第11話 奢れる者の末路


───────ホテルつきのわ




「幸せ奏でるブルースはぁ~貴方と二人で歌う物ぉ~」



無心に歌い続ける修司を見詰めながら、青龍は最後の力を振り絞って語り掛けた。



「鼻歌よ。こうやってお前と拳を交えていると、まるで昔から友達だったような錯覚に陥る。それにお前は後れ馳せながらではあるが俺との約束を守って、全力で闘った。だから……俺もその気持ちに応えるぜ」



防戦一方になっていた青龍だったが、一旦修司との間合いを取り、羽を広げるポーズをすると、目にも止まらぬスピードで羽ばたき始めた。



「くっ! あいつのどこにこんな力が残ってたんだ!」



焦る修司に向かって尚も迫ってくる青龍の周りに、剰りの早さで動く腕の残像が孔雀の羽根のように広がった。



「決死拳……孔雀」



そう呟いた青龍から何十という拳が繰り出され、修司の急所という急所に襲い掛かる。



「クソッ! 闇空手、千手観音!」



しかし修司は闇空手の秘技『千手観音』を駆使し、青龍の放った拳を全て受け切った。



「なに?! 全部受け止められただとっ?……アアッ!」



己の生命力全てを注ぎ、最後の攻撃を試みた青龍は、万策尽き果て、膝を折ってうなだれた。



暫くその様子を見守っていた修司は、踞っている青龍に歩み寄る。



「やめるか? 青龍。俺は明美さえ取り戻せればいいんだ」



そう言って修司が手を差しのべた途端。



「アィャァァァア!」



青龍の手刀が修司の喉笛目掛けて繰り出される。



「青龍!」



ズパッ! ブシュッ!



鈍い音と共に、大量の血しぶきが会場に真っ赤な花を咲かせた。



「せ、青龍……何で……」



修司は腕に抱えた青龍をマジマジと見詰めた。切り裂かれた彼の首筋からはドクドクと血が溢れている。



「青龍。お前が攻撃して来なければ、こんな事にはならなかったんだぞ?!」



青龍の手刀を躱した修司は、思わず自分も手刀を打ち返していた。カウンター気味に入ったその切れ味は、青龍の首の皮を引き裂くのに充分過ぎる程の威力だった。



「本物の格闘家……そういうもの。攻撃には自然と反撃する……それ当然。私、死力尽くした。もう……とどめ刺して欲しかった」



囁くような声しか出せなくなった青龍は、たどたどしい日本語で修司に思いを告げる。



「死ぬな青龍! 俺の本気はこんなものじゃない。本気の俺と闘ってみたくはねえのか!?」



「ああ、闘いたい……ずっと……友達のままで……闘っていたい」



「そうだ青龍、だから死ぬな」



修司はもう長くないであろう青龍の、その命ごと支えるように肩を優しく抱いていた。



「なんだ鼻歌……お前、泣いているか?」



息も絶え絶えに、ゆっくりと修司の顔を見上げる青龍。



「いつもだ……いつもなんだ。この『闇』を使うと俺の周りから人が消えていく。立場こそ違うが……きっと話せばいい奴ばかりだったろうに。後味が悪くて仕方ない」



修司はか細い声で、呟くように漏らした。青龍はフッと笑みを零す。



「鼻歌。私とお前、最高の闘い出来た。気分……悪くない」



「青龍……」



修司が見詰める中、青龍はやっとのことで笑みを見せた。



「彼女、拐って悪かった。それで鼻歌……歌の続きは?」



「ああ、続きはな、~別れを告げるブルースはぁ~夜道で一人で歌うものぉ~……だ」



「鼻歌、お前音痴」



「馬鹿野郎、こういうのを味って言うんだ味って! 解ってねえな青龍お前……」



そう言って腕の中を覗き込んだが、もう青龍は息をしていなかった。



「青龍ぅう!」



修司は息絶えた青龍を床にそっと寝かせると、自分が脱いだスーツの上着を丁寧に被せた。



「青龍、地獄でまた会おうな」



修司は涙を拭って立ち上がると、総林を睨み付けながら言い放つ。



「総林、約束だ。明美を連れて帰るぞ」



修司がそう言って上のフロアに続く階段を登ろうとした瞬間。



パンッ



後ろから銃声が響き、修司の左太ももはその凶弾に依って貫かれていた。



「ぐっ……総林……てめえ……」



太ももを抱えるようにして踞り、片膝立ちになった修司は火の着くような痛みに耐えながら総林を睨み付けた。



「鼻歌さん、君はここから生きて帰れるとでも思っていたのかい? 僕は目障りな君と、僕にいちいち刃向かう青龍は始末すると最初から決めていた。だいたい僕は、昔から君達みたいな武闘派っていう連中が鼻に付いて仕方がなかったんだ。たかが殺し合いに美学だなんだと言って、正直面倒なんだよ。と仰ってます」



総林は話しながら青龍の亡骸に近付いていく。



「いいかい? 戦いにはルールも感情も要らない。美学なんてもってのほかだ。ただ相手の隙を突いて、最短の時間で無駄無く命を奪うのみ。そもそも君達がどんなに鍛えても、この拳銃に勝てる訳がないだろう? だそうです」



総林はニヤリと笑い、その銃口をゆっくりと足元の青龍に向けた。



「何をするんだ! やめろ!」



「やめないね」



パンパンパンパンパンパンッ



あっという間に全弾を撃ち尽くした総林は、見る影もなくなった青龍の死体を忌々しげに蹴り飛ばしながら弾倉を入れ替えた。そして修司に向き直る。




「鼻歌さん。面倒なのはもう終わりだ。僕は日本語で話すことにしたよ」



「何? お前日本語が喋れるのか? そう言えばさっき、日本語で『やめないね』と言ったな!」



驚く修司の目に、もっと驚いている王の姿が写った。



「なんで総林様が日本語を……?」



王は俄に青ざめ、その額には脂汗が玉になって浮いている。



「王。植民地の現地語なんて下賤な物を、どうしてこの僕がすき好んで話さなきゃいけないんだい? でも、そうだね。君が時々日本語で悪態ついていたのは、僕には筒抜けだったということだね」



