサが言うように、まんまと高みの見物をしていた全国の極道達は、言いようのない後味悪さを味わっていた。






─────北辰会 河先支部樋口組事務所




組長の樋口元彌は、若頭である服部公男と組事務所のテレビで『つきのわ』の映像に見入っていた。



「なあ公男よ」



「はい、オヤジ」



公男はその小さい身体をゴムまりのように弾ませて、樋口の側で傅いた。



「こんなご時世だがよぉ、北辰会の後ろ盾をあてにしねえで、昔みたいにうちの組一本でやって行けねえかなぁ」



公男はニッコリと歯を見せる。



「やっぱりオヤジも血が騒いだクチでやすか? 勿論暫くは苦労するでやしょうが、きっと大丈夫だと思いやすぜ。むしろこの状況で何もしねえ後ろ盾なんて、必要ありませんや」



公男は片頬を吊り上げて肩をいからせ、精一杯悪ぶってみせる。



「お前はちっこいから、どうも迫力に欠けるんだよなぁ。だが、やっぱり公男もそう思ってたか。じゃあよ、伊図までよ、いっちょ害虫駆除に行っちまうか?」



組長の樋口も肩をいからせ、公男の視線まで腰を落とすとニヤリと歯を覗かせた。



「おお怖い。オヤジに睨まれたら、蛇でも虎でも蝶々でも、尻尾巻いて逃げ出しまさぁ。実は……いきり立つ若い衆をなだめるのが大変で……。見て下せえよこのメール、『どうしてうちの組は修司さんを助けないんだ!』って、さっきからえらい勢いで入ってきてやす」



樋口組長は微笑んだ。だがその目には爛々と闘志が燃え盛っている。



「うちの組も捨てたもんじゃねえな。若けえもんにもよ、しっかり極道気質は根付いてたってえ訳だ。よし公男、エモノを揃えろ! すぐに伊図へ向かうぞ」



「解りやした!」





─────北辰会 町王子支部関根組



組長の関根巌と若頭の三上庄司も丁度同じ頃、ワンセグの映像を食い入るように観ていた。



「庄司。今関根組は難しい局面にぶち当たっている。お前ならどうする?」



三上は苦笑いをして答えた。



「オヤジさん、それは『北辰会辞めますか? それとも極道辞めますか?』って聞いてらっしゃるんですか? ハッハハハ、なら私の答えは決まってますよ」



関根は煙草のケムリと共にフッと笑みを漏らした。



「そうだよな。そんなの極道を続けるのを選ぶに決まってらぁな! よし、伊図行くぞ! 若いもんに声掛けろ」



「承知しました!」



同じように、マサの訴えを受けた全国の極道達も、各々が闘志に火を付けられていた。『暴対法』に依って失ったかに思われた『極め道』のなんたるかを、修司達の闘いによって呼び起こされた彼らは、思い思いの支度を整え、伊図へ向かって動き出していた。





───────廃ホテル『つきのわ』




一方この頃『つきのわ』の二階では、依然修司と青龍の闘いが続いていた。明美はその上階に位置する一画で、椅子に縛り付けられている。



青龍が優勢だったさっきまでは、煙草を吸いながら余裕綽々で明美を監視していた二人の揚羽蝶メンバーだったが、下のフロアから漏れ聞こえてくる青龍の悲鳴からその劣勢を覚り、そわそわと階下を窺うようになっていた。



明美はそんな二人をじっと見詰めている。そして現地語で交わされる会話の意味を汲み取ろうと、彼らの細かい動作や表情をつぶさに観察していた。



『下の闘いが気になってるみたいね。ウフフ、闘いの様子を見ようかやめようか、ちょっとした小競り合いになってる』



そうやって明美に見られているとも知らず、二人は螺旋状の内階段から階下を探ろうと身を乗り出したり、また言い争ったりしていた。



『こいつらの隙を突いて、なんとか逃げ出せないかしら……』



そう思いながら何気なく窓に目を移すと、見知らぬ大男がひょっこり顔を出していた。



『っ!』



驚いた明美が叫ぼうと息を吸い込んだ時。『しっ!』っと人差し指を立ててジェスチャーをする大男。明美はその笑顔と、片方しか見えないが優しげなまなざしに、彼が敵ではない事を感じ取って口をつぐんだ。



