第7話 揚羽蝶は舞う


─────明明の電話から幾晩かが経って





麻薬の取引に出掛けた、芍薬メンバー数人からの連絡が途絶えた。



周明は原因を調べる為、取引現場である海沿いの埠頭エリアに向かう。



「冷えるわね……」



周明は車を降りるとそう呟いた。冬はもう、すぐそこまで来ている。海風の強さが、思っている以上に体温を奪って、自然と身体が震え出す。彼はコートの襟を立て、誰も居ない倉庫の裏路地を目的地に向かって歩いた。



すると、激しく吹いていた風が突然凪いだ。ビュービューと喧しかった音が止んで、辺りは不気味な静寂で満たされる。



その生暖かくさえ感じる空気が、闇の奥からこちらを窺っている、何かの気配を運んできた。



「!」



ナァァァアゴ



「なによ、脅かすんじゃないわよ!」



周明は足元から錆びたボルトを拾い上げると、猫を目掛けて投げ付ける。



狙いが僅かに逸れて、逃げ出し掛けた猫は立ち止まり、こちらを振り返って睨んだ。暗い闇に緑色の瞳が二つ浮き上がっている。



「もうっ! 腹立つ猫ねっ!」



周明はもう一度何かを投げようと辺りを見回したが、丁度いい大きさの物が見当たらない。



「待ってなさいよ? 痛い目見せてやるから!」



探せば何か有る筈、と歩き出した周明の視界を、街灯に照らし出された倉庫の壁がよぎった。



「?」



その光景に堪らない違和感を覚えた周明は、二歩三歩と後退りして、もう一度振り返って壁を見た。



「双【ソウ】……姑【コ】……それに閑【カン】じゃないの!」



そこに有ったのは、壁に立て掛けられた芍薬メンバー達の死体だったのだ。



「……」



彼らの左胸には一様に、揚羽蝶の描かれた白い紙がナイフで留めてある。



「あら、わざわざこんなことして……」



周明はそんな惨状を目の前にしても、冷静さを失わずに呟いた。



すると後ろから、台湾語の野太い声が響いてきた。低く、静かに発せられているのに良く通る声。



聞いた者を戦慄の内に凍り付かせる、地獄の底から湧いてくるような不気味な声。



周明の脳裏にはその声の主がありありと浮かんでいた。任務遂行の為には手段を選ばない。残虐非道、冷酷無比、そんなあの男の声だ。



「来たのね」



周明は現地語で言うと、ゆっくり後ろを振り返る。



「どうだ周明……挨拶は気に入って貰えたかい?」



「牢陣【ロウチン】。ご丁寧に、血抜きをしてからナイフを刺したりして……こだわる所は変わってないわね」



「我が揚羽蝶の旗印は白地に黒だ。血の赤を混ぜる訳にはいかない」



「貴方は頭が固過ぎるのよ。それだからいい様に使われてしまうんだわ」



周明は真っ直ぐに男を見据えながら言い放った。牢陣と呼ばれたその男は二メートルに迫る巨漢だ。黒ずくめのスーツ姿で不気味に笑うその頬には、大きな刀傷が有った。



卓牢陣【タクロウチン】。武闘派四天王の一人である。



「気配を感じたのは、気のせいではなかったようね」



周明が周りを見回すと、牢陣の後ろに控えている二十人程の黒い一団がそれぞれの構えを取っている。チラホラと銃を構えている姿も見えた。



しかし絶体絶命である筈のこの状況に、周明は恐れをなすどころかニタリと笑みを溢した。



「どうする? 牢陣。このままジ・エンドってのもアリだけど、フフフ……」



すると黒スーツを着た一人が周明に銃口を向けたまま、その鼻先まで歩み寄った。



「牢陣様! こんな奴はここで消してしまえばいいんですよ。わざわざ牢陣様が手を下すまでも有りません」



周明は銃口を目の前にしても不敵に笑みを浮かべたまま、この男の様子を眺めている。



「ん?」



だが何かに気付いた牢陣は、血相を変えて男を怒鳴り付けた。



「この馬鹿野郎がっ! 周りを良く見て見ろ!」



一喝された黒ずくめの男達は、慌てて左右に気を配る。すると、彼らを遠巻きに取り囲んでいる五十人程の芍薬メンバー達が銃口を向けていた。



周明は鼻で笑いながら静かに言った。



「フッ、所詮お互いゴミ同士。ここで派手に殺し合ってもいいんだけど。でも、貴方はそんな芸の無いことは考えないわよね」



牢陣も笑みを浮かべるとかぶりを振った。



「当たり前だ。俺は元々日本の利権なんかに興味は無い。俺の興味はお前の命だからな。それにこれからは、お互いのトップが己の肉体で決着をつけるのが流行るらしいぜ?」



脱いだ上着を側近に預けている牢陣の鍛え抜かれた肉体は、シャツとベストを隆々と盛り上げていて、今にも音を立ててはち切れんばかりだ。



それを見た周明の目付きは、一瞬で猛禽類のような鋭さに変貌する。そして先程から自分に銃口を向けている男を振り返った。



「貴方。闘う相手にも礼儀は必要よ? そんな態度じゃ、牢陣の部下である資格も無いわ」



「なんだと? 偉そうにこのオカ……」



男が敵意剥き出しで言い掛けたその刹那。



パンッ!



周明の裏拳が男の左顎を跳ね上げた。



「まっ?」



その男の頭は遠目から見ても解る程、首の稼働限界を大幅に超えてねじ曲がり、そのまま卒倒してビクビクと身体を痙攣させながら泡を吹き出した。



「地獄でも、口の利き方には気を付けなさいね」



「!……!!」



おそらく絶命したであろう、ピクリとも動かなくなったその男を見て、黒ずくめの男達は、台湾での通り名だった『モノクロの周明』の恐怖をまざまざと思い知る事となる。



「は、速い……」



「見えなかった……」



辺りには一瞬で緊張が走り、黒ずくめの男達は恐れの余り、わらわらと後退りを始めた。



しかしその先には、芍薬のメンバー達が銃を構えて立ちはだかっている。



「前門に虎、後門に狼ね。……袋の鼠と言った方がいいかしら、ウフフフ」



また不敵に笑った周明はコートを脱ぎ、コンクリートの地面へするりと落とした。



「さあ……楽しみましょうか、牢陣!」



ダラリと垂らした両肩をゴキゴキと不気味に鳴らしながら歩を進める。百七十センチ程の、格闘家としては小柄な周明だが、その圧倒的な迫力は牢陣に充分な威圧感を与えた。



「これだよ、これ! 俺はこの緊張感を味わう為に日本へ来たんだ。本当は明明も連れて来たかったんだが……アイツ、嫌がってな。お前が死ぬところを見たくなかったんだろう」