「もっ、申し訳ありません総林様!」



パンッ



「総林さ……ま?」



王の左胸からは弧を描いて血が吹き出している。



「!……っ!」



「だからもう面倒なんだよ。お前の訳は今ひとつだし」



そう言って総林が銃口から立ち昇る硝煙を吹き消すと同時に、王も息絶え崩れ落ちた。



「僕はね、ハイスクールの三年間、この日本に留学していた。そしてその時に、どんどん堕落していく極道達を見たんだ。その時からの『極道殲滅計画』だったのさ。ボスである父が死に、長男次男を公安にリークしたのも僕さ。奴らは僕より年上だってだけで、権力を欲しいままにしてたからね。所詮奴らは器じゃなかったって事さ」



「兄弟を売ったのか!」



修司は総林の冷酷さに開いた口が塞がらなかった。



「それがどうかしたかい? それより聞いてくれよ。そうしたら更に、なんとも都合良く『暴対法』が施行されたじゃないか。これは僕に、早く計画を実行しろという大いなる力からのお導きに違いないと思ったよ。それから僕なりに準備を整え、磐石の態勢を整えてからこうして日本へ上陸したのさ」



「貴様……自分さえ良ければ良いってのか」



「ハッハハハハ、あったり前じゃないか、馬鹿だな。そんな頭の悪い君と話すのも面倒だ。死んで貰うよ?」



総林は身動きの取れない修司に、冷たく光る銃口をゆっくり向け、嬉しそうに片目を瞑り、狙いを定める。



この絶望的な状況に、修司は全てを覚悟した。



その時。



チュィィィン!



総林の足元で跳弾が煙を上げた。



「ワッ! なんだっ?」



「銃を捨てるのよ!」



二人が声のした方を見ると、非常階段のドアから出た所で明美が銃を構えて立っている。



「明美……」



「おお、これはこれは。誰かと思えば貴女か。結婚式場に現れた花嫁さんという所だね」



不慣れな銃を両手で握り締め、カタカタと身体を震わせながら総林に狙いを定めている明美を見て、修司は慌てて叫んだ。



「何やってんだお前! 早く逃げろ!」



しかし明美は視線を修司に一瞬移しただけで、その場を動こうとはしない。



「修司、悪いけど無理。殺されそうになっている恋人を見捨てられる程、私は薄情じゃない!」



総林は、長い髪を振り乱しながら銃を構えている明美を見て、不思議そうに言った。



「おかしいなぁ……貴女には見張りを付けていた筈なのに、一体どうやってここに来たんだい? しかしこうやって僕に銃口を向ける勇気は、さすが鼻歌の花嫁と言った所だな。でもいいのかい? そんなに銃身が震えている所を見ると、貴女は銃の扱いに慣れてないんじゃないかな?」



銃を向けられているというのに、至って総林は落ち着き払っている。そんな事も重なって明美は腹立たしげに言った。



「うるさい! 早く銃を捨てなさいってば!」



明美はそれでも懸命に腰を落とし、力一杯銃を構え直した。



「鼻歌さん、本来なら僕に銃口を向けた奴は即刻処刑する所なんだけど、他ならぬ君の花嫁の戯れだ。特別にチャンスを与えるよ」



総林のニヤケた表情に、修司の心は嫌な予感でざわめき立つ。



「てめえ、何するつもりだ」



「花嫁さん、貴女が持っているリボルバーは弾が六発入る。あと何発有るかは知らないが、今一発撃った所だから、最高でも残りは五発だ。彼を救いたいならその場所から僕を撃て。しかし全弾外した所で僕が貴女を撃ち殺す。どうだい? 面白いゲームだろ?」



修司は顔色を変えて叫んだ。



「ざけんな! そんな勝負、受けられっか!」



しかし当の明美は冷静で、銃口を総林に向けたまま落ち着いて答えた。



「いいわ。女だからって甘く見てたら後悔するわよ」



「明美っ! やめろっ!」



しかし修司の叫びは明美の耳に入らない。高鳴る胸を撫で下ろすと、大きく息を吸って呟いた。



「修司、待っててね。必ず助けてあげるから」



総林は自分の左胸をポンポンと手のひらで叩き、薄ら笑いを浮かべる。



「よおく狙うんだ、花嫁。僕の心臓はここだよ」



「馬鹿にしないで!」



パンッ



一発目は遥かに外れ、見当違いな壁を破壊した。明美は発砲の衝撃でヨロヨロとバランスを崩している。



「四メートルは離れてるぞ。それに目を瞑ったら駄目だ! 彼を救いたいんじゃないのか? もっと真剣に狙い給え」



「ふんっ、吠え面かいても知らないんだから!」



明美は慣れない手つきで撃鉄を起こし、再び照準を合わせる。



「明美! お前には無理だ! 頼むから逃げてくれ!」



修司の悲痛な叫びも、し過ぎる程に興奮している明美には届かない。室内で発砲した為に、鼓膜がおかしくなっているのかも知れなかった。



パンッ



バシュン



二発目は壁を貫通して穴を開けた。



「おおっと、今度は近くなったよ。あと二メートルといった所だ。偉いぞ、その調子その調子」



総林は尚も余裕の態度を崩さない。悔しさでギリギリと歯軋りしている明美は、またしても狙いを定める。



「今度こそ……」



しかし彼女は、やっと射撃に慣れてきたようで、もう銃口が震えなくなっていた。



「中々いい雰囲気になってきたね。でも弾玉が五発有ったとは限らないんだよ? そろそろ決めないとやばいんじゃないかな」



「黙ってて!」



パンッ、ガキィィン!



明美は引き金を引いたが、その銃弾は総林の耳元を掠め、後ろの壁で火花を散らした。



「ヒュゥゥ、今のはヤバかった。ずいぶん上手になったじゃないか」



「修司……絶対、絶対私が助けるから」



明美は総林に照準を合わせ、銃を握った両手に全神経を集中させる。



『私にだって出来る。標的は人間じゃない、ただのポスターよ』



そう自分に言い聞かせるとピタリと照準が合い、微動だにしないで銃口を保持する事が出来た。



「いくわよ」



引き金に力がこもり、シリンダーがゆっくりと回転してゆく。明美のこめかみにツッと汗がひと筋伝った。



カシン!



しかし……無情にもリボルバーから銃声は起こらず、間の抜けた金属音だけが響いた。



「え? 嘘!」



カシン!



「いやだぁ」



カシンカシンッ!



明美の顔からみるみるうちに血の気が引いていく。



カシンカシンカシンカシンカシンッ!