そう。この大男こそ、排水パイプを登ってきた周明だったのだ。



明美が静かに頷いたのを確認すると、周明はそっと窓を開け、音が立たないようにズルズルと、蛇のように身体をくねらせながら部屋へ侵入して来る。



『やだ、オカマみたい! 笑っちゃう』



必死で口を押さえ笑いを堪える明美に、尚も口に人差し指を当てるジェスチャーをしながら、横歩きで揚羽蝶メンバーに近付く周明。



『今度は欽ちゃんみたい……もう……駄目』



ブハッ! ブフフッ



堪らず吹き出した明美をメンバー二人が振り返った刹那。



手近に居た一人を頭ごと回し蹴りで吹き飛ばし、もう一人が怯んだ隙に、そのみぞおちへ手刀を叩き込む。



そして声も立てずに崩れ落ちた二人の揚羽蝶メンバーを見た明美は、溜め息と共に呟いた。



「ふぅぅ、凄い……二人をあっという間に……」



周明は半ば放心状態の明美の後ろに回り、いそいそとロープを解いてやる。



「初めまして……下に聞こえると不味いから、小さい声でご免なさい。私は許周明。修司さんの友達よ? 貴女を助けに来たの」



『やっぱりおネエの人だった!』



周明にロープを解いて貰った明美は、暫く振りで味わう開放感と周明がオカマだったという事実に、思わず満面の笑顔になって、しかし小声で言った。



「有り難うございました周明さん、すっごくお強いんですね」



「いえいえ、修司さんには負けるわよぉ。え~と……明美ちゃんだったかしら。タカシさんから噂は聞いてたわ。修司さんには可愛い彼女が居るってね」



「タカシさん……私のことそんな風に言ってくれてたんです……か? グスッ、嬉しいな」



タカシの名前を聞いてすぐ涙ぐむ明美を見て、周明は『ヤッパリ可愛い女には敵わないわ』と思い、明美に打ち明けた。



「フフ……噂通りキュートだわ。私ね、修司さんを一目見た時から狙ってたんだけど、こんなに素敵な彼女が居るなら、付け入る隙は無いのかしらね……」



「あれ? 修司、男性には興味無いと思うんですけど……」



イタズラっぽい上目遣いで周明を仰ぎ見る明美。



「あら。ノンケの方が落とし甲斐が有るのよっ! ボヤボヤしてると貴女、私に修司さんを取られるわよ?」



明美はあっけらかんと、しかし声を押し殺しながら笑って言う。



「アハ。周明さん面白い! あんな奴で良かったら、助けてくれたお礼に一日位デート相手に貸してもいいですよ?」



「ええっ? 本当に? 楽しみにしてるわ。但し……ここから生きて出られたら……ね……」



周明が言った最後の言葉は、小声で語られたとは思えない程、重く明美にのし掛かった。周明と明美は顔を見合せ、頷き合うと静かに階段から下を覗き込む。



「明美ちゃん……このままここから降りると、ボスの総林に見付かって仲間がわんさかやって来る筈。いくら私でも貴女を守りきれない。でも、どっちにしろ一階には敵が沢山居るから、裏の非常階段で二階へ降りたら一旦室内に戻って、貴女は窓から飛び降りて頂戴。私の部下が貴方を受け止める事になってるから」



明美は黙って話を聞いていたが、堪らず質問した。



「じゃあ修司は? 下に居る修司はどうするんですか」



「貴女を逃がしたら私がここへ戻って来て、必ず修司さんを助けるから心配しないで」



「えっ……それじゃあ間に合わない。修司が死んじゃう!」



明美はそう言うと、さっき周明が倒した揚羽蝶メンバーの元へ駆け寄り、スーツの胸を探って拳銃を取り出した。



「私も戦います。周明さん、このまま階段を降りませんか?」



「さすが修司さんの恋人ね。肝が座ってるわ。でも明美ちゃん、貴女銃を扱った事あるの?」



「昔グァムの射撃場で撃った事が有ります……」



周明は溜め息を吐き、明美を諭すように語り掛けた。



「あのね。人を撃つのって、そんなに易しくないのよ。標的は動いているし、ちょっとした心の乱れでも当たらなくなる。この際はっきり言うけど、明美ちゃんは足手まといなの。そして今回、私の一番大切な目的は、貴女を無事に保護する事。もし貴女に何か有ったら、修司さんに顔向け出来ないじゃない。明美ちゃんの気持ちは解るけど、おとなしく言う事聞いて頂戴。二階まで案内するから、私についてきて!」