周明は片頬で笑う。



「牢陣、貴方が殺される所を見なく無かったの間違いじゃないの?……この私からねっ!」



そう言って周明が襲い掛かろうと身構えた時。どこからか、全く緊張感の無い声が聞こえてきた。



「……ゅ~ぅめ~い」



「ん?……何かしら」



黒ずくめの集団も芍薬のメンバー達もざわついて辺りを見回している。



「はいはい、ごめんなさいよぉ」



「ちょっとどいてくんないかな~」



台湾語で交わされていた会話の中、明らかに響きの違う言語が割って入ってきた。



「日本語?」



「日本人?」



「ほらほら、通してくれってえ」



「ぼさっと突っ立ってると怪我するよ~っ」



多勢のマフィア達を掻き分けて、こちらにやってくる二つの影。



「何だあれ。周明の知り合いか?」



牢陣が訝しげな表情をしながら台湾語で問い質す。



「え? でもまさか……」



その影は、まるで居酒屋の暖簾をくぐるかのように、マフィア達の隙間からひょっこり顔を出した。



「よっ! 周明、やってるかい?」



「俺達も一緒にいいかな」



周明は目を丸くしてその二人を見た。こんな殺伐とした雰囲気の中で、まるで遊びに来たかのように無邪気な笑顔の二人。



「タカシさん……修司さん……こんな所に何しに来たのよ、この雰囲気が解らない訳?!」



怒ったように喚き散らす周明に、修司が笑顔で答えた。



「何しにって俺達、盃を交わしたろ? 兄弟がピンチだって聞いたから、格好良く現れたんだけどぉ? な、タカシ」



振られたタカシが一歩前に出て、人差し指で前髪を整えながら斜に構えて言う。



「そういう事。だけどこの雰囲気だと、お前のピンチって感じじゃなさそうだなぁ」



この能天気甚だしい二人に、周明のテンションが一段上がった。



「二人とも、バッカじゃないの? あの盃、五百円のビール一杯で死ぬ気なの? しかも貴方達、丸腰だし! そんな調子でよく今迄生きて来れたわね!」



血相を変えて怒る周明を宥めながら、修司がゆっくりと諭すように答える。



「まあまあ落ち着けって、盃ってのはな、そういう物なんだよ。飲んだ酒は五百円のビールでも、交わした約束は男同士の契りだぜ、周明!」



修司が言い終わるのを待ち切れないかのように、タカシが更に前へ出る。



「そう言う事だ。それに俺達も揚羽蝶って奴らをこの目で見ておきたかったしよ。まあ周明よ、これも渡世の定めと思って諦めな。フヮハハハ」



屈託なく笑うタカシに、呆れ顔で周明が言う。



「全くもうっ。悪いけど貴方達の出番は無いわよ? そこでおとなしく見てなさい!」



予期せぬ邪魔者の登場に、腰砕けになって佇んでいた牢陳が台湾語で聞いた。



「周明、この日本人誰だ? お前のオトモダチかぁ?」



周明は苦笑しながら現地語で返した。



「私達と同種の喧嘩屋……日本の極道よ。それもとびっきりのね」



牢陳は再び眼光を宿し、ニヤリと笑った。



「そうか、日本にもまだ本物が居るって訳だ。このまま俺達の計画が進めば、こいつらと絡めるんだな。そりゃ楽しみだ」



ボキボキと嬉しそうに拳を鳴らす牢陣に、周明は冷たく吐き捨てた。



「いいえ。貴方は絡めないわ、今ここで死ぬんだから」



周明の言葉は全く牢陣の闘志を削がなかった。そればかりか、油となってその炎を燃えたぎらせていた。



「へっへへ、俺は沢山楽しみたいんだ。じっくりお前をなぶり殺した後で、あいつらも頂くんだよ」



「言ってなさい、口の利ける内にねっ!」



二人の視線が火花を散らしたその時、黒ずくめの集団の一角が騒ぎ出した。



「今度は何なのっ?」



周明が叫ぶと、牢陳に向かって大声で何かを言っている男が走り出た。



「牢陳様、大変です。青龍様が、青龍様がぁ!」



タカシと修司は台湾語の意味が解らず、ただ黒ずくめの男達が騒いでいる方に目を向けていた。



「青……龍?」



しかし周明にはハッキリとその名前が聞き取れた。



「アウァ……アア……ゥゥア、ァ……」



そして青龍と呼ばれたその男は、引き止める黒ずくめの男達の中から顔を出した。



言葉にならない、呻きとも嘆息とも取れる声を発しながら、鋭い形相で殺気に満ち満ちている。



「あれが青龍なの?」



周明は言葉を失った。名前は知っていたものの、暗殺部隊の長である青龍を知る者は、揚羽蝶の中でもほんの一握りしか居ない。



しかし噂に聞いた青龍は、正体を隠す為に普段は大学教授に身をやつしていて、頭脳明晰であることは当然ながら、武闘派四天王の一人とは思えない程の精悍なマスクを持った人物だった筈。



今目の前に居るのは、知性の欠片も窺えない、酷く歪んで醜い顔をした男。



顔中に傷を負って、訳の解らない声を発するだけの男だった。



本当にこれが青龍なのかと、周明は自分の目を疑った。



「そう言えば……明明が何か言ってたわ。確か武術の修行でどこかの特殊部隊に入って、言語障害になったとか……」



牢陳が呟く。



「周明……お前が明明と親交が厚かったように、俺は青龍との付き合いが長いんだ。こいつも俺も、組織の中では孤立していたからな」



周明は≪それは貴方の頭が固いせいじゃない≫と言おうとしたのを何とか飲み込んで、言葉の続きを待った。



「……昔のこいつはこんなんじゃなかったんだ。武術の修行に行ったんだが、もともと頭の切れる奴だったから、チベットの地獄から帰ってきたら気が触れちまってな。尤も、武術の方は格段に上達したぜ。ま、お前を料理するのは譲れないけどな」



淡々と話す牢陳の言葉を最後まで聞くと、周明は静かに呟いた。



「私じゃないわ」



「あ? 何だって?」



「私じゃないみたいよ」



「どういう意味だ、そりゃ!」



痺れを切らした牢陣が周明に喰って掛かると、周明は静かに青龍を指差して言った。



「見てみなさいよ。青龍の目的は、私じゃないって言ってるのよ!」



すると、さっき牢陣に急を知らせた黒スーツの男が、甲高い声で叫んだ。



「すいません! 青龍様は、さっきあの男達を見た途端に騒ぎ出して、いや、ご様子が思わしくなくなられて……」



「敬語なんかどうでもいい! あの男達って……?」



牢陳が青龍の視線の先に目をやると、そこにはまだ事情が飲み込めていない修司とタカシが立っていた。



「まさか……」



「うわぁぁ! 青龍様ぁ!」



五人の黒スーツ達に制止されていた青龍だが、それを振り切り一目散に二人の元へ駆け出した。



「修司、危ないっ!!」



ズドンッ!



タカシが大声を上げた瞬間、鈍い音と共に修司と青龍は交差したまま動かなくなった。牢陳は両手を広げて呆れ顔で溢す。



「あ~あ、殺しちまったぁ。まだ日本のヤクザ組織と揉める訳にはいかねぇんだけどなぁ。ま、やっちまったものは性がねぇか……」



しかし、牢陳の態度とは裏腹に、周明は赤子をあやすような口調で青龍に微笑み掛けた。



「青龍。自分と同じ臭いがする男を目の前にして我慢が出来なかったのよね? それでどうだったの? この男の手応えは」



すると、それまでは微動だにしなかった青龍は問い掛けに答えるように周明に視線を移して微笑んだ。



しかし次の瞬間。



「グッ……ゲボッ!」



青龍は口から大量に吐血してその場に崩れ落ちていた。



「えっ?」



「どうした、青龍!」



周明と牢陣は驚愕して立ち竦んだ。



「俺の肘打ちが……入ったんだ」



青龍の攻撃をかろうじて致命傷にならない程度にまで躱した修司は、小刻みに震えながらその時取った構えを解けずにいる。タカシが駆け寄り、修司の肩を支えた。



「おい周明。この日本人の名は?」



周明はニヤリと笑って牢陣に答える。



「冥土の土産に教えてあげるわね。彼の名は北原修司。通り名は『鼻歌』」



たった今、目の前で繰り広げられた攻防に牢陳は驚きを隠せなかった。彼の目は二人の動きを捉える事が出来なかったのだ。



「鼻歌……修司……北原……」



牢陣は自分に言い聞かせるように呟くと、地面に転がった青龍を見て部下に命令した。



「おい! 早く青龍を医者に連れて行け!」



「は、はい。解りました」



数人の男達に抱えられて青龍は立ち上がる。修司は虚ろな目で自分を睨む彼を見送りながら思った。



≪奴と俺の実力差は紙一重。今のはただ、俺の運が勝【マサ】っただけだ。奴とは必ずまた、どこかで闘う事になる≫



ブルルッ。



修司の身体を震えが襲った。



その半分は、勿論恐怖から来るもの。もう半分は久し振りに会った、自分と同じ臭いのする人種、その奇特で得難い出会いに興奮した『武者震い』だった。



「タカシ……凄い奴がいるもんだな。なんとか躱して肘打ちを入れたが……見ろよ。左腕が……オシャカになりかけてる」



青龍の放った抜き手が触れた修司の左腕は、皮が破れて肉が飛び出し、血がドクドクと溢れ出ていた。



「こりゃあ酷い……」



タカシは自分のシャツを破いて、慌てて修司の腕を止血した。



「全く、ヒヤヒヤさせんなよ修司。殺られたかと思ったぜ」



「ハハハ……俺もだ」



そんなやりとりをしている二人を後目に、周明はしっかりとした足取りで進み出た。



「二人共、そこでゆっくり見ていてね」



「周明、行くのか」



彼は優しい微笑みを見せながら頷いた。しかし牢陣に向けたその顔は、鬼気迫る殺し屋のそれに変わっている。



「さあ、今度こそ始めましょうか」



周明が台湾語で言うと、牢陳も笑みを湛えたまま凄んだ。



「ああ。とんだハプニングが有ったが、やっと始められるな」



二人はゆっくりと歩を進めて互いの間合いを計っている。交わる視線は火花を散らし、息遣いは獲物を狙う獣の唸り声のように相手を威嚇し、牽制している。



「ハァイッ!」「アイヤァ!」



二人が気合いもろとも相手を目掛け飛び込んだのは、ほぼ同時だった。



「アイ! アイ! アイヤァァア!」



牢陳の剛腕が、二度三度と空気を切り裂いて周明に振り下ろされる。



これを周明は右へ左へと体【タイ】を躱し、反撃の機会を窺っている。



パパーンッ!



周明は一瞬の隙を突いて、牢陳の脇腹へ二発の拳をねじ込んだ。



「グエッ」



思わず動きが止まった牢陳だが、直ぐにニヤリと笑って呟いた。



「相変わらず切れてるなあオイ! もっと……もっと楽しませてくれよなっ!」



流れるような淀みない動きを繰り返しながら、周明は吐き捨てるように言った。



「貴方も憎らしい位打たれ強いわね、相変わらずだわ。普通の人間なら呼吸が出来なくて悶絶してるもの、ねっ!」



間髪入れず周明は一気に間を詰める。そして自分の間合いに入った瞬間、牢陳の顔面めがけて渾身の上段回し蹴りを叩き込んだ。



「オワッ!」



これを辛うじてガードした牢陳の腕が、まるで爆竹のように肉片を散らした。



「ハイハイハイ、ハイヤァァァア!」



目にも留まらない速さの攻撃に、防御が追い付かない牢陳だったが、しかし周明は焦っていた。



本国台湾でも有名だった牢陳の喧嘩スタイルは、その体格を生かした腕力と圧倒的な持久力。



今の周明は、自分の長所であるスピードと技の切れで対抗するしかない。



「ハイッ、ハイハイ、ハイィィッ!」



はた目からは一方的に見えるこの攻撃だが、実は周明の焦りを映し出していた。



牢陳の腕は相変わらず大振りのスイングを繰り返している。



ボスッ!