諦めずに何度も引き金を引いてみるが、やはり弾が出る事はなかった。



「フフフ……」



総林は拳銃を持ったままダラリと垂らしていた腕を明美に向けて持ち上げた。口角が上がっているが、その目は少しも笑っていない。



「花嫁さん、残念ながら弾切れだ。約束通り死んで貰うよ? でも安心し給え。すぐに鼻歌もそっちへ送ってあげるから。そしてあの世で仲良く結婚式でも挙げたらいい」



「ハアッ……」



明美は大きな溜め息をつくと、力なく座り込んで修司を見た。



「ごめんね、修司。やっぱり貴方を助けてあげられなかった……」



太ももを抱えて膝ま付いている修司は、激しい痛みに耐えながらも微笑んだ。



「いや、良くやってくれたよ。だから……」



「だから?」



明美はキョトンとした顔で首を傾げた。



「だから逃げろ!」



修司はそう言うとドタドタと痛む足を引き摺りながら、明美と総林の間に割って入る。



「総林、差し違えてもお前は俺が殺す!」



修司は決死の覚悟で総林に襲い掛かるが、足を引き摺りながらでは動きも鈍く、総林からすれば格好の標的でしかない。



「鼻歌。そんなに死に急ぎたいのかい? では、君からだ」



「修司ぃいいっ!」



パンッ!



「ウワッ!」



修司が撃たれ、もんどり打って倒れ込む。



「イヤッ! 修司ぃぃっ!」



「次は貴女だよ、花嫁」



パンッ!



「キャッ!」



総林はあっさり引き金を引き、フロア中に乾いた銃声がこだました。








『ここは……天国?



それとも……地獄?』



明美は目を瞑ったまま考えを巡らせていた。



銃声の後、自分の身体に激しい衝撃を受けて床を転がった記憶だけはうっすらと有る。あれから長い時間が経ったのだろうか、それともほんの僅かな間なのだろうか……。おぼろげな時間感覚が明美を戸惑わせた。



しかし銃弾が自分の身体を貫き、肉を抉られたような痛みは、どこにも感じられない。



『でも、話に聞いた臨死体験って……こんなんだったかしら……』



もう自分の魂は身体から離れていて、痛みや苦しみからは解放されているのかもと、明美は今の状況を推察する。



『でも温かい。何かに抱かれているようだわ……』



天井を仰いでいたその体勢のまま、明美はゆっくりと瞼を開けてみた。そして始めはぼやけていた映像が、だんだんはっきり像を結び出す。半面が黒い眼帯で覆われた、精悍なマスクが現れた。



「貴方は……」



明美はそれきり言葉を失い、思わず涙する。



周明は総林が拳銃を発射する瞬間、明美に飛び付き、懐に彼女を抱いたまま一緒に床を転がって、柱の陰に身を隠したのだ。



しかしその代償として頭部に被弾した。



「大丈夫? どこも怪我はない?」



だが周明は頭から血を流しながらも微笑んで、腕の中に居る明美の心配をしている。



「赤ちゃん居るんでしょ? 貴女が死んだらどうするのよ」



「周明さん……勝手な事してごめんなさい」



周明は微笑みを返して頷くと、明美を守るように寄り添い、そのまま崩れ落ちた。



「えっ? 周明さん? 周明さん、しっかりして! 嫌ぁあっ!」



明美の悲痛な叫び声を聞いて、総林はニヤリと笑った。



「ハハハ。何が起きたかと思えば、今のは周明か。……こいつは都合がいい。探し出す手間が省けたよ。手応えが有ったけどもう死んだかな?」



明美が声の方を窺うと、総林との間に撃たれた修司が転がっている。



「修司……」



気を失う前の映像が明美の脳裏によみがえる。修司は左胸から血しぶきを上げて吹き飛ばされた。心臓を撃ち抜かれていればもう、生きてはいないだろう。



「嫌だよぉ、修司ぃぃぃ……」



「花嫁さんとしては辛いよね、折角命拾いしたのに後家さん確定だ。僕は優しいんだ、貴女が可哀想だから、一思いに殺してあげるよ」



総林は倒れている修司を鼻で笑うと、明美が潜んでいる柱に向かって歩き出した。まるで姿を隠したペットをおびき出す時のように、猫なで声で呼び掛ける。



「ほうら花嫁さん。怖くないよ、一瞬で済ませてあげるから……っ? グッ!」



総林はいきなり首を羽交い締めにされ、視線だけで後ろを窺った。



「鼻……歌……なんで……」



自分の首を締め上げているのは、間違いなく修司が着ていた裏空手の黒い道着だ。総林は苦しみの中、修司が生きているのだと覚った。



「へへ。残念だったな総林、お前が撃ち抜いたのは俺の左胸じゃなくて左の腕だ。確かに痛てえが、死にはしねえ」



「修司!」



死んだと思っていた修司が今、総林の首を締め上げている。明美は顔を輝かせて叫んだ。



「う……ぐっ……クソ……がっ!」



首を締められて顔色がみるみる真っ赤になった総林は、思い切り修司の左太ももに拳を打ち下ろした。



「うがっ!」



修司が激痛に力を抜いた隙に腕の中から抜け出し、総林は手近に有った鉄パイプを拾い上げた。



「死ね鼻歌! このくたばり損ないが!」



だが修司は総林が大きく振りかぶったその懐に突進し、二人は絡み合って床へ転がる。



「総林この野郎、好き放題しやがって!」



修司は馬乗りになってその頬を殴り付ける。



「ぐはっ、ゲホッ」



口の中が切れて、総林は血ヘドを吐いた。



「まだ足りないっ! 身体に解らせてやる!」



修司が更に殴り掛かろうとした時。



「ぎゃっ!」



総林はまたしても傷の有る方の太ももを殴って、痛みに顔を歪ませている修司を押しのけた。



そして総林はすぐさま立ち上がり、転がったままの修司の太ももをしこたま蹴りとばした。



ドスッ! バキッ!



