第9話 ホテルつきのわ


─────明美が在籍していたスナック『ラカルタ』




「楽しみだよな、修司。組の仕事でこんなに期待された事なんか無い。腕が鳴るぜ」



「ああ。なんて言っても、今回は全国の代表だからな。試合に勝てば、金一封位は出るかな」



修司、タカシ、周明の三人は、手打ち試合の前に北辰会から激励式を開いて貰う事になっていた。



準備と調査に奔走している周明を除いて、修司とタカシは前祝いと称してご機嫌に酒を酌み交わしている。



「ありゃ、上手く取れない。悪いが修司、皿を押してくれ」



「ああ、ほら」



「サンキュ」



何の気なしにタカシを見ていた修司は、つまみに箸を伸ばすタカシに違和感を覚えた。



「タカシ……」



「ん? どうした修司」



「いや、飲みが足りなさそうだったんでな、ホラ」



箸でつまみのイカゲソを口へ運んでいるタカシに、ビールを注ごうとビンを差し出す修司。



「おお、悪いな。アッ!」



タカシはコップをひっくり返してしまう。



「おお~い、拭く物をくれないか」



カウンターを振り返ってママを呼び付けると、バツの悪そうな顔をして呟いた。



「明美ちゃんが居たら怒られちまうな」



明美が店を辞めた後に採用された新人ホステスが、そそくさとテーブルを拭き出すと修司は、苦虫を噛み潰したような顔でタカシを暫く眺めていた。



「修司、あんまり怒るなよぉ」



「いや、怒る」



「えっ?」



不思議そうな顔で見ているタカシに、修司は鋭い口調で吐き捨てた。



「タカシ、左手見せてみろ」



「なっ何だよ、俺の手がどうしたってんだよ!」



タカシはそう言っただけで、手を出そうとしない。



「いいから出せ。右手じゃないぞ、左手を見せろ」



渋々出したタカシの左手を握り、修司はドスの利いた声で言う。



「タカシ、俺の手を潰すつもりで握ってみろ、……いいから!」



「解ったよ……」



言い返そうとするのを遮って睨み付ける修司に押され、タカシはその手を握り締めた。



「……タカシ、やっぱりお前。……今度の試合、辞退しろよな」



「そ、そんな事出来る訳ねえだろうが!」



そう反論しながらもタカシは解っていた。修司は自分の身を案じてくれているのだと。



「言わせるのか? 『もみじ』で負った傷が癒えてないお前が全力を出せる訳が無い。殺されに行くのも同じだぞ」



タカシは左手を広げ、じっと見詰めて言った。



「ハハ、バレちまったか……。実の所は六、七割しか治ってねえ。面倒でリハビリ行くのをサボっちまった所為かもな。でもまあ、なんとかならぁな」



「馬鹿言うな! 奴らがそんなコンディションで通用する相手だとでも思ってるのか? 冗談じゃない! お前だって解ってる筈だろ。それにお前の得意は左中心のコンビネーション。フィニッシュブローも相手の顎を砕く左フックだ。違うか?!」



修司の叱責を静かに聞きながら、タカシは左手を見続けていた。



「修司。俺達は今まで、組の為に身体を張ってここまで来た。でもよ……最近は時代が変わって、俺達喧嘩師の出番はすっかり減っちまったろ。金勘定もロクに出来ない俺達は、時代遅れで足手まとい。このまま行けば存在感が無くなって……体【テイ】よくお払い箱になるのが関の山だ。



だが、今回は違う。全国の極道達の期待を一心に背負って、時代の最先端を走ってるじゃあねえか! やっと俺達が輝ける瞬間が来たってのに、手が本調子じゃねえからって、投げ出す訳にはいかねえだろぉがっ!」



タカシの語気は次第に荒々しさを増し、遂には修司を怒鳴り付けている。



「ちょっとタカシくん!」



心配したママが声を掛けた。



「大丈夫だよママ。喧嘩じゃないんだ」



修司はそう言ってママに微笑んだが、タカシに掛ける言葉は見付からなかった。その気持ちは修司自身、痛い程に解っていたからだ。



喧嘩師が喧嘩師として輝けるチャンス。



自らの拳のみで勝ち取る勝利と未来。



修司達はこの瞬間の為に存在してきたと言っても過言では無い。



修司はグラスのビールを一気に飲み干した。



「解ったよタカシ。お前がそこまで言うなら、もう止めねえよ。但し一つだけ約束してくれるか? 今度の試合はタップが有効、つまり降参の意志を示せば命は助かるんだ。絶対に意地を張らないって約束してくれ」



タカシは修司の視線を反らしながらつまみに箸を伸ばした。



「修司、お前はどうするつもりだ?」



「俺は駄目だと判断したら、さっさと白旗を上げるさ。明美も居るしな。だからお前も……」



「解った解った。意地を張らずに降参すりゃいいんだろ? まあ勝てばいいだけの話だけだけどな」



「俺だって負ける気はねえよ。まあ、宜しく頼むぜ」



「ああ」



そして二人は、そのまま朝まで酒を酌み交わした。



北辰会主催の激励式も無事終わり、決戦前夜。修司は明美とのひとときをゆったりと過ごしていた。酒が入ったグラス片手にソファーで寛ぎ、その隣にはぴったりと明美が寄り添っている。



「ねえ修司……明日の喧嘩で貴方、まさか死んだりはしないわよね……私……また一人になるのは嫌なんだけど……」



不安そうな顔で見上げてくる明美を、修司は笑い飛ばした。



「ハッハハハ、心配すんな! 明日の試合はルールが有る。武器も使わないし、いざとなったら降参も出来る。用心棒や抗争なんかよりも、ずっと安全な仕事だ」



「そう。それならいいんだけど……」



そんな言葉とは裏腹に、修司の腕に巻き付いた明美の手には力が込められたままだった。



「明美……」



修司は明美の前髪を掻き上げ、額を合わせながら瞳を覗き込む。



「大丈夫だから……。そうだ、闘いの模様は中継されるんだ。俺の格好いい所が見たいなら、そのワンセグを使えよ」



修司は明美を安心させようと軽口を叩いた。顎で示した先にはポータブルナビが置いてあり、彼女はそれを取って画面を眺める。



「ふ~ん、凄いね。でも……出来れば修司の側で応援したいんだけどなぁ」



「ああ、悪いな。今度の試合は北辰会、揚羽蝶双方の関係者以外は入れないんだ。それに、もし来れたとしても、柄の悪い黒服がウヨウヨしてるぞぉ?」



修司はわざと睨みを利かせて両手を挙げ、今にも明美に襲い掛からんとする。



「あら。そんなの気にしてたら、貴方となんか付き合えませんから。ね、鼻歌の修司さん」



そう言って明美は修司の頬に口付けした。そして艶っぽく微笑むと、やんわりとしなだれ掛かる。



「ねぇ……抱いて。明日の試合でボコボコにされたらしばらく構って貰えなくなりそうだから。……今のうちに一杯愛して」



屈託の無い笑顔を見せながら言う明美に、修司は苦笑いしながら言い返した。



「なんで俺がボコられなきゃいけねえんだよ。見てろ、絶対無傷で帰ってきてやらぁ。そんで、スるのは別にいいけど、それ……やっぱ今じゃなきゃ駄目か? これから稽古をしようと思ったんだが……」



「何言ってるの! 試合は明日の夜でしょ? 私が寝たら幾らでも時間は有るじゃない!」



修司は肩を竦めながら鼻で笑ってみせた。



「フン。全く……揚羽蝶よりお前の方がよっぽど怖いよ」



「何それ、どういう意味?」



「いや、こっちの話だ。シャワー浴びてくる」



「逃げるの? 馬鹿修司!」



明美はバスタオルを丸めて修司に投げ付ける。



「おおっと。心配しないでも明美を可愛がりにすぐ戻るさ。勝負下着で待ってな」



「このドスケベ修司!」



二人はそんな何気ない束の間の日常を、心行くまで満喫している。未来に何が待ち受けていようと、今この瞬間が輝いてさえいればいい。口には出さずとも、お互いがお互いを最も必要としている二人だった。