鈍い音が暗闇に響いた。



ドスドスッ!



周明の拳が牢陣に叩き込まれる音だ。



ここまでで牢陳の攻撃がまともにヒットしたのは一回も無い。反対に牢陳が攻撃を繰り出す度に、周明は躱し際の打撃を相手に極【キ】めている。



「ああ、周明。お前のせいで、俺の男前が台無しだ」



牢陳の顔はアザだらけで、所々で傷が開き、鮮血が滴り落ちている。



「ハァッ、ハァ、自分で言ってりゃ、ハァ、世話ない……わね、ハァ」



しかし周明の息は乱れ、疲労の色がみるみる濃くなっていく。



「自分で言わなきゃ、誰も言ってくれないだろう」



牢陣の息遣いはまるで変化を見せない。



「全く……しぶといわねっ!」



「へへ。俺はしつこいんだ。旨い物は最後に喰うタチでね」



牢陣は薄ら笑いを浮かべながら両手を広げて襲い掛かってくる。



「ここだわっ」



体力に陰りが見え始めた周明は、この時勝負に出た。



「二騎脚、ハァアイ!」



牢陳の真っ正面に飛び込み、踏み切りざま左足で金的蹴りを繰り出した。



「グォッ!」



牢陣が身体を縮めた所にすかさず顎を右足で蹴り上げる。



「ぐげぇぇえっ!」



最早芸術とも言える周明の二段蹴りに、牢陳の意識は別の世界へと誘われる。



……と、誰もがそう思ったその時。



「?」



牢陳は両手で周明の手首をしっかりと掴んでいた。



「へへへ……やあっと捕まえたぜぇ、周明」



「クッ……離しなさいよッ!」



ボグッ!



左手首の自由を奪われた周明は、残された右拳を思い切り牢陳の頬へ叩き込む。



「ってぇぇ……つれねえなぁ周明。そんな事言わずに仲良くしようぜぇ」



そう言った途端。牢陳は強引に周明を抱き寄せてその身体を両手で締め付ける。



「グッ……ム……ググゥ……」



周明の背中からは、小さくポキポキと音がする。体を流れていた血液が全て顔に集まったのではないかと思う程、真っ赤に紅潮させている。



「ずっとこうして抱き締めたかったんだよ、周明。愛してるぜえ」



牢陳はそう言って周明の頬をベロリと舐め上げた。



「さすがモノクロの周明だ。楽しませて貰ったぜ……だがもう遊びの時間はオシマイだ。このまま背骨を真っ二つにしてジ……エンドッ!」



牢陳が更に力を込めると、その上腕二頭筋がみりみりと音を立てて太さを増した。周明の身体は不自然な程に反り返り、白眼を剥いてしまっている。



「周明!」



「このままじゃ殺られちまうぞ!」



修司達はとうとう黙っている事が出来なくなり、身を乗り出した。



「こっ、これは私の勝負よ! 来ないで!」



しかし周明は、どこにそんな余力が有ったのかと疑いたくなるような剣幕で二人を制した。



「へっへへ、律儀なこったなぁ。これから死んじまうってのに。へへ、お前の次はあいつらだ」



牢陣はギリギリと歯噛みをしながらこちらを睨み付けている修司達を一瞥する。



ベキャッ!



鈍い音が響いた。



「ゥ、ゲェエエ! グギャァァアッ!」



「周明!!」



しかし、叫び声を上げていたのは牢陣だった。喉元を両手で押さえ、転げ回っている。やっと解放された周明だが、今までの締め付け攻撃で多大なダメージを受けているようだ。



「牢陣、ゴホッ……これから命を奪おうとする相手からゲフッ……目を逸らすなん……て、その慢心が命取り、ゴホッ、よ」



周明は失いそうになる意識をなんとか繋ぎ止め、牢陣が修司達に気を取られている隙に、右手を身体に廻された腕から抜き取った。そして目前に有った喉仏を握り潰したのだ。



「グゲッ! ガァァアッ!」



「ハイヤァア!」



ドスッ!



周明は足元で転げ回る牢陣の脇腹を踏み付け、その動きを止めると、添い寝をするように寝転がって、後ろから牢陣の首を締め上げた。



「こ……の……死に損ない……が」



牢陳はバタバタと必死で手を振り上げ、首を締めている周明を捕まえようと抵抗するが、周明には届かない。



「ウ……ギュ……」



その腕はギリギリと音を立て、牢陣の頸動脈を圧迫した。そして怪力を誇る牢陳も、さすがにその生気を失い、周明の左腕に絡まっていた両手がだらりと落ちた。



「アアッ牢陣様!」



「なんて事だぁ」



思いがけない展開に、黒ずくめの男達は、それぞれが悲痛な声を出し、右往左往している。



タカシはゼェゼェと肩で息をしている周明を見て、笑いながら歓声を上げた。



「いよっ! 周明お見事っ! いいぞ!」



しかし周明はタカシの歓声に答える事も無く、すっくと立ち上がると、牢陳を見下ろした。



これを見た修司は、嫌な予感が頭をよぎり、思わず声を上げた。



「周明、もういい! やめろっ!」



「どうした修司」



タカシはこの状況をいまひとつ読む事が出来ず、不思議そうに修司を見た。周明は足元で動かなくなっている牢陣を冷ややかに眺めている。



「修司さん。こんな時……日本の極道なら、例え敵同士であっても……競った決着に素直に従い、そして最後には、お互いを称え合うのかしら……。私は、そんな日本人が大好きよ。……でもね」



周明は、言葉の途中で鬼の形相に変わる。



グボッ!



次の瞬間、気を失った牢陳の首を踏み抜き、その鈍い音は悲しげに暗闇へと染み入った。



「嗚呼……やりやがった……」



修司の嘆息に振り返る事もせず、周明は答えた。



「でもね修司さん。台湾には台湾のルールが有るの。憎しみの連鎖は、必ず根絶やしにしないと……その憎悪は必ずまた自分達に降り掛かるの。だからごめんなさい……修司さん」



修司とタカシは、今にも泣きそうな顔をして周明を見詰めていた。そしてそれは周明も同じ、死んだ牢陣を悲しげな表情で見下ろしていた。




─────襲撃の翌日




明明は台湾の揚羽蝶本部で事の顛末を報告していた。



「……という結果です。牢陣を失ったのは大きな痛手ですが……」



「まったく! 君達には失望させられたよ。こんな時にこそ仕事をするのが武闘派だろ? しかも明明、お前は台湾で高みの見物とはどういう訳だ?」



豪華な刺繍ときらびやかな装飾が施された肘掛け椅子に座り、金総林【キム ソウレイ】は溜め息と共に首を振った。



「牢陣と青龍が日本へ行けば、私は必要ないと思いまして……申し訳ありません、金様」



明明が頭を深く下げると、金の傍らに侍っている派手なチャイナドレスの女が、口元を扇で隠しながら「ククク」と笑った。



「ふん。元々牢陣とはソリが合わなかったからじゃないのか? しかし相手はあの周明だ。こんなものかも知れないね。それで……明明ならどうなんだい? 勝てそうかな」



火の着くような視線で睨んでいる明明と目が合い、女は素知らぬ顔でそっぽを向く。ドレスにスパンコールで描かれた龍がクルリと身体を捻ると、深いスリットから長い脚が艶かしく覗いた。



「いえ……正直な所、やってみなければ解りません。かなり手強いとは思いますが……」



金は明明を横目で見ながら、女の腰を撫で回している。女は愛撫を受けながらもじっと明明を見詰め、唇だけで薄笑いをして見せた。



≪畜生。顔と身体がいいだけで、俺達男が造り上げてきた物の上にあぐらをかいてやがるクソ女が!≫



金の前でこうべを垂れる明明の拳は、固く握り締められている。



「それでは明明、お前では周明に勝てないという事なんだね」



「いや、その……ああ、この際、兵隊を日本に送り付けて、周明諸共極道達を武器で鎮圧する作戦に切り替えますか?」



鼻で笑いながら、金はグラスに入ったワインを飲み干した。



「フン……。そりゃお友達の周明に自ら手を下すのは嫌だよねぇ……それに明明、お前も解ってないね。いくら暴対法で弱体化した日本の極道とはいえ、まだまだ組織力も資金も底をついた訳じゃない。土地勘の無い僕達が大々的に攻め込んでも、昔の周明達のように皆殺しになるのがオチさ」