「……は……い……」



真剣な周明の瞳を見て、ただ頷くしかなかった明美だったが、その心中は穏やかではなかった。修司の身に迫る絶望的な結末、そんな胸騒ぎに襲われ、彼女の心は張り裂けんばかりだった。頭では周明に従うべきだとは理解していても、身体が言う事を聞かない。



「明美ちゃん、こっちよ! 時間が無いわ、早くついてきて!」



最後の最後まで階下を窺っていた明美は、泣く泣く周明の後を追った。



周明と明美は懐中電灯を頼りに、カツカツと靴音を響かせて真っ暗な非常階段を降りていく。明美を励ますように喋り続ける周明の声が、階段室に反響していた。



「明美ちゃん、貴女達は近々結婚する予定なんでしょ? 羨ましいわね」



「私はそのつもりなんですけど、相手が馬鹿修司じゃ……」



「アッハハハ。でも修司さんは貴女の為に闘ってるんだから素敵よ。……私はこんなヤクザ稼業だから諦めたけど……本当は素敵な彼を見付けて、田舎で庭付きの家を買って、綺麗な花に囲まれながら幸せな暮らしをするのが夢だったの」



「そうなんですか……乙女なんですね」



明美は周明の話に真面目な返答をしている。ゲイというマイノリティに対して何の偏見も持たず、蔑視もしない彼女に対して気を良くした周明は、更に話を続けた。



「そうよ。こう見えて私はお料理の腕にも自信が有るの。いつか私の前に現れる、素敵な彼の為に披露しようと腕を磨いていたのよ。今度明美ちゃんにも振る舞うからね。きっと私の手際良さにびっくりするわよ? 勿論味だってとびきりなんだから! そう、それでね……」



周明はそこまで言い掛けてふと足を止めた。



「……明美ちゃん?」



振り返るとそこには誰も居ない。



「しまった! まさか……」



周明は慌てて今降りてきたばかりの階段を駆け上がっていった。




─────『つきのわ』二階の試合会場




「馬鹿野郎!! お前まで僕に恥をかかせるつもりかっ!?」



総林が現地語で怒鳴り散らした。急に劣勢になった青龍の戦いぶりに怒りを露わにしているようだ。口から血を流しながら肩で息をしている青龍の言葉を、通訳の王が訳した。



「なるほど。お前が鼻歌を歌うのは、雑念を捨て去って無心になる為なんだな。さっきとは技のキレも威力も段違いだ。お前が身に付けた闇空手の恐ろしさ……この身にビリビリ感じているぜ、だそうです……アレ? 北原さん?」



たが修司はそんな言葉も耳に入らない程、自分の世界のただ中に居た。



「恋する女はアクトレスぅ~いたらない私だったけどぉ~最後位はぁ~良い女を演じたいのよ~」



修司が歌うブルースは、この部分に来て正常な音階を取り戻した。その哀しげなメロディが、フロアの隅々迄静かに染み渡って行く。



「あっ、総林様。援軍のフェリーです!」



すると海岸側の窓を眺めていた朱雀が現地語で叫んだ。



「フフフ……やっときたか。ここは僕一人でいいから、お前達は全員下に行って加勢して来い! いいか? 俺達に逆らった極道共を一匹残らず逃がすんじゃないぞ」



「はい!」



朱雀と二階に残っていた数十人の揚羽蝶メンバー達は、階段を急いで駆け下りていった。その様子を見送っていた総林は、ポケットに忍ばせた銃を握り締め、ニヤリと笑った。彼はこの試合の結果がどうなろうと、修司を殺すことを最初から決めていたのだ。