「ぐあっ! ウグッ! むう……」



修司がぐったりした所で総林は口元の血を拭って言った。



「鼻歌、このまま君達を始末するのは造作もないが、僕はこれから下に行って到着した援軍の陣頭指揮を取り、極道達を殲滅してくる。いつまでも遊んでいる暇は無いんでね」



「援軍……だと?」



総林は面白くて堪らないといった様子で腹を抱える。



「アハハ、なんだ知らなかったのかい? 君達のお仲間も百何十人か駆け付けたようだが、こっちの増員は二千人だ」



「にっ、二千人!」



「暫くは君達を生かしておいてあげるから、その間に念仏でも唱えておくんだね」



修司は痛みと落胆で気が遠くなるのを堪えながら唾を吐いた。



「けっ、抜かせ! 数が多けりゃいいってもんでもねえだろが!」



「ハッハハハハ、まあゆっくりしていたまえ。では……」



総林は高らかに笑い、階段を駆け降りていった。



「……畜生……明美っ、周明、大丈夫か?」



修司は足を引き摺り、どうにか明美と周明の元へ辿り着いた。



「修司……私のせいで……私のせいで周明さんがっ!」



明美が泣きながら周明を抱き締めている。



「周明! 死んじまったのか?」



「いいえ、まだ息はあるみたい……でも、早くお医者様に診せないと」



周明の頭からはまだ血が流れている。修司は傷口を見て顔をしかめた。



「これは酷いな。しかし……外はこの状況だ。一体どうやって病院に連れて行くんだ」



二人は顔を見合わせ、しかし為す術もなく黙りこくってしまった。



「ううぅん……兎に角、取り敢えずここから移動しよう。総林が仲間を引き連れて戻って来たら、病院どころか『殺して下さい』と言ってるようなもんだ」



「そうね、急ぎましょう」



二人は協力して、周明を支えながら上階へと移動を開始した。




─────その頃



一階に降りた総林は、エントランス付近に居た揚羽蝶メンバー達と合流していた。



「おい! あんな少人数にいつまでグズグズしているんだ! 援軍と協力して早くケリを付けてしまえ!」



現地語で怒鳴り付ける総林だが、しかしメンバー達の表情は冴えない。



「何か問題でも有るのか!」



大声を出した為に修司から殴られた頬が痛んで、更に腹を立てる総林。



「いや、それが様子が変なんです。あいつら、どんどん人数が増えているような……」



「どういう事だ?」



総林は近くの窓から外を眺めた。ホテル下の駐車場が目に入って、彼は思わず二度見返した。



「な……なんだ? あの車の数は!」



それは『つきのわ』の広い駐車場にびっしりと並んだ極道達の車だった。そしてそこから続々とこちらへ向かってくる黒服に身を包んだ極道達の姿だ。



「援軍との連携は取れているのか?」



「いえ……さき程から試みているのですが、ほとんどの部隊と連絡が取れません!」



ガンッ



総林は目の前の壁を蹴ったが、憂さは少しも晴れなかった。



「クソッ! なんて失態だ! 極道達を一方的に攻めていると思っていたら、僕達の方が追い詰められているとは……どうしたらいいんだ……どうしたら……」



これまでとは違った、総林の狼狽える様子をまの当たりにして、そこに居た揚羽蝶達は絶望感を更に募らせた。




─────つきのわ五階




その頃修司達はホテル五階のフロア迄辿り着いていた。



「明美、ここ良くないか」



「そうね、広そうだから隠れる所も多いし」



「違うって、こんな所に二人で泊まってみたくはないかって事さ」



懐中電灯で辺りを照らしてみるとまだそこは客室だった頃の名残を残していて、ベッドメイキングこそされていないが、高級感に溢れる部屋だった。明美はその調度品に触れ、修司との、幸せな、新婚旅行の妄想で、満たされる……筈もない。



「……な、何言ってんの! 周明さんが大変な時に。私達だって、下から大軍が押し寄せて来たら袋のネズミなのよ?! いい? それで……」



しかし頭を少しだけよぎってしまった幸せな光景を打ち消すように、明美が続けようとした時。



「しっ!……ちょっと黙ってろ!」



「……はい……」



有無を言わさぬ修司の制止に、頬を膨らませて黙り込む明美。修司は素早く窓に駆け寄り、ふと外の様子を窺った。



「おい明美」



「はい、なんでしょうか……」



彼女は背中を向けたまま、殊勝な振りで答える。



「なんだよ、さっきから!」



「だって……修司が怒るんだもん」



「怒ってねえよ。いいからこっち来てみろ」



修司は窓の外を向いたまま真剣な表情をしているが、見ように依っては笑っているようにも取れた。



「何よ、気持ち悪いわね」



明美が促されるまま外を見遣ると、そこは戦場と化していた。



「え?」



各々が掲げた旗印を見てみると、どうやら逃げ惑っているのは揚羽蝶達のようだ。



「どうしてこんなにヤクザ屋さんがいっぱいいるの?」



「さあ……俺もよく解らない……多分ワンセグ放送を見た全国の仲間達が、俺達を助けに来てくれたんじゃないかな」



「やった! じゃあ私達、助かるのね?」



「ああ、多分な。周明も病院に連れて行けるぞ」



二人は互いを見詰め合い、喜びに顔を綻ばせた。




────揚羽蝶vs極道連合



全国から続々と駆け付けた極道達の数は膨れ上がり、その数は二千の揚羽蝶を遥かに上回っていた。



「うおおっ、凄げえ!」



たった今、アルミバンのトラックから降りて来たのは、ロケットランチャーを肩にからげたグループだ。



「おいたちは沖合いのボートを片付けもす」



「はるばる鹿児島から、ご苦労様です」



「気んするこたぁなかですたい!」



彼らは早速ロケットランチャーをボートに向けて放った。



バシュバシュッ! ドカァァァァン! ザッパァァァン!



漆黒の海には派手な水柱が上がり、乗っていた揚羽蝶メンバー達が木の葉のように宙へと舞った。



「おおおおっ!」



彼らの周りに居た極道達は歓喜のシュプレヒコールでその威力を称える。



「こちら横浜支部赤城組ぃ! オープンテラス方面に蝶々が五匹逃げてったぁ。付近のかた、至急駆除をお願いします、ドウゾ」



無線機で提携を取りながら、極道連合は陸に上がった揚羽蝶を追い詰める。



『はい、こちら浦安支部佐藤組ぃ! 只今目標を捕捉しました。直ちに駆除します。……ガガッ、プッ……』



無線機で応答した佐藤組の組員は、この時既に機関銃の狙いを定めていた。



「……てぇえっ!」



リーダー格の男が合図をすると同時に、けたたましい銃声が鳴り響く。



ダラタタタタタタッ! タンッ タタンッ!