─────決戦当日




空は雲ひとつ無く晴れ渡り、頬を撫でて行く風も爽やかに感じられる、絶好の行楽日和。だが的場組の周辺はそんなのどかな雰囲気とは相反して、異様な緊張と人いきれで包まれていた。



手打ち試合の出場者、修司、タカシ、周明へ一言激励の言葉を掛けようと、何百人という強面の猛者共が集まったのだ。



的場組、石田組、そして滅多な事では表に顔を出さない芍薬のメンバーまでもが集結し、自らの組織を代表する者に激励の言葉を掛け、握手を交わしていく。



「頑張ってくれよな」「期待してます」



「頑張るよ、安心しててくれ」



「極道の未来はお前らに掛かってるんだ」「奴らに痛い目見せてやって下さい」



「ああ、俺達に任せときな」



そうこうしている内、列も最後になって、タカシが疲れた様子で修司に耳打ちした。



「修司、A○Bも大変なんだろうな。試合前だってのに、俺なんかもうヘトヘトだよ」



「バカヤロ、みんな俺達の為に集まってくれてんだぞ!」



そうしてタカシをどやし付けている修司の手を、的場組組長、ヒデこと加納秀明がギュッと握ってきた。



「兄貴。俺は全然心配なんかしてないぜ。また見せてくれるんだろ? いつものようにスカッとする喧嘩を!」



「当たり前だ、相手が誰だろうと、お前達に後味悪い思いはさせない。まあ期待して見てろよ」



「おおっ!」「さすが修司さん!」



修司の頼もしい言葉を聞いて、的場組の組員たちは俄に活気付いた。



そして石田組組長、石田勝敏もタカシの側に歩み寄り、その手を取ってしっかり握り締めた。



「私は若い頃、ずっと貴方の喧嘩に憧れていました。『仏のタカシ』の戦いっぷり、今夜は思い切り堪能させて貰いますよ」



タカシは石田の瞳を真っ直ぐ見詰め返した。



「俺は出所してから野良犬同然でさまよっている所を貴方に拾われました。今こうして極道を続けていられるのは石田さん、貴方のお陰です。やっと……やっと少しだけ貴方にご恩をお返しするチャンスに恵まれたんです。石田組の代表として、恥ずかしくない喧嘩をお見せしますよ!」



「いいぞ!」「日本一!」



今度は石田組の組員達がドッと盛り上がる。



そして最後に芍薬の幹部、漠礼進【ハクレイシン】が周明の元へ歩み寄り、その手を包むように握った。



「私達は普段から若頭の喧嘩を見慣れていますから、貴方の勝ちを信じて疑いません。私達は部屋で良い子にして待っている貴方の子供です。だから父親としては負けられませんよね」



ニッコリ笑って漠がそう言うと、周明は憮然とした表情で言い返した。



「あのね、父親じゃなくて母親でしょ? 『母は強し』なの。いい? この私を怒らせるとどうなるか、よおくテレビで見ていなさい。まったく……か弱い乙女を父親呼ばわりしたりして!」



そんな周明のぼやきを聞いて、集まった強者達の間に笑いが溢れた。



「お三方。お時間です!」



すると黒塗りの大柄な送迎車から降りてきた運転手が、三人に声を掛ける。



「じゃあ、行くとしますか」



タカシが二人に目配せをしてそれぞれが車に向かうと、そのタイミングを見計らってこの場に集まった全員が一斉に声を上げた。



「行ってらっしゃい!!」



修司はニヤリと笑いながら親指を突き出した。



「任せとけ!」





─────




三人は伊図の北側温泉郷へ向け、車を走らせていた。第三K浜から小田藁、ターンパイクを抜け、綿海を超え、伊等をノロノロと進む。この万年渋滞ルート、国道X35号線を走っているさ中、後部座席で窓の外を眺めながら、各々が無言で集中力を高めていた。



「なあ周明、聞いてもいいか?」



その沈黙を破って、タカシが周明を振り返る。



「ええ、いいわ。なんでもどうぞ」



「青龍がどんな奴かは知ってるが……後の二人、明明【ミンメイ】と朱雀【スザク】についても教えてくれないか?」



周明は車窓を流れる海の景色を眺めたまま答えた。



「朱雀は……台湾で総林の右腕だった男。若きエリートでもあり、その武術の腕前は私の耳にも届いてたわ。見た事は無いけど、手強い相手である事は間違いないでしょうね」



「若きエリートか……」



「そう、そして明明は、私の揚羽蝶時代の同僚であり、親友でもあるの」



「親友?」



修司とタカシは声を揃えて驚いた。



「ええ。台湾で或る抗争が有った時、彼と一緒にチームを率いたの。……それから意気投合して、よく飲みに行ったりしてたのよ。所詮マフィアの世界だから、冷酷で非情な奴が多い中、彼だけは違ってた。マフィアの殆んどは、金と権力欲しさにこの世界に入って来るけど、彼は私と同じように幼い頃から貧しくて、食う宛もなく……仕方なしにこの世界に足を踏み入れたの。殺伐としたマフィア社会といえども、自分を慕ってくれる仲間達とは、ささやかながらでも笑って生きていたい……私と同じ価値観を持った、数少ない友人の一人」



「そうか……組み合わせに依っては、親友と当たるかも知れないって訳だな」



そうタカシが聞くと、周明は少し悲し気に前髪を掻き上げ、低い声で呟いた。



「もし当たったら、親友と殺し合わなければいけないわ」



「おいおい、この試合は降参が出来るんだぜ? そんな大袈裟に考えなくてもいいんじゃないか?」



身を乗り出して問い質すタカシをそのままに、周明は海の向こうへ視線を投げている。



「……貴方達日本人にも武士道って物が有るでしょう? それと同じように、私達台湾人も武道を志す者には師からの教えが有り、美学が有る。私は死ぬまで決してタップはしないし、それは揚羽蝶の選手達も同じ筈。つまり……この試合で貴方達とサヨナラって事も有り得るのよね……」



「そりゃ穏やかじゃねえな。たかが代表試合じゃねえか。確かに組織の代表としてみっともないザマは見せられねえが、何もそこまで気張らなくても……なあ、タカシ」



「そうだぜ周明。修司の言う通りだ。俺達はヤバくなったらすぐ白旗上げるつもりだぜ? お前もそうしろよ、な? な?」



「フフフ……二人に気遣って貰えて嬉しいわ。でもね、そうも行かないのよ。……まあ、簡単にやられないつもりではいるけどね」



修司達の説得も虚しく、周明の考えは変わる事が無い様だ。彼は寂しそうに窓の外を眺め、一同にはまた黙黙が訪れた。



「あ、カモメだ」



周明の視線を追ってタカシが見遣ると、そこには一羽のカモメが浮かんでいる。その姿は、周明の孤独な様を写し出しているかのようだった。



車から降りた三人は、伊図北側ホッカワ温泉郷の外れに位置する『つきのわ』の前に佇んでいた。



それは崖の上にポツンと建っていて、営業をやめてから長い年月を経ている十三階建てのホテルだった建物だ。



場所が災いして経営難に陥ったことから建て替えの予定もなく、周りに張り巡らされた立ち入り禁止のバリケードさえ老朽化し、ぼろぼろに錆びくれている。



この場所を訪れる人間は昼間に少しの釣り人と、夜も更けてから肝試しに訪れる、物好きな若者位のものだった。



タカシはその廃ホテルの佇まいを見上げながら、ぼそりと呟いた。



「なるほど、いい場所だ」



眼下に広がる太平洋には夕陽を浴びた大島が浮かび、しりえに聳える稜線はオレンジに縁取られている。ポツリポツリと浮かんだ雲は紫色になって、一足先に夕闇の世界へとその表情を変えていく。