「そうですね、仰る通りです。しかし周明との縁はもうとうに切れています。ボスのご命令と有らば喜んでやつの首を差し出してご覧に入れます」



「さっきは難しいと言ってた癖に、調子のいい奴だな。だが、裏切りの落とし前は命で償うのが掟。奴はこの揚羽蝶に逆らったんだから、殺されても文句は言えないだろう。



死んだと思っていた周明が日本でよろしくやっていた。僕はそのシマを足掛かりに、極道達の様子を見ながら日本をジワジワ制圧するつもりだった。だけど、その周明が裏切るなんて……困ったものだよ」



明明は女を見ないようにして、神経を金総林に集中させる。



「ご心中お察しいたします。今後はどういたしましょう。やはり、周明のシマから落としますか?」



すると、金は得意気に胸を張って答えた。



「明明、今回の作戦は僕が日本に渡り、陣頭指揮に立つ」



明明に衝撃が走った。ここで金に掻き回されては更に戦況が悪化する。彼は慌てて金の考えを打ち消そうとした。



「なにもボス自らが危険を犯される事は無いのでは……」



しかし金の決心は固かった。



「いや、僕に取って今回の作戦は重要な意味が有るんだ。揚羽蝶は代替わりをして僕がボスになったが、何の実績も無いお坊ちゃまが、血縁だけでボスになったと陰口を叩かれている事は知っている。……君がいつも言っているようにね」



正に図星では有ったが、明明は必死に平静を装って答えた。



「いえいえそんな、滅相も有りません。この明明、いつでもボスに身命をお捧げする所存です」



「ふん……まあいい。今回、僕にはアイデアが有る。暴対法を逆手に取った画期的なアイデアがね。しかも周明の芍薬と極道達をいっぺんに倒す方法だ」



「それは素晴らしい。私ごときでよろしければご存分にお使い下さい」



明明は「裏社会の右も左も解らないような素人に何が出来る」と思いながらも深々と頭を下げた。



「この作戦を成功させて、揚羽蝶の幹部達……いや、台湾マフィア全体に、僕の名前を轟かせるつもりだ。そう『揚羽蝶に金総林有り』とね。絶対に認めさせてやる」



明明はふと思い直した。「待てよ? ……このお坊っちゃまが考える作戦なら、素人ならではの意外さで、敵の意表を突くのには寧ろ好都合かも知れない」と。明明の思惑をよそに金は続けた。



「時に、青龍の怪我はどの位掛かりそうかな。僕の計画には彼が必要不可欠なんだ」



「あばらを二本やられただけですから、半月も有れば充分かと……」



明明は自分を前にして青龍を頼みの綱だと言い切る金を「だから坊っちゃんだと言うんだ」と蔑んでいたが、そんな様子は露程も見せず、金に傅【カシズ】いている。



「そう。じゃあその頃になったら、とりあえず百人程引き連れて日本に行くよ。それと、今回は朱雀【スザク】も連れて行く。牢陳の代わりにね」



「朱雀……若手のホープですか。彼はいつ四天王入りをしてもおかしくないと聞いております」



「ああ。今回牢陳がやられたのは計算外だったし、青龍が病院送りにされた事は、もっと信じられない。相手は日本の極道だったよな。でも、そいつが周明の仲間として動いているのはどうしてだ?」



「ええ、確か的場組の……北原修司だったと思いますが、日本でも数少ない有名な武闘派ヤクザで、何でも周明とは日本のしきたりである『兄弟盃』を交わしたらしいです。従って、私達の敵とみなすのが賢明です」



「何だい? その『兄弟盃』って。僕達マフィアが交わす契約みたいなものかい?」



「ええ、そんなものです。しかしもう少しファミリーの結束が固いように感じます。私達は、幹部以外はファミリーの顔も知りませんが、彼等は一度盃を結ぶと、血縁以上にその絆を尊びます。まあ……今は暴対法も有って、変わってしまったようですが、その昔の極道はファミリーが危険にさらされた時は、平気で命を投げ出していたらしいです。周明の作戦が失敗したのも、どうやらそんな極道達のせいだったようですね」



「なるほど、敵に回すと手強そうだな。しかしそれは昔の話さ。周明が乗り込んで既に十年が経つ。十年前には僕も子供だったが、今は違う。目にもの見せてやろうじゃないか。じゃあ明明、半月後の日本行きに向けて準備を整えてくれ」



「はい、ボスの仰せのままに」




─────それから二十日後の的場組事務所。




「ヒデ、見ろよ! やっと糸が抜けた」



「ひい、ふう、みい、うわぁ!凄ぇなこりゃ。二十四針も! 兄貴をこんな目に遭わせるなんて、青龍とやらも凄い腕をしてるよな」



ヒデは眉を潜めて修司の傷を眺めている。



「ああ、周明に聞いた話だと、昔はアイツと並んで武闘派四天王とか呼ばれてたらしい。凄え抜き手で、下手したら心臓一刺しであの世行きだったよ、ああナンマンダブナンマンダブ……」



修司はその時の事を思い出し、手のひらに冷や汗を握り締めていたが、ヒデの手前、お経を唱えておどけて見せた。



「……でも、兄貴はその青龍を倒したんだろ? まだまだ腕は衰えてないよな」



修司は暫く黙っていたが、ヒデにボソボソと耳打ちした。



「実はな、ありゃ紙一重だ。たまたま運が良かったから倒せただけだ。それにアイツの動き……まだまだ本当の力を出し切ってないみたいだった。周明の戦い振りも見たが、青龍はヤツより計り知れない何かを持ってる」



「そうか。要注意人物だな……」



話が丁度途切れた時、組員の渡辺が血相を変えて駆け込んできた。



「おやっさん、修司さん大変です!! 今ニュースでやってるんですが、群馬の清原さんの所が……」



「清原さんがどうした?」



ヒデと修司は慌ててテレビを点けた。どこのチャンネルも同じような内容を伝えている。



「まさか……。おい渡辺! すぐに確認を取れ!」



「はいっ、解りました!」



途端に組内は慌ただしくなった。修司はテレビの前に佇み、ただ呆然とその光景を見つめていた。



「揚羽……蝶……?」



『お昼のニュースです。



まずは続報からです。昨夜未明に発見された二十二遺体は、指定暴力団、関東北辰会清原組の組長以下、構成員及び準構成員である事が判明しました。



当局の発表に依ると、検死報告から凶器は拳銃や刃物ではなく、全て素手に依る犯行であると目されています。



凶器が無い上、犯行が深夜だった為目撃証言も少なく、警察の捜査は難航を極めています。しかし殺害現場には蝶を型どったカードが置かれており、犯人に繋がる手懸かりとして、犯行との因果関係を慎重に……』



修司はロッカーに拳を叩き付けて叫んだ。



「くそっ! やはり揚羽蝶だったかっ……ヒデ。清原さんと言えば……」



「そうなんだよ兄貴。先代の兄弟筋にあたる。俺も何度かお会いした事が有るんだが、まさかな……」



ヒデは沈痛な表情で画面を見守っている。



「いよいよ奴ら、始めやがったんだ。おいみんな! 片っ端から連絡だ。不意を突かれてしまったら清原さんの二の舞になる」



「はいっ、修司さん。おいお前らも各自電話を持て! 俺が名簿のコピーを配る」



渡辺が指揮を取り、的場組の組員達は手に手に電話や携帯を持って各所へ連絡を取り始めた。



「兄貴、俺はこれから群馬に行って様子を確認してくる。この前兄貴が揚羽蝶の情報を話してくれた時に、親戚筋へは連絡を入れたんだが、どうも事情が飲み込めてない風だったんでな。マフィアには充分気を付けるよう、直接念押ししてくるよ」



「それはいいと思うがヒデ。俺はお前の身が心配だ。一緒に付いて行こうか?」



出発の準備をしていたヒデは、手を止めると顔を輝かせて修司に向き直った。



「そりゃ有難い! 兄貴が居れば心強いよ。まだ明るいから危険は無いだろうが、加藤組、山田組、それに高橋組へも顔を出さなきゃいけないし……」



「そうと決まれば善は急げだ、おいシン。若い連中を見繕ってワゴンで付いて来い」



「解りました、修司さん」



こうして修司達は、一路群馬へと向かった。



修司の在籍する的場組は埼玉県熊川市に在り、ここは県北最大の繁華街でもある。そして事件のあった清原組は群馬県太田原市。こちらも県内有数の繁華街だ。



下道【シタミチ】も含めて一時間程の道のりを、修司達はひた走る。



「しかし兄貴、マフィアも随分ひでえよな。大儀が無いのに皆殺しだぜ? それに、俺達極道に喧嘩を売る気なら、周明の居る熊川から襲うのが普通だろうよ」



修司は助手席の窓から外の景色を眺めながら答えた。



「俺が思うに、周明達が居る町以外ならどこでも良かったんだろう。奴らも同じアジア人、見た目は日本人と変わらない。しかも俺達と違って、奴らは一般人の格好をしている。そんなのから不意を突いて襲われたら、普通はアッサリお陀仏だ」



ヒデはステアリングに手を乗せたまま頷いている。



「でも、同じ台湾人同士の周明なら、見分けが付くんじゃないか? 正体がばれちまったマフィアなんか、チャカで弾かれればおしまいだ。だから奴ら、周明だけは避けなければならなかった」