もうもうとした煙が晴れたそこには、無残な死骸が累々と横たわる。しかし組員は顔色一つ変えずに無線機で報告する。



「駆除完了しました。またご連絡お願いします」



これらの様子を遠目に見ていた総林は、恐怖でカタカタと震えていた。



「なんだ……一体何なんだ……あいつら……日本の極道は『暴対法』で骨抜きにされた根性無しじゃなかったのか? あれじゃまるで……まるで統制の取れた狼の集まりじゃないか!」





─────つきのわ五階に居る修司達



「ううぅぅぅうん」



長い間昏睡状態にあった周明は、ここに来てようやく意識を取り戻した。



「周明さん……」「周明、気が付いたか?」



「ええ、何とか……」



修司は周明が気を失ってからの動向をかいつまんで話してやった。



「なるほど……外の状況はなんとなく解ったわ。総林は日本の極道達を舐め過ぎてた。きっと今の彼は……全身の皮膚が粟立つほど恐怖に震えている筈。そして今……彼が見ている光景が、私が十年前に心底恐怖した本物の極道の姿なのよ」




─────片やエントランスの総林



周明の言葉通り、彼は恐怖で取り乱し、更に横暴な命令を出していた。



「お前達! 武器を持ってあの極道達の中に飛び込め! お前達の代わりはいくらでも居るが、僕の代わりは居ないんだ! 僕さえ助かれば揚羽蝶は再生出来る。僕を逃がす時間を稼げ! さあ早く行くんだ!」



総林の剰りに勝手な物言いに、メンバー達からは闘争心がまるで消え失せていた。



「い……嫌だ! 死ぬのは嫌だ……」



「死ぬなら……総林様お一人でお願いします!」



「みんなで逃げよう、もう知ったこっちゃない」



「そうだそうだ!」



メンバー達は総林を置いて、一目散に砂浜を目指して走り出した。銘々がシャツを引き裂いた白い布切れを白旗代わりに振りかざしている。



「おい! 僕を裏切るつもりか! 裏切り者には極刑だぞ! 家族も親戚も皆殺しだぞっ!」



そう怒鳴り付ける総林の声など、もうメンバー達の耳には入っていなかった。



「僕を誰だと思ってるんだ、僕に認められたくないのか?……」



総林の声は虚しくエントランスに響き渡り、そして彼はたった一人でその場に取り残されてしまった。



「畜生、馬鹿共が。だから頭の悪い奴らは嫌いなんだ」



そう零しながらも心細くなって周りを見回すと、勝利を確信して和気あいあいと話す極道達がすぐ目の前を行き交っている。



「まっ、マズイ!」



総林は慌てて物陰に隠れて背中を壁に当てたままヘナヘナと座り込み、息を整えた。



「ハア、ハァッ。……あいつらに見つかったら殺される……一体どうしたらいいんだ?……どうしたら……」



この絶体絶命の状況に、総林はフル回転で脳ミソを働かせる。



「そうだ!……あいつらだ……あいつが居るじゃないか!」



総林は手を打って上のフロアを見上げる。



「鼻歌を人質に取れば、なんとか沖のフェリーまで辿り着けるかも知れない。奴がおとなしく言う事を聞くとは思えないが、あの足なら何とかなる。そうだ、また花嫁を拳銃で脅せばいいんだ!」



しかし総林は、自分が拳銃を持っていない事に気付いた。



「クソッ! 丸腰じゃあ、幾らなんでも敵わない」



また総林は思いを巡らす。自分の辿った道筋を遡って記憶を呼び起こす。



「そうだ! 鼻歌から羽交い締めにされた時だ!……でも二階には奴らが居る。逆に僕の拳銃を持って待ち構えてるんじゃないのか?」



総林は周りの極道から見付からないように体勢を低く取り、忍び足で螺旋階段を登っていく。



「ん?……なあんだ。あいつら逃げやがったな、臆病者め!」



そう蔑んで罵っている総林だったが、実の所は胸を撫で下ろしていた。最悪は修司に拳銃を奪われていて、自らの銃で撃ち抜かれる想像までしていたからだ。



そして更に総林はついていた。落とした銃がそのままそこに転がっていたのだ。



「ハハッ! 武闘派だか何だか知らないが、怪我をしてるんだから、拳銃を持つのが当たり前だろう。やはりあいつらは馬鹿だ」



総林は拳銃を拾い上げると右手で固く握り締め、奥にある非常階段を登り始めた。




────五階に居る修司達



その頃彼らは、一時的に意識を取り戻した周明がまた混濁状態に陥り、懸命に語り掛けている最中だった。



「周明、しっかりしろ! もう少しで医者に連れてってやれるから!」



「周明さん、私のせいでこんなになっちゃってごめんなさい! でも死んじゃ駄目よ! 目を醒まして!」



二人の懸命な語り掛けが幸を奏したのか、周明は薄目を開けて微笑んだ。



「フフ……フ、明美ちゃん。貴女の……修司さんを思う気持ちを見くびっていた私が悪いのよ……でも……妊婦さんに怪我が無くて、本当に良かった……」



「ごめんなさい、何でもするから、馬鹿修司なら幾らでも貸すから死なないで!」



周明は明美の肩にユルユルと手を伸ばして、宥めるように言う。



「大丈夫。私は生憎……もうちょっとだけ……死ぬ訳にはいかないのよ。ほら……聞こえるでしょ?」



周明の言葉を聞いて修司はとっさに耳を澄ましたが、何も聞こえてはこなかった。



「何が聞こえるんだ?」



周明を覗き込む修司を制して明美が鋭く囁いた。



「ちょっと待って修司!……確かに聞こえるわ」



修司は目を瞑り、再びじっと耳を澄ましてみる。



「………どこだぁ? 隠れたって……ぞぉ……」



下階から僅かに響いてきた声を聞き、修司と明美は顔を見合わせた。



「この声……総林だな?」



周明は力無く笑って頷いた。



「あいつ……もう逃げ場が無くて……修司さんを盾にここから脱出するつもり……だわ」



「そんなの、返り討ちにしてやるまでさ」



周明は黙ってかぶりを振る。



「修司さんは足を怪我して機敏な動きが取れないし……拳銃も無いでしょ?」



修司は頭を掻きながら答えた。



「ああ。チャカは昔から性に合わないからな。当たるとこんなに痛てえんだ。人になんか向けられっかよ! その辺の物陰からアイツに飛び付きゃあ何とかなるだろうし……」



周明は弱々しく、だがハッキリと釘を刺した。



「そんなの総林に通用するかしら。相変わらず性がない人ね……。貴方はいいけど……もし失敗したら明美ちゃんと赤ちゃんが殺されちゃうのよ? でも私……今日は嫌な予感がしたから一つだけ武器を持ってきたの」