「そうだな、タカシ」



タカシがニヤリと笑って修司を振り返った。



「景色の事じゃないぞ、修司」



「へっ?」



修司はまの抜けた表情でタカシを見ている。



「周りを見てみろ、修司。ここならひと気も無いし、銃撃戦が起こっても通報される心配は無い。更に、もしサツに嗅ぎ付けられて踏み込まれても、そこの海岸沿いから船で脱出出来る。いい場所を考えたもんだ」



タカシの視線を追うと、岸壁のふもとに申し訳程度の砂浜が有り、その場に不釣り合いなトレジャーボートが何隻も並んでいた。



「なるほどな、でもよぉタカシ。今日は代表者同士の喧嘩なんだぜ? 銃撃戦なんか起こらないんじゃないのか?」



するとタカシは修司の肩をポンと叩いた。



「ま、所詮はヤクザとマフィアだ。いざとなったら何が有っても不思議じゃねえ。まあ、愚図愚図してても性が無い。入ろうぜ」



「そうよ。揚羽蝶のメンバーにも、跳ねっ返りのチンピラがうじゃうじゃ居るわ。私もタカシさんの意見に賛成。それに……」



「それに、何だ?」



「いいえタカシさん。何でも……何でもないわ」



その煮え切らない態度に業を煮やしたタカシは、周明に喰って掛かる。



「ハッキリしねえな、らしくもねえ」



「フフ、そうよね。いえ、総林はまだ子供よ。組織をまとめる覚悟も責任もないわ。自棄になったら何をするか……だから、何事もなく終わるとはハナから考えない方がいいかも知れない……」



そんな周明を修司は笑い飛ばして言った。



「ハッハハハ! なぁに、そん時はそん時だ、だらしねえぞ兄弟。ホラさっさと入ろうぜ」



「フフ、そうね、そうよね。それじゃ入りましょ」



エントランス脇の通用扉を三人がくぐると、そこにはポツリと照明が灯っていて、そのダウンライトで照らされたロビーの奥には、北辰会幹部の日野恵三が居た。



「よう! 待ってたぞ。試合会場は五階の結婚式会場だった場所だ。かなり広かったから暴れ易そうだぜ。それに司会は俺が仰せつかった。しっかり盛り上げてやるからな!」



日野は親指を立て、満面の笑みを湛えている。タカシが辺りを見回して言った。



「それは心強いです日野さん! しっかし、中は酷い有り様ですね。机や椅子が散乱してるし、窓ガラスはグチャグチャだ。薄気味悪いったら無い」



「まあ、元は廃墟だった場所だからな。だけど五階は快適だぜ。掃除はキチンとしてあるし、仮設電源を引いて照明も完備している。さすがにエレベーターは動かないが、通路も階段もキレイなもんだ」



「あら、凄い。随分準備がいいのね」



周明も落ち着きなく周りをキョロキョロ見回している。



「そりゃ何しろ一世一代の大勝負だ、抜かりはねえ。さ、行こうか。お客さんが大勢待ってるぜ」



「揚羽蝶共もですか?」



「ああ。うちら北辰会の面々は元より、向こうのボスもすっかりお待ち兼ねだ」



日野の案内で五階に上がり廊下を進むと、そこには事前の示し合わせ通り、北辰会、揚羽蝶双方20人ずつが鎮座しており、お互い睨み合っていて、一種異様な雰囲気に支配されている。



三人はその空気に圧倒され、暫く身動きが出来ずにいた。すると揚羽蝶のボス、金総林【キムソウレイ】がこちらに気付いて、通訳とボディーガードを伴いやってきた。通訳の王【ワン】が同時通訳を始める。



「初めまして。北原修司さん、権田隆史さん。そして周明、久し振りだね。と申されております」



「総林、台湾では偉くなったみたいだけど……日本でこんな大袈裟な真似をして、果たして貴方の思惑通りに行くかしらね……」



「はっははは」



総林は耳に付く甲高い笑い声を上げると、通訳に耳打ちする。



「すっかり日本語が板に付いてるじゃないか。だが質問がいただけない。自信が有るから仕掛けたに決まってるだろ。それに裏切り者は粛正しないと、組織の面目が立たないんでね。君は確かに強かったけど、今の揚羽蝶には君が足元にも及ばない奴らが沢山居るところを見せてあげるよ。と申されております」



周明は答える代わりにニヤリと笑った。



「喰えない男だな。だそうです」



「乙女よ」



食い気味に否定する周明。すると話の最中に、揚羽蝶メンバーの中から、もう一人ツカツカと強い足取りで歩いてくる者が居た。



その男は、迷い無く修司の前まで進み、その鼻先が触れる程に近付いて、鋭い眼光を迸らせている。



しかし修司は男を敵視するどころか、久し振りの友との再会を喜ぶように、腕の傷跡を差し出し、笑顔まで見せていた。



「よお青龍、久し振りだな。あばらは直ったかい? 俺もこの通りだ。傷痕は勲章だな」



「ああ……うう、あ……ハナウタ……」



過去に心の傷を受けて言語障害を患った青龍は、それでも修司に何かを訴えようと声を絞り出している。



「そうそう。よく覚えててくれたな、鼻歌だ。俺もお前と決着を付けたいけど、対戦相手はくじ引きで決めるらしい。もし俺達に縁が有るなら、拳を交える事になる筈だ。楽しみだな、青龍」



青龍は修司の笑顔に答えるように頷くと、修司の胸にポンと拳を当てた。



「ユィ……以后見」



「後で、だそうです」



「おう、またな青龍」



修司が手を上げると、青龍は所定の位置まで戻って行った。



そして各々の様子を見守っていた日野組長が、高らかに声を上げた。



「只今21時45分です。定刻が近付きましたので、選手のくじ引きを始めたいと思います」



そのくじは、三組六本の棒に赤、青、黄色の色をつけた簡単なもので、引いた色で対戦相手と試合の順番が決まる。赤一番、青二番、黄色がしんがりである。



「俺から行くぜ」



タカシが颯爽と日野の手に有る北辰会側の棒を引く。



「黄色だ。きっちり試合を締めさせて貰うぜ」



続いて朱雀が赤を引いた。次に明明が青を引く。



「二番手だから一服する時間は有りそうだな、と言っています」



そしていよいよ周明が日野のくじ棒に手を掛けた。



「エイッ!」



暫くの間微動だにしなかった周明は、何かを振り切るようにきびすを返し、取った棒を明明の方にかざした。



「引いちゃったわよ……青」



それを見て明明は苦笑している。



「あ~あ、馬鹿だな。引いちまいやがったか。……と、言っています」



周明は明明の前まで進み出て、そして明るく笑って見せた。



「明明、これは運命ね。諦めて殺し合いましょう」



「だからあの時、大人しく揚羽蝶に戻れば良かったんだ。親友を殺すと後味が悪いんだぜ? そこんとこ解ってる?……だそうです」



「仕方ないでしょ、そういう生き方を選んじゃったんだから。明明はやっぱり……降参しないわよね」



「勿論。だから俺達の決着は、どっちかが死ぬか、それとも気を失うか、或いは相討ちしか無い、だそうです」



明明はおちゃらけた様子で肩を竦めた。



「そうね、せめて私が優しく昇天させてあげる」



「抜かせ……こっちの台詞だ。だそうです」



結果修司の赤と青龍の黄色が残り、試合の組み合わせは決まった。



「残念だな、青龍。俺達は結局、縁が無かったらしい」



どこか悲しげな表情の青龍。その間に割って入って来たのは揚羽蝶の若き武術家朱雀【スザク】。彼はやかましい程の現地語で捲し立てる。



「あんたの相手は俺だ。本当は裏切り者の許周明を狙ってたんだが、青龍様との闘いを相討ちに持ち込んだその腕にはかなりそそられていたんだ。楽しませてくれよな、オッサン」