援軍到着の報せを受け、俄然心に余裕が出来た総林は、既に勝利をおさめたが如く優越感に浸っていた。





───ホテル周辺のヒデとマサ




「クソッ! こいつら撃っても撃ってもあとから涌いてきやがる!」



「オヤっさん! もう弾が残り少なくなってきました!」



月明かりに照らされた二人の顔には、びっしょりと汗が伝っていた。



「本格的にヤバくなってきやがったな……」



銃弾を躱す為、柱の陰に身を隠しているヒデとマサの二人は、数時間に及ぶ揚羽蝶との攻防に疲れの色を見せていた。その時、ヒデの携帯が喧しく鳴り響く。



「一体誰だ、こんな時に!」



画面を見ると、発信者は的場組組員のトシこと田原俊之だった。



「おう俺だ! 何の用だ? 解ってるだろうが、今は手が放せねえ」



すると受話器の向こうから、トシの悲鳴じみた声が響いてきた。



『オヤっさん、大変です! 下の砂浜から蝶々共が……ホテル目掛けて続々と……』



「なんだと?」



『沖に停泊してるフェリーからゴムボートがうじゃうじゃ出てきます。生意気にも蝶の旗印を立てて……』



「そんな馬鹿な……マサ! 確かめに行くぞ!」



「はい? どうしたんですか」



不思議そうな顔のマサを、ヒデは有無を言わさず追い立てる。二人は飛び交う銃弾の合間を見ながら慌てて岸壁迄走り、眼下にある砂浜を見た。



「う、嘘だろ……」



そして二人は、岸壁から見下ろしたその光景に言葉を失った。



砂浜からフェリーへと続く海には、揚羽蝶の旗を掲げた大型のゴムボートが百艇以上も浮かんでいる。



それが揃いも揃ってこちらに押し寄せてくる。そして着岸したボートからは、黒服を着込んで銃器を携えた男達がわらわらと溢れ出し、それは蝶というよりも獲物に襲い掛かる軍隊蟻の群れを見ているようだった。



「もう駄目だ……。今居る連中にだって手こずってるってのに……」



マサは言葉を継げないまま立ちすくんでいる。その手から拳銃が岩に落ちて、ガチャンと重たい金属音を響かせた。



「おいマサ、……オイッ!」



「は、はいっ」



自分の名前が呼ばれているのも解らない程、マサは絶望に打ちひしがれている。そんな彼に、ヒデは穏やかな表情で語り掛けた。



「なあマサ。なんだったら逃げちまってもいいんだぜ? わざわざ犬死にする事はねえ。このまま逃げてもよ、誰もお前を責めやしねえさ」



「オヤっ……さん……」



「やっぱり生き証人が居なくちゃな、そうだ。俺に言われて泣く泣く報告に来たとか言って北辰会に行けばいい」



マサはその厚情に心打たれ、俯いて静かに目頭を押さえていた。



「オヤっさん!」



しかしいきなり顔を上げると、何かしらの決心をしたのか、ヒデの目をじっと見据えた。



「俺は確かに、犬死にすんのは御免です」



ヒデはニッコリ笑って言う。



「ああ、お前はまだ若い。的場組を頼んだぞ」



しかしマサの返答は、ヒデの予想の範疇を遥かに超えていた。



「オヤっさん、だから犬死はしません! せめてあいつらを一人でも二人でも道連れにして、華々しく散ってやりますよ!」



「マサ……」



虚勢なのか、或いは自棄になってるのかは定かでないが、マサは精一杯の笑顔を浮かべながら言葉を続けた。



「オヤっさん、俺は組の末席を汚すチンピラですが、これでも極道です。そして親父っさんの子です。きっとあっという間に蜂の巣にされるでしょうが、それでも最後迄『極道』として前を向いて死にたい。そして……どこまでもお供しますよ。オヤっさんと一緒ならね」