「チャカはちょっとなぁ」



「違うわ……明美ちゃん、私の胸ポケットに入ってる武器を出して」



明美は言われた通りに周明の胸ポケットを探った。



「これって……」



ポケットから出てきたのは、パイナップルのようにゴツゴツとした手榴弾だった。



「修司さん。武器は……それ一つしか無いの……。だからアイツを…充分引きつけて……一発で仕留めなきゃならない。やれる?」



修司は手のひらにある手榴弾を見て溜め息をついた。



「周明。これ、やっぱり使わなきゃ駄目か? アイツ……死んじまうけど……」



「修司さん。話し合いでケリが付く程甘い相手じゃないのよ。明美ちゃんが居るってこと……忘れないでね」



修司は躊躇っていた。しかし、弱々しい声で懸命に説得する周明の言葉を聞いて、とうとう決心した。



「解った。奴をおびき寄せればいいんだな?」



「そうよ……全ては……貴方に掛かっているんだ……からね」



周明は息も絶え絶えに訴えつつも、修司に微笑み掛けた。



その頃、総林は三階のフロアで懸命に修司達を探し回っていた。



「鼻歌ぁあ! 隠れても無駄だ! 殺しはしないからさっさと出て来い! ここか? ここなのか?」



総林はいつ下から極道達が迫ってくるかと怖れおののき、まるで気が触れたかのようにバタバタとあちこちを覗きまくっている。



すると上のフロアから小さな声が聞こえてきた。



「……ろさないだとぉ?……えなんか信用出来るかぁぁ……」



「馬鹿め、黙って隠れていればいいものを! 上だな」



総林はニヤニヤしながら、しかし急いで階段を駆け上がった。



「鼻歌ぁ! 僕は一時的に君を人質にしたいだけだ! 安心して出てき給え!」



総林の声が、より明瞭になった。修司達は声を潜めて囁き合う。



「ほら、予想通りよ。……奴は相当追い詰められてるわ……」



「修司、怖い。下の階で暴れてる……」



「ああ、でも心配無い。暫くシカトして泳がそう。疲れさせるんだ」



しかし周明はすぐさま反対した。



「いえ修司さん。私にはもう……余り時間が無いみたいなの……」



「そんな! 周明さん……」



明美はまた顔を歪めて、今にも泣き出しそうになっている。



「弱気になるな周明、でもそうだな。早いとこ終わらせちまおう」



「……助かるわ」



修司は少し黙って考えていたが、何かを思い立ち、腰を上げた。



「考えたんだが、まず場所を移動しよう。こんな狭い場所でぶっぱなされたらひとたまりもねぇからな」



「ええ」「そうね」



また明美と一緒に周明を支え、修司は看板に展望ロビーと書かれた部屋へ入った。



そこは海に面したガラス張りの部屋で、円を基調にデザインされていた。長い間風雨にさらされていた為か、ガラスは半分程しかはめられていなかった。



「よし、ここでいい。何が来ても一目瞭然だ。奴が入り口から入って来た所をドカン、といく。……いいか? 呼び込むぞ?」



頷く周明を確認して、修司は叫んだ。



「そんな事言って、降りてったら明美達を殺すつもりなんだろう。騙されねえぞ!」



周明を気遣って、修司はあさっての方を向いて怒鳴っている。



「明美ちゃん。修司さんって優しいわね……貴女が羨ましいわ」



「そんな……ただ『気い遣い』なだけですよ。カッコ付けてるだけ」



「なんだ? 何か言ったか?」



「フフフ。こっちの話」



ほんの少し緊張がほぐれた三人の階下に居る総林は、すぐ上の階から聞こえた修司の声に舞い上がっていた。



「この上か。ププッ馬鹿め! 探す手間が省けた。フフン、フン」



鼻歌混じりに非常階段へと取って返す総林。だがそれは恐怖に震えている自分を鼓舞する為の虚勢に他ならない。



彼はいつも標的を追う立場だった。寄ってたかって追い詰めて、その退路を断ち、そしてなぶり殺しにするのがセオリーであり、常勝パターンだった。



しかしそれが初めて追われる立場となり、生命の危険に曝されながら狩られる身分を経験すると、彼は哀れな程臆病になっていた。



「殺さないさ、僕が必要なのは鼻歌、君だけなんだから」



総林は鼻に掛かったイヤラシイ声で返事をすると、再び階段を一歩一歩踏みしめるように登った。



「鼻歌! ここに居るんだね。僕一人だから安心したまえ」



『僕が助かるには、もうお前を人質にする事しか残されていないんだ。絶対に逃がさない!』



総林は必死の形相で廊下を突き進む。ギョロギョロと辺りを見回すその目は、真っ赤に血走っていた。



「総林……貴方は今まで……沢山人の命を奪ってきたのに、自分の命となると……固執するのね」



「その声は周明か? しぶといね。もうとっくに死んでるものだと思ってたよ。それに僕の命とその多大勢の命が同じ重さな訳がないだろう。比べるのがそもそもの間違いなのさ」



総林はニヤニヤ笑い、喋りながら声がする方へと歩いた。



三人は静かに『その瞬間』を待ち構えている。



「明美ちゃん……これから大きな音がするけど……しっかり耳を塞いで、我慢して頂戴ね。お腹の赤ちゃんが心配だけど……修司さんの子だもん、平気よね」



周明は自分の意識が遠のいていく今の状況にもめげず、明美の身を案じている。



「はい。有り難うございます」



そして修司は総林の気配を察知し、二人に告げた。



「来るぞ」



それから間もなく、展望ロビーの入り口に総林が顔を出す。



「三人揃ってこんな所に居たのか。探したぞ。おい鼻歌。君には僕が台湾に帰るまでの人質になって貰いたいんだ。いや、なって貰うよ」



総林は薄気味悪い笑顔を浮かべて修司達に近寄ってくる。



「お前の行き先は台湾じゃない……」



ピンッ



修司は手榴弾の安全ピンを外し、レバーを握った。




──────地獄だ!




「あ?」



ゴロゴロゴトン



突然の事に呆けている総林の足元に、修司が投げた手榴弾が転がった。



「明美、伏せろ!」



修司達は近くに有ったチェストの陰に急いで隠れる。



 チュドォォォオオン!