「誰がオッサンだ!」



修司は通訳の王に喰って掛かる。



「いや、朱雀様がそう仰ったので……」



「そ、そうか。でもな、俺はまだ32だ。お兄さんと呼べ。それにしてもお前は随分腕に自信がありそうだな。歳は幾つだ」



それを聞いた朱雀は不敵に笑う。



「23だ。一応台湾の若手で俺の右に出る者は居ない。ここのメンバーにも負ける気はしないけどな、と言ってます」



「そいつは楽しみだ。一つ聞いておくが、お前も他のメンバーと一緒で絶対に降参はしないんだろ?」



「ああ。俺達は絶対にタップはしないし、向かってくる敵はどんなに弱い奴でも全力で倒す。そう師に教わった、と言ってます」



「解ったよ。さあ俺達の試合が最初だぜ。身体を暖めておけ」



「ハハ。アップが必要な試合になるとは思えないけどな」



「何だとこら」



通訳の襟首を絞り上げて修司が凄んだ。



「で……ですから、朱雀様のお言葉です」



「し、知ってるっつうんだよ」



修司は通訳を突き飛ばす様にして手をほどいた。初戦の二人は所定の位置まで戻り、銘々の方法でウォーミングアップを始めた。



その様子を見ていたタカシは、試合相手に決まった青龍の元へ歩み寄る。そして通訳の王を呼び付け、話し始めた。



「青龍、お目当ての修司じゃなくて悪かったな。だが、お前をゾクゾクさせる程の闘いをする自信は、俺にだって有るんだぜ?」



「あう……あ、ああ……えあ」



必死に答えようとする青龍を見て、事情を知っているタカシは笑顔で言った。



「言葉は要らねえ。格闘家同士、拳で語り合おうじゃねえか。じゃ、また後でな」



北辰会側の陣地では、日野が修司に携帯のワンセグ画面をこれ見よがしに見せている。



「ほら修司! こうして全国の極道達が見てるんだ。みっともない試合だけはすんなよな!」



修司は頭を掻きながら答えた。



「ハハハ。テレビで見られてなくてもいいとこ見せますって、日野さん」



そう。日野の言う通り、全国の極道達がこの試合を見守っていた。



そして明美も……。



「修司……。試合なんか負けちゃってもいいから……とにかく無事で帰って来て……」



明美は自宅のソファーに座り、ポータブルナビのワンセグ画面を見詰めながら、両手を握り締めている。時折画面に写り込む修司を、祈るような気持ちで探していた。



そしてその頃、的場組の事務所では、組員一同、数十人の猛者達が応接室に集まり、テレビモニターの前で押し合いへし合いしている。



「神様仏様修司様……どうか頑張って下さい」



心細げに呟く組員達。



その中に在って組長の加納秀明は、人一倍緊張して画面に見入っていた。



『兄貴、兄貴ならきっとやってくれるよな……』



「それでは北辰会代表北原修司、揚羽蝶代表羽朱雀、前に出て」



闘技場の中心に両名が進み出る。一瞬の間【マ】を置いて、主審が手旗を降り下ろした。



「始め!」



この瞬間、ヒデは胸の熱い高鳴りを抑え切れず、大声で叫んでいた。



「行っけぇえ! 兄貴ぃ!! ぶちかませぇえ!」



右手刀を相手に向け、固く握り締めた左拳を腰に携えたオーソドックススタイルの修司に対して、朱雀の構えは中国拳法独特の、動物や昆虫を模した『形意拳』のそれだった。



「それはカマキリ……蟷螂拳【トウロウケン】だな」



カマキリが獲物を狙う時のように、鎌に模した両手を修司に向け、前後に重心を移動させながら威嚇する朱雀。



「フフフ……よく解ったな、オッサン」



「なんだとぉ?!」



通訳の王を睨んだ修司は、呆れ顔で朱雀を指差している彼を見て、頭を掻いた。



「またやっちまった……クッ!」



その瞬間、朱雀の鎌を模した両腕が頭上から降ってきた。修司は慌てて腕をクロスさせ上段からの攻撃を受け止める。



「ぐえっ!」



だが修司が攻撃の体勢に移る僅かの隙を突いて、そのがら空きとなった中段、腹部に朱雀が放った前蹴りが決まった。



「畜生……ゆ、油断した……クッ!」



朱雀の攻撃は尚も止む事は無い。上からの攻撃を避けたかと思えば横から鎌が飛んできて、それを払ったかと思えばローキックで足元を浚われそうになる。



「くっそぉ、息つく暇もねぇ」



空手とは全く違う朱雀の波状攻撃に、修司の顔色が変わる。彼は大地を蹴って、朱雀との間合いを大きく取った。



「このやろ、やるじゃねぇか! 凄い手応えだ!」



「フッ、No.1だって言ったろ?」



聞こえる限りの言葉を必死で伝える王の通訳も、修司と朱雀、互いのコミュニケーションを助けている。



そして間髪入れずに朱雀は修司に駆け寄り、中段突き、カギ突き、コンビネーション途中に放つ下段回し蹴りで修司を翻弄する。



「くっ! 見た目程軽くはねえな」



修司が朱雀の攻撃を受け止める度、肉を鞭で叩いたような乾いた音が闘技場に響いている。



「おいおい……修司さん本当に大丈夫なのか?」



防戦一方に見える修司に、北辰会側の組員達から不安そうな呟きが漏れ出した。



それを裏打ちするように、朱雀の攻撃をガードする修司の両腕がみるみるうちに紫色となり、腫れ上がっていく。



「ハハハ、オッサン。手も足も出ないか」



朱雀の攻撃は容赦なく次々と繰り出される。しかし、修司の構えは揺るがなかった。その数多の攻撃の中には、只の一打もクリーンヒットが無いのだ。この様子を見て朱雀はある不安を覚えた。



『き、効いてない?』



朱雀は自らの頭に湧いてきたその疑問を、叫びながら更なる連続攻撃を仕掛ける事で打ち消した。



「ウオオオオオオぉぉおお!」



だが焦りからか、次第に攻撃は的外れになり、やがて朱雀の疑問は決定的な確信となる。



『! このオッサン……笑って……やがる……』



紫色に腫れ上がった両腕にガードされた向こうで、修司は微笑んでいるように見えた。



「ふざけるな! ふざけるなよ……このクソおやじ!」



相変わらず連続技を繰り出し続ける朱雀だが、スタミナと共に、若手No.1という自信もみるみる削られていく。朱雀の呼吸は乱れ、その攻撃は途切れ途切れになっていった。



「なんなんだ、なんで俺の攻撃が効かないんだ!」



息も絶え絶えとなった朱雀は、とうとうその動きを止めてしまう。すると修司はそのガードした腕の隙間から顔を覗かせ、歯を見せて笑った。



「終わり……かな?」



朱雀は構える事も出来ずに肩で息をしているが、その眼光だけは爛々と修司の瞳を貫いている。



「ま、……まだだ」



「まぁ無理すんな。お前はなかなかいい腕を持ってる。恐らく武術家としての伸びしろも俺より上だ。あと五年真剣に修行してみな。きっと俺なんか太刀打ち出来ねぇ程凄え男になれる筈だぜ」