黙って頷いていたヒデはしかし、険しい顔付きになってその苛立ちをアクセルに乗せる。キックダウンしたエンジンが猛々しい唸りを上げた。



「なるほどその通りかも知れねえ、しかし何で清原さんなんだ、何で皆殺しなんだよ! 奴ら、人の命を何だと思ってやがるんだ!」



「まあヒデ。スピードで捕まっちまったらそれこそ向こうに着くのが遅くなる。そう熱くなるな」



「……解ったよ、兄貴」



ピリリリッ、ピリリリッ。



そんなやり取りの中、胸ポケットに入れていたヒデの携帯が鳴った。



「ああ、高橋さんだ。丁度いい、手ぶらで伺うのもナンだと思っていたんだ。好きな酒の銘柄でもお聞きしよう……はいもしもし、加納です。今日そちらに伺おうと思いまして」



『おうヒデ、有難いな、早速来てくれるのか? 所でちょっと聞きたいんだが……ニュースでもやってる例の揚羽蝶の事だ』



「ええ、俺の知っている事なら何でもお答えします。奴らの幹部と拳を交えた北原もここに居ますし」



『おお、鼻歌の修司も一緒か。いやな、前にヒデから連絡を受けてから、ウチなりに準備して警戒態勢を取ってたんだ。全員にチャカを持たせて、必ず三人以上で行動させている。組への定時連絡も朝、十時、昼と……一日七回、細かに入れさせてたんだ』



高橋組はヒデの忠告を真摯に聞き入れ、揚羽蝶への対策を講じていたらしい。



「ええ、その位の備えは必要です。何せ奴らのやり口ときたら常軌を逸してますから」



『だよな。ニュースを見て、清原組が殺られたのは多分、ウチのように準備していなかったせいなんだと思ってた。けどな……』



それきり高橋は黙り込んでしまい、ヒデの眉がピクリと反応した。



「高橋さん。『けどな』って、どうかされたんですか?」



『ああ、それだけどな。外に出ている組員との連絡が、もう三時間以上取れない。十六名全員とだ。自宅で待機している筈の若い衆とも軒並み連絡不能に陥っている。まだ昼過ぎだぞ? こんな日の高い内に……信じられるか?』



ヒデの身体を戦慄が駆け抜けた。言ってもヒデは、昨日の今日にまた襲撃が有るとは、しかも白昼堂々殺人が行われるとは露程も思っていなかった。「外国人風情にそんな大それた事が出来る筈もない」と高を括っていた部分も少なからず有っただろう。



『なあ、ヒデ……。俺達はもしかして……とんでもない連中を相手にしているんじゃないのか』



高橋の声が心なしか震えているように聞こえる。ヒデは自分の認識の甘さに歯噛みしていた。



「高橋さん、兎に角これから予定を変えてそちらに向かいます。伊瀬中市駅のお近くでしたよね」



『ああそうだ。代替わりしてからヒデは来る機会が無かったが、良く覚えていてくれた、嬉しいよ。けどな……』



また高橋は黙り込んでしまう。



「どうしたんですか!」



『ヒデ。もし、茶の一杯もご馳走出来ないような事になったら……その時は勘弁しろよ』



高橋の声が明らかに震えているのが解る。ヒデは運転中にも関わらず、身を乗り出して窺いを立てた。



「高橋さん、親分? 何を仰ってるんですか!」



『いや……、どうやら……もう……お客さんが来たみたいだ』



答えた高橋の声は漸く聞き取れる程にか細かった。ヒデは受話器の向こう側に集中して耳をそば立てる。



『野郎! ぶっ殺す』『パンッ、パンパンパン、パパンッ!』『ギャァァァァアッ』



「高橋さん、逃げて!」



高橋組で今、ただならない出来事が起こっているのをヒデはすぐに理解した。



「あと少しでそっちに着きます。それまで何とか持ち堪えて下さい、高橋さん。高橋さんっ!」



ヒデはただ、高橋の名を叫ぶしかなかった。そんな状況を前に、何も出来ない自分を断じて認めたくなかった。



「高橋さんっ!、高橋さんっ! 返事をして下さい」



プツン……



しかしヒデの悲痛な叫びも虚しく、通話中の携帯は何者かに依って切られてしまった。



「おいヒデ! 何か有ったのかっ?」



じっと様子を見守っていた修司も、もう黙ってはいられなかった。



「兄貴、高橋組が襲われてる。他の組員とも連絡が取れないって言ってた」



「高橋組までどれ位掛かるんだ?」



「少なくとも三十分は見ないと……」



「ヒデ、この際細かい事は後回しだ。飛ばせ!」



ヒデは黙ってアクセルに力を込めた。






─────



「……遅かったか!」



二人が高橋組周辺に到着すると、既にパトカーや救急車が数十台集まり、現場検証が始まっていて、事務所には近寄れない状況だった。



黄色い立ち入り禁止のテープがありとあらゆる出入り口に張り巡らされており、中を窺う事すら叶わない。



「兄貴、中はどうなってるんでしょう」



「こんな状態じゃ見れやしない」



二人が気を揉みながらうろうろしていると、一人の刑事が彼らの元にやってきた。



「おい、そこのヤクザ二人! そんなとこでうろうろしてっとパクっちまうぞ!」



「刑事さん、善良な一般市民に何を仰いますやら。ご協力出来る事は何でもいたします」



刑事は修司の襟首を軽く絞り上げ、耳元で囁いた。



「何が善良だ。叩けば埃が出る癖に」



「いやいやいや刑事さん。俺達、事件とは何の関係もありませんから。ええ全然」



「そんなのは解ってんだよ。抗争相手全員を武器も使わずに短時間で殲滅する。お前らにこんな事は出来ないだろうが。今回の一件、外国人マフィアが絡んでいる事はもう調べが付いてるんだ。所で……お前らどこの組だ?」



「熊川の……あ、いえ……」



「ああ、名乗らせてパクる事なんかはしないから心配すんな。熊川じゃ的場か石田の組員か?」



「ええ……そんなとこです」



「俺は群馬県警の相田ってもんだ」



相田は警察手帳を拡げて修司たちに見せた。



「ああ、申し遅れました。加納です」「自分は北原と言います」



相田はフンフンと頷いて、現場を見回しながら話し出す。



「それにしても惨いもんだ……。まだ清原組の葬儀も済んでないってのに、またこんなに仏さんが増えちゃあ、坊主と葬儀屋が儲かってしょうがない。残った加藤組と山田組は俺達が警護しなきゃならない羽目になっちまったしな」



「お手数お掛けします」



「尤も……マフィア共はチャカを持ったヤクザ達を、あんなにあっさり料理出来るんだ。警官だって命の保証は無いがな」



「……」



数々の修羅場を潜ってきた自信がそう言わせるのか、相田はまるで他人事のように軽い調子で言い放つ。修司達は言葉を失い、ただ愛想笑いをするしかなかった。



「だが、こんな事になるんだったら、暴対法なんか無い、お前達極道の時代の方がまだマシだったよ。現場の事なんか、お偉い先生方は何ひとつ解っちゃいないんだ」



「そう言って頂けると、自分達も救われます」



極道と刑事。お互い住む世界は違っても、相田の言葉は修司達の心に染み入った。



「加納と北原だったな。あんまりこの辺をウロチョロしていると、お前達もタマ取られるぞ? 親を悲しませたくなかったらすぐに帰れ」



相田はシッシと修司達を追い払うように手を振る。



「有り難うございます相田さん。でも……」



何とか情報を得ようと修司が食い下がる。ヒデは相田に会釈すると、修司の手を引いてその場を立ち去ろうとした。



「そうか。手ぶらじゃ帰り辛いか。じゃあ少しだけな? 結局ここも清原のように、組の用事で県外に居た二人を除いて、三十一名が死んだ。蝶のカードが残されてたのも同じだ。お前らもとっととここを離れろ、いいな」



「はい、解りました。お気遣い有り難うございました」



ヒデは深々と頭を下げて相田に礼を述べた。それを見た修司も慌てて頭を下げる。



「あ、有り難うございます」



「おう、死ぬなよ」



相田は片手を上げて去っていく。強面だがその実、人情味に溢れ、更に父親のような親しみと包容力を感じさせる刑事。……彼も時代遅れのデカなのかも知れない。





─────関東北辰会山田組組事務所




事務所周辺の路地には、数十名の武装警官に依る警備態勢が敷かれ、親分の山田恭一郎と若頭の菅原尚克、他数名が事務所内で待機していた。



「おやっさん、おじき。警備は有り難いんですけど、こうオマワリに取り囲まれてると、全然仕事が手に付きませんね」



事務所内とはいえ、壁一枚挟んだ表には警察の目が光っている。普段のように振る舞う事が出来ないこの状況に痺れを切らした組員が愚痴を溢している。



「まあ仕方ない。あれだけ準備万端だった高橋組が、たった半日で冥土送りになったんだ。これでもまだ足りない。戦車の一台も欲しい位だぞ」



若頭の菅原は若い組員をそう諭した。



「しかし菅原、情けない事になったな。近所で兄弟達が殺されてるってのに、何も出来ないとは……」



組長の山田も溜め息混じりにぼやいている。怒りをもて余した若い組員が山田に詰め寄った。



「おやっさん、大体なんですかマフィアってのは! 一般人に紛れて襲ってくるなんて! やり口が汚なくないですか?」



「まあ、それこそがマフィアだからな。でも自宅待機させてる若い衆達には、それぞれ警官が付いてくれてるし、ウチが皆殺しになる事はないだろう、なあ菅原」



「はい、おやじ。……しかしこんな生活がいつまで続くんですかね」



喉が乾いた菅原は、冷たい物でも飲もうと冷蔵庫の扉を開けた。



「ちっ、何も入ってねえ。おいノブ、コンビニ行って飲み物を買ってきてくれ。警備の警官が一緒に行ってくれる」



「へい解りやした。適当に買ってきやす」



「オヤジのプリンも忘れんな」



ノブと呼ばれた山田組の若い組員、平山信夫は言われた通りにコンビニへ向かった。組から看板が見える程の近所という事もあり、警官の護衛は付かなかった。



マフィアの襲撃は恐かったが、ノブには一人で外出する爽快感の方が勝っていた。鬱々と事務所に閉じ込められている気分の、何と退屈だった事か。 加えてそのコンビニはすぐそこだ。通い慣れた道のどこに危険が潜んでいるというのか。