閃光と爆音を上げ破裂した手榴弾は、激しい衝撃波と共に破片を辺りに撒き散らし、やっと残っていたガラスを全て吹き飛ばして、展望ロビーの中を煙と破壊で満たした。



「うぐっ、ゲホッごほっ! みんな大丈夫か? うがぁぁあっ、耳痛てえっ! 鼓膜が破れるかと思ったぜ」



「修司さんは優しいから……私の耳を塞いでいてくれたからね……」



周明の声はか細く頼りなく、修司の胸を締め付ける。



「お、おう。気にすんな、兄弟」



照れ隠しに周明の側を離れた修司は辺りを見回した。



「しかしなんだな、ケムくて何にも見えねえぞ」



視界は愚か、外から入る月明かりさえも遮断していた煙と粉塵も、時が経つに連れ次第に収まってきた。修司は咳き込みながら歩き出すと、懐中電灯で入り口付近を照らした。



「……う、うわっ!」



「修司? どうかしたの?」



一旦は叫び声を上げた修司は、懐中電灯を照らした格好のまま立ち尽くしている。



「修司!」



「ああ、悪い。まだ耳が聞こえ辛くてな……でもかなり酷い事になってるから、明美は見ちゃ駄目だ。腹の子供に影響する……」



総林は左腕と左足を吹き飛ばされ、血の海に突っ伏していた。



「終わったな。さあ周明、さっさと医者に行こうぜ。俺も耳を診て貰わなきゃ」



修司が笑顔でそう言うと、周明は力なく微笑みを返した。



「馬鹿ね……私の耳なんて塞いでくれなくても、さっきから目も見えないし……耳も……ほとんど聞こえないのよ……」



修司と明美は顔を見合わせ、慌てて周明を励ましていた。



「おい周明! 縁起でも無い! 助かるんだぞ。気をしっかり持て!」



「周明さん、死んじゃ駄目! もう終わったのよ!」



修司は周明を抱き起こし、明美はその手を取り、さすっている。



「なんかね……貴方達の無事を見届けたら……急に身体の力が抜けちゃったみたい……。もうこのまま……眠ることにするわ……」



「おい周明! 死ぬな! こないだ盃を交わしたばかりじゃないか! 明美を助けて貰った礼もしてない! ……てめえ、仮にもモノクロの異名を持つ芍薬の若頭だろ、そんな怪我なんか気合いでぶっ飛ばしやがれ!」



必死に叫ぶ修司の瞳からは大粒の涙が溢れ出していた。周明は弱々しく微笑むと、囁くように言葉を続ける。



「二人共……そんな顔しないで……。こう見えても……私は今……とっても幸せなのよ。マフィアってね……ほとんどは……惨めな死に方をするものなの……ウッ!」



苦しそうに顔を歪める周明に縋り付く明美。



「周明さんっ!」



「だ、大丈夫よ明美ちゃん。……だから私は運がいいの……。こうしてお気に入りの男の腕に抱かれて……その人生に幕を下ろす事が出来るなんて……。ごめんね明美ちゃん……人の彼を捕まえて……私って酷いわね……」



明美が首を激しく左右に振ると、溢れた涙が飛び散った。



「修司さん……明美ちゃんと……お幸せに……ね……」



周明はそう言うと、静かに目を閉じる。



「周明!」「周明さんっ!」



修司は抱いていたその身体から、すうっと生気が抜けていくのを感じた。



「……貴ぃ! 兄貴ぃぃい! どこに居るんだぁ!?」



「修司さん! どちらにいらっしゃいますかぁ?」



下階からヒデ達の声が聞こえてきた。揚羽蝶との闘いを終え、修司達を探しにきたようだ。



間もなく、数人の組員達が展望ロビーにドヤドヤとなだれ込んできた。



「オヤっさん! いらっしゃいました! 修司さん達は無事です!」



ヒデは慌ててそこに駆け付けたが、最初に彼の目に映ったものは、ピクリとも動かなくなった周明の姿だった。



「あ、兄貴……周明さん……」



「ああ……たった今息を引き取った所だ。明美を助ける為に、自分の身を犠牲にしてくれたんだ」



明美は周明に縋り付き、狂ったように泣きじゃくる。



「そんな! 死んでなんかない! だってまだこんなに温かいもの! ほら、目を醒まして、ねえ周明さぁあん!」



ヒデはその目に涙を浮かべて、そっと周明の手を握った。



「俺もついさっき……周明さんに命を救って貰ったばかりなんだぜ?……なのに俺は……なんにもお返し出来なかった」



「ヒデ……俺も同じだよ……。台湾人の癖に……俺達よりよっぽど極道らしい男だった……。最後に『私は幸せなのよ』って言いながら死んでった……」



「そうだったのか……」



修司達が悲しみに暮れていると、組員の一人が慌てて言った。



「オヤっさん、お気持ちはお察し致しますが緊急です。今連絡が入りまして、この騒ぎを嗅ぎ付けたサツが、こちらに向かっているそうです。周明さんのご遺体は俺達が責任を持って運びますから、オヤっさん達はすぐに浜の船に乗って脱出して下さい」



「解った、ご苦労。それじゃ周明さんの事、丁重に頼むぞ。兄貴、姉さん。すぐここからずらかろう」



「そうだな。じゃあ明美……行こう」



いつまでも周明に縋って泣いている明美の手を取って立ち上がり、修司が入り口に向かって歩き出した時。



パンッ!