この修司の言葉に、朱雀は怒りと悔しさでわなわなと震え、そして猪の如く修司の元へと走り出した。



「ふざけんな! お前なんか絶対に認めねぇ!」



そして、朱雀の渾身の右下段回しがヒットしたと思われた刹那。



修司はニッコリ笑って、そしてボソリと呟いた。



「また会おうぜ……朱雀」



朱雀の下段回しを軽くバックステップで交わし、そのままその右足をすくい上げた。



「うおっ!」



朱雀の体はそのまま宙に浮き、なすすべもなく背中から固い地面に落下する。



「グエッ!……ウググッ」



彼は一瞬悶絶したものの、諦めずに立ち上がろうとしている。



しかし修司はその一瞬を見逃さず、上体を起こし掛けた朱雀の額目掛けて側面足刀蹴りを放った。



「!!」



朱雀の頭部はそのまま固い地面にバウンドし、鈍い音と共にその意識を刈り取られる。



「……ふう……若い奴の相手はしんどいぜ」



修司はそう呟いた後、倒れた朱雀に深々と一礼を送った。



主審がそそくさと朱雀に駆け寄り、その意識が無い事を確認すると素早く中央に戻り、高らかに宣言した。



「それまで! 羽朱雀の意識喪失により勝者、北辰会北原修司!」



静まり返る闘技場。唖然とする揚羽蝶の面々。横たわる朱雀と仁王立ちの修司。



「やったぜ」



修司が振り返ってガッツポーズを見せると、北辰会側の見届け人達は一斉に歓喜の声を上げた。



「うおお……血がたぎるぜ。やっぱり喧嘩ってのはこうでなくちゃな」



司会である筈の日野も興奮して、北辰会の組員達と手を取り合って小躍りしている。



その様子をテレビで見ていた的場組の組員達も、同じく歓喜の声を上げていた。



「やったやった! やりました! 組長、修司さんがやってくれましたよ!」



「っせえな、観てたよ! 勝つのはあたりめえだろ、兄貴なんだからよ」



そう言いながらヒデは平静を装っている。しかしそれは組員達の手前だからこその痩せ我慢に他ならない。本当はその場で体一杯に喜びを表現したいのが正直な気持ちだった。



『兄貴お疲れ。格好良かったぜ。さあ次は周明さんか。モノクロの異名の真髄、たっぷりと見せて貰いますよ』



そして組員達の視線は再び画面に釘付けとなった。



一方、揚羽蝶側の席でその様子を見ていた総林と明明は呆然自失となっていた。



「な、なんなんだアイツは。今の今まで朱雀が一方的に攻めていたじゃないか、そうだろ明明」



総林の質問に明明は静かに言い放つ。



「あの男、本気では無かったと思います。奴はまだ全くその実力の底を見せていません。あの時青龍を倒したのはまぐれではなかったという事です。しかし、次で私が勝てばイーブンですから、ご安心なさって下さい」



明明はそう言って闘技場の中心に向かい歩き出した。そしてそこには、既に周明がアップをしながら待ち構えている。周明は明明を見据えるとニヤリと笑った。



「明明いい? 手抜きなんかしたら瞬殺よ」



明明もフッと笑い返す。



「抜かせ! こっちの台詞だ」



二人はお互いに言葉で牽制し合っている。



「北辰会代表許周明。揚羽蝶代表呉明明。前へ出て!」



「おう!」「はい!」



審判の呼び掛けに二人は威勢良く前へ出た。



審判を挟んで睨み合う二人。そのピリピリとした雰囲気に、会場中の人間が息を飲んだ。



「始めいっ!」



合図と共に二匹の獣は、自らの獲物を目掛けて猛然と襲い掛かった。



「ハイッ!」



周明は明明の顔面に足刀蹴りを放つ。まさに刀と呼ぶに相応しい切れ味の足刀が二回、三回と明明に繰り出される。



「あい、あいやっ!」



しかし明明はこれを紙一重で右へ左へと交わし、周明の一瞬の引きの遅れを見計らい、下段蹴りで周明の軸足を払いにいった。



「ハイッ!」



しかし周明は、この蹴り足に一瞬で右足を合わせ、そのまま空中に逃げ、ふわりと一回転して難を逃れた。



「ちっ!相変わらず猿みたいな身のこなしだな」



王の通訳が会場に響き渡り、周明も現地語で返す。



「貴方の重い攻撃は一発でも命取り、当然でしょ」



二人の目にも留まらぬ攻防に、場内の見届け人達はその武術レベルの高さを知り、声も出せずに見入っていた。



正に興奮の坩堝と化した場内だったが、闘いの様子を見ていたタカシは、落ち着き払って隣の修司に問い掛けた。



「修司よ……この勝負……どう見る?」



「どうかな……微妙だな。技と切れの周明に対して、アグレッシブな攻めとパワーの明明ってとこだ。二人とも総合力に差がある訳じゃ無いから……均衡が破れると一瞬で勝負が着くぞ」