ヒデはマサの思いを受けて目頭が熱くなった。普段はどこかのんびり屋で、頼りないマサだが、こんな状況なのに誰よりも腹が座っていて、そして誰よりも親思いだった。



「そうか。もう何も言わねえよ。で、覚悟は決まったのか?」



「ええ、とっくに」



「じゃあいっちょ、華々しく散ってみっか?」



「はい!」



二人は拳銃を固く握り締めながら、ホテルから砂浜へと続いている坂道を駆け降りた。そして、もうすぐそこ迄迫っている揚羽蝶の大部隊の前に躍り出た。



「てめえら! 日本の極道の心意気を見せてやる!」



ヒデとマサが拳銃を構えると、それに呼応するように揚羽蝶達も一斉に銃を構えた。



そして二人が死を覚悟したその時。



ギャッ! グゲェ! ハウッ!



ダララララララ、パンッ、パンッ!



ギャァァァア!



目の前の黒服共が血しぶきと断末魔の叫びを上げながらバタバタと倒れていく。



「な、なんだ!なにが起こってる?」



ヒデ達は慌てて後ろを振り返った。



「か・い・かぁ~ん、なんちゃって! ちと古かったか? イヒヒヒ」



「ひ、日野さん!!」



日野組長は機関銃を肩にからげ、漫画のように歯を剥き出して笑っている。



「おうヒデ、久し振りだな。そっちの若い衆はマサだったか? ずっとテレビでお前達のこと見てたぜ。随分言ってくれるじゃねえか! 俺達も混ぜてくれよ」



「日野さん……どうして? しかもそれ、機関銃じゃないですか」



「おう! お前達に加勢する為に、高倉会長に杯を返して来たんだ。この状況でだんまり決め込んでいたら極道失格だからな。だけどな、この機関銃はその高倉さんからのプレゼントなんだぜ。銃も弾薬もたっぷりだ。あの人も立場的にはこの抗争に関わったら破門だなんて言っているが、結局は俺達を陰で後押ししてくれてんだよ。ま、あの人も内面はイケイケの極道だって事だな。ほら」



そう言って日野は余分に持っていた機関銃を二人に手渡した。



「こりゃ凄げえ! これで少しはマシな戦いが出来る、なあマサ」



「はいっ! オヤっさん」



しかし日野組長は、そんな二人の様子を見て苦笑している。



「ハハ……ヒデ。マシなんてもんじゃないぞ? 二人とも後ろの駐車場を見てみろよ」



「えっ?……エエエッ?!」



日野に促されて視線を送った先には『つきのわ』の駐車場に集結した無数のトラックが有った。



キキィィイッ! バタン



ギィィィイ バタンバタン



そして更に、後から後から砂煙を上げて駆け付ける車両と車から出てくる重装備の男達で、そこにはちょっとした交通渋滞が起きていた。



「日野さん、一体あれは……」



呆然とその様子を見守っているヒデの肩を叩いて、日野は事も無げに言った。



「おう、あの映像を見た全国の極道達が続々とここに集まってるんだ。北辰会だけじゃないぜ。普段は敵対関係にある他の組織も一時休戦の協定を結んで沢山加勢しに来ている」



「オヤっさん、これはひょっとして……」



「ああ。ひょっとするぞ、マサ!」



日野はヤレヤレと肩を竦めて言う。



「けっ! なぁにがひょっとするだ。これだけの猛者が居りゃ絶対に勝てるだろうが!」



その言葉を聞いて、この信じられない事態に右往左往するしかなかった二人は、互いに顔を見合わせ、頷き合う。ほんの五分前には自らの死を覚悟していた彼らだったのに、今は未来の勝利を確信する迄に到ったのだ。



「マサ……お前泣いてんのか?」



「オヤっさんこそ」



「ばっ、バカ野郎! 俺のは海風で砂埃が入ってなぁ……」



日野は手に持っていた銃を高々と掲げて揚羽蝶達を睨み付け、ヒデ達を振り返った。



「いいか? この状況はお前達の勇気が作り上げたもんにちげえねえ。まだまだ日本には本物の極道達がたっぷり居るって事を思い知らせてやろうぜ!」



「はい!!」



「蝶々共を蹴散らしてやれ!」



「おうっ!」



そして極道達の意地を賭けた総力戦が、今ここに始まろうとしている。





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