「有り難うございました」



案の定何事もなく買い物を終えたノブは、飲み物と食料品で丸々太ったレジ袋を両手に下げながら、軽快な足取りで歩いていた。



時刻は夜七時を回った所だ。時折吹き過ぎる木枯らしが、あらわになった首筋を撫でて思わず身震いする。



「おおお寒っ! もっと厚着をしてくりゃ良かった」



この辺りは人通りが少なく、ノブの他には誰も歩いていないように思えた。



しかし一人のビジネスマン風の男が、ノブとの距離を少しずつ詰めながら付いていく。



「しまった。ついでに肉まん買っちまえば良かったな」



その男の足元は、スーツには不似合いなスニーカーだ。足音も無く近付く影に、ノブは全く気付かない。



「ああ、ジャンプも! 今日発売日だったじゃん」



そしてその男とノブの距離が二メートルを切った時、男が早足に変わった。街灯に照らし出された男の口元は不気味な笑みを湛えている。



「そこまでだ!!」



夕闇に叫び声が響く。驚いた男は振り返りもせず、全速力で逃げ出した。



「ヒデ、とっ捕まえるぞ!」



「おう、兄貴!」



修司とヒデは相田と別れた後、同行してきたシン達を加藤組へ向かわせた。かの組は同業者で知らない者が居ない程、堅固な造りの事務所を持っていた。



警察の警備に守られ、要塞並みの事務所にこもっていれば、命の危険は無いだろうとの判断だった。



そして二人はこの街に滞在し、山田組の周辺を張っていた。地理的に見ても、こちらの方が高橋組に近い。憎き揚羽蝶のメンバーを逃がす訳にはいかなかった。



ノブはと言えば、その場で佇んだまま、呆気に取られている。



「あなた方はどちらさんでぇ?……」



修司はノブの肩をポンと叩いて言い残した。



「気を付けな。外には怖い蝶々がいっぱいだぜ」



逃げていく男を見失わないよう、必死で追い縋る二人。時折街灯の明かりで照らし出される男の背中を頼りに、二人は千切れんばかりに足を動かした。



そして遂に、男がビル脇の細道に入ると、そこは袋小路になっていた。



「ハァ……ハァ……追い詰めたぞ」



振り返った男は、息を切らしながらも無言で二人を睨んでいる。



「兄貴! ハァ、ハァ、奴は?! あっ、この野郎!」



そして一足遅れてヒデが追い付き、胸から銃を取り出すと男に狙いを定めた。



「おい、てめえ! 随分派手な事をやらかしてくれるじゃねぇか! 貴様らのリーダーはどこだ? 答えないと蜂の巣だぞ!」



銃を向けられながらも無表情を貫いていた男は、急に口元を綻ばせた。



「ヒデ、後ろだ!」



この雰囲気を察した修司は、ヒデを押し退けて叫んだ。そして二人が振り向いた先には、作業服を着た四人の男が立っていた。



「クソッ!」



ヒデは銃を男達に向けたが、その瞬間。



「ツッ!」



ゴトッ



ヒデの銃を持つ手に棒状の手裏剣が突きささり、銃は手から跳ね上がって地面に落ちた。



「痛ゥ……飛び道具も使うんじゃねえか……」



ヒデは鮮血を滴らせながら、右手を抱えて踞る。



「ヒデ、下がってろ!」



修司は後ろにいる最初の男に標的を絞り、地面を蹴った。



「!」



まるで獣のように素早く迫って来た修司に怯みながら、男は右拳を放った。



ドカンッ! ガラガシャン……



しかしその男の身体は、真後ろに跳ね上げられ、ビルの壁に後頭部をしこたま打ち付けた後、そのまま地面に倒れ込んだ。



「悪いがな。兄弟達を殺したお前らにゃ、手加減はしねぇぜ」



修司の言葉を聞いても、相変わらず黙ったままの男達だったが、心なしかその口元は笑っているように見える。



「アイヤァァァ!」



突然一人が修司に走り寄り、下段後ろ回しでその足を薙ぎに来た。



「遅い」



修司は後ろ跳びにその蹴りを躱し、男の顔を鷲掴みにして軸足を跳ね上げる。



「ギャッ!」



次の瞬間、男の頭はまるでバスケットボールの玉のように地面へ叩き付けられた。



短い叫びを残して失神した仲間を見て、二人の男が同時に攻撃を仕掛けて来た。



「ハイィィイ」「アイヤァァアッ!」



修司の元に、一瞬早く到達した一人の男は、右手刀を修司の顔面目掛けて繰り出した。



「オワッ!」



しかし、カウンター気味に蹴り込まれた中段蹴りで、男の身体はくの字に曲がったまま後方に弾け飛んだ。



「アアイ! アイヤァ!」



もう一人の男は修司の襟元に駒手を引っ掛け、したり顔でその顔面に拳を放つ。



「蝿がとまってるぞ?」



しかし修司はその拳を手のひらで受け、自分に引き寄せると膝蹴りで肘関節をへし折った。



「ウッギャァァア!」



「ソリャ!」



ゴキャッ



悲痛な叫び声を上げながら転がった男の膝を続けざまにかかと蹴りで踏み抜いて、男を動けなくする。



「オエッ、ゲッ、ゴエエ……」



腹を蹴られた男は、修司の足元で吐瀉物にまみれて転げ回っている。



「汚ねえ……なっ!」



スパンッ



修司は男の延髄を軽く、しかし素早く蹴り、その意識を奪った。



「……」



激痛でのたうち回る一人と、失神した三人。剰りにも一瞬の出来事に、一人唖然とする残りの男。



「へへへ。逃げてもいいんだぜ?」



そして不敵に笑う修司。



「ハ……ハァァァアイッ!」



しかし男は逃げなかった。修司に駆け寄りながら鳥が羽根を拡げるような格好をしたかと思うと、地面を蹴って飛び上がり、鋭い前蹴りを修司の顔面に繰り出した。



「オリャ」



その蹴りを十字受けで受け止め、同時に男の股間目掛けて蹴り上げた。



ビシィィッ!



夜の住宅街に、まるで鞭で叩いたような甲高い音が響いた。一瞬、男は驚いたような顔をしていたが、



「ウッ……ウギャァァア!」



叫びながら股間を押さえ、ピョンピョン跳ね回っている。



「マフィアは辞めて、ニューハーフにでもなるんだな、ワハハハハ」



「ハイィッ!」



男は高笑いしている修司の隙を突いて、脇腹を蹴り上げてきた。



「何だ、いいお返事だと思ったの……にっ!」



しかし修司はこれを落ち着いて受け止め、脇に抱えると、もう一度股間を蹴り上げた。



ビシィィィッ!



「………」



男は叫び声も上げず、白目を剥いて倒れた。ピクピクと身体を痙攣させている男の口からは、プクプクと泡が溢れ出していた。



「今度こそ完全に潰れたな。ニューハーフが駄目だったら、周明んとこにでも雇って貰え」



「ウワハハハハ兄貴、座布団三枚!」



ヒデは腕の痛みも忘れ、腹を抱えて笑い転げていた。



パチパチパチパチ



「いよっ兄貴、お見事!