修司も冷静に返す。二人は格闘家として、周明と明明の闘いをつぶさに観察していたのだ。



「やっぱりそうか……」



そして、修司が言ったその均衡が徐々に崩れ始めた。



「くぉのっ」



「甘いわよ、ハイッ」



「ぐはっ!」



明明の剛腕が頬をかすめる一瞬に、周明のスピードある掌底が明明の頬を捉え始める。その口からは鮮血が滴り落ちていた。



「クソが……相変わらずはええな」



「フフフ……私も必死なのよ」



明明の周りで軽快にステップを踏み、周明はその片頬に笑みを浮かべていた。



「行くわよっ、ハイハイッ、ハイヤァ!」



そして周明は一気に勝負を決めに行く。ふらつきながらも拳を繰り出す明明をあざ笑うように、二つ三つと顔面を殴り付けた。



「あうっ! グハッ!」



明明の視点はうつろに天井を見上げ、周明は勝利を確信した。



「終わりかしら?」



しかし、その周明の油断は致命的だった。明明も一流のヒットマンであり、彼が勝利を手繰り寄せる時は、いつもこんな場面からだったのだ。



「へへへ。つっかま~えた」



「な、なんですって?」



周明の左手首は、満面の笑みを湛えた明明にガッシリと握られていた。



「離しなさいよっ!」



周明はすかさず上段回し蹴りを顔面に叩き込むが、その蹴り足はまた明明に掴まれる。



「くっ、この馬鹿力!」



「ハハハ。ほうら、高い高ぁぁい」



明明はその怪力で周明の身体を高々と持ち上げると、そのまま固い地面へと叩き付けた。



「テヤァッ!」



「ゲボッ!……う、ぐぐ……」



体がバラバラになりそうな衝撃に地面を這いながら呻く周明。明明はこのチャンスを逃すまいと、まるでサッカーボールでも蹴るように周明の腹部を何度も執拗に蹴り上げる。



「終わりだ! 周明!」



明明は高らかに笑いながら蹴り続けた。



「おい、周明さん……ヤバくねえか」



北辰会側の見届け人席からそんな声が聞こえ始めた時。



「ハイヤァァッ!」



周明は、その蹴りの一つを冷静にキャッチし、ニヤリと笑って明明を見上げる。



「明明……終わりなのはアナタの方……よっ!」



周明はそう言うが早いか、掴んだ右足に自分の足を絡ませ、明明を転倒させる。



「な、んだとっ!」



周明はそのまま背後に回り込み、明明の首に腕を回して締め上げた。



「明明。……油断したわね」



「う……ぐぐっ……ぐ」



明明の顔色はみるみるうちに紫色に変色する。手足をジタバタさせて抵抗するものの、周明はその腕の力を一向に緩めない。



この様子を見ていた修司は、隣のタカシに訴えるように言った。



「おいおい、勝負アリだろ。そろそろ止めてやんなきゃあいつ死ぬぞ!」



「いや……あのマフィア達の様子を見て見ろ。まるでこういう戦いになるのを知っていたって顔だ。あの明明って奴が、この状況でタップしない所を見ると、多分……」



「見殺しかよ!」



「それがマフィアのルールなんだ。前に周明も言ってたじゃないか」



慌てる修司とは対照的に、全てを解っていたように語るタカシ。



そして首を絞められ劣勢に立たされた明明は、最後の力を振り絞り、右手を周明の頭に這わせ、そしてその目に親指を当てた。



そして周明が静かに呟いたのを、通訳の王は聞き逃さなかった。



「持って行きなさい……。貴方の命と私の右目……交換よ」



会場はしんと静まり返り、明明と周明の一挙手一投足を見守っている。次の瞬間、明明の親指はズブズブと音を立てて周明の目の中に沈んでいく。



「ん゛っ、んん!」



しかし周明は力を弱めるどころか、明明の首にまわされたその腕に全力を込めて捻り上げる。



 グキャッ



会場に鈍い音だけが響いた。



ホォォォォ……



その場を溜め息とも嘆息ともつかない空気が席巻する。暫く明明を抱き締めるように抱えていた周明は、その腕を静かにほどいて立ち上がり、動かなくなった明明を見下ろしていた。



「明明。どちらかがこうなることは解っていたけど、やっぱり切ないね。貴方はこの世界に入って、初めて仲良くなった友達だった。もし次に生まれ変わって、出会う事があるなら、お互いもっと平和で穏やかな世界で出逢いたいわね」



そして場内に、審判の声が高々と響いた。



「勝負あり! 勝者北辰会代表、許周明!!」



 ドワッ!



その声を聞いて、水を打ったように静かだった見届け人達が一気に沸き上がった。



それから周明は、右目から血を流しながらも、颯爽とタカシと修司の元へ歩いてきた。



「タカシさん、修司さん。これで北辰会への義理は果たしたわ」



タカシはフッと笑みを返した。



「ご苦労さん、次は俺の番だな」



そしてこの試合の結果を見届けた揚羽蝶のボス金総林は、近くに有った掃除用のバケツを忌々しげに蹴り上げた。



「糞っ! 負けちゃったじゃないか! 何が武闘派だっ! 揚羽蝶の面汚しめっ! 高い金を払ってあいつらを飼ってた事がてんで無駄になった!」



しかし、興奮する総林の隣では、次の試合に出場する青龍が黙々とアップしている。



「おい青龍、団体戦は負けだ、無理して痛い思いをしなくても試合を放棄していいぞ。どうせ消化試合だ」



しかし青龍は総林の言葉を無視して会場の中央に歩き始めた。



「ふん、損得勘定の出来ない馬鹿め。大体武道家って奴らは、何を考えているか解らなくて不愉快なんだ」



そして修司も、身体をアップしているタカシに問い掛ける。



「おいタカシ、勝敗は決まったけど、やっぱりお前も出るのか?」



「ああ。そこら中に付いてるテレビカメラで、全国の極道達が見てるんだろ? カッコイイ所を見せたいだろうが」



修司はニヤリと笑った。



「この目立ちたがりが」



「お前にばっかりイイかっこさせられっかよ。じゃあ行ってくる」



消化試合とはいえ、場内は再び盛り上がっている。修司は声を限りに声援を送った。



「タカシ! 油断すんな! そいつは強ぇぇぞ!」



タカシと青龍は中央で向かい合う。



今夜の試合のファイナルに、見届け人達のボルテージは最高潮に達した。



「青龍よ、宜しくな」



「アア……ウア……ア……」



二人は簡単に挨拶を交わすと、少しだけ距離を取った。



例に依って、タカシの構えはボクサー独特の顔を両腕でガードしたアップライトスタイル。



そして青龍の構えは、やはり朱雀と同じように中国拳法、形意拳の構え。だが朱雀のカマキリとは違い、両手を鳥の足を模した鍵爪にして、地面を這うような低い姿勢を取った後、右手を天上に高く構え、一本足で伸び上がった。



「その構え、鳥拳か?」



青龍はタカシの言葉を聞いてニヤリとほくそ笑む。



「違うぞタカシ、『鷹爪【オウソウ】拳』だ」



すかさず修司が訂正すると、総林が含み笑いをしながら答えた。



「よく解ったな、鼻歌。中国拳法に詳しいみたいじゃないか」



「中学生の頃、日本の少林寺拳法をかじった事が有ってな、その元となった中国武術も研究したんだ……って……アレ?」



総林と修司が話しているのを気にもせず、青龍とタカシは会場中央で睨み合っている。



「畜生、聞いてねえ!」



そんな修司をよそに、二人は周りの景色が目に入らない程、眼前の獲物に集中していた。



「始めい!」



審判が高々と声を張り上げる。ゆらゆら身体を揺らしながら相手を誘う動きを繰り返す青龍に、タカシはトントンとリズム良くステップを踏み、間合いを計っている。



この二人が醸し出す独特の緊張感に、見届け人達は息を飲んで見入っていた。



「タカシが大きく見えるぞ!」



「青龍の動きはなんだ? 目が回る」



まるでミサイルの発射台のようなタカシの威圧感に対し、揺らめく青龍の動きは会場中の人間を幻惑した。



その時。



タカシは鋭いステップインで、青龍の懐へ瞬時に潜り込んだ。



パァンッ!