突拍子もなく銃声が上がった。



「なん……だ……?」



発射された銃弾は修司の背中から脇腹を貫通していた。



「総林?」



銃弾が飛んできた方向に目をやると、手榴弾で左半身を吹き飛ばされ、もう死んだと思われていた総林が、震える銃口をこちらに向けている。



「鼻歌ぁ……地獄へ行くなら……一緒に行こう……ぜ」



そう言って今度こそ総林は動かなくなった。



「畜生……ぐっ……」



修司は血が吹き出ている腹を押さえながら総林に向かって呟く。



「や、野郎……ボスの最後の意地って奴か……。しょうがねぇ……一発貰っといてやるぜ」



そう言ったきり、修司は膝から崩れ落ちるように倒れ込んだ。



「兄貴ぃいい!!」



「嫌ぁぁあ!! 修司ぃい!!」



ヒデと明美の声はホテル中にこだまする程だった。



「どうしようどうしようどうしよう……血が止まらない。止まらないの!……」



明美は泣きながらハンカチを傷口に当てている。修司の鼓動に伴って、血がドクドクと泉のように湧き出していた。



「姉さん。怪我人の予想は付いてたから、モグリだが医者を船に待たせてある。すぐ連れて行こう! おい、お前ら! 急いで兄貴を運ぶんだ!」



「はい!」「解りました」



組員達は修司を担ぎ上げ、急いで船へと向かう。しかし砂浜に乗り上げたトレジャーボートの中は、多数の怪我人でごった返していた。



「痛てえよぉお……薬は無えのかぁ?」



「いつまで待たせりゃ気が済むんだ、畜生め!」



「いでで。早く何とかしてくれぇぇ……」



揚羽蝶との激戦で勝利したとはいえ、極道連合にも多大な被害が出ていたのだ。



「おい! こいつ意識がなくなってるぞ! 誰か!」



「君、ちょっと診てきてくれるか?」



「はい先生」



医師一人、助手が二人で治療に当たっているが、ひっきりなしに運ばれてくる怪我人に、てんてこ舞いの状態だ。ヒデは医師の肩を掴んで懇願する。



「先生、俺の兄貴なんだ。忙しいとこを悪いんだが、診てやって下さい」



「こっちも手が放せないんだが仕方ない。おい春日君、続きをやっておいてくれたまえ」



「はい、先生」



そのいつもとは違う低姿勢のヒデに、医師も渋々従った。



「ふむ……これはマズイな。動脈が損傷して出血性ショックを起こしている」



眼鏡をずらして患部を観察している医師にヒデは縋り付く。



「そんな先生……なんとかしてくれよ。俺の大切な身内なんだよ……」



「ううむ、少々荒っぽいがやるしかないか……」



デッキにただ毛布を敷いただけの上に寝かされている修司を診ていた医師は、満足な照明や手術機器は愚か、麻酔もしないまま動脈の縫合を行った。



「ふう……どうにか応急処置は施したが、輸血もままならない状態だ……正直この患者の生命力次第だ。もし何か有ったらすぐ私を呼ぶように」



傷の縫合を終えた医師はそう言い残し、治療を待つ別の怪我人の元へ、バタバタと走って行く。



「有り難う……ございました」



明美とヒデはそう言って、小さく頭を下げるしかなかった。



「修司……」



明美はずっと修司の側に寄り添い、しっかりと手を握っている。ふと海に目をやると、入り江の凪いだ海面に、輝く月がくっきりと映っていた。



「ああ……海って……綺麗だな……」



不意に修司が目を覚まして呟いた。



「修司?……意識が戻ったのね?」



明美の顔は綻び、その瞳からは涙がとめどなく溢れ出している。



「良かった……このまま目を覚まさないかと思った」



頬を寄せる明美に向かって修司はポツリポツリと呟くように話し始める。



「今日の夕方……この砂浜で俺と明美……そして子供の……三人で戯れる想像をしたんだ。その内……そんな光景が……見られんのかな……」



明美はにっこり笑って腹をさする。



「当たり前でしょ? ここには貴方の子が居るんだから! 家族三人で楽しく暮らすの」



「なあ明美……明美と阿多側【アタガワ】で……一緒に居酒屋をやるって話。実は俺も楽しみにしてたんだ……でも、俺は料理なんか出来ねえから……きっと苦労させちまうな……」



そう呟く修司の頭を撫でながら、また明美は笑う。



「そんなの大丈夫よ。私が貴方にきっちりと仕込んであげるから心配しないで」



「明美……なに怒ってんだよ……仕方ないだろ?……刃物はドスしか持ったことねえんだから……」



修司は苦笑いをしながら頬を掻いている。



「何が? 私、怒ってなんかないよ?」



そう言って修司を覗き込んだ明美は、ハッと息を飲んだ。微妙に修司との会話が噛み合っていないのを不思議に思っていた彼女はこの時、修司の瞳の焦点が合っていない事に気付いたのだ。



「姉さん……兄貴……意識が飛んじまってる……」



明美は慌てて修司を揺すった。



「ちょっと修司、私よ! 解る?」



「明美が暮らしていた所だ……きっと俺も住み心地がいい……場所の筈だろ?……」



しかし修司はそんな明美の問い掛けには答えず、ただただ口を突いて出る言葉を垂れ流しているかのように見えた。



「姉さん。俺、先生を呼んでくる」



「ごめんねヒデ君、お願い」



不安に苛まれながらも気丈に振る舞う明美は、囁くような声しか出せない修司の声を聞き逃さないようにと耳をすました。



「明美……俺……伊豆七島を覚えたんだぞ。伊豆大島、新島、式根島、神津島、三宅島、八丈島、御蔵島そして……ちっちゃいから数えない……利島。どうだ、凄げえだろ……」



明美は無意識に自分との思い出を呟く修司を見て、切なさに胸が千切れそうな思いだった。



「そうよ修司……よく覚えたね。偉いぞ」



自分の言葉は修司に届かない。それでも明美は話を合わせて返事をする。



暫くは、はにかむような表情で虚空を眺めていた修司がまた呟いた。



「明美……もう何も見えなくて……真っ暗なんだ。俺のこと……抱き締めてくれないか?」



「修司……しっかりして!」



明美は言われた通りに修司を抱き締め、そして自分のおでこを修司の額に当てた。



「なあ明美……」



「ん……なぁに?」



「言わなきゃいけない事を……ウッ……思い出したんだ……」



修司は時折苦悶の表情を見せながら話を続ける。



「修司……。頑張って! 言わなきゃいけない事って何?」



「ああ、約束したろ? 死ぬまでには絶対言うって」



明美は顔を涙でグシャグシャにしながらも、更に泣き叫ぶ。



「死ぬなんて言わないで! 約束なんて守らなくていい! 修司が居てくれなきゃ、誰がこの子の父親になるのよ!」



「ああ明美……愛してる……」



修司はそう言った後、眠るように目を閉じた。医者を連れて戻ってきたヒデは、修司を見て立ち尽くす。



「あ、兄……貴……」



「嘘! やだ、冗談はよしてよバカ修司。目を開けなさいよっ!」



この様子を見ていた医師は力無く首を横に振った。



「兄貴……何でだよ」



涙を流しながら肩を落とし、ひざまづくヒデ。明美は修司に抱き付いて泣きじゃくる。



「修司どうして? どうしてよ! 十年も貴方のこと待ってたのに……これから楽しいこといっぱい待ってるのに……貴方の赤ちゃんだって生まれるのに……いやだ……修司が居なくちゃいやだよぉ……お願い……目を覚まして! 修司……修司ぃぃいっ!」



二人の様子を見ながらすすり泣く組員達。トレジャーボートの周りには、寂しげな波音と、消え入りそうに響く船の汽笛だけが聞こえていた。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る