久し振りに兄貴の喧嘩を見せて貰ったが、身震いがしたよ。やっぱり兄貴は格好いいぜ」



子供のようにはしゃいで誉めちぎるヒデに照れながら、修司はそっぽを向いて答えた。



「まあ、毎日稽古は続けているからな……コイツらもなかなかだったが、俺に勝つのは百年早い。おっと、それより……まだ意識のある奴から揚羽蝶の情報を聞き出さないと」



「あっ、そうだ。忘れるとこだったぜ」



ヒデは、手足を折られている男に近付き、うつ伏せになった身体を引き起こした。



「おい起きろ! 痛みで気絶したのか?」



ヒデは乱暴に男の髪を掴むと、その顔を覗き込んで言葉を失った。



「!……あ、兄貴……」



「ん? ヒデ、どうかしたか?」



修司は男を抱き起こしたままの格好で固まっているヒデに駆け寄った。



「こいつ……死んでる」



「そんな馬鹿な! そいつは腕と足が折れてるだけだぞ? まさか死ぬなんて……」



慌てている修司を後目に、ヒデは落ち着いて死体を調べていた。



「兄貴。コイツ……舌を噛み切ってる。自殺だ」



「何だって? 喧嘩に負けたからって死ぬことは無いだろうよ」



「兄貴、ちょっと待ってくれ。もしかしたら……」



そう言ってヒデは他の揚羽蝶のメンバーも調べ始めた。修司はただ、ヒデの様子を訳も解らず見守っている。



「やっぱり。……兄貴、全員死んでるよ。みんな舌を噛み切ってる」



「嘘……だろ? どうして……」



修司は涙声になっていた。また自らの拳が人の命を奪ってしまったのだと、自分を責めている。



「違うぜ兄貴。コイツらは訓練されたヒットマンだ。恐らく任務遂行に失敗したら、組織から消されてしまう。それも自殺がマシだと思える位の残忍な方法でだ。だから迷う事なく自ら命を断ったんじゃないか?」



「そうなのか? ……でも……俺のせいで……こいつらにだって……親や兄弟が……グスッ……」



修司の目は今にも涙が溢れそうになっている。ヒデは慌てて念を押した。



「違う違ぁう! 断じて兄貴のせいじゃ無いって! マフィアが、揚羽蝶が悪いんだよ! それより兄貴、早くここからズラかろう。こんな場所で見付かったら面倒な事になる。今度コロシで捕まったら、もう務所から出られないぜ!」



「そ、そうだな」



「兎に角急ごう!」



何とか修司を説き伏せたヒデは、足早に現場を去りながら胸を撫で下ろしていた。





───────東京海袋、某ホテルの会議室




「本日はお忙しい中、此度の緊急対策会議にご足労いただき、誠に有り難うございます。司会進行役を仰せつかりました、田中組組長。田中鉄次にございます」



田中組は関東北辰会の中に在っては珍しい、総会屋系の組織である。組長の田中はクレバー&スマートを信条とするキレ者で、表向きに行っている稼業も限りなく一般企業に近い。正に『羊の皮を被った狼』だと言えよう。



その田中が挨拶を始めると、関東北辰会会長、高倉影敏【タカクラカゲトシ】を始め、相談役、理事などの幹部二十人は緊張と共に沈黙した。



修司が青龍と闘って怪我を負った後、揚羽蝶の一件は的場組組長である加納秀明を通して北辰会本部に連絡されていたが、幹部達はその内容に懐疑的だった。



しかし群馬で北辰会系列の清原組、高橋組が相次いで襲われ、彼らは情報を信じざるを得なくなっていた。



そして召集されたこの会議には、揚羽蝶対策の協力者として、ある人物が招かれた。



「初めまして。皆様とお目に掛かれて光栄よ」



マフィア組織『芍薬』のボスとして、許周明が挨拶に立ったのだ。



その重苦しい空気の中、周明は長テーブルの上座に座り、堂々と北辰会の幹部達に笑みを見せる。



≪破門されたボスをこの場に居させる訳にはいかないのよ。私が芍薬の代表として役割を果たさないと≫



普通であれば表舞台には顔を出さないのがマフィアだが、周明はこの会議でやらなければならない事があったのだ。



「さて、皆様ご承知の事とは存じますが、我が関東北辰会はこの度大変な危機的状況に瀕しております。



我々も情報としては把握していましたが、台湾マフィアの『揚羽蝶』なるグループがヤクザに取って代わり、日本の利権全てを手中にせんとしています。



当初は剰りにも壮大、いや荒唐無稽な絵空事としか聞こえずに、我々も真に受けてはいませんでしたが、群馬支部の『清原組』に続いて『高橋組』が襲われ、両組共、僅かな組員を除く大多数が死亡するという大変嘆かわしい事態に到り、遅まきながら此度の緊急召集の運びとなりました。



我々はヤクザです。極道です。暴力団とも呼ばれます。その我々が売られた喧嘩を買わずに、何の価値が有るでしょうか」



「そうだっ!」



「マフィアがなんだ、ぶっ殺せ!」



「殺れ殺れ、殺っちまえ!」



会議室には荒くれ男達の怒号が渦巻き、一時は収拾が付かなくなるかと思われた。



「無理です!」



しかし、田中はたった一言叫んだだけで会場を黙らせた。しんと静まり返った一同に深々と頭を下げ、静かに語り始める。



「ご参列頂いているお歴々へのご無礼、お許し下さい。しかし今の所、揚羽蝶への報復は限りなく不可能に近いと言わざるを得ません」



すると会長の高倉がゆっくりと手を挙げ、田中に向き直る。



「田中、解り易く説明してやってくれ」



不服そうにしていた幹部達も、その言葉に背筋を伸ばした。



「会長、ご高配感謝致します。では続けます。



揚羽蝶はマフィアです。奴らは我々と違い、一般市民と見分けがつかない出で立ちで社会の中に潜んでいます。そして奴らの中には、高度な日本語教育を受けたエリートも居ます。奴らは、我々の予想が付かない所から襲ってきます。



つまり、奴らはコンビニで立ち読みしているあんちゃんだったり、ブリーフケースを抱えたサラリーマンだったりするのです。



加えて奴らの武器は素手です。物証が残るような獲物は使いません。我々に近付きさえすれば、すぐさま攻撃へ移れるのです。



そんな奴らからしてみれば、我々は格好の標的です。赤子の手を捻るよりも容易く、命を奪う事が出来るでしょう。



そしてその憂き目を見たのが『清原組』であり、『高橋組』だった訳です。彼らは虚を突かれ、為す術もなく殲滅されました。我々に於いても、無策のまま闇雲に動けば結果は火を見るより明らか。そこには『死』が有るのみです」



一同は固唾を飲んだ。揚羽蝶を、そしてマフィアを軽視していた役員達も襟元を正すより他無かった。



「それじゃあ……一体どうしろと言うんだ」



「はい、そこで許 周明様にお越し頂いたのです。こちらは元揚羽蝶のメンバーでした。奴らの内情にお詳しいばかりでなく、現在奴らとは敵対関係にあるそうです。奴らを排除したいという思いは我々と同じ。此度は打開策をご伝授頂けるとの事なので、打倒揚羽蝶への大きな足掛かりになる筈です。



では、周明様。宜しくお願い致します」



田中に促され周明が腰を上げると、全員が上座に注目した。



「皆さん、私がこの会議に出席したのは、揚羽蝶が私と敵対関係にあり、邪魔な存在であることが一つ。



そしてもう一つは、貴方がた北辰会の内部で、芍薬に対する妙な噂が流されていると聞いたからよ」



周明がこの会合に参加した訳は、芍薬に着せられた濡れ衣を晴らす為だったのだ。



「妙な噂?」



「そう。私達芍薬が揚羽蝶に情報をリークして奴らを誘導し、日本の極道達を根絶やしにしようとしているって噂。まあ早い話がグルだって思われている事」



すると、茨城支部の幹部日野恵三が椅子から立ち上がり、まくし立てた。



「当たり前だ! 誰がマフィア野郎を信用するんだ! ここにいる連中がどういうつもりか知らないが、俺はお前みたいなオカマ野郎は絶対認めねえからな!」



周明は最後まで言わせると席を離れ、ゆっくりと日野の後ろに立った。



「なんだ、文句あんのか!」



日野は腕組みをしたまま後ろを振り返ろうともしない。周明もそんな事は気にもとめずに声を張り上げた。



「揚羽蝶達は高橋組をせん滅させるのに六時間弱掛かったわ。駄目な奴等ね……。私達芍薬なら三時間でやって見せる。ちょうど日野組の人数は高橋組と同じ三十三名。貴方の組で試してみましょうか? 日野さん」



そして周明は日野の耳元で囁いた。



「県外に逃げても駄目よ? 必ずぶち殺すから」



「ぐっ!」



周明の不気味な迫力に、日野は思わず言葉を飲み込んだ。それを見ていた会長の高倉が慌てて仲裁に入ってくる。



「待て待て。周明さんは何も俺達と喧嘩をしにきたわけじゃないんだ。茨城の日野には縁遠いかも知れんが、埼玉じゃちょっとした顔だ。北辰会との付き合いだってもう十年になる」



高倉会長から諭され、日野はバツが悪そうに頭を掻いている。周明は高倉に微笑んでみせた。



「会長さん、有り難う。実は私がここに来たのは、日野さんみたいな方に私達芍薬を理解して貰う為でもあるの。取り敢えず私の提案を聞いて頂けるかしら」



高倉は大きく頷いて周明を促した。



「その打開策とやらを伺えるのかね、周明さん」



「ええ。勿論」



周明は自分の席に戻ると一同に説明を始めた。



「まず今、奴ら揚羽蝶は群馬の小泉町と辻岡市に潜伏しています。そして狙われているのが山田組と加藤組。本当は貴方達もすぐに反撃を試みたいが、一般人と見分けがつかない奴らに打つ手が無く、手詰まりになっている。ここまではいいですか?」