渇いた音が響き渡る。と同時に青龍の体は大きく後方へ吹き飛んでいた。



「うぉぉぉお!」



会場中が沸き立つ。揚羽蝶側からは悲鳴にもにた怒号が、北辰会側からは勝利を確信する雄叫びが上がる。



しかし修司は冷静にその攻防を見切っていた。



「青龍の野郎、受けやがったぞ!」



「よく解ったな、修司。頬にぶち込んだ俺の右ストレートを、見事に手のひらで受けやがった。だが次こそは決めてやる」



タカシが隙を窺いながらその場でステップを繰り返していると、青龍が口から血を流しながらゆっくりと立ち上がった。



「う……う……あ……驚いたぞ……仏【ホトケ】……」



タカシは眉をひそめる。



「なんだぁ? お前喋れるのか?」



青龍はニヤリと笑った。



「長い間……言語障害で話せなかったが……今の技を喰らった衝撃で元に戻ったらしい……。礼を言うぞ、仏」



タカシはフッと笑い返した。



「こっちこそ名前を覚えて貰えて光栄だ。本当はタカシだが、まあ……仏でもいいぜ」



青龍は前傾姿勢になり、またゆらゆらと身体を動かし始める。



「ボクサーとは何回も戦ったが、お前のようにレベルが高い奴は初めてだ。どこ迄行った?」



「八回戦だ。プロを辞めた今でも、まだトレーニングは続けてるんだぜ……最近は煙草も吸ってないしな」



「そうか……鼻歌の他にもお前のような奴が居て嬉しいぜ。お前も俺と同じように、腕力だけを頼りに生きてきた時代遅れの馬鹿だろ?」



「その通り、俺もこの腕っぷししか無い。そしてきっちりお前を片付ける」



青龍に向かってジャブを繰り出しながら、タカシは不敵に笑った。



「抜かせ。じゃあ俺も全力で迎え撃つ。それがお前への礼儀だからな」



青龍は今迄が嘘だったかのように饒舌に語る。タカシの技が彼に与えた恐怖感は、それほど迄に衝撃的だったのだ。



「ああ。思い切り来やがれ」



タカシがそう言うが早いか、



「アイヤァァァ、ハイハイハイッ! テリャァァァア!」



青龍はタカシの懐に飛び込むと、瞬く間に手刀三手とみぞおち蹴りを繰り出す。



しかしタカシは、スウェーバックとダッキングでこれを交わし、その華麗な足捌きを使って距離を取る。



そして間髪入れずにまた間合いを詰め、冷静に左ジャブで距離を測った後、渾身の右ストレートを青龍の顔面に放り込んだ。



「アイヤッ! グアッ」



青龍はとっさに両手でガードしたものの、そのガードごとタカシに打ち抜かれ、顔が後ろに跳ね上がる。



「スリャスリャァァァ!」



そしてタカシはこの隙に乗じ、脇腹とみぞおちに連打を叩き込んだ。



「ゲフッ、グガッ!」



青龍は悶絶したまま再びその口から鮮血をしたたらせ、やっとの思いで意識を繋いでいる。



「す……凄いな……仏よ。スピード勝負じゃ全く歯が立たない。やっぱりここは対ボクサーのセオリー通り、その足から封じなきゃ駄目か」



青龍は身体を低く屈め、猛禽類のような鋭い視線でタカシの足を睨んだ。



「その通り。もしそれを出来たならお前の勝ちだ。だが簡単に捕まる訳には行かないけどな」



すると青龍は、体を小刻みに震わせながら不気味に笑みを見せた。



「何がおかしい」



「クククッ。仏よ、お前は左手を怪我してるだろう」



青龍の呟きに、タカシは息を飲んだ。



「……よく……解ったな」



「ふん。おそらくほんの数センチだとは思うが、怪我がお前の踏み込みを甘くしていると見た。そしてそこから繰り出される打撃は、残念ながら俺の意識を刈り取る程では無い」



「なんだとぉ? 立っているのがやっとの癖に。喋れるようになったと思えば、随分大風呂敷を広げてくれるじゃねえか」



「クククッ。確かにこれ以上攻撃を食らうと不味い。だからすぐに終わらせるぜ……。相手の弱点を突くのも戦いの内だ。悪く思うな」



「へっ、やれるもんならやってみな」



タカシは再び青龍の元へと素早く足を踏み出した。しかし今度の青龍は逆に踏みこんで来た。



「馬鹿が、突っ込んでくりゃパンチの威力も増すんだ」



タカシはまた閃光のような右ストレートを放つ。結果さっきと同じように青龍は後方に吹き飛び、床に転がった。



しかし修司は、タカシの様子がおかしい事に気が付いた。



「どうした、タカシ!」



「クッ……この鳥野郎が……」



青龍を睨んでいるタカシの左足は、わなわなと震えている。右ストレートを放った時に、青龍の下段回し蹴りがヒットしていた。



青龍は自分が攻撃される事を覚悟で、相討ちになりながらもタカシの足を封じたのだ。



「フ……フットワーク命のボクサーが足をヤラレたら、ジ・エンドだ」



そう言いながら青龍は、ゆっくりと……わざとらしい程に緩慢な動作で立ち上がった。



「ク……ククッ…クハハハハハ。何とか意識を保ったぞ。お前の左手が万全だったらすっかり気を失っていた所だ。ヤバかったぜ」



青龍は顎から滴り落ちる血をそのままに、狂気を帯びた視線でタカシを貫くように睨み付ける。



そんな彼を鼻で笑ってタカシはかぶりを振った。



「おいおいお~い、お前に喰らわせる打撃が終わった訳じゃ無いぜ? 今ので駄目なら何発でも放り込むだけだっての」



しかし青龍はタカシと同じように首を振った。しかもその口元にはうっすらと笑みを湛えている。



「ククク、仏よ……じゃあ聞くが、今迄と同じように動けるとでも言うのか?」



タカシは顔を真っ赤にして反論する。



「ふざけるな!たった一発の蹴りで俺の足が止まる訳が……」



そう言い掛けて、自分の足が悲鳴を上げている事に気が付いた。



『あ……足が震えてる。力も上手く入らねえ……』



だが心の声を打ち消すように、タカシは精一杯強がって見せる。



「ま、まだまだ行けるってんだよ、スリャッ!」



そしてまた勢い良く青龍の元へと走り込み、ジャブで距離を計ると、右ストレートを打ち込んだ。



タカシの拳はまともに頬へめり込み、青龍は三たび床へと転がる。



「グアッ!」



しかし今度は青龍の鋭い鍵爪がタカシの足を服ごと引き裂いていた。



「う……ぐぐっ……」



タカシの左足はガクガクと痙攣し、その傷口からはドクドクと血が流れ出している。



「シャアアアアッ」



勝利を確信した青龍は、鍵爪をタカシに向け、低く構えて威嚇した。



「ク……このクソが!」



既に顔面が血だらけの青龍は、含み笑いを浮かべながらゆっくりと伸び上がって構えた。



「打撃の威力がガタ落ちだぜ、仏。そりゃそうだよな、その足じゃ踏ん張りが効かないもんな、クククッ」



「青龍……お前はすげえ……。たった二回の攻撃で動きを止められちまうなんて、こんなザマは初めてだ。お前みたいな凄腕には会った事がねえ」



タカシは心底感服していた。自分をここ迄追い込んだ眼前の敵に、惜しみ無い称賛を送っている。



「俺も必死だからな。だが見ろこのヒデえ面。俺をこんなに苦戦させる奴はお前が最初で最後だろうよ。最高だぜ、仏」



真一文字に伸び上がって構えていた青龍はその姿勢を解き、拍手をしながらタカシの奮闘を誉め称えた。



「青龍てめえ、油断してっと息の根止めんぞ。俺を馬鹿にしてんのか!」



「おっと、危ない危ない」



さっと構え直して青龍は笑った。



「馬鹿にするなんてとんでもないぞ仏! これは俺の本当の気持ちだ。お前とはずっと闘っていたい位だ」



「そうか。じゃあその称賛の言葉、有り難く頂戴しとくよ。だが青龍、お前だってとうに限界を超えてる筈だ。そろそろ決着をつける時が来ているな」



「ああ、望むところだ!」



「スリャアアッ!」



「アィャアアッ!」



二人は気合い一閃、だがお互いに足を引き擦りながら、舞台の中心へと歩を進めた。



そして二人の間合いになると思われた刹那、空気を切り裂くような音と共にお互いの顔が後方に弾け飛ぶ。



「うがっ!」



「ゲフッ!」



それを皮切りに、目まぐるしい二人の拳の交換が繰り広げられた。



「スリャスリャスリャアアアア!」



「アィャア! ハイ! ハイ! ハイィィッ!」



「ぐはっ!」



青龍の鍵爪がタカシの脇腹を抉る。



「グゲェッ!」



タカシも負けじとボディにフックを叩き込む。



「がはっ」



青龍の前蹴りがタカシのみぞおちに決まる。



「ウオッ、ゲハッ」



タカシのアッパーカットが青龍の顎を捉える。



「がっ!」



「ゴフッ!」



「ふごっ!」



「ウゲッ!」



血しぶきが飛び、汗が伝う。一進一退の攻防はしかし、ジリジリと青龍の優勢へと転じて行く。



「はうっ、げぼっ」



青龍の繰り出した下段後ろ回しにタカシがバランスを崩した瞬間、青龍の足刀蹴りがみぞおちへ深々と食い込む。タカシはそのまま後方へふっ飛び、背中からイヤという程床に打ち付けられた。



「ぐはぁっ! う……ぐ……」



口から鮮血を滴らせながら自分を見上げるタカシに、彼を見下ろし、肩で息をしながら青龍は呟く。



「ハァッ、ハァ……仏よ……こうなったらボクサーは終しまいだ。ハァ、ハァッ蹴り技も組技も締め技も関節技もハァッ無い。どうする? 手の怪我が直ってから、再戦してハァッやってもいいぜ?」