「ああ。全くその通りだ」



周明はニヤリと笑った。



「私達には彼等を見つけ出す事が出来ます。癖や動作、そして行動でね。その情報を貴方達に事細かくお教えしますので、それを元に心置きなく反撃に出ればいい」



周明の説明に会議室内がどよめいた。



騒ぎが収まるのを待って、高倉が少し斜に構えながら訪ねた。



「周明さん。そいつは有り難い限りだが、あんたは元同胞を俺達に売ると、そう言うんだな? そして我々と手を組みたいと……」



周明を睨んだ高倉の目からは、心の中まで見透かされそうな程の眼力が放たれている。



「……会長さんの仰りたいのはこうね。『元の仲間を裏切るような奴は信用出来ない』と。でもね、揚羽蝶は十年前、私達を見捨てたの。そして私を除いた部下は……台湾から一緒にやって来た仲間はみんな……みんな死んだのよ!」



周明は目を伏せ、祈るようにして両手を胸の前で組んだ。一同は言葉もなく話に聞き入っている。



「それからひとりきりになった私は、ゼロから始めたの。日雇いの仕事で命を繋ぎながらね。そうして築いたシマを、十年掛かって育て上げたシノギを、揚羽蝶は突然、電話一本で全て寄越せと言ってきた。そんな奴らに従う方がおかしいでしょ? だから私はあなた方極道と共に手を携えていくと心に決めたの。心変わりする訳がないわ!」



そう言い切る周明の強い決心に、固く結ばれていた高倉の唇が綻んだ。



「周明さん、疑って悪かった。あんたは頭がいい。察しの良さときたらここに居る幹部達にもひけを取らない。ここはひとつ、我々の為に一肌脱いで頂けるかい? 私からもお願いする」



高倉は席を立ち、深々と頭を下げた。周明もすかさず腰を折る。



そのまま暫く無言で頭を垂れたままの二人だったが、高倉は先に頭を上げ、会場に響き渡るドスの利いた声で告げた。



「いいかお前ら、この周明さんは俺が認めたお人だ。文句が有る奴ぁ俺に言ってこい、解ったな!」



「はい」「ウッス」「解りました」



会長の命令は絶対だ。幹部達は各々の思いを胸に秘めながらも、肯定の返事をするしかない。周明はゆっくりと顔を上げ、そんな一同を見回すと言った。



「皆さん。この十年、私は極道社会のなんたるかを学びながらここまでやってきました。会長さんに頭を下げさせてしまった事の重大さを、私は理解しています。会長さんのお顔へ泥を塗る事の無いよう、肝に命じて揚羽蝶掃討のお手伝いを死力を尽くしてやらせて頂きますので、どうか皆さん、宜しくお願い致します」



言い終わった周明は一同に向けて深く頭を下げた。



ポン……ポン……パチ……パチ……パチパチパチパチ



始めは疎らだった拍手が、やがて満場に溢れ返った。外国から来たマフィアの周明は、関東北辰会に認められたのだ。



「有り難うございます。では、我々芍薬からの情報を元に、奴らの掃討をお願いするって事で宜しいかしら」



すると、南埼玉に事務所を置く北川組の北川俊夫【キタガワトシオ】がすぐに手を挙げた。



「会長、今回の任務、是非うちにやらせて下さい。……あいつらに殺られた高橋のおやっさんには昔色々お世話になったんです。仇を討って差し上げたい」



「いや……北川、気持ちは解るが、今回の任務は土地勘のある『山田組』と『加藤組』がいいだろう。お互いご近所さんだったし、きっと北川以上に遺恨も有る筈だ」



「……はい……そうですね、解りました」



悔しそうに唇を噛み締め、北川は渋々承諾した。周明の情報と地の利が有ってこそ、作戦の成功が約束される。



「私はこの作戦を絶対に成功させて、あなた方からの信頼を確固たる物にするつもりよ。今から私に四日下さい。小泉町と辻岡町の揚羽蝶達を全て洗い出して見せます」



周明の言葉に会場がどよめいた。



「たった四日だと?」



「二日でひとつの町をやり遂げる計算か!」



慌てた高倉は周明を諭す。



「おいおい、無理な約束はするな。たった四日じゃキツイだろう」



周明はニッコリ笑って高倉に返答する。



「いいえ、そんなに大きくない町だし、二日ずつ有れば充分です。それでは早速仕事に取り掛かるので、この辺で失礼して宜しいかしら?」



「もう行くのかい?」



「ええ、私はマフィア。表舞台は相応しくありませんから」



会議室を出ようとした周明は、ドアノブに手を掛けて振り返ると一同に言う。



「あなた方は我々芍薬と手を組んだ事に喜びを感じる事になる筈です。それではご連絡をお待ち下さい。ご機嫌よう」



「……頼んだぞ」



既に扉の向こうに在った周明には、祈りにも似た高倉の呟きが届く事はなかった。





─────あれから一週間が過ぎて……



群馬県は小泉町。とある深夜の工事現場で、一人の男が作業員に話し掛けていた。



「こんな夜遅くに大変だねえ。寒くないのかい?」



「は? え、ええ。沢山着込んでるから平気です。何かご用ですか?」



作業員は笑顔で振り返った。深夜の作業だ。特に近隣住民への配慮が必要なのだろう、邪険にする様子は無い。



「ああ……人を探しているんだが、心当たりがないかと思ってね」



「はい、どういった方でしょう」



男はその顔に意味有りげな笑みを浮かべる。街灯に照らされた銀歯がキラリと光った。



「台湾マフィア、揚羽蝶のメンバー、進白陳【シンパクチン】だ。鈴木昭男と名乗ってるらしいんだが、お宅の現場に紛れ込んでないかな」



作業員と男の間に、一瞬の沈黙が訪れる。



「い、いえ……。聞いた事は無いですね。でも何ですか? その揚羽蝶って」



「いや、知らないんだったらいいんだ。邪魔したね」



男は作業員に背を向け、ゆっくりとその場を後にする。



するとその瞬間。作業員の目がつり上がり、鬼神が乗り移ったかのような形相で男の元へと駆け出した。



ピュン! ピュピュン!



闇の中からサイレンサー付きの銃が二発、三発と火を吹く。作業員は血まみれになって、冷たい地面へ呆気なく突っ伏した。



「進白陳。極道を舐めんじゃねえ! 全く白々しい野郎だぜ、メットに鈴木って書いてあるじゃねぇか」



もう一人の男が物陰から姿を現し、まだ煙が立ち上っている銃口を向けながら吐き捨てた。絶命したのだろう、作業員に身をやつした進白陳はピクリとも動かない。



「お~コワ、次の狙撃役は俺にやらせろよな! おとり役は寿命が縮まるってえの!」



ホルスターに銃を納めた狙撃手役の男は、大袈裟に肩を竦めると苦笑いをした。



「駄目だめ。お前はチャカが下手クソだから任せらんねえよ。それにおとり役ってヤツは演技力が必要なんだぜ。お前、なんたら言うヒーローショーでバイトやってたって話じゃないか」



「馬っ鹿野郎! 俺がやってたのはスーツアクターだ。中の人だよ中の人。台詞はねえの!」



「そうなのか? それにしちゃあお前の演技、トム・ハンクスも真っ青だったぜ? 俺にはとても真似出来ねえけどなぁ……」



「そ、そうかぁ?」



おとり役の男は照れて頭を掻いている。



「そんな訳で役の交代は無しな。あと二人でノルマ達成だ、次行くぞ」



そう言い捨てると、狙撃手役の男は後ろも見ずにスタスタ歩き出した。



「あ、てめ、汚ねえぞオイッ! あの野郎め……しかし……この芍薬が持ってきたリストは凄げえな。ひとりもハズレが無いときてる。この分だと後の二人もチョロいぜ」



リストを街灯に照らして呟いていたおとり役の男は、どやし付けられて我に返った。



「おらっ! ぐずぐずしてっと置いてくぞ!」



「ちょ、待ってくれよぉ~」



芍薬から情報を得た北辰会の反撃は凄まじく、この夜たった一晩だけで、揚羽蝶メンバー三十七名がこの世からデリートされた。



翌日の朝刊にはでかでかと『アジア系外国人三十七名射殺』の記事が踊り、朝のワイドショーは軒並み予定を変更して関連ニュースを流し続けた。



そしてこの一件で芍薬の北辰会から得る信頼は揺るぎないものとなり、その見返りとして、北辰会の縄張りにおける覚醒剤の独占取引の権利を手にする事となった。



もともと覚醒剤は御法度だった北辰会。その禁を破った組員には破門という厳しい処分が待っている。しかし暴対法によって資金源に困窮している彼らには、覚醒剤から得られる資金は正に、喉から手が出る程欲しいシノギだったのだ。



芍薬に取っては独占的に覚醒剤の取引を行える利が、北辰会に取っては禁を破らず覚醒剤のシノギにありつける利が有る、両者に取って最も都合の良い契約が結ばれた。



それに伴って、今までは末端ユーザー相手の少額取引しか行ってこなかった芍薬の立場は一変し、その組織力も飛躍的に向上していくのだった。




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