タカシはゆっくりと立ち上がり、呟くように、だがしっかりと張りの有る声で返答した。



「あい……にく俺も、お師匠さんには……立って戦うことしか習ってないんだ。……それはいついかなる時も……勿論怪我を負っている時も同様だ!」



精一杯声は張り上げたものの、血と汗でまみれたタカシの姿は、誰が見てももう瀕死の状態だった。



「もう終わりだ! こんなの黙って見てられっか!」



修司が二人を制止しようと歩を進めた時、揚羽蝶のメンバー達が一斉に修司へ銃口を向けた。



「フリーズ! ドントムーヴ」



「なっ……!?」



「お前達もこの試合のルールは知っている筈だ。試合を止められるのは当事者のみ! 負けを認めるか、気を失うか、そして……死ぬかだ」



「クッソォッ!」



修司はそのまま観客達が居る場所迄下がり、再び大声で叫んだ。



「タカシッ! おとなしく音を上げろ! もう団体戦の決着はついてるんだ! こんなのは命を懸ける試合じゃない! 本当に死んじまうぞ!」



そんな修司の声が聞こえていないのか、タカシは愚直な迄に前へと進み……そして青龍の攻撃に依って倒される事を繰り返していた。



「タカシィィィイッ!」



修司は叫びながらあの時タカシが言った言葉を思い出していた。『俺達が輝ける瞬間』タカシは今を必死に闘っているのだ。修司は呆然とその光景を見ているしか無かった。



「……タカ……シ」



ガードも何もせず、ただフラフラと虚ろな目で青龍に歩を進めた時。どこか悲しげな目でタカシを見遣った青龍は、そして呟いた。



「これでお別れだ。仏よ」



青龍の上段回し蹴りがタカシの首元に突き刺さり、そのままドサリと床に崩れ落ちた。



「タカシィィィイッ!」



修司の叫びを掻き消して、試合終了を告げる審判の声が響き渡る。



「勝負あり! 勝者、揚羽蝶代表、陳青龍!」



「ウォォォォオオオ!」



歓喜に沸く揚羽蝶サイド。



そして目前で起こった信じられない出来事に、声一つ出せない北辰会の見届け人達。



修司は一目散にタカシの元へと駆け寄り、すっかり生命感の失せたその身体を抱きかかえた。



「タカシ! タカシ! 目を覚ませ! 死ぬな!」



声を枯らして叫んでいる修司の呼び掛けに、ピクリともタカシは動かない。



ゆっくりと二人の元へ歩いて来た青龍に気が付いた修司は、タカシをそっと床へ下ろして青龍の胸ぐらに掴み掛かった。



「青龍てめえ!……ここまでやる必要は無いだろうが!」



すると青龍は、視線を寝ているタカシに移して静かに呟いた。



「鼻歌よ……俺達は向かってくる敵に対して全力を尽くすことが礼儀だと思っている。仏もそれを承知で戦っていた。そして何より、全力を尽くさなければ勝てない、仏はそんな強敵だったということだ」



修司はゆっくりとその手に込めた力を弛め、ダラリと腕を下ろしていた。



「す、済まねえ……つい興奮して……お前達の闘いを穢してしまう所だった」



それには答えず青龍は向きを変え、出口に向かって歩き出した。タカシとの闘いで負った傷が痛々しくもその激しさを物語っている。そして彼はふと立ち止まり、修司に振り返るとこう言った。



「鼻歌よ、次は俺達の番だ」



「なんだと? 俺達にはもう戦う理由が無ぇじゃないか!」



すっかり闘志を消し去ったかに見えた青龍はしかし、再び猛禽類の視線で修司を射抜いて言い放つ。



「鼻歌よ、俺達は運命で繋がっている。俺がお前に潜む悪魔の技に惹かれるように、お前も俺に惹かれている筈だ」



「戯れ言を! そんな事より今はコイツが先だ。タカシ、目を開けろ! 救急車だ、医者を呼べ!」



青龍はフッと笑みを零して踵を返し、自分へ言い聞かすかのように呟いた。



「また会おう……鼻歌」



青龍はそのまま、まだ試合の騒乱が収まらない人混みへと消えて行った。









廃ホテル『つきのわ』での死闘から数週間が経ち、修司とヒデはタカシのアパートを整理していた。



「こうしていても、もうタカシさんがこの世に居ないなんて信じられないよな、兄貴」



「ああ。その辺からひょっこり顔を出しそうだ。なあヒデ、この部屋よく片付いてるだろ。アイツって昔から几帳面なんだ。あんな恐ええツラしてる癖に……笑っちまうよな」



修司は灰皿と平行に置かれたタバコとライター、それにテレビのリモコンを見て微笑んだ。



「兄貴、顔と神経は関係ないから。それより、そこに飾ってある綺麗なひとは誰なんだい?」



ヒデはテレビの横でタカシと並んで笑っている写真立ての女性を指差した。



「ああ、さっちゃんな」



「さっちゃん……」



「そう。古屋佐知子、通称さっちゃん。でもあの歌みたいにちっちゃくはない」



タカシと肩の高さを合わせるように軽く膝を折った彼女は、細身で長身の、涼やかな清潔感に溢れる女性だった。



「今も付き合いは有るのかい? 俺は見た事無いなぁ……」



修司は立ち上がって写真立てを手に取ると、目を細めて二人を眺めた。



「死んだよ……もう十二、三年になるかな。俺がムショに入る前だ」



「ああ、ちょっと写真が色褪せてるもんな」



「二人は結婚を誓い合った仲だった。さっちゃんは施設育ちの子でな、タカシが初めて好きになった女だ。それはもう奴はベタ惚れで……あの強面でのろけるんだぜ、勘弁しろっての!」



修司はヤレヤレと肩を竦め、苦笑いをして見せる。



「なんで亡くなったんだ?」



「ああ、ある時組の抗争に巻き込まれてな。呆気なく逝っちまった。彼女が死んだ後、タカシも女に縁が無かった訳じゃないんだが、ずっとさっちゃんを思って一人を貫いていた。俺は事有る毎に身を固めろって言ってたんだが……まあアイツは頑固だし、ムショにも入っちまったからな」



「ずっと一人だったんだ。それで……タカシさんのお骨はどうしてるんだい?」



「石田さんに頼んで、うちで世話をさせて貰ってるよ。四十九日が終わったら、俺と明美でさっちゃんと一緒の墓に納骨しようと思ってる。俺はあの世の事はよく知らないが、確か四十九日が終わる迄は、まだその辺にタカシが居るんだろ? だから霊前で毎晩奴と酒を酌み交わしてるんだ。昔の思い出話をしながらな」



「そうか……」



「願わくば、あの世でさっちゃんと一緒になれると良いんだが……」



ヒデはニッコリ笑って言った。



「そりゃ絶対一緒になれるさ。こっちで辛抱した分、アッチじゃ幸せにならねえとな」



「ああ、そうだな。……しかし、極道やってんだからそれなりの覚悟は有ったが、俺とタカシだけは何だかんだで長生きすると思ってたんだけどな……」



「俺も……タカシさんと兄貴は不死身だと思ってたよ」



「ひとをゾンビみたいに……まぁ、くよくよしてたらそれこそタカシが浮かばれねえな」



「そうそう、兄貴は兄貴らしく、ゾンビになっても元気で居て貰わなきゃ!」



そう言うとヒデは思い切り修司の背中を叩いた。



「痛てっ! 少しは加減しろっ」



「不死身の兄貴がこれ位で音を上げてちゃあ、タカシさんに顔向け出来ねえぜ?」



「言いやがったな!」



修司とヒデは、仔猫がじゃれるように小突き合った。



長年の友を亡くして気落ちしている修司を、兄思いのヒデは彼なりに励ましていた。その気遣いを感じ取っていた修司は心の中で頭を下げる。



『ありがとうな……ヒデ